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今日が11月14日だと知ったのは夕方だ。しかも父の誕生日だったりする。

PB142206.JPG(新潟駅にて。ミノルタハイマチックSにトライXを詰めた。子どもながら「白黒は長持ちする」ということだけを知っていたから、そんなフィルムを買った)

昭和57年11月14日、子どもの頃から見慣れた、でも乗ったことがなかった「特急とき」がこの日限りで廃止になった。親しい友人と、ときどき新潟駅に行っては入場券で5時間も6時間も列車を眺めていた小学生にとって、「とき」はいつもホームにいる列車だった。それも、本屋にいちばん近い1番線に停まっていた。

「とき」は14往復運転され、大部分の11往復は183系1000番台、残る3往復が181系だった。1両だけ、151系の生き残りであるモハ181 29があったが、それを見ることができたのは2~3回だけだ。なかなか出会わなかった。私にとって、「とき」、特に181系は新潟を象徴する列車・車両のような気がしていた。その、181系で運転される最後の下り列車、「とき23号」に乗るという願いが叶った。もちろん親に連れて行ってもらったのだ。同行してくれたのは母だ。

きっぷは、発売1ヶ月前に、白新線新崎駅に買いに行った。ここなら硬券だと思ったからだ。ここで、11月12日(金)発の夜行「佐渡8号」、11月14日(日)発の「とき23号」の指定券等を買った。「とき23号」は、最終181系列車にもかかわらず、車両中央部の席がとれた。いまだったら、午前10時に瞬殺だろう。残念ながら、きっぷは準常備券だったが、手書きとスタンプで作られたきっぷを毎日眺めて過ごした。

週休二日でなかった当時、土曜日をどうしたかというと、学校を休んだ。親が恐る恐る担任に説明しに行くと、ぜひ行って来いと言ってくださった。好きなことがあるならどんどんさせろ、と。今は「旅行のために学校を休む」という行為はわりと実践されているものの、その頃、しかも田舎である、異例のことだったろう。まだ新任3年目の、25歳(か26歳)の女性教諭だったが、その先生にいろいろとよくしていただき、その後の私が形成された、とてもいい先生だった。金曜夜、その車両には母と私しかいないガラガラの佐渡8号(それも15日の改正で廃止)で上京し、土曜は一日「国電フリーきっぷ」で各駅下車+入場券購入、日曜は青梅鉄道公園へ行ったあと「とき23号」に乗った。

検査期限の関係ですでに2両減車していた「とき23号」。シートが左右つながっていることに驚いた。でも急行形車両しか乗ったことがなかったので、とても嬉しかった。発車時刻は夕方だったと思う、車窓はほぼ真っ暗、いまにして思えば「最後の181系に乗る!」ことしか考えておらず、事実上初めての東京旅行だったのに、往復とも車窓を楽しむ要素は皆無だ。子どもだったこともあり、乗り心地とか車窓には一切感慨も記憶もない。

PB142208.JPG(新潟駅にて。到着は2番線)

新潟駅に着いた。固定焦点距離のカメラで夜のホーム撮り、しかも子ども。カットを工夫しようもない。36枚撮り2本で、同じようなカットを撮り続けた。子どもだから。

見ると、大阪行き「きたぐに」の車両を撮影していた。11月15日の改正で14系客車に置き換えられたのだが、改正前日は旧編成で運用されていたのか、といま改めて知った。

いまの時代のように300km離れた距離が身近だったわけじゃなし、こんな、子どものわがままによくぞお金を出してくれたものだと思う。親に感謝するばかりである。「とき23号」に乗った当時は、その日が父の誕生日であることなど知らなかった親不孝者である。



現在なら、こうした新線開業は土曜日に設定されるだろう。しかし、この、通称「57-11改正」は違った。月曜日が改正日だった。だから、小学生の私が「最終181系とき」に乗ることができたのだ。ダイヤ改正は、極力影響が少ない日を選んで行われていたので、当時はそれがいいと判断されたのだろう。「とき23号」が到着した新潟駅も、いたって静かなものだった。車両が回送される前に、出札した。

新幹線は「大宮暫定開業」でしかなかったが、この「57-11改正」は国鉄の大きな転換点の一つとなった。国鉄民営化に向けて、新幹線上野開業の60年3月、そして民営化準備の61-11と大改正が続くが、その第一弾として実施されたというインパクトがあった。これ以前は、敷いて言えば53年10月、規模でいえば43年10月「よん・さん・とお」以来の規模だと言ってもいいのではないか。

なにしろ東日本の交通体系が抜本的に変わったのだ。道路交通に例えてみれば、それまで対日本海側は「下道」しかなく、対東北もその5ヶ月前に片側1車線の東北道が開通したばかりだった東日本地域に、突如として関越自動車道が開通し、東北自動車道が片側2車線で開通したようなものだ。鉄道誌が1年近く、改正前、改正後、さまざまな特集を展開し続けた。

子供心に、ひとつの時代が終わったという印象を持った改正であった。その中で「とき23号」とともに181系が消えていった。

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