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1991年秋から1995年春まで、ジェイ・ダイナー東海でアルバイトをしていた(以下JD)。私はJRの東京クルーセンター(以下TCC)というところに所属した。クルーセンターは大阪にもあり、0系・100系の車販と100系グリーン車のクルー(いまでいうアテンダント)専門の部署という位置づけだった。

JDは日本食堂の一部が独立したもので、当時既にJR東海の子会社になっていた。並行してSPS(新幹線パッセンジャーサービス)というJR東海の子会社もあり、JR東海は車販子会社をふたつ持っていたことになる。ただし、それぞれ分担が違っていて、SPSは基本的に100系G編成専門だった。

クルーセンターとは別に、JDには東京・大阪・広島・博多の営業所があり、0系・100系を担当していた。それぞれの営業所でいろいろと違いがあったが、それはいずれ。

(別の友人が写っているためおかしな加工になっていることはご容赦ください・笑)

1993年3月改正まではこのような制服だった。これに帽子が加わるが、このときは休憩中なので外している。今回は100系G編成について書く。

基本的にはTCCからアルバイト4人とグリーンの社員2人が乗り込む。カフェテリア内は営業所の社員が2名、合計8名だ。もちろんさまざまな都合で人数が揃わないこともあり、混雑する列車で欠員が出るとそれは大変だった。一方、ガラガラの列車に8人も乗るとヒマでしょうがない。当時はJR東海もおおらかで、運転士、車掌ともにいろいろ相手をしてくれた。

カフェテリアがあるG編成車販のベースはここ。自由席側を「A車」、指定席側を「B車」と呼んでいた。それぞれワゴン1名、「単品」つまりカゴでの販売1名が担当する。単品はワゴンの商品補充等の補佐もする。主観では、大変な順にA車ワゴン→A車単品→B車ワゴン→B車単品。なお、グリーン車はクルーが注文を取るのでワゴンは回らない。車販基地が8号車1階と11号車、グリーン車は8・9・10号車なので、通り抜けすることができないようになっている。

私がよく乗ったのは、1992年3月改正でできた253A→284Aという行路。そのA車ワゴンを好んだ。253Aは東京16時48分発。満員で少し立ち客がいるという最高の混み方。混みすぎると逆に売れないものだ。ワゴンは名古屋までの2時間で7号車から1号車まで1往復できるかできないか。そのくらい頻繁に呼び止められる。その間、売上げは5~6万、多いときには8万以上。大阪までで多いときには10万。もちろん主役はビールだ。2~3銘柄を混載するが、スーパードライと一番搾りが人気で、モルツと黒ラベルはイマイチだった。

対してB車の基地は11号車の業務用室。飲料はここで補充する。満席だとしても、B車はA車ほど売れない。団体が乗っていたらスカである。売れない車販ほど辛いことはない。ヒマだからといってボケッとしていていいわけではない。いや、本当にガラガラだったら社員も承知で「好きにしてていいよ」と言ってくれるが、混んでるのに売れないというのは辛い。とはいえ、グリーン車を挟んで監視の目も行き届かないB車を好むアルバイトも多かった。

総じて、自由席は並んで乗る都合上、なにも買わずに乗ってくる客が多いが、指定席は座席はあるのでホームで買い込んだ上で乗ってくる。そんなことが売れ行きの違いとして表れる。

* * *

新大阪に着いたら、そのまま新大阪駅の基地で休憩して折り返すか、営業所まで行って納金して休憩して折り返すかの2パターンある。後者には大阪1泊勤務もある。前者の方がアルバイトとしては効率がいいので、それを好んだ。1日2往復も可能で何度となくやったが、18時間労働、2000kmの乗務はかなりしんどかった。それは別の機会に述べる。

大阪の基地はもうどこにあったか思い出せないが、ブロック塀に囲まれた窓もない1室だった。そこに弁当があった。弁当も当たり外れがあり、ご飯と焼きそばのみの「やきそば弁当」は不評だった。そういうときは構内のうどん屋さんに食べに行った。その狭い基地でのアルバイト仲間との談笑は本当に楽しいものだった。

基本的に東京~新大阪、のちに~名古屋を含めて500往復してこのアルバイトを終えた。

<関連事項>
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編)
ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)
ジェイ・ダイナーの思い出(乗務行路1)
ジェイ・ダイナーの思い出(乗務行路2)


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まさか、こんな場所で出会うとは。江東ドボクマッピング 新観光講座 ガソリンスタンド編で見せていただいた給油所で、オホーツク海沿岸のどこかだろうと思っていたのだが、それは思っていたよりも南にあった。

根室は何度も訪れている気がするが、バイク・クルマでは2回しかない。2013年で3回目だ。根室の町に入りかけた頃、ちょうどガスが心許なくなった。給油のために入ったら、そこがこの給油所だった。まるで下灘駅だ。



津別から美幌に向かう途中の明るい道にある上美幌郵便局。入口が右側にあるのに、局名は左側に掲示されている。正面右4分の3は下見板張りになっていて、これは後年の改装だろうか。

麗しき郵政書体が健在だ。

建物側面は連続窓風になっている。屋根の上には煙突がひとつ。

厚岸でカキが食べたかったのだが、到着した時刻が早すぎ、かといって数時間待ってレストランに入るのもなんだし、という複雑な気持ちであきらめた。

捨てる神あれば拾う神あり。カキのために立ち寄った厚岸で、この美しい建物に出会った。広告で、モノトーンをバックに商品だけがカラーになるものがある。その逆とでも言うべき存在。

すでにこの場所では営業はしていないが、事務所としては現役。

こちら、ピットなど別の建物とつながっていたのだろうか。こうなってはいるが、真正面から見たときは、左にはRがあり右は直線的でも違和感がないのは素晴らしい。
日高本線の西様似駅と鵜苫駅の間にある岩を貫く塩釜トンネルの東側坑口。山側に旧道のトンネルがある。左にある裂け目も気になるが、無視する。

現在の塩釜トンネルは1968年12月竣工。坑門の形がユニークな五角形だ。笠石に相当する部分が屋根のような意匠となり、坑門は濃い黄色で塗られている。

旧隧道の坑門は石積み。しかし、アーチの要石付近をふくむ頂部はコンクリートで塗り固められており、なんとも痛ましい姿だ。帯石にあわせてコンクリートもふくらんでいるあたりが、痛ましさを強調する。坑口は、下半分をコンクリートの壁で塞がれ、上は網のようなものが張られている。

西側。

こちらの旧道は波板で完全に塞がれているが、出入りできる扉があり、しかも開いている。私は入っても覗いてもいない。


いままで襟裳岬は何度も回っているが、紹介した2例とは関係なく、2000年代に入ってから新しい道がどんどん開通している。旧道を改めて巡ってみたくなっている。







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