山手線/地形散歩(3)駒込-田端の続き。
田端トンネルを見た後、線路を見下ろすことはできなくなる。そのままおとなしく田端駅へ向かう。 大きな地図で見る 田端駅北口には、2本の橋が並行して架かっている。駅寄りの「田端大橋」(二代目と、車道の「新田端大橋」(三代目)である。田端大橋のほうがもちろん古く、震災復興橋ではないにしろ、震災後の東京都市計画道路のひとつとしてここに橋が架けられた。設計者は稲葉権兵衛。当時の橋梁界を率いていた田中豊門下生である。稲葉は、有名な昭和通り架道橋や総武本線隅田川橋梁にも関わっている。この田端大橋は非常にスレンダーな形をしているのだが、それは後述する。 さて、これが現在の田端駅北口から東を見た光景。この歩道橋が田端大橋だ。1935(昭和10)年に架設されたものを改修したものには見えないだろう。化粧タイルに植栽、ありがちな欄干。しかし、中身は75年前の桁であり、歴史的鋼橋集覧にも収録されている。 上の写真でひときわ目を引くのが、画面上部の白いPC桁の下路橋だ。これは新幹線。この日は曇り空だったので、悪目立ちしないように白く塗られているのかもしれないと思った。もし、田端大橋をスレンダーに仕上げた稲葉権兵衛なら、あるいはその指導をした田中豊なら、どんな橋を架けていただろうか。目立たないよう、重量感を感じさせぬよう、桁の天地寸を細くして6主桁とかにして上路橋にするなどの方策をとったのではないか。 さてこの田端大橋。残念なことばかりだ。まず名称。 西側(駅舎側)の左右に立つ親柱に、そう書いてある。しかし、そのすぐ右、欄干端部には 田端大橋
と記されている。どっちが正式名称なんだ? なお、東側には「田端ふれあい橋」としか書いていない。 次に残念なのがこれ。 ありがちな、 鐘。 得てして「○○すると幸せになれる」「恋が成就する」等の、作られた「いわく」が主張するような鐘になりがち。そして、かなり浮ついた名前がつく。 この鐘も例に漏れず 希望の鐘
だそうだ。 鐘って必要なの? この橋の欄干では、おそらく鉄道を見るために設けたのだろう、透明な窓がある。しかし、その位置が恐ろしく間抜けだ。 見下ろすと、真下には保線用のモーターカーが止まり、その先には機関庫がある。普通は山手線や京浜東北線の電車、あるいは貨物列車を見るんじゃないのか? もうひとつ。 貨物列車が見えるように撮っているが、この窓の真下は駐車場だ。 私が見て「ここが透明の窓だったらいいのに」と思う場所はすべて植栽になっている。本当に残念。 橋の上に、旧橋の親柱が保存されている。横には田端大橋がいかに素晴らしいものであるかを喧伝する文章がある。どうせなら、親柱は元の位置に置いておいてくれよ! この田端大橋は、東京都市計画道路の一部として計画された、ゲルバー・プレートガーダーである。設計者は鉄道大臣官房研究所第四科橋梁の設計、稲葉権兵衛であるのは先述したとおり。道路の高さを下げ、なおかつ線路からのクリアランスを確保するため、薄い鈑桁で構成している。そして、これが田端大橋の最大の特徴なのだが、全溶接なのである。 昭和一桁というのは溶接がまだ試行錯誤だった時代。溶接艦船が真っ二つに折れたのはどの年だったか。田端大橋を設計した稲葉自身、『土木学会誌』第二十五巻第十二号(昭和14年12月)において と書いているくらい、「鉄道」の「橋」を溶接で作るのは困難だった。そんななか、いわば実験的に、この田端大橋を溶接で作り上げた。また、横桁も左右の主桁を結ぶだけではなく、さらに外側に張り出す形で歩道の空間を作り出している。つまり断面は「十十」となっていて、中央部(H型の横棒部分)が車道、左右に張り出した部分が歩道。「十」の、横棒より上が桁、下が橋脚である。中井祐は『近代日本の橋梁デザイン』の中で、このデザインの目的を「鉄道から見ると、桁が奥に引っ込んでいるので見かけ上、スリムに見える」(要約)という説を唱えている。なるほど。 ところが、現在の田端大橋では、路面側に主桁が見あたらない。主桁を撤去できるわけもないので、上げ底になっているのではないかと思って検索したら、ありましたよ、改修工事の内容が。 『歴史的鋼橋の保存技術に関する研究』(永田礼子)の3ページ目。主桁の上に、橋幅いっぱいの床版を新たに設置している。完全な上げ底橋。なんてバカな補修をするのだ。「歴史的に親しまれてきた橋」として保存するのだから、主桁を隠しちゃだめだろ! タイル張りでレトロ感出すよりも、55年前に作られた鋼鉄製の主桁を見せた方がいいだろ、本物なんだから! なお、この卒論は、私がちょっとアレだと思っている佐々木葉の研究室のものらしい。佐々木氏についてはこちらを参照。しかし、卒論執筆者および内容と、佐々木氏のアレ具合はまったく無関係である。 『土木学会誌』第二十一巻第五号(昭和10年5月)に、稲葉自身が書いたこの橋の解説がある。その当時は「田端大橋」ではなく「江戸坂跨線道路橋」という名称となっている。「江戸坂」というのは、田端駅西にある田端アスカタワーの北を取り囲んでいる坂のことである。 参考:「山手線が渡る橋・くぐる橋」(高橋俊一) 『近代日本の橋梁デザイン』(中井祐) PR
本日発売された『鉄道ファン』2010年11月号の『東京鉄道遺産をめぐる21 帝都復興事業と万世橋付近 万世橋架道橋』(小野田滋)で、ついに万世橋架道橋が採り上げられた。場所はここである。
以前、このブログでも2回、適当なことを書き散らした。 鉄製橋脚 万世橋架道橋
万世橋架道橋への期待
ようやく、その疑問が解決された。小野田氏の記事に寄れば、やはりというか、初代の桁は直線桁を角度をつけて接続し、その上に曲線の線路を敷いていたのであった。写真まで掲載されている。写真の出典は『市街高架線東京万世橋間建設紀要』。これは、国会図書館のデジタルライブラリーに収録されているのでざっと目を通したことはあったが、写真のスキャンが適当なため、正直なところ、写真は見るき気もしなかった。しかし、ここに初代万世橋架道橋が写っていたのだ。自分を恥じるしかない。もちろん『鉄道ファン』誌に掲載されているものは鮮明だ。 初代の橋はここに掲載されていた(下段)。 (リンク元=国立国会図書館デジタルライブラリー) よく見えないとは思う。画像はこちらの28ページに、資料全体はこちらにある。 ともあれ、すっきりした。初代の橋が3径間であったこと、橋台は初代のものを引き継いで使っていることが解説してあった。まだ、黒田武定についても、1/2ページを割いて解説している。今月の『鉄道ファン』は、この記事のためだけに買ってもいいし、これだけに倍の値段出してもいい。 ついでに。同記事に記載されていたのだが、水害で不通になり廃止となった高千穂鉄道の第二五ヶ瀬川橋梁は、こことは別の方法で曲線区間でプレートガーダーを使用していたという。なんでも、主桁(つまり両側のプレート)は直線のまま、縦桁を「階段状にシフト」させたものだそうで、どういうものかを知りたかったのだが、画像検索しても、残念ながら水害で流された後の悲惨な画像ばかりが出てきていたたまれたなくなった。こんな橋の裏側を撮っている方などいるまい。 先に紹介した笠置橋のすぐ近くに、トレッスル橋脚を持つ橋がある。関西本線下の川橋梁である。いろいろ不思議だ。 まず、橋脚。ここは鈑桁2連で全長約35m。一またぎできる距離でもあるが、間にトレッスル橋脚を立て、その前後に12.68mの桁と22.3mの桁をかけている。これが不思議。 反対側から見る。 ふたつめ。どちらも魚腹型、しかも端部が斜めにカットされている。 みっつめ。トレッスル橋脚。 川の流路を見ると、橋脚のある場所で川幅が狭くなっている。まあ、どうせすぐ木津川なので、ここを狭くしたのを原因としてなにかあっても深刻な影響など出ないだろう。 よっつめ。対傾構の組み方。 どうにも目で追いきれないような組み方をしている。部材が直方体の平面上だけを行き交うのではなく、その内部を対角線上に結んでいたりする。「ねじれの位置」という単語を思い出した。 橋台。 こちらは西側の橋台。隅石がこんな上まである。もしかしたら当初は下を通る道路がなく、川の水が洗っていたのかもしれない。航空写真を見たが、古いものはよく見えないし、1974年のものは未舗装路だったようだ。 この橋梁がいつ造られたのか、『歴史的鋼橋集覧』にも出ていないが、この区間の開通は1897年。規模こそ違えど、余部橋梁が開通したのは1909年。こ の橋より10年後だが、それでも橋脚用の鋼材は輸入していた。そのため、この橋の橋脚は外国製かもしれない。木津川橋梁はほぼ同時期の開通で、パテント シャフト製(イギリス)である。…などと考えるといろいろ楽しい。 今回は考察なしです。ただ見てきただけ。 仙山線の新川川橋梁。なんとも珍妙な名称だが、ここを流れる川が「にっかわ川」というのだから仕方がない。古い資料では「しんかわ川」としてあるものもあるが、ここにある駅が「おくにっかわ」駅であるから、「にっかわ川」をとる。 ご覧の通りのトレッスル橋脚2基+鈑桁4連である。こ新川川橋梁についての歴史的鋼橋集覧には誤りがある。 ・橋長×幅員 71.8m ・径間数×支間 4×31.5 この時点で算数がおかしいしが、写真を見れば分かるとおり、トレッスル橋脚間の第2連は、第1・3・4連よりも明らかに長い。そして、下記に見るように、第4連(おそらく第1・3連も)は支間12.9mである。 そうすると、もし橋長が正しいとするならば、71.8-(12.9* 3)=33.1で、第2連の支間は33.1mと推測する。これに現地で気がついていれば、第2連の塗装標記を撮ろうと努力したかもしれない。悔やまれる。 第1・第2橋脚がトレッスルであり、第3橋脚はコンクリート製である。第1橋脚(画面右側。向こう側)の足下は藪に囲まれてよく見えないが、第2橋脚(画面中央、手前川)は5/6パネル。川側のほうに、脚が延びている。なぜわざわざ基礎を段違いにさせたのかはよくわからない。 2009年に再塗装されたこともあり、とても美しい。まるでつい最近架けられた橋のようにも見えるが、開通は1937年である。 第2橋脚の支承部。平面で、向こう側(第2連)とは剛結されており、手前側(第3連)はスライドするようだ。 足下。とにかくきれい。こういう場所に立っていると、眼下の沢からさやさやという音が上がってきて、とても「山」を感じる。 線路の高さに立つと、こんな印象。ここまでは、道路からホームへあがる通路であるかのようなふみ跡がある。 奥新川駅のホームから見ると、橋は意外に小さくみえる。乗客がもし前面展望を見ていたとしても、こんな橋の足下がすごいことになっているとは思いもしないだろう。 また写真の羅列だけで終わってしまった。。。 あまりにでかすぎて、あまりに撮影ポイントから近すぎて、全然スケール感が出ない。並行する国道48号熊ヶ根橋(これもまた歴史的鋼橋だ)の、高さ2m近くのフェンスによじのぼり、そn上から頭とカメラだけ出して超広角で撮っただけ。こんなものでは、なにも伝わらない。自分の目で見た実感でいえば、通常、この手の橋梁は見上げる形になるのだが、ここでは橋梁を少し見下ろせるくらいになるので、なかなかにスケール感があるのだが、いかんせん長時間眺める体勢ではない。万が一、フェンスが向こうにポロリとなったらサヨウナラだ。 フェンスの隙間から撮ろうとすると、こうなる。 水面から桁まで50m以上あり、これは余部橋梁よりも高いということになる。にしても彼我の違いはなんだろう? とくに語ることはない。写真だけご覧にいれる。 |
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