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中京圏の山間部。奥の母屋と共に土壁だから、かなり古い建物のようだ。下向きの矢羽根形に板が打たれた開き戸は(更新されたかもしれないが)建ったころからあったのだろうか、それとも建ったときは開放されたいたのだろうか。

扉の固定は大きな角材による閂。出入口が道路と並行になっているので、右側の扉を開くと荷物の出し入れがやりにくそうだ。
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小豆島の南側、内海湾の草壁港と高松を結んでいた内海(うちのみ)フェリー。2021年3月で休航となった。国道436号沿いに「高松ゆきフェリー」の案内板が見えるが「休止」の掲示がある。


 
かつて乗船待機のクルマが並んでただろう駐車場。

 
 
その真後ろには待合室。航路休止の張り紙。

 
そこから右を見ると、ここから小豆島に入った人が潜ったゲート。

 
徒歩乗船の通路はいまも使われているかのようにきれいにある。おそらくきちんと管理されているのだろう。





 
和歌山県に流れ出す吉野川(県界以西は「紀の川」)の水を、分水嶺を越えた北側の奈良盆地に送るのが吉野川分水。農業用水だ。吉野川本流の大迫ダム・大滝ダム、支流の津風呂川の津風呂ダムを展開しながら近鉄吉野線の下市口駅近くの下渕頭首工で取水し、水路トンネルで山を越す。

吉野川水系のさらに一つ南の十津川水系猿谷ダムからも、吉野川の支流・丹生川に水を送っているが、下渕頭首工より下流側なので、ここでは扱わない。


2022年末に関連施設を見てきた。まず、三つのダム。

 

津風呂ダム。

 
 
大滝ダム。川上村の中心部はこのダム湖にあたる。樫尾発電用の水路が左岸にあり、それがすごい景観を造っている。別項にて。

 
 
大迫ダム。アーチだが、カドがある。

あと、関係ないけれど、向かい途中に、木津川の支流・名張川の比奈知ダムに立ち寄った。
 
比奈知ダム。

 
比奈知ダム移転者の碑。「氏名」とあるが、すべて男性名と思われる。世帯主の名前なのか。女性は誰も住まいを奪われなかったのか。こういうところにひっかかる。

 
 
 
 
展示されていた古い水車。いまはこんな塗り分けだが、現役時はどうだったんだろう。







『「暗橋」で楽しむ東京さんぽ 暗渠にかかる橋から見る街』(髙山英男・吉村生著)の刊行を記念してのトークイベントが、2023年1月28日に田原町のReadin' Writin' Book Storeで開催された。ご来場・ご視聴・お買い上げいただいた皆さん、ありがとうございました。

そこで私も少しだけ「新潟の暗橋」の話をしたのだけれど、当日までに現地再訪しておこうと思ったもののかなわず、古い写真と、お借りした写真、SVのキャプチャでの案内となってしまった。その後、新潟の実家に行ったので、いくつか撮り直してきたとともに、発見もあった。

●浦安橋
 
 
 
まず、本町の浦安橋。いまはこんな案内も掲げられているけれど、野内さんの案内で初めて知ったのが2016年3月。

 
2011年のストリートビュー。ブロック塀と一体化していて、たしかにわかりづらい。2014年から案内巻版がある。背後の丸大は子どものころからよく出入りしていたデパートのようなスーパーで、中学生のころは毎日50円玉二つを握りしめて7階?のゲームコーナーに通っていた。そこに行けば、誰か友だちがいたのだ。

●正福寺

 
 
そこから西堀に向かい、寺の境内を覗いてみる。正福寺。西堀沿いの寺は、西堀から参道のような細い道の向こうに本堂がある。たいていは本堂前にわずかな駐車スペースがあるので、クルマはここに入っていく。が、墓参りにクルマで来る人は少ないかもしれない。

親柱のようなものはなかったが、煉瓦の土台の上に経つ鐘撞き堂と、煉瓦造りの建物があった。他の例からすると戦没者関連のお堂かな…。

●勝念寺と勝念寺橋
 
東隣の勝念寺。

 
 
上の写真でも見えているが、門の向こうすぐ左に、いかにも親柱のようなものが見えた。「勝念寺橋」「大正拾五年四月竣工」。


 
 
 
勝楽寺。私は実家の墓はここにある。そして私はここの保育園に通っていた。その前庭に転がるのが勝楽寺橋の親柱。これは以前、野内さんに教えていただいていた。親族の法要で来たときにも見てはいたけれど、写真には撮っていなかったようだ。「勝楽寺橋」「大正十四年六月」とある。この2本しかないようだ。

●真宗寺橋

 
 
イベント時には写真がなく、えちごのいちごさんのブログから写真をお借りした真宗寺橋。鐘撞き堂に立てかけてあった。「真宗寺橋」「昭和十年四月竣工 真宗寺」「発起人…」あと1本は不明。境内で、茂った木の下に入り込んでとか、ちょっとできなかった。

お寺の名前を冠した三つの橋は、いずれも大正10年代。ここからはまったくの憶測だが、そのころ一斉に、親柱のついた橋にかけかえられたとか、そのための寄進を募ったとか、他の寺が目の前の橋を架け替えたのならうちもしなければ…となったとか、そういうことが想像される。

●イタリア橋

イタリア軒の前に「イタリア橋」があって、その親柱がかつてイタリア軒に配置されていた…ということも、えちごのいちごさんのブログで知った。あれだけイタリア軒の前を歩いているというのに…。しかし、いまはなくなっているようだ。イベント後、えちごのいちごさんが調べてくださった。その結果はこちら。

イタリア橋、その後(現在)

それ以前の記録がこちら。
新潟だけど「イタリア橋」
イタリア橋のその後!


●まとめ

 
位置関係はこう。東堀にも多々橋がかかっていたはずだが、そちらも寺町(西堀)のように立派だったのか。親柱はあったのか。古い写真をまとめた本を見れば様子がわかるかもしれない。

* * *

これら以外にも、栗の木川にかかっていた万国橋、他門川にかかっていた鏡橋などが暗橋として現存する。お寺の境内も、探せばもっとあるだろう。それにしても、橋の保存とは、構造としての橋そのもの(上部構造)ではなく、飾りである親柱なのだ…ということを改めて認識した。建物を解体するときに表札だけ残すようなものだ。それがいいとか悪いとかではなく、そういうものなのだ。


 
羽越本線の、ある駅の近く。商店だった建物の一角に、紅色の防火壁があった。

大きな円のなかにいるべき紅色のツバメは、残念ながらスプレーで塗りつぶされていたが、

かえって、単に褪色しただけにしか見えなかった。


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