大道泉橋(だいどういずみはし)。栃木県真岡市、鬼怒川を渡る橋だ。架け替えにより、撤去作業中であるということを、@AGEAGE101さんから「早めに行ったほうがいいですよ」との言葉と共に教えていただいたので、5月上旬に行ってきた。上の写真は上流側から。桁が残っているのは右岸、西側である。
下流にある新しい橋からは、こう見える。たぶん、普通の人は、これが変だとは気づかない。 拡大。この「普通感」は、河川敷がきれいになっているからかもしれない。仮に、すでに撤去した桁部分に橋脚が残っていれば、「橋を撤去している」というように感じると思うのだ。 このように、工事している様子は一切なく、美しく放置されている。桁端部はさすがに閉鎖してあるが、それとて見える大きさではない。 左岸、真正面に回り込む。 やはり、なんというか、「異常感」はない。 一歩引いて、取り付け道路から。このように、本来なら直進していた道路が、左右に直角に折れるように変更されている。鋪装されたばかりだった。 新橋を左に、旧橋を右に見る。撤去済の河川敷が、本当に何もなかったかのように整地されている。 河原に降りて、橋台があったはずの場所を見る。やはり、単なる法面にしか見えない。これらの処理ゆえ、残されたトラス桁に「異常感」がないのだろう。 桁の端部に近づく。けっこう高い。床版の下の断面など、なかなかお目にかかれるものではないが、かといってとりたててなにかすごいものが見えているわけでもない…。 反対側に回り込み、今度は上から。 取り付け道路はこのような形でゲートが設置してあった。向かって左から手前(画像下)は現役の道路で、農作業の軽トラがときどき通る。 通行止めの看板の向こうに、トラス桁が見える。通行止めは車輌のみ。 看板越し。 美しい青空に、通る人のいないトラス橋。橋を外から見ても異常な感じはしないのに、橋の上にいると、なんとも不気味な感じがする。 青空と鉄骨だけになると、その異常さもより際立つ。川の音と、山鳩の鳴き声しかしない。 ふと上を見ると、鳩がとまっている。こいつらか。 端部はこのように、当たり前だが唐突に終わっている。フェンスがちょっと撮る気持ちを削いだので、早々に立ち去る。 銘板を探す。 ない。右下にカケラが貼り付いている。こういうものは、自然に脱落してしまうのだろうか。それとも、だれかが剥がすのだろうか。 剥がされている。 …あった。 1959年12月
栃木県建造 建示(1955)二等橋 製作.架設.日本橋梁株式会社 材質.SS41 「製作」などの後の「.」が気になった。 1959年。まだ50年ちょっとしか経っていないのに架け替えられてしまうのは、この幅員ゆえだろう。大型車同士のすれ違いは無理だ。 この大道泉橋は、トラス桁を撤去した後の写真が、なぜか(?)写真素材サイトにある。売っているものなので転載は控えるが、ぜひご覧いただきたい。 http://pixta.jp/photo/2376073 こちらの方のブログには作業車が写っている。 どうやら、桁をクレーンで持ち上げて地上に降ろしたあと、解体したようだ。 また、こちらの方のブログを拝見すると、さらに先代の橋の記憶や、開通記念碑(現地では見あたらなかった)の写真がある。 作業日を問い合わせて、見に行ってみようかしら…。葬式厨? PR
国道20号 新大月橋の旧道・旧旧道・大月橋
国道20号の大月橋(上路カンチレバートラス)のつづき。中央本線の新第二桂川橋梁である。なぜ「第二」なのかといえば、東京方に新桂川橋梁というものがあるのである。そのあたりは 中央本線 新桂川橋梁(1) 中央本線 新桂川橋梁(2) に詳説した。 場所は、大月橋と同じくここ。 桂川の上流側(富士吉田側)からはこのように見える。 手前の上路カンチレバートラスが国道20号大月橋で、その向こうに見えるごついイメージの上路ワーレントラス二つが、中央本線新第二桂川橋梁である。その下に見える橋脚は、さらに向こうの新大月橋(国道20号旧道)のものだ。 ここでは橋梁全体は見えていないので別の場所から… なぜか全景を撮っていない。撮りづらかったのかもしれない。 いずれにしろ、5パネルの上路ワーレントラス。通常、上路トラス橋は、両端の形状が斜めではなく垂直材で終わっているが、実際にはその部材は単純な圧縮力を受け止めるだけでそれほど重要ではないので、この場所のように橋台がその役割を果たす場合は省略できる。 真下に入って対岸の橋台を見る。左が下り線、右が上り線。左の橋台はコンクリート製、右の橋台は石積であることから、右が古く、左が複線化時に設置された新線だということがわかる。 振り返って。 同様に、右(下り線)がコンクリート製、左(上り線)が石積。もっとも、そのさらに下部は、コンクリートで作り直されたのか補修されたのか、ともかく年代を新しくしている。 橋台には銘板があった。 新第二桂川橋りょう 設計 東京第二工事局 施行 勝村建設株式会社 設計荷重 KS18 基礎工 鉄筋コンクリート 基礎根入 天端から18M.00 着手 昭和39年8月24日 しゅん工 昭和40年8月23日 この区間が複線化されたのは昭和41年(1966年)11月30日である。 桁を増したから見上げる。電車が通過するゴウゴウという音はすさまじい。 かつてここにはA&Pロバーツ製の200フィート上路プラットトラスが架けられていた。1901年(明治34年)製で、1902年(明治35年)開通。しかし、不思議なことに、『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第5報)米国系トラス桁・その5』(小西淳一・西野保行・淵上龍雄)によれば、撤去は昭和43年(1968年)だという。そうすると、複線化の時期と合わせるには、 1)既設線に平行して新線を設置。新線を下り線とする。上り線は旧橋のまま 2)上り線の旧橋を交換する という手順が必要となる。そうでない方法を取るなら、さらにもうひとつ廃橋跡があるはずである。このあたりがちょっとわからない。
中央本線 新桂川橋梁(1)の続き。
周辺にある架橋記念碑について。 橋梁の東側にある。この位置から列車を撮影した画像はネット上にもたくさんある。 「架橋記念碑」となっているが、慰霊碑でもある。 縦書きだが、横書きにして転載する。 この桂川橋梁は全長五一二米高さ四〇米で其の雄大にして優雅な 姿を桂川の水面に映す景観は実に近代美の極致であります 国鉄は鳥沢猿橋間の復(ママ)線建設に二十年の歳月と約十五億円の巨費を 投じ施工昭和四十三年九月二十日開通しました 而して茲(ここ)に尊い殉職者 高橋正光 宮脇貞夫 古野信昭 望月光雄 四君の冥福を祈ると共に苦心の連続作業で完成した 全従業員の労苦 を感謝して後生に伝へるものであります 昭和四十三年九月二十日 鳥沢工業区長 佐藤初男 鳥沢駅長 久島 薫 汽車製造KK(キは、サンズイ+気、で記載) 竹中土木KK 建設塗装KK ○○工業KK 熊谷組KK 調布保正石材 すぐ下には道路橋がある。そちらは曙橋といい、記念碑まである。 わざわざ書き出さない。感じ取ってください。 この巨大な船底型のワーレントラス橋は、中央本線の撮影地としても名高い新桂川橋梁だ。3径間連続トラスで、もっとも長い中央支間は130m、左右はそれぞれ70mあり、計270mの連続トラスである。 「新桂川橋梁」ということは「旧」もあるわけだが、それは後述する。この「桂川」は相模川の山梨県での呼び方であり、山中湖を水源をする。その桂川をまたぐ部分がこの長大なトラスであり、川でない部分は支間40mの合成桁が架けられている。それぞれ大変な高さがある。 まあ、美しいこと。 少し左に振って…… 現代版余部橋梁と言っていいのではないだろうか。6連の合成桁。通常、架線柱は50mおきに建てられるが、合成桁部分では支間と同じ40m間隔となっている。トラス部分においては少し不揃いとなっている。 まずはトラス、セオリー通り、真横から見てハの字型になる部分に圧縮力がかかるので、ハの字型の斜材は左右のトラスを対角線で結ぶ部材を付加している。 ここが中央径間の中央部。ハの字型のところと、逆ハの字型のところを見比べて欲しい。 向かって右の部分。\方向の斜材は左右が結合され、/方向の斜材はスラリと鉄骨があるだけ。 そして、この画像を見るとよくわかるのだが、あくまでも桁橋としての機能は巨大なトラスが負担する。その格点を、まるでプレートガーダーのような縦桁が結び、その上にレールが敷かれる。縦桁は、スティッフナーが内側についているため、トラスの表面とあわせてツルリとした印象を見るものに与える。 猿橋側の端に、銘板が… 遠い! これでも35mm判換算300mm相当。 トリミング。見えない…。 このトラスを製造したのがどこなのかちょっと調べたが、どうやら汽車製造株式会社だったらしいことがわかった。もう少し掘ってみようと思う。 鳥沢方には塗装標記がある。 (新桂川橋りょう)←うっかり写さなかった
位置 鳥沢~猿橋間81k848M60 支間 70M+130M+70M 3径間連続トラス 塗装年月 2002年3月 塗装回数 4回塗 塗装種別及塗料名 下塗1層中塗2層・3層 厚膜型変性エポキシ樹脂塗料 上塗り ポリウレタン樹脂塗料 塗料メーカー 日本ペイント株式会社 施工者 建設塗装工業株式会社 これを見ると、なぜ「km」を意味する「k」が小文字で、メートルが大文字なのかとか、不自然な文字間隔などに違和感を持つ。 さて、いよいよ下へ…。 橋台の銘板。 新桂川橋りょう 設計 東京第二工事局 施工 株式会社熊谷組 設計荷重 KS-18 基礎工 鉄筋コンクリート工 基礎根入 天端から[11.0]M 着手 昭和42年7月20日 しゅん功 昭和43年7月19日 この銘板は橋脚にもついていた。基礎根入の部分だけをそれぞれ変えている。中央径間を支える橋脚のうち鳥沢方のものは、「根入 天端から31M」とあった。 支承。思ったよりでかくない。そして、橋台の垂直面でも結合されている。そして… 中央にはこのような荷重を受けるダンパー(?)が鎮座する。 でかい。…と、列車が通過する。 恐ろしい騒音だ。恐怖を感じるレベルの音。いや、こんな場所に潜りこんでいるのが悪いのだが、本当にこのまま鉄骨がバラけて自分を潰してしまうのではないかと思うほどの恐怖。 外に出て、合成桁に戻る。 首都高でも見ているのかと思うような、すらりと伸びた合成桁。箱桁部分が鋼製、上路の床版がコンクリート製か(←推測)。この合成桁部分では、線路はバラスト軌道となっている。 箱桁の塗装標記。 支間40mということ以外はトラスと変わらない。 長くなったので一度切る。
東海道本線上神崎川橋梁(上り内外線)
東海道本線上神崎川橋梁(下り内外線) の続き。 4複線のうち、東から3組目がこの梅田貨物線である。 上神崎川橋梁(上り内外線)と同じと考えていい。製造も同じ汽車会社で1923年である。よって、ここも単に見てきただけ。 右が今回紹介する梅田貨物線用のトラス桁。複線である。右端が大阪方の第4連、奥に向かって第3、2、1連。奥が京都方。左は北方貨物線。 上の航空写真のとおり、ほとんど引けないのでこんな撮り方しかできなかった。橋台に登ればよかったかな…。 その橋台。 と支承。このハシゴに登れば通報されかねない。 そのハシゴの後ろというか、その部分のコンクリート表面には流し込んだ際の型枠の木目がうっすらと残る。また、骨材が適当というか、周辺で採取したのか玉砂利が多く混ざっている。 支承が乗っかる橋台の表面はそのようなことがないので、強度が要求される部分はもっと「ちゃんとした」施工になっているのかもしれないが、これは考え過ぎかもしれない。 トラス構の端柱と上弦材の接続部。似たような形の部材を切り出して、曲げて、組み合わせてリベット打って…。 上弦と、垂直材の接続部。鳥が巣を作らないように(だと思う)、トゲが設置されている。そうした部材や架線を支える部品は塗装されていない。 第4連の桁裏、それも大阪寄り。上り内外線と同じくネットがかけられている。 その奥。ここで、昨日の記事を訂正せねばなるまい。赤枠の部分、前回は「ボルト留めだから後付けだよね」と書いたのだが、ここではリベット留めである。桁の製造年と製造所が同一だとすると、上り内外線のこの部材も当初からあり、しかもリベット接合だった可能性のほうが高い。 上り内外線(右)との並列。 こうしてディテールを見比べると、兄弟橋だということがよくわかる。 北方貨物線に続く。 <参考文献> ・歴史的鋼橋集覧 |
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