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ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
の続き。

車販は、売り物を積んだワゴンを事前に東京または大阪で準備しておき、ワゴンごと乗務する。1列車につきワゴン2台だ。そのワゴンに積んであるのは、記憶では以下の通り。

・コーヒーの入ったポット2本(30杯分)
・コーヒーカップ50杯分
・ビール1ケース
・オレンジ・グレープフルーツジュース各15本
・ウーロン茶15本
・さきいか・ピーナッツ各10

これに、カフェテリアまたはビュフェから、サンドイッチや弁当、飲料、つまみ、タバコ等をさらに積み込んで販売する。今回はコーヒーの話を書く。

* * *

コーヒーは、朝の列車なら東京から京都手前までにA車では100杯以上、時には150杯も売れた。1杯300円、喫茶店と同じように、車内販売はコーヒーと弁当が利益率からいうと非常に重要な商品である。

だから、ときどきコーヒーの売上げに応じて報奨金が出た。私の最高はA車で165杯。A車の定員は625人、およそ3.8人に1人が買ってくれたことになる。コーヒーの売上げの多寡は本当に「腕」による。注文を受け、紙コップをとってポットから注ぎ、蓋をして供卓し、砂糖・ミルクのセットを渡し、会計する。新人はこれだけで1分もかかってしまうが、ベテランは10秒もかからず済ませてしまう。

100系ではカフェテリアまたは食堂車と11号車の車販準備室に、0系ではビュフェにコーヒーマシンがあった。コーヒーマシンは、豆(粉)を大きなドリッパーに200グラム入れ、水を1リットル入れると、沸騰したお湯がシャワーのように粉に降りかかってコーヒーを抽出する。下部のタンクにはポット2本分、貯めることができた。

回送されて入線した列車に乗り込んだ場合には、もちろんマシンは冷え切っている。コーヒーマシンで作るには15分くらいかかる。温まってくると10分くらいでできるのだが、それでもポット1本分だ。朝などは作り続けても間に合わないくらいだ。ポットの交換はデッキにワゴンを留置して自分で補給するか、朝は「単品」やカフェテリアの社員たちがポットを抱えて持ってきてくれた。

列車が終点に近くなるとポット内のコーヒーは捨て、ポットを洗浄する。そういう意味では豆の管理は厳しくはなかった。運転士や車掌にコーヒーを渡すこともあり、休憩時には自由に飲めた。

* * *

冒頭のように、駅で積み込むコーヒーは「基地」で製造するのだが、こちらは巨大なコーヒーマシンで作られていた。粉は1kg。そこに蛇口から熱湯を注ぐ。タンク内にムラができるので撹拌する。それをポットに詰めていた。バイトたちは「もし客として新幹線に乗ったら、コーヒーは車内でドリップしたやつに限るよな」といいあっていた。すでに20年以上前の話だ、当時はファミレスでも煮詰めたようなコーヒーが当たり前だった時代だ。業務用のコーヒーなぞこんなものだと思うが、いまはもっときちんとしたコーヒーになっているように見受けられる。

おもしろいのは、当時、東京営業所はキーコーヒー、大阪営業所はUCCの豆を使っていたことだった。長年のつきあいもあるのだろう。砂糖・ミルクのセットは、東京は何だったかな…大阪はスジャータだった。一度、車内で「おたくのコーヒーの味が好きなんだよ」と男性に言われたことがあるのだが、果たしてUCCかキーコーヒーか、どちらのファンなのだろう…と思いながら、まあ、それには触れずに「ありがとうございます」とお出しした。車内で淹れたコーヒーだったのは幸いだった。

<関連事項>
ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)


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ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)の続き。

(別の人が写っているので加工しています)
1992年3月からはこの制服になった。帽子は本当は前髪を隠さなくてはならないのだけれど、まあ、それはおいておいて。

その改正で、『のぞみ』が朝晩の2往復、走り始めた。JR東海の力の入れようはすさまじく、選抜した女性メンバーだけを乗務させることになった。途中でいやになってやめてしまった人もいるけれど、補充しつつ、なんとか1年を過ごした。

翌1993年3月の改正で『のぞみ』は毎時1本、博多行きとなった。その直前に、専用クルーとして大量の短大卒を社員として採用した。それまでのグリーン車クルーや社員は全員高卒だったのだけれど、ここで大きくいろいろと変わっていった。稀に欠員が出てどうしても…ということで、ベテランの男性アルバイトが乗務したこともあるが、それは希有な例だった。私は一度だけ、博多往復(現地1泊)をしたことがある。

* * *

いま「1泊」と書いたが、大阪泊まりの乗務コースがあった。個人的にはあくまでもアルバイトなのでなるべく短時間で折り返す列車ばかり乗っていたが、1993年3月改正で『のぞみ』が増えると100系『ひかり』の受け持ちが少なくなり、0系や泊まりコースが多くなった。

泊まるのは、JDの寮である。男性社員が住んでいる、本物の寮。もちろん社員は1部屋をあてがわれているが、アルバイトはその1室に二段ベッドが八つ(と記憶している)ある部屋を使った。先日、大阪に行った際にその寮に行ってみたら、嬉しいことにまだ現役だった。


G編成の場合は、残ってしまった破棄する食材を「まかない」としてもらうことができたので、それを夜食に仲間たちと深夜まで話し込んだ。タバコにいぶされつつ、時にダニにやられつつ。ここに住んでいる大阪営業所社員も乗務で当たることがあり、その人には、みんながなんとなく親近感を持っていた。

この寮は内風呂もあったが、たいていの場合は近くの銭湯「木川温泉」に行った。この木川温泉ももちろん現役。
昼間に見たことがなかったのだが、なんとすてきな建物だろうか。西中島南方駅から歩いて行けるので、新大阪周辺で風呂に入りたい人はここに行くといいだろう。当時は「銭湯」のイメージそのままだったが、いまはどうなんだろう?

名古屋の寮は、なぜかあまり記憶がない。きれいだったからだろうか?

* * *

当時はJR東海もおおらかだったことは前にも書いた。どれくらいだったかというと、運転台に上げてくれたり、客席に座っていても笑って見逃してくれたのだ。

車販ワゴンは運転台または後部運転台(車掌がいる)に達すると「コーヒーいかがですか?」とドアをノックする。断る人はいないので、販売用とは別のプラカップで渡す。すると、「まあ上がって休んでいけや」。運転士にしろ車掌にしろ、よく運転台に上げてくれた。そうすると、意外にも新幹線の高架橋はアップダウンが激しいこと、きちんと勾配標が立ててあることなどが見える。けっこう目視できるものだなと驚く。

対向列車が来ると「ちょっと頭下げておいて」。見つかると面倒なことになるのかもしれないが、それにしてはごく当たり前のように上げてくれた。今思えば、他愛ない世間話しかしていないとうか「彼女はいるのか?」のような話ばかりだった気がする。運転士や車掌にいろいろと話を聞いておけばよかったと思う。国鉄民営化を乗り越えてきた人たちだ。経験も、思いも、話したいことはいろいろあっただろう。

また、日曜夜遅くの東京行きは、ガラガラだった。15、16号車は乗客ゼロなんていうときもある。そんなときは社員もわかっているので「適当に休憩しながら売ってくれればいい」ということで、アルバイトが4人ともB車に集まって無人の16号車で座席を向かい合わせにして休んだりすることもあった。車掌が来ても、笑いながら「ええから、ええから」と言って見逃してくれた。大阪の車掌が多かった気がする。稀には車掌も雑談に加わった。

* * *

いま「社員も」と書いたが、1992年3月改正から、東京営業所持ちのG編成は基本的に女性社員のみになり、1993年3月からは大阪営業所持ちもそうなった。女性社員は高卒で入って2年目、3年目くらいが多く、24歳くらいまで在席している人は稀だった。18歳で新卒で入ってきたばかりのときは当然のごとくアルバイトのほうが歳上かつ経験豊富で仕事もできるので、関係が微妙によじれてしまうのだが、それを気にしない社員とアルバイト立ちの関係は非常に良好だった。

高卒社員たちは、アルバイトをうまく使えば売上げも上がる、逆にアルバイトをこき使うと悪い結果になるということもよくわかっていたんだと思う。アルバイトは優しい社員のためならがんばって働くが、こき使う社員の元では少しでもサボろうとするものだ。現実的な「悪さ」を働かれてしまうこともある。なにしろ乗務は忙しい。乗務中に、各個人が何を何個売って売上金額がいくらあったかを照合する時間などないのだ。

冒頭で書いた『のぞみ』用に採用した短大卒たちとはその関係は築けなかった。

<関連事項>
ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編)
ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)
1991年秋から1995年春まで、ジェイ・ダイナー東海でアルバイトをしていた(以下JD)。私はJRの東京クルーセンター(以下TCC)というところに所属した。クルーセンターは大阪にもあり、0系・100系の車販と100系グリーン車のクルー(いまでいうアテンダント)専門の部署という位置づけだった。

JDは日本食堂の一部が独立したもので、当時既にJR東海の子会社になっていた。並行してSPS(新幹線パッセンジャーサービス)というJR東海の子会社もあり、JR東海は車販子会社をふたつ持っていたことになる。ただし、それぞれ分担が違っていて、SPSは基本的に100系G編成専門だった。

クルーセンターとは別に、JDには東京・大阪・広島・博多の営業所があり、0系・100系を担当していた。それぞれの営業所でいろいろと違いがあったが、それはいずれ。

(別の友人が写っているためおかしな加工になっていることはご容赦ください・笑)

1993年3月改正まではこのような制服だった。これに帽子が加わるが、このときは休憩中なので外している。今回は100系G編成について書く。

基本的にはTCCからアルバイト4人とグリーンの社員2人が乗り込む。カフェテリア内は営業所の社員が2名、合計8名だ。もちろんさまざまな都合で人数が揃わないこともあり、混雑する列車で欠員が出るとそれは大変だった。一方、ガラガラの列車に8人も乗るとヒマでしょうがない。当時はJR東海もおおらかで、運転士、車掌ともにいろいろ相手をしてくれた。

カフェテリアがあるG編成車販のベースはここ。自由席側を「A車」、指定席側を「B車」と呼んでいた。それぞれワゴン1名、「単品」つまりカゴでの販売1名が担当する。単品はワゴンの商品補充等の補佐もする。主観では、大変な順にA車ワゴン→A車単品→B車ワゴン→B車単品。なお、グリーン車はクルーが注文を取るのでワゴンは回らない。車販基地が8号車1階と11号車、グリーン車は8・9・10号車なので、通り抜けすることができないようになっている。

私がよく乗ったのは、1992年3月改正でできた253A→284Aという行路。そのA車ワゴンを好んだ。253Aは東京16時48分発。満員で少し立ち客がいるという最高の混み方。混みすぎると逆に売れないものだ。ワゴンは名古屋までの2時間で7号車から1号車まで1往復できるかできないか。そのくらい頻繁に呼び止められる。その間、売上げは5~6万、多いときには8万以上。大阪までで多いときには10万。もちろん主役はビールだ。2~3銘柄を混載するが、スーパードライと一番搾りが人気で、モルツと黒ラベルはイマイチだった。

対してB車の基地は11号車の業務用室。飲料はここで補充する。満席だとしても、B車はA車ほど売れない。団体が乗っていたらスカである。売れない車販ほど辛いことはない。ヒマだからといってボケッとしていていいわけではない。いや、本当にガラガラだったら社員も承知で「好きにしてていいよ」と言ってくれるが、混んでるのに売れないというのは辛い。とはいえ、グリーン車を挟んで監視の目も行き届かないB車を好むアルバイトも多かった。

総じて、自由席は並んで乗る都合上、なにも買わずに乗ってくる客が多いが、指定席は座席はあるのでホームで買い込んだ上で乗ってくる。そんなことが売れ行きの違いとして表れる。

* * *

新大阪に着いたら、そのまま新大阪駅の基地で休憩して折り返すか、営業所まで行って納金して休憩して折り返すかの2パターンある。後者には大阪1泊勤務もある。前者の方がアルバイトとしては効率がいいので、それを好んだ。1日2往復も可能で何度となくやったが、18時間労働、2000kmの乗務はかなりしんどかった。それは別の機会に述べる。

大阪の基地はもうどこにあったか思い出せないが、ブロック塀に囲まれた窓もない1室だった。そこに弁当があった。弁当も当たり外れがあり、ご飯と焼きそばのみの「やきそば弁当」は不評だった。そういうときは構内のうどん屋さんに食べに行った。その狭い基地でのアルバイト仲間との談笑は本当に楽しいものだった。

基本的に東京~新大阪、のちに~名古屋を含めて500往復してこのアルバイトを終えた。

<関連事項>
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
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ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)
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ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)
ジェイ・ダイナーの思い出(乗務行路1)
ジェイ・ダイナーの思い出(乗務行路2)


まさか、こんな場所で出会うとは。江東ドボクマッピング 新観光講座 ガソリンスタンド編で見せていただいた給油所で、オホーツク海沿岸のどこかだろうと思っていたのだが、それは思っていたよりも南にあった。

根室は何度も訪れている気がするが、バイク・クルマでは2回しかない。2013年で3回目だ。根室の町に入りかけた頃、ちょうどガスが心許なくなった。給油のために入ったら、そこがこの給油所だった。まるで下灘駅だ。



津別から美幌に向かう途中の明るい道にある上美幌郵便局。入口が右側にあるのに、局名は左側に掲示されている。正面右4分の3は下見板張りになっていて、これは後年の改装だろうか。

麗しき郵政書体が健在だ。

建物側面は連続窓風になっている。屋根の上には煙突がひとつ。



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