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四国にある唯一のA&Pロバーツ製橋梁。第4武庫川の中央パネルを短縮改造して転用したもので、元は122フィート11インチ(37465mm)のところ、33000mmになっている(単位の表記が不統一だが、土木学会の元図がそうなっている)。 この洲津川橋梁には近付くことが難しい(と当時は思っていた。後述)。そのための「飛び道具」として付近の国道32号からドローンを飛ばして撮影したものが上の写真で、実際には国道からは見えない。この日は風がとても強く、墜落させてはマズイので、ドローンを近づけることはできなかった。(2020年8月) 2021年3月に、上り列車後部からスマホで撮った。上り列車は坪尻駅を通過するとすぐ短い坪尻トンネルに入り、鮎苦谷川(あいくるしだにかわ)を渡る。それが洲津川橋梁である。橋梁名と河川名が異なるのは、鮎苦谷川が吉野川に合流するあたりの地名が「州津(以前は洲津と書いたようだ)」なので、おそらくどこかの時点で公式な河川名が変更されたのだろう。よくある話だ。 (Kashmir3D+スーパー地形+地理院地図) さて、その洲津川だが、線路のすぐ西にトンネルの記号がある。本来は北にぐるりと回っているところをショートカットしたのだろう。それを検索すると、なんとそこに到達している方がいる。ほかにも、河原からこの洲津川橋梁を撮影した写真や動画があるので、坪尻駅から歩いていけるのかもしれない。 (参考) 導水トンネルと洲津川橋梁 その1 坪尻駅は、以前、国道32号から行こうとしたけれども、クルマを停める場所がなく…いや、停めることはできなくはないが塞ぐのが申し訳なく、断念したことがある。列車で訪問するのがスジ、ということになろうか。 PR 先に紹介した 上淀川橋梁(東海道貨物線) 上淀川橋梁(東海道貨物線) その2 吹田~新大阪間の経路変更は1912年か1913年か の東側に隣接するプラットトラスが、この上淀川橋梁(上り内外線)である。両側から他の桁に挟まれているため、このような写真しか撮れていない。 詳細な経緯は上記3ポストをご覧いただきたいのだが、この場所の3組の3複線の建設順序としては、この「上り内外線」がもっとも早く架けられたものである。この「上り内外線」のみ、桁がアメリカ製である。後年、アメリカン・ブリッジに統合されるA&Pロバーツ製。 場所はここ。 この橋梁は、径間103フィート9インチ(31.623m)といういまなら鈑桁で済ます長さの5パネルのプラットトラスが22連、連なっている。西側の貨物線(内外線)は国産(メーカー不明)の21連だが、そちらは間に1.5倍の長さの桁が2連挿入されており、トラス部分の全長は同じである。 トラス桁を、貨物内外線(左)と比べてみよう。桁の製作年は、左が1920~1921年、右が1899年。その間、20年の差がある。この時代の20年の差は大きい。 全体的に、上り内外線のほうが小振りかつスマートに見える。橋門構も、アングル材をレーシングで結んでいる貨物内外線よりも、アングル材のみで構成している上り内外線のほうがスッキリしている。斜材のレーシングも、貨物内外線のほうが目が細かいのに対して、上り内外線はゆったりしている。端柱のリベットも、貨物内外線は非常に目立つが、上り内外線はのっぺりとしている。 橋脚は、上り内外線(右)が隅石付きの煉瓦+上面がコンクリート。貨物内外線(左)がコンクリートであるのは、両者の建設年が大きく隔たっていることを表している。上り内外線の橋脚を挙げる。この落書きに腹が立つ。 上り内外線の側面を見てみる。 このガセットにつく夥しい量のリベット。 対して、貨物内外線の側面。 リベットの打ち方が異なるのがわかろう。また、3パネル目(中央の格間)でクロスする斜材の交点の接合が異なる。 続いて桁の裏側。上り内外線。 対して貨物内外線。 どちらも、堤防の一部を欠き取っている。いいのだろうか……というのはともかく、裏からみても、やはり上り内外線のほうが古いのに華奢かつスマートである。 裏から見ると、枕木が凝った形をしているのがわかる。 (赤いラインは書き足し)なぜここまで欠き取らなければならないのだろうか。ご存知の方はご教示いただきたくお願いします。 この橋の落橋防止対策はこれ。 トラス桁が左右にずれないように、支承のピン部分を押さえる形になっている。ピンの手入れはどうするのだろう?…って、部品を外せばいいだけか。 下り内外線(プレートガーダー)との並びはこう。 この時は下り内外線の塗装工事が進行中で、作業員がたくさんいた。ついでに、ここをトワイラ色のEF81が牽引する『日本海』が通ったため、非常にたくさんの撮影者がいた。私はそんなことはまったく知らず、ひたすら3組の橋の写真を撮っていた。 このトラス桁。古いだけあって、これも列車がとおるたびに縦桁がしなる。見ていて驚くほどにしなる。建造後、既に111年。それでもまだこの弾力。鋼材ってすごい。 今回はなんの考察もなし。ただ「見てきただけ」。 下り内外線に続く。
向野橋(こうやばし)が跨ぐのは、かつての国鉄名古屋機関区である。その名古屋機関区を煌々と照らす水銀灯が、かつては南側から4番目(北からなら5番目)のパネルの上に屹立していた。下記写真の黄色い丸(?)内である。
( 私が閲覧した古いものでは、1950年撮影の写真にその姿はあった(鉄道ピクトリアルの今月号=2010年3月号に掲載されている)。その後、画像をググると2002年あたりまでは残っていたようである。 googlemaps、Yahoo!地図どちらの衛星写真も、ヤード灯は写っていない。 大きな地図で見る 『歴史的鋼橋集覧』に掲載されている写真は、なんとも中途半端である。お前は橋さえ写っていればいいのか、と問い詰めたくなるような撮り方である。その点、構技研の写真はさすがである。しかし、左記リンクは画像だけを表示したものであって、構技研の「一覧」ではサムネイルしか表示されない、これもどうしたもんかなあ、と思わないでもない。 微妙な時刻だった。夏ならば、確実に明るい時刻ではあった。とりあえず、行ってみた。 名古屋駅から歩けば歩ける距離だ。電車に乗ってもそれなりに歩かなくてはならない。いつもなら、こういうときは歩く。しかし、荷物が重かった。近鉄名古屋線の電車に一区間 だけ乗ることにした。ところが、名古屋駅のJR改札を出ると、近鉄の乗り場は明後日の方向だった。急ぐ。切符を買っているうちに電車が行ってしまった。次 のは10分後。ああ、暗くなる・・・。 米野駅に着く。ホームから、向野橋は見えていた。しかし、もう感度を1600にあげても手ぶれしてしまうような露出しかない。そこから数百メートル歩く。途中、線路の柵にもたせてレリーズ。 向野橋(こうやばし)は、280フィートのピン結合のプラットトラスである。アメリカン・ブリッジの前身のひとつ、。A&Pロバーツ製であり、京都鉄道が現・山陰本線の旧線の嵯峨野(現・嵯峨嵐山)~保津峡間で保津川(下流で桂川となる)を渡る部分に架けられていた。いま、同ルートは新線に切り替えられたが、旧線は嵯峨野観光鉄道としてトロッコ列車が走っている。下記の地図を写真とすると、まさにその保津川橋梁をトロッコ列車が走っている。 この向野橋は280フィート、当時最大スパンであった。他に同型の桁はなく、唯一無二の存在である。推定1899年製(小西・西野・淵上論文による)。これを超える300フィート桁は、そもそもクーパーの設計が完了したのが1903年10月、製造されたのは1907年以降で、架けられたのは中央西線の第1木曽川橋梁、第5木曽川橋梁、奥羽本線板谷峠の松川橋梁(いろんなところで話題に出るが、いずれ)の3桁。以後も創られた数は極めて少ない。 以前に触れたものとして、1911~1912年製の磐越西線釜ノ脇橋梁、徳沢橋梁、深戸橋梁、1921~1922年製の国産桁、北上川橋梁と羽越本線の三面川橋梁がある。 東側から。三脚を持っていなかったので、欄干の上にカメラを載せてレリーズ。赤かぶりしているのは、撮影地点に信号機があり、その赤いライトが影響するため。 どうだ。こちらはなんとか手持ち。 美しすぐる。 ピン♪ ピン♪♪ ピン♪♪♪ ピン結合・・・・・・ プラットトラスたる部分。叩けばバィィィィーーーーン・・・と振動する。こんな帯板が、橋の重さを支えている。 昭和5年6月竣工。ん? 歴史的鋼橋集覧や小西・西野・淵上論文では「1930年5月開通」とある。 保津川時代の橋梁は、1929年まで使われたらしい。『国鉄トラス橋総覧』では1934年までとあるらしいが、それでは本橋梁の竣工年よりもあとになってしまう。 連続している鈑桁のスティッフナーはJ字形である。 向野橋について、全方向を内側から眺められるサイトがある。すばらしい。 fromNAGOYA |
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