オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」をある程度詳細に見ていく。
年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年) 年代別 鉄道路線延伸の過程(2)東海道全通時点(1883年~1897年) の続き。下記の路線名称は、わかりやすさを優先するために現在のものを適宜使用する。 【1898年(明治31年)~1902年(明治35年)】 徐々に日本の幹線の骨格ができはじめている。山陽鉄道と常磐線(日本鉄道=青の線であるべきが、赤の線に誤記している)が全通し、北陸本線も富山に達している。信越本線も新潟に到達し、奥羽本線は南北から建設が進められている。 函館本線は旭川に、そこから宗谷本線と現・富良野線と根室本線(当時は十勝線という名称で建設開始)に伸び始めている。二十代前半のうちに琵琶湖疎水を設計した田辺朔郎が狩勝越えルートを探索していたのはこのころか。 県庁所在地以外では、津山線、和歌山線あたりに注目したい。ただし、和歌山には1898年に和歌山北口という駅まで南海が通じている。 【1903年(明治36年)~1907年(明治40年)】 1906年(明治39年)3月31日に鉄道国有法が公布された。国有化は、井上勝が熱心に主張していたが、対して渋沢栄一などは民営化を主張し、官設鉄道の払い下げすら目論んでいた。それが一気に国有化に傾いたのは、日露戦争前後の社会情勢のためである。 軍事輸送を私鉄に負担させることはできないわけではないが、その情報が漏れることが問題だった。いくら私鉄は国の保護を受けているとはいえ、株式会社である。株主はあらゆることを知る可能性がある。その恐れをなくすために、国有化が急がれた。進めたのは西園寺公望内閣である。このあたり、政治家・政党/財界と鉄道の関係の整理は、今後の私のテーマのひとつ。 1907年までに17鉄道を買収し、上記の路線図も青線部分が一気に赤線になった。被買収鉄道は以下のとおり。 ・北海道鉄道…函館本線(函館~小樽) ・北海道炭礦鉄道…函館本線(手宮~空知太)、幌内線、夕張線、室蘭本線(室蘭以北)、歌志内線 ・総武鉄道…総武本線 ・房総鉄道…外房線 ・甲武鉄道…中央本線 ・日本鉄道…東北本線、常磐線、高崎線、上毛線、水戸線、日光線、八戸線の一部 ・岩越鉄道…磐越西線の一部 ・北越鉄道…信越本線(直江津以北) ・七尾鉄道…七尾線 ・関西鉄道…関西本線、草津線 ・参宮鉄道…参宮線 ・京都鉄道…山陰本線(京都~園部) ・阪鶴鉄道…福知山線 ・西成鉄道…大阪~天保山 ・山陽鉄道…山陽本線、播但線、予讃線・土讃線(高松~琴平)、呉れ線の一部、美祢線の一部他 ・徳島鉄道…徳島本線 ・九州鉄道…九州全般 この動きとは別に、鉄道網の延伸は泊まらない。北海道も函館本線(北海道鉄道。開通後すぐに国有化)、根室本線が延伸。奥羽本線や中央東線が全通。山陰の鉄道も少しずつ延びている。 【1908年(明治41年)~1912年(明治45年)】 カンブリア爆発のごとく、鉄道網が充実していく。地北線経由で網走(当時は網走本線)、北陸本線と中央本線が全通、山陰も京都口とつながり、九州も鹿児島までつながった。 羽越、岐阜県、紀伊半島、山陰西部、四国、大分~宮崎県あたりは寂しい状況。 (続く) PR
オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」をある程度詳細に見ていく。
年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年)の続き。下記の路線名称は、わかりやすさを優先するために現在のものを適宜使用する。 【1883年(明治16年)~1887年(明治20年)】 この5年間のトピックは赤い文字で書いた通り。 東海道本線、中山道幹線、東北本線の建設が開始されている。 ●東海道本線 中山道幹線の建設資材陸揚げのために武豊線が建設され、1886年(明治19年)に開通。そこから名古屋、長浜へと延伸されている。関ヶ原~長浜のルートは現在のルートより北を取っていた。同年のうちに、東海道本線の建設も決定された。 ●中山道幹線(直江津側) こちらも建設資材陸揚げのために、直江津から長野に向けて建設が始められている。後の信越本線である。 ●中山道幹線(高崎側) (この時点では)上野~高崎~前橋を、日本鉄道が建設している。これは、日本鉄道の成り立ちとも関係するが、政府がすべきことを民営の日本鉄道が代行した形である。この当時の前橋の重要度がわかる。群馬県の県庁所在地を前橋と高崎で争ったという話があったようななかったような。前橋は、やがて上越線のルートからはずれたことにより、鉄道的には軽んじられるようになる。 ●東北本線 日本鉄道についてはwikipedia等で。驚くべきはその建設スピードで、1883年に上野~大宮(~熊谷)が開通してから、1887年には塩竃(のちの塩釜埠頭、廃止後は、東日本大震災での映像で知られるイオンタウン塩釜となった)まで延伸されている。 ●釧路鉄道 釧網本線沿いにある硫黄岳から採れる硫黄を運搬するために敷設された鉄道。現在の五十石駅付近までが鉄道、それより下流(釧路側)へは釧路川の水運を利用した。硫黄採掘はこの時期の北海道で見られた奴隷的な使役である囚人労働であり、そこに監視の目が届くようになると採掘ができなくなり、鉄道もろとも中止された。現在の釧網本線を敷設する際、路盤等が転用されている。 なお、天然硫黄採掘は日本各地で行われていたが、戦後に(戦後、という括りもたいがいだが、私が用いる場合は昭和20~30年代くらいで使いたい)石油精製の際の脱硫から製造できるようになったため、廃れた。 【1888年(明治21年)~1892年(明治25年)】 青森から広島県の三原まで、レールがつながった。そして、四国と九州にもレールが敷かれ始めた。 ●日本鉄道と官設鉄道、算用鉄道 まだ上野~東京間はつながっていないが、日本鉄道と官設鉄道を連絡するために、赤羽~池袋~品川間ルートが日本鉄道により開通している。これにより、青森~三原間のレールがつながっている。 ●北海道炭礦鉄道 夕張から追分、苫小牧を経て(現)東室蘭へのルートができている。つまり、まだ室蘭の石炭桟橋はない。 ●九州鉄道 (現)門司港から熊本まで開通している。最初の開通時、北海道官設鉄道などと同様に大河が渡れず、筑後川の手前までを開通させている。 ●関西鉄道 関せセツ鉄道との名古屋~大阪間の競争で知られるが、いきなりいまの関西本線を敷設したわけではないのが興味深い。まずは草津線と、柘植から亀山(現在は超ローカル線)である。 碓氷峠が開通したのが1893年(明治26年)。この時期は、いわば胎動期である。全国各地で建設が進められているなかで、たまたま1897年末という断面で捉えた物に過ぎない。 この時期までに開通している主な路線は次の通り。 ・奥羽本線の青森側 ・常磐線の一部 ・新潟周辺(北越鉄道) ・中央本線東京口の一部(甲武鉄道) ・房総半島(総武鉄道・房総鉄道)…外房線は官設 ・飯田線の一部(豊川鉄道) ・北陸本線の一部、城端線(中越鉄道) ・播但線の一部(播但鉄道) ・山陽本線が徳山まで(山陽鉄道) ・九州内延伸 (つづく)
オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」。
そして、ハイライト、全国の鉄道網延伸図。 (クリックで拡大/1秒刻みの画像にジャンプ) これを、きちんと掲載しておきたい。140年で29枚もあるので、適度に割っていく。 ご留意いただきたいことがいくつかある。 ・元号で把握する…時代の雰囲気や時間の長さが西暦より具体的にわかる ・歴史的事項の起きた年と重ねて見る…政治的な出来事や戦争の影響がわかる ・官設鉄道の路線名は、1895年に制定されたので、それ以前を「○○線」と呼ぶのは便宜的なものである ・下記の地図は5年の間に開通したものをまとめて掲載したものであり、それぞれの年に開通した路線ではない ・赤が国営に準ずるもの、青は民営、黒は廃止。 【1872年(明治5年)】 ●鉄道開通 今はなき国鉄汐留駅から、現在の桜木町駅の間に官設鉄道が開通した。単線。この区間は徐々に複線化されていき、全区間の複線化が完了したのは1881年(明治14年)である。9年を費やしている。 この間、六郷川に橋が架かっていたが、最初は木製だった。すぐに鉄橋に架け替えられ、そのうち一連が明治村に保存されている。 桜木町駅が当時の「横浜駅」で、のち、1887年(明治20年)に国府津まで延伸された際には、横浜駅でスイッチバックする形になった。それが解消するのは1898年(明治31年)、つまり東海道本線が全通してから9年後である。 【1877年(明治10年)】 ●神戸~京都間開通 官設鉄道の京都と神戸の間が開通している。 特筆すべきは大阪駅の位置で、北の果てに駅を位置したとはいえ、神崎川と淀川をそれぞれ2回、渡っているという点だ。そのため、日本初の鉄道用鉄橋がここに架けられている。そして、その桁が道路橋に転用され、今も残っているのは特筆できることであろう。 ・東海道本線上神崎川橋梁(上り内外線) ・東海道本線上神崎川橋梁(下り内外線) ・東海道本線上神崎川橋梁(梅田貨物線) ・東海道本線上神崎川橋梁(北方貨物線) 【1882年(明治15年)】 ●敦賀へ 鉄道開業から10年で、一気に広がる。本州では、琵琶湖を経由して神戸から敦賀までがつながった。現在のルートとは大きく異なり、(1)京都~大津間は南に大きく迂回していたし、(2)琵琶湖北側は柳ヶ瀬越えルートである。 (1)について。逢坂山隧道が掘られ、それは今、鉄道記念物となっている。ということよりも、明治維新直後はないかとお雇い外国人の指導がないとなにもできなかった土木工事のうち、この隧道は日本人が設計し、日本人だけで完成させているという点が意義深いであろう。200フィートクラスの橋梁は1910年代までアメリカ製に頼っているとか、レールの製造はもっとあとまで外国製のものを輸入していたとかを考えると、隧道はかなり早い時期に国産化できたのである。 (2)の柳ヶ瀬ルート 現在の北陸本線は、木ノ本から余呉湖の北を迂回し、西隣の大川水系を遡る形で大分水嶺を深坂越えルートで越えてているが、当初は木ノ本から余呉川を遡り、柳ヶ瀬越えで越えていた。深坂越えの新線が開通したのは1957年(昭和32年)、実に柳ヶ瀬ルートの開通(1884年)から73年後である。柳ヶ瀬ルートはのちに分離され、廃止された。現在は車道として利用されている。 ●北海道 幌内炭鉱の石炭を手宮から積み出すための官営幌内鉄道が開通している。こちらは豊平川(苗穂の東)を渡る部分の建設に困難を極める。その経緯は『北海道の鉄道』(田中和夫/北海道新聞社)に詳しい。ぜひご一読を。 ●釜石 釜石鉱山(1874年から官営)の鉄鉱石を釜石製鉄所(官営)に運ぶための、工部省による鉄道。開通は1880年で、新橋~横浜、京都~神戸に次いで三番目。製鉄所が休止した後に旅客輸送を開始し、じきに鉄道は廃止される。2フィート9インチ(838mm)軌間。 (つづく)
待望の本だった。国鉄の労働運動を俯瞰した本。
いままで、国鉄の労働組合や、経営陣との関わりについての本は多数刊行されている。労働組合側の本としては、たとえば動労の指導者・松崎明にまつわる本だけでもいくつもあるし、経営陣の本としては、「国鉄改革三人組」のひとり、葛西敬之(前JR東海社長・現会長)の『未完の国鉄改革』など、「勝てば官軍」側の本もいくつもある。しかし、国労・動労・鉄労、そして国鉄・政党・国会と絡めた通史は、いままで存在しなかった。テーマが巨大すぎて、俯瞰した通史を書くとしたら大著になってしまうということもあろうが、そういう状況のなかで、ようやく登場したのがこの本だ。 国労、動労、鉄労といった労働組合それぞれの成り立ち、性格、内部事情を綿密に描きながら、ところどころ、著者の考察や主観による感想が挟まれている。ちょっと創造できないくらいの労作なのに、とても読みやすい(でも整理しながらじゃないと混乱する)。 本書の記述をそのまま信じるならば、巷間言われている「国鉄の分割・民営化は、社会党つぶしのためにやった」というのは、後付けの、誤った史観である。当時首相だった中曽根康弘がそのように言っているのだから、それは真実なのだと思いがちだけれども、それを語ったのは1996年である。本書から孫引きする。 しかし、労政の場にいた著者の考察が鋭い。 自民党の三塚博が委員長を務める「自民党国鉄基本問題会議国鉄再建に関する小委員会」(三塚小委員会)が成立したのが1982年2月。4月には「管理経営権及び職場規律の確立に関する提言」を行い、その中で「議員兼職の禁止」を挙げる。当時、まだ有力な政党だった社会党の自治体議員の7割が官民の労組出身者である。国労は1割近い。兼職を禁止すれば、社会党の自治体議員が1割減るわけだ。これについて、著者は と書いている。つまり、社会党潰しありきでの国鉄改革ではなく、国鉄改革を利用して社会党つぶしをはかった、という流れなのだ(本書を信じるとすれば)。この点、現在の「常識」がその逆になっているような気がする。 また、中曽根を最初に「風見鶏」と揶揄したのがだれかは私は知らないが、中曽根が首相になったとき、仁杉巌を国鉄総裁に、細田吉蔵を運輸大臣に据えた。ふたりとも、分割反対派である。それが1983年12月。三塚小委員の提言の後にも関わらず、である。そんな中曽根が、当初から社会党潰しを目論んでいたとは考えづらい。目論んでいたならば、最初から、分割派の人物を国鉄総裁と運輸大臣に据えるはずだ。 もうひとつ思うことは、マスメディアのひどさである。「マル生」のときは、労働組合を支持した。しかし「スト権スト」のときは手のひらを返した。そして、国鉄改革の時には、国鉄経営陣(分割反対派)のオフレコ話を、朝日新聞記者がスパイよろしく葛西ら分割派に伝え、状況証拠からすれば、それがひきがねとなって国鉄経営陣の分割反対派は更迭されることになった。 本書を読んで、高校時代の政治の授業を思い出した。受験に関係ないのでほとんど聞いていなかったが、総評・同盟、といったことはおぼえている。しかし、社会に出てもいない高校生に労働組合やナショナルセンターのことを話しても、理解できるわけがないだろう。 と言いながら、本書を読むには、そうした知識が必要となる。社会党と共産党、民社党は何が違ったのか。社会党右派と左派はどう違うのか。階級闘争とは何か。また、三公社五現業とはなにか。かつて、労働運動を主導していたのは民間企業ではなく官公庁の組合だったこと。それに対して民間の労組には民間の考え方があったこと。そうしたことは、現代では実感しづらいし、もしかしたら20年前でもすでにオールドスタイルだったかもしれない。でも、そういうことを踏まえないと、本書は読めない。 さらに、『未完の国鉄改革』(葛西)等を読んだ方も多いと思うが、この本は、あくまで勝者の書いた歴史書であり、勝者ながら「看板会社」JR東日本に行けなかった葛西による本である、というくらいの見方ができる必要がある。葛西の著書については、元JR東日本社長である山之内秀一郎の著書『JRはなぜ変われたか』において「分割・民営化の流れをもっとも知っているのは元運輸事務次官にしてJR東日本初代社長・住田正二である。氏が語っていないことを、私はまだ話すつもりはない(大意)」というような書き方をしている。一般読者は、相変わらず真相は藪の中である。 本書は、歴史の教科書と同一視するのがいい。読みながら、自分が興味を持った分野や用語から知識を拡充していく。調べたあとで本書に戻ると、一段と理解が深まる。場合に寄っては「違うんじゃないの?」という意見を持てるようになるかもしれない。そうした使い方が、本書にはあっていると思う。 鉄道史に興味がある人には、ぜひ読んでもらいたい一冊だ。
『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』(高坂盛彦著)に参考文献として挙げてあった、『人物国鉄百年』を入手した。刊行は昭和44年(1969年)9月7日で、その十数年前の旧著(詳細不明)の書き直し版である。版元は昨年倒産して各方面に影響が大きかった広告代理店、中央宣興出版局である。
著者の青木槐三(明治30年<1897年>~昭和52年<1977年>)は片岡謌郎と深い親交を持つ人物で、毎日新聞の鉄道担当記者を経てほうぼうへ首を突っ込み、国鉄の社外取締役のような存在になった男である(国鉄に「取締役」などない、というツッコミはナシで)。仙石貢から直接話を聞くような立場だった上に十河信二や島秀雄らとも親しいほど鉄道史に精通しており、いま世の中に流布している「鉄道裏話」の出所は実は青木槐三が聞き取った話だった、というものも多くある。その青木が書いた「人物」の本である。入手して、巻末に付された人名索引を見るだけで心躍る。 大隈重信のような鉄道を導入した人、大河戸宗治や太田圓三のような土木技術者が見える。そう、この本がスポットを当てている人物とは、萩原良彦や壇上完爾が描く、無名の「現場の人」ではなく、幹部クラスの人物なのだ。 鉄道趣味的にスポットが当たる幹部といえば、車両技術系の島安次郎-朝倉希一-島秀雄、あるいは国鉄総裁系くらいなもので、その下、次官クラス、あるいは局長クラスはなかなかスポットが当たらない。任官の順番すら定かでないような人物群だからこそ、発掘していく楽しみがある。 読めば読むほどに、明治から昭和の鉄道人というか官界は、大学卒のごく一部の幹部社員が仕切っているというのがよくわかる。鉄道に入るとまず中央で下積み。次いで地方の偉いポストに就き、30歳前で本社に戻ってあとは着々と階段を上っていく。ひとかどの人物となってから亡くなると「○○伝」のような、私家版だと思うが伝記が刊行される。それはそれで、後年の貴重な資料となる。 本書は人物像を描いた本だ。勢い、人物の特徴を浮かび上がらせ、それに沿った話となる。雷親父のような人物や、親分肌の人物は絵になりやすい。だから、多少の誇張もある。場合によっては誤りもあるかもしれない。でもそれでもいいのだ。青木はこう書いている。 渡辺は山陽の経営陣で赤帽や連絡線を作った人物、結城弘毅は特急「つばめ」や「あじあ」を「作った」人物である。 この記述の姿勢はとても大切である。なぜならば、史実即ち異常事態だけ描いていたら、事件事件事件事件になってしまううえ、経営側からの歴史観しか残らない。それに対して、史実でない部分には日常が詰まっているわけで、そこには働く側、利用する側からの歴史観が存在しているので、それを汲み取る意義はとても大きい。 たとえば、こんな記述がある。「電車の誕生」という一節である。大正3年(1914年)12月18日、京浜間で電車の運転が始まった当日、その開業式でのことである。試運転もほとんどせずに営業開始したため、架線の張り方は不適切、道床は沈み、パンタローラーが離線し、貴族院や衆議院の面々を乗せた記念列車が立ち往生してしまったのだ。 こんなことがあるから、史実だけを追ってはいけないのだ。この事故の始末としては、鉄道院総裁の仙石は謝罪広告を出し、技監は廃止され、技監だった石丸重美(狭軌派として悪名?高い)も更迭されてしまった。この、史実には乗らない事実はwikipediaの東海道本線の項目にも「東京駅 - 高島町駅間の電車運転(京浜電車、現在の京浜東北線)開始」としか掲載されていない。 このように、2段組になっている。体裁は新書判。 本書の中から二つ、気になる記述を拾う。まずは九州鉄道のくだりである。 いまや古レール研究は愛好者もたくさんいて、私ですらウニオンくらいは知っている(UNION製のレール参照)。それは、趣味界が膨大な時間を積み重ねたからこそ広く知られるようになったものであって、本書が書かれた昭和40年代前半では、まだまだそのような認識はなかったのだろう。 同じく九州鉄道のくだりで、なんと三島通庸の名前が出てくる。 三島通庸関係文書に「栃木県土木課員」とあるのはその一部だろう。 このような形で、さまざまな人物を採り上げていく。基本的には営業の話である。技術の話はほとんどない。久保田敬一にしても、鉄道次官などとしての活躍であり、私がしょっちゅう引用している橋梁の論文などは触れていない。土木畑の人がそちらで評価されない風潮は、いまに始まったものではないという証だ。 青木の他の著書もさがして読んでみようと思う。いま、鉄道官僚の系譜図を少しずつ作っているが、おもしろい鉄道史が見えてくる気がする。壮大な構想ではある。 |
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