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国道229号は改良に次ぐ改良がなされた道路である。兜トンネル・茂岩トンネル(廃)こ北、ここ弁財澗も、かつては崖をへつった地形に沿った道、その次は岬部分をトンネルで貫き、そして今は写真のように大きな橋(弁財澗<べんざいま>大橋)で入江を一またぎしている。ここに廃道があるのは見えるので、立ち寄ってみた。
(施設名参考:『旧道探索』


このように廃隧道が見える。よく見ると、左側にも道跡が見える。

確かに、左にある。塞がれた廃隧道よりも、すでにそちらに気を取られた。この廃隧道、扁額が剥がされているが、名を弁財トンネルという。

弁財トンネルから左に入ると、強烈なコントラストの下、廃橋があった。銘板はないが、この橋は弁財ば橋という。その右側が異様な雰囲気を持っていた(参考:『愛郷かもえない』神恵内村発行/PDFはこちら)。そのまま進む。

すこし、せり出している。片洞門だ。

いや、「少し」ではない。ものすごく、貼り出している。そしてその先には、ごく短い隧道がある。

これをくぐったところで、なにもなかった。旧旧道は、現道を作る際に潰されていて、行き止まりというか、どこにも行きようがない。

振り返っての帰り道。廃橋から海を見下ろしたら、そこは見事な「澗」であった。かつてはここに船を着け、ここを生け簀のようにつかったのだろう。


旧旧道を出て旧道の弁財トンネル前に出ると、廃道は両端を少しずつ狭めて、夏らしい雰囲気をもってそこにたたずんでいた。




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旅行者がJR越後線に乗るとき、おそらく、海側に席を取るだろう。日本海が見えやしないかと思うからだ。しかし、越後線の海側の車窓は、ひたすら山である。逆に内陸側を見下ろす形になる。

新潟市街地は、海側のほうが「山」。これは発達した砂丘のせいだ。私なぞ、自宅から海へ行くときには坂を登っていったくらで、地元にとっては当たり前のこと過ぎてなにも感じなかったのだが、どうやら他の地域の方々には違うらしい。これを、カシミール3Dと5mメッシュ標高データを使って描いてみた。

 (画像をクリックするとFlickrの大きな画像に飛びます)

赤い線が越後線。右から、青山、小針、寺尾、新潟大学前、内野駅である。その北側の緑の部分が砂丘。色分けを解説すれば、白が標高8mで茶色はそれ以下。黄色く見えるのは標高10~12mくらい、黄緑が標高15mで、砂丘の中央の緑の濃い部分は標高20m以上になっている。越後線は、標高10~16mあたりを通っている。

車窓がどんな感じかというと…

内野駅付近の海側。

小針~寺尾間の内陸側。

海側の車窓では(新潟発の上りで)新潟大学前を出てすぐのところで畑が見える部分、ここがいちばん「砂丘」を感じると思う。内陸側は、わりとどこでも見下ろす感じになる。

youtubeに車窓動画があった。この19:40くらいからの山側が、最も砂丘を感じるところだと思う。

鯨波駅の跨線橋(新潟県)に関連して。

鯨波駅の1階にトイレがある。風よけの囲いもある、優しい造りだ。中に入ると…

なんだ、この床は…? と思うが、すぐにトイレが撤去された跡だと気づく。個室が二つ、男子小用が一つ撤去されている。それでも、男子小用の横に風よけというか目隠しというかが添加されているのは、やはり優しい。

男子小用。撤去されたのは一つだ。「使用後はハンドルを動かし水を流してください」というプレートが虚しく残っている。その右側はモップ洗い用の大型の流しがあったに違いない。

個室。二つ撤去したのかと思いきや、便所は右側のみで、左側は掃除用具入れだったようだ。床に排水溝を埋めた跡がなく、全面にタイルが貼られている。


中学生の頃、学校のトイレのいくつかに板が打ち付けられ、使用禁止の扱いになった。確か当時、「学校のトイレの数は生徒の数に応じて決められている」と聞いた気がする。この鯨波駅の減数処理も同じことだろう。便器が多ければ掃除の手間も増える。それでも、小用二つ+個室一つ残してくれているJR東日本はエライと思う。


JR信越本線の鯨波駅の跨線橋。写真のように、上下線で階段部が逆向きになっている。こういうものは、単線時代にタブレット交換をするために、上下列車の先頭同士が近くなるよう設けられる場合が多い。鯨波のがそれに該当するかは不明。

跨線橋の桁は、古レールを使用したワーレントラスだ。

側面、ここは橋門構にあたると考えていいのだろうか。脚は鋼管。

内部。木造の天井が目立つ。

桁裏。コルゲート板のようだ。

すぐ上の写真でも脚が見えているが、ひとつだけ、陽刻があった。ただし、読めない。左側は「明治四十年」だろうか。

上りホームの階段部分最下部には銘板が埋め込まれていた。

●左
施工 株式会社植木組
概要 跨線橋 階段部 鋼造一部木造
   (亜鉛メッキ仕上)
   福音3.0m 2箇所
しゅん功 昭和58年3月

●右
施工 株式会社植木組
概要 階段 鉄骨古レール造 巾員3.0m 2ヶ所
      (ペイント塗装4回塗り)
   基礎 鉄筋コンクリート造
      鉄筋コンクリート抗Φ=300mm ℓ=90m 8本
しゅん功 昭和44年7月


また、下りホームの脚の根元にも、銘板があった。

施工 (株)植木組
概要 階段 鉄骨古レール造 巾員3.0m・16.6m
      (ペイント塗装4回塗り)
   基礎 鉄筋コンクリート造
      鉄筋コンクリート抗Φ=300mm ℓ=9.0m 16本
しゅん功 昭和44年7月

これらの「しゅん功」は、更新年月と見ていいだろう。

駅舎。かつては茶色系統で塗装されていた。
美しいが、いささか厚化粧だ。


新潟の街歩き『砂丘をキワめる坂道めぐり』&『砂丘を登ろう!日和山登山』で、みなとピアに行ったとき、新潟の西の郊外にある新川と西川の立体交差の展示があった。同時にこの水路橋のお話もうかがったので、午後から見に行った。場所はJR越後線から徒歩5分くらいの場所。写真は東側で。上流(橋の左)に見えるのは西大通り。

新川の下流から見ると、この水路橋は2連のトラスである。その右に水門が見える。

こう見ると新川がメインで西川が運河のように見えるが、逆である。もともとは西川は舟運等に使われていた自然の河川で、天井川であった。いまの新川周辺、わかりやすくいえば新潟から上越新幹線と越後線と弥彦線に挟まれたエリア、ここは氾濫原であり、潟湖が多数あった。幅の広い新川は、そこから排水し、水田化するために掘られた運河である。

その経緯はこちらをご覧いただきたい。
新潟県ホーム>農林水産業>【巻農村】水を利用し、水から守る
新潟県ホーム>農林水産業>新川漁港(第1種 新潟市管理)


水門を下流から。見えている水は新川のもの。水門の向こうに、右から左へと西川は流れている。この水門、おそらく西川の流量が増えたときに開放し、新川に落とすのだと思う。

西(左岸)から。両脇に通路がある。閉鎖されていると聞いていたが、行ってみたら開放されていたので渡ってみた。

東(右岸)には、ていねいな解説板が設置されている。見えづらいが、きちんとワーレントラスを組み、床版にあたる部分がプレートガーダーになっている。水路部分の部材の継ぎ目は、スポンジ状のものがパッキンのように挟まっていて、水は漏れない。

銘板は、ふたつのトラスともに外側についている。
  • 昭和29年(1954)
  • 農林省建造
  • 西川水路橋
  • 桁製作株式会社播磨造船所
  • 下部工事鹿島建設株式会社
下弦と床版たる部分のガーダー。ガーダーのリブは下部まで回り込んでいる。この橋は、残念ながら、スペースの都合場、裏側から撮影することができない。


さて、新川の工事のときのこと。
現地看板の一部だが、右側のように、足踏み水車で水を汲み上げていた。今回、偶然にも左岸で「新川まるごと博物館」と題して足踏み水車の体験等をしていた。

もちろん乗ってみたのだが、あまりに軽く回る。軽く踏み込みだけで、大量の水…洗面器数杯分くらいの水が組み上げられる。解説図のように、ルームランナーのごとく足踏みすることなどできない。

水路橋は1955年の共用開始だが、それ以前は煉瓦製の9連の「暗閘」を有していた(サイト「水土の礎」に当時の写真がある)。この「暗閘」なる言葉はどうやらここだけで使われているようだ。その暗閘の扁額も展示されていた。とはいえ「暗」だけが実物、他の三つはレプリカである。この「暗」、近隣の家で踏み石のように使われていたとのこと。

暗門の九つのアーチそれぞれに掲げられた扁額。「第九号」とある。これも似たような使われ方をされていたそうだ。「第一号」も展示されていた。











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