長崎の出島にかかる橋。ピントラスである。出島は周囲を埋め立てられてあたかも陸続きのようになっているが、この橋は、本来の出島の東北端にかかっている。 元々は中島川の河口に架かっていた「新川口橋」であり、現在の地に架かっていた旧出島橋を架け替えるために移設したもの。桁製作は1890年、移設は1910年である。歴史的鋼橋集覧にも製作会社は書いていないが、時期的には国産ではなく、海外製であろう。…と思って現地の説明板を見たらアメリカ製とのこと。部材には陽刻があるが、読み取れない。一般供用されている道路橋としては日本最古とのことだ。 東南側、出島通りにある制限1トンの標識と出島橋。だが、たとえばハイエース等でさえ自重は1トンを超し、荷物を積めば2トンを超す。知らず知らずに通ってしまうクルマも相当多かろうと思う。厳しく制限するのであれば、それなりの対策…つまり歩道化するなどしなくてはならないのかもしれない。もっとも、個人的には本来の用途である車道としていつまでも現役であってほしい。 南側。橋門構上には扁額がある。 出嶋橋、とある。これは北側にもある。 圧縮力のかかる垂直材はアングルを組んだ角柱、引張力のかかる斜材は帯材。端部の垂直材と中央の2パネルの逆向きの斜材はターンバックル付きの鉄棒。 下弦とピン結合している部分。上は、斜材と垂直材。下は、端部の垂直材。 北側。 平行してプレートガーダーの水管橋がある。これを見ると、水管それ自身を部材として使う三弦橋の水管橋の合理性というか美しさを再認識させられる。 PR 橋脚が太い割にはプレートガーダーの横桁は貧弱。もしかすると、ジブローダーは意外に軽いのかもしれない。 ジブローダーのスペックがほしい。 信越本線大久保隧道(新潟県柏崎市)のすぐ東側に、アンダーパスがある。かつて近くに親戚宅があり、子供の頃、このトンネルはクルマでよく通っていた。いとこたちと「アートンネル」と呼んでいた。トンネルに入ると「アー」と叫ぶという、子供じみた、楽しいルールがあった。 子供心に、両側の入口の形が異なるのが不思議だった。海側はボックスカルバート、山側は半円のコルゲートである。改めて現地を歩くと、やっぱりおかしな構造だった。 海側から突っ込んだ図。ほぼ水平に信越本線の下をくぐり、ガードのようなものがあり、そこから急坂を登る。急坂の上には半円のコルゲート。 カルバートには銘板がある。
まず「ガードのようなもの」。この上に線路が敷かれているかと思いきや、下の写真のようにかなりの角度がついている。こんなカントがあったら恐ろしい。複線の線路はカルバートの上に敷かれており、この「ガードのようなもの」は蓋をしてあるだけのように見える。 山側から見る。かなりの急坂だ。もちろん1車線分しかない。「ガードのようなもの」の蓋感もよくわかる。 さて、下の写真を見ると、コルゲートの横に古レールの柵があり、その前に道路がある。少し引いて見る。 これは、アンダーパス化する前は踏切だった「旧道」なのではないだろうか。とはいえ、古い空中写真を見ても明瞭には見えない。周囲に人もいなかったので尋ねることもできなかったが、間違いないだろう。 写真右側、カーブミラーの左に石碑が写っている。 與助道路(与助道路)。石碑の裏には「寄贈者 五十嵐與助氏/工事完了 昭和十七年六月/柏崎市」とだけあって、謂われは書いていなかった。先の柏崎市のサイトを見ても、昭和17年6月5日に与助道路完工式が行われたことを知るのみであるが、検索して驚いた。五十嵐冷蔵の創始者だったのだ。 五十嵐冷蔵といえば、雪をかぶった「50」という数字を描いたトラックで有名である。有名だよな。少なくとも私の友人たちは知っているくらいには有名だ。この近くには国立療養所があり、それができたときに(当時は陸軍療養所)迂回するための長さ4km、道幅4mの道を、五十嵐与助が私財を投じて作った道がこれだというのだ。 要するに、地元では、市史の年表や石碑の裏に「五十嵐与助は云々」と書く必要がないほどに有名な人だということかもしれない。五十嵐与助については五十嵐冷蔵のサイトに詳しい。惚れた。 ●参考 柏崎原子力広報センター(PDF) 道路イベントがあるなら、ぜひそこで発表したいくらいの話だ。 この與助道路、国道8号までぜひ歩いて欲しい。タイムスリップしたかのような茅葺き屋根の家、沼地、廃墟と化したグリーンピアなど、柏崎の市街地からそう離れていないのに、驚くべき景色が展開する。ぜひ。 ・あわせてどうぞ 番神架道橋・番神トンネル 橋なのかトンネルなのか 上の写真はジブローダー。ベルトコンベアでこの場所(貯炭場)に集められた石炭を積み出すのに使う。写真左の下部から石炭を取り込み、写真右のブームから積み出す。 ここからほど近い道路の防波堤が台風で破壊されていた。 のぞき込んだら…。 ジブローダーの位置と合わせて考えても、ここにレールがあるのがちょっと理解できない。石炭の積み出しに使われていたのであれば、貯炭場からここまで半地下の軌道があるものと思うが、1975年撮影の航空写真を見ても、よくわからない。 乞ご教示。 おまけ。 池島往復の切符。 |
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