元国鉄越美北線、現長良川鉄道の終点である北濃駅。
ここにはアメリカン・ブリッジ製の桁を擁する転車台がある。 もともとは官設鉄道の岐阜駅で使用するために作られたらしい。 その後、越美北線の開通に伴い、この北濃駅に移設された。 1934年、昭和でいえば9年のことだ。 長良川鉄道に転換されたあとでも、この転車台は使用されていた。 いつから使用されなくなったのかは不詳だが、知人によれば 10年ほど前までは手動で回して遊べるような状態だったらしい。 いまは国の登録有形文化財となり、そのような行為はできなくなった。 誰もが近寄れる状態であり、その気になれば上に乗ったりすることもできるのは嬉しいことだ。 ピット内は泥がたまっている。 当日は雨が降っていたために水がたまり、あまり降りたくなかったが・・・。 製造銘板。斜めってしまった・・・。 触れるほどの距離で銘板が眺められる幸せ。 こんな貴重なものを野ざらしにしておいて、盗難の心配はないのだろうか。 ・・・ないか。 現在は、桁の前後方向にしか線路がなく、方向転回以外に使用できない。 昭和58年発行の『国鉄全線各駅停車6 中央・上信越440駅』(宮脇俊三・原田勝正編 小学館)に 北濃駅の構内配線が記載されているが、その時点でも棒線である。 ロック機構は写真のとおり。 レールは微妙にズレているが、内側に面取りがしてあり、 これくらいのズレでは脱線しないようになっている。 こんなピットのあるところで脱線なぞしたら大事である。 そして、このロック機構は、一端のハンドルで操作したら他端も作用するよう、 桁側面のリンクを介してつながっている。 そして、桁の端部にある案内輪(桁端車輪)である。 桁端車輪を間近で見たのは初めてだった。 フランジのない、幅の広い車輪であった。 そして、浮いている。 桁は、中央支承と呼ばれるヤジロベエの足にあたる部分を重心にしてバランスしており、 車両がないときもあるときも、基本的に重量は中央支承が受ける構造である。 雨が降ったりやんだりする中、撮影しているうちに、 列車が入ってきて出ていった。 それに乗る人も、突如として現れ、乗り込んでいった。 PR 磐越西線日出谷~鹿瀬間の深戸橋梁の中央径間は、 1983年に新しい桁に架け替えられた。 その方法は、下の写真のように横から新たな躯体を挿入し、 古いものを川に落とすという方法で、日本では初めての手法であった。 落橋の際、橋脚を傷つける可能性もあったというが、無事であった。 下の写真、寄贈者の名前を間違うなよ、新津鉄道資料館。 というのはともかく、施工は横河工事だが、桁製作は宮地鉄工所である。 土木学会の資料『歴史的鋼橋』では「支間を1.2m短縮して使用」とあるが、 手元の『新鉄局五十年史』に掲載されている表によれば、 白田切川橋梁の支間は90.0m、深戸橋梁の支間は92.2mとある。 数字があわない。 しかし、記事中に挿入された図では、支間は93.4mであり、こちらが正解であろう。 側径間、即ち短いプラットトラスはオリジナルのアメリカン・ブリッジ製だ。 新たに架けられたトラス桁は新造されたものではなく、信越本線妙高高原~関山間の 白田切川橋梁を転用したものだ。 このトラス桁は、元々は岩手県の大船渡線北上川橋梁として製作されたものだが、 昭和53年5月18日早朝に現地付近で大型の土砂災害があり、 その復旧のために急遽振り向けられたのだ。 土砂災害は死者13名、家屋全半壊16戸というほどのものであった。 復旧は9月6日であった。 この災害に伴い、白田切川の改修工事が開始され、 あわせて信越本線も、複線化を見据えた線路移設が実施された。 岩手県から転用されたトラス桁は、この区間が新線に切り替えられるまでの約5年間使用され、 昭和57年9月20日に使用が停止された。 こうして、流転のトラス桁となったのである。 なお、新線のトラス桁は複線用であるが、線路は単線である。 当時、複線化工事をどこまで見据えていたのかは不明だが、 昭和55年9月17日に黒姫~妙高高原間の複線化をシオに、 昭和58年8月には複線化工事が凍結された。 当時の国鉄を取り巻く状況からいえば、そういうものなのだろう。 同時に複線化が凍結されたのは羽越本線である。白新線もそうかもしれない。 ついでに書くと、昭和50年代後半に磐越西線のピントラス5連3カ所が更新された。 他の2つとは、 ・安座川橋梁(上野尻~徳沢) ・阿賀野川御前(三川~五十島) であった。 当時、ピントラス特有の変状が多発し、補修工事を多く行っていた。 新鉄局としては、順次架け替えを意図していたような書きぶりであるが、 その後は架け替え作業のないまま、現在に至っている。
磐越西線当麻橋梁。
いまのこの橋は、横側橋梁製であり、アメリカン・ブリッジ製ではない。 下の写真手前に、古い橋脚が見える。 かつて、ここに上路式のアメリカン・ブリッジ製のトラスがかかっていた。 それも、わずか15年ほどの間である。 この下流に鹿瀬ダムが造られることになり、上路式では冠水の懼れが生じた。 そのため、下路式の橋梁を設置することになったものだ。 旧橋梁、3径間のそれぞれは、現在の秩父鉄道に転用されている。 7月3日の押手沢橋梁は、かつてここにあった桁である。 架け替えにともない、ルートの変更が生じた。 そこは、短いながらも廃線跡の趣がいまも残る。 昭和51年撮影の航空写真を見てみよう。 (国土地理院のサイトより引用、トリミング) 画面右手が日出谷駅。 そこから左(西)に向かう現在の磐越西線のすぐ下(南)に、 道型が残っている。 ここは川霧が発生しやすいのか、鉄道写真として発表されているものにも 川霧と絡めてあるものが多い。 私が行った翌日、この場所で撮影された写真が、雑誌に大きく載っていた。
アメリカン・ブリッジに関心を持った経緯はこうだ。
↓ BNSF鉄道 ↓ BN(バーリントン・ノーザン鉄道) ↓ GN(グレート・ノーザン鉄道) ↓ NP(ノーザン・パシフィック鉄道) ↓ ノーザン・パシフィック・コーナー ↓ ジェームズ・ジェローム・ヒル ↓ J・P・モルガン ↓ USスチール ↓ アメリカン・ブリッジ こう至る過程で、いろいろ寄り道をした。 モルガンに関することがいちばん時間がかかった。 元々金融だの経済だのを勉強したことはない上に 書物に書かれているのはアメリカとイギリスの金融界の常識である。 日本に置き換えて考えることのできる話ではない。 アメリカン・ブリッジについては、いまなお理解していない部分が多い。 公式サイトは基本的に「いま」のことばかり書いてあるし、 こちらの関心はとっくに終わってしまった技術、ピントラスである。 古い土木学会誌などのほうが役に立ったりするが、 いかんせん読みにくい。 日本における鋼橋史とその系譜、みたいな書物がないかしらん? |
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