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(kashmir3D+地理院地図+スーパー地形に加筆)

下甑島の街並みや路上の風景。

●手打・武家屋敷通り
 

 

狭い道の両側には石垣。こういうところにも3階建ての集合住宅の需要があるのは、実家を離れるときのためだろうか。都市部と違って賃貸などはほぼないだろうから。


下甑郷土館は、残念ながら休業中。

 
手打海水浴場と、そこで待機していた薩摩川内市甑島コミュニティバス。運行は南国交通。

 
美しい砂浜と、その前にある出光の給油所。

●片野浦
 
 
片野浦。高さ2m近いブロック塀、しかもラウンドしている。

 
「林道子岳線」。

 
片野浦港。


 
片野浦。

●釣掛埼灯台
 
 
下甑島最南端。灯台に至る道は「舗装林道」という感じ。

●片野浦港の給油所跡
 
 
 
給油所跡と思えるが、建物がサービスルームぽくない。大きな木製扉がついている。「片野浦浜田」のバス停がある。

●鹿児島県道350号
 

●瀬々野浦
 

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福島県のいわき市北部、楢葉町、川内村周辺にはダート(未舗装路)がけっこう残っている。そのなかで、乙次郎林道(おっとじろう)は、かつては「ダートでしかいけない集落がある」「一軒家の庭に飛び込むような場所がある」ということで知られていた。1997年8月下旬に日帰りで行っているけれど、25年振りに行ってみた。

 
かつては17.3kmあった(ツーリングマップル東北2001年版による)ダートは、9.5kmになっている(ツーリングマップル関東甲信越2019年版による)。それは、乙次郎から西側が福島県道250号となり、舗装されたからだ。

 
そのせいか、東側のダートも少し荒れ気味。かつては超フラットで幅広く、舗装目前という印象だったのだが。

 
ほぼ林間。要所要所にカーブミラーがある。97年の訪問時は何台も乗用車とすれ違った。

 
一ヶ所だけ、展望が開けるところがある。

 
乙次郎の集落に出ると道は立派になる。記憶によれば、集落はけっこうな戸数があったのだけれど、谷間に数軒が点在にするのみ。とすると、その記憶は小田代か。

 

『広報ならは』2022年5月号によれば、乙次郎は2世帯3人が暮らす。

 
消防ポンプ車庫。ここに「乙次郎地区集会所」の立て看板があったので、その向こうの建物には注意を払わなかったのだけれど、帰宅後に調べると、楢葉北小学校乙次郎小学校の跡のようだ。昭和55年に校舎建て替え(出典)。

 
カシミール3D附属地図の5万図。2002年修正の5万分の1地形図「川前」を元にした数値地図50000と同じものだ。「文」マークがある。


『林道コース大全』(安西錬太郎著、1988年初版・1993年8刷)には自転車に乗る小学生の写真が掲載されているので、それを裏付けるというか。

『記憶に残る廃村旅』の浅原昭生さんから、下記のご教示をいただいた。
『全国学校総覧』を調べたところ、乙次郎と山所布はともに楢葉北小学校の分校があって、児童数は乙次郎分校が37名、山所布(所布分校)が25名、へき地等級はともに3級でした。所布分校は昭和47年に閉校になりましたが、乙次郎分校は平成17年まで存続したようです。

乙次郎分校の児童数、『全国学校総覧』で調べました。 閉校年(2005年)の3年前までの版まで調べましたが、3年とも休校でゼロでした。 「閉校年=児童がいなくなった年」ではないので、注意しているところです。

平成17年は2005年。であれば、2002年刊行の地形図に載っていて当然だ。

さらに後日、国会図書館で『全国学校総覧』で乙次郎分校の児童数の推移を調べてくださり
昭和58年=6名
昭和59年=4名
昭和60年=4名
昭和61年=2名
昭和62年=1名
昭和63年=1名
平成元年=0名
ということから「平成元年(1989年)が休校年ではないか」との推測をいただいた。浅原さんのコメントとして「乙次郎分校の閉校年=平成17年(2005年)と比べると、違う印象を受けるのではないでしょうか」とのこと。休校年数は、このように十数年の場合もあれば、40年以上という実例もあると、浅原さんから教えていただいた。

 
乙次郎集落から西は、どうやら舗装されてしまったようだ。ここはまだマシで、普通は「酷道「険道」などといっても1.5車線くらいはるものだが、この先は完全に1車線の、とても狭い印象の道。曲線の勾配やそのアップダウンなど、林道そのもの。

 
さて、冒頭に書いた「一軒家の庭に飛び込むような場所がある」というのが、ここ川内村大字下川内字篠平。Yahoo!などほとんどのデータベースでは「しのだいら」、マピオンでは「ひのたたいら」とフリガナが振ってある。大字下川内字篠平、ということのようだ。字名は読み方がわからなかったが、浅原さんが『角川地名大辞典 福島県』で調べてくださり、「しのだいら」だと教えてくださった。

25年前、「ここ通るの!?」と思いながら通り、一眼レフを持っていたくせに写真を撮っていない。ここがダートだったころの写真は、こちらのサイトにある。2006年走破とのことなので、舗装されたのはそれ以降か。

また、このお宅を取材した、毎日新聞の2017年の記事はこちらのサイトにある。



Wikipediaによれば、冒頭の地図のように、県道250号は、かつて北側に分断された形で設定されており、それが2007年に木戸ダムが竣工したころにこちらに切り替えられ、旧県道250号の部分は、村道になったようだ。そこにはヘキサの村道標識があるようだ。

なお、冒頭の地図の左上の県道部分は、福島第一原発の事故により居住制限区域から避難指示解除準備区域となったが、すでに解除されている。
 
(kashmir3D+地理院地図+スーパー地形に加筆)

●子岳小学校
 
 
 
 
 
子岳小学校。2012年3月末で閉校。閉校時には3名の児童が在籍していた。校舎も体育館もきれいに保たれている。門柱にも「子岳小学校」と掲げられたままだ。

 

閉校記念碑。

●西山小学校
 
ナポレオン岩の展望所から。左に西川小学校。

 
 
こちらが正門。

 
谷側の入口。「裏口」のように見えるけれど、実際はこちらからなんだろうな。

 
 
閉校記念碑。2013年3月末閉校。

 
 
最後の学期の掲示物がそのまま残されている。

閉校となった校舎は、たいていそうなっていて、下駄箱の氏名札などもそのままだ。こういうのは、教師たちが片付けをしたりしないのだろうか。そういう片付けは、教師の役割ではなく、別の職種の人(例えば役所の別の係とか)がすべきことなのだろうか。

理由はわからないけれど、こうして、最後の児童・生徒の氏名札や最後の掲示物が放置されているのは、そこに学校があったとき記憶を留めるというよりも、逆効果な気がする。





 
旧種子島空港。2006年3月まで使われていた。滑走路は見えない。滑走路は、標高50~90mくらいのところを盛り土していた。

 
使われていないにしてはきれい。

 
このように閉鎖されているけれど、隙がありすぎる。いえ、立ち入りませんが。ここは駐車場だったところ。

 
駐車場の出口だったところ(たぶん)。ゲートが開いていた。

 
バス停のように見えるが、『秒速』などのロケ地案内。

 
旧空港は、中種子町の中心部にある。役場から徒歩10分くらいか。空港前の道路は、住宅地への路地。







四国最東端・蒲生田岬の北側に、海を挟んで東に延びる椿泊の半島。半島から突き出す岬、岬の藍田の入江ごとに集落や港がある。

漁業が盛んな地域は、「都会の交通」の感覚からするといろいろと大変そうだけれど、多くの人が生活し、個人で、あるいは共同で仕事をしているため、とても活気があるように感じる。ここは谷ノ浦。

 
 
 
ここは小吹川原。

 
先端、椿泊には、椿泊小学校がある。

 
 

 
道路が尽きるところ。

 


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