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長崎市の南の町外れに小菅修船場跡がある。そのすぐ南に、かつて遊郭街だったという一角を、オープロジェクトの黒沢さんに案内していただいた。

遊郭には床屋がつきもの。その中でもこの一件だけ、古い建物のまま残っている。すでに営業はしていないものの、以前は「くるくる」だけは動いていたそう。正面には「九一調髪館」。理容室ではない、「調髪館」である。腰板はタイル張り、窓は縦長の木桟に青灰の塗り。2階は以前はもう少しくすんでいたようだが…。

向かいの家から、おばあさんがずっとこの建物を見ていた。声をかけて、この建物についていろいろとうかがった。「どうぞどうぞ、撮っていってください。撮っていく人、多いんですよ。以前はここも、その向こうも、うちの地所でした…」。戦時中、そしてその後のお話もうかがった。お話の内容からして、少なくとも80代後半、おそらく90を超えた方だ。「壁も、前にきれいに塗り替えたんですよ」。

その並びに遊郭跡の家、駐車場を挟んでもう1件、遊郭跡の家がある。まるで、非常に横長だった建物から駐車場部分だけをすっぱりカットしたかに見えるが、元々別の建物だったそう。こういうことは、見た目からの推測だけではわからない。

「戦争までは、その造船所のところまでしか道がなくて。三菱のバスが国道のトンネルのところまで来ていて、そこが終点だった」。トンネルとは、国道499号の戸町トンネルである。このトンネル、戦時中には半分仕切って軍需工場となっていた旨が「アトリエ隼」さんのブログにあった。

戦時中、軍需工場として使われた戸町トンネルと日見トンネル

戦時のこととて、さまざまな理不尽も経験されたようだ。おそらく、私などとは住む世界が違う「お嬢様」だったおばあさん。もっといろいろ話を聞きたかったが、立ち話が長くなるのも申し訳なく、お暇した。






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クルマで走っていて目にとまった橋だ。一瞬、ボーストリングトラスかと思い、次に人道橋かと思ったが、車道だった。いまは益田市になった、旧匹見町小広瀬にある橋。親柱も見える。

国道488号側。床版が反っている。親柱、左は「匹見川」、右は「小広瀬橋」。この橋を渡った向こう(南)には、小広瀬という集落があるようだ。広域地名は広瀬である。

重量制限の標識はなかったと思うが、1.5車線もない。制限は2tくらいだろうか。

トラスは上の写真でわかるとおり、H形鋼を曲げている。格点は溶接、一部がボルト留め。鉄工所でだいたいをくみ上げ、現地で接合する部分がボルト留めなのだろう。

対岸。左の親柱は「昭和四十八年三月竣工」、右は「こひろせはし」。こちら側のほうがいささか苔むしているのは、国道側の親柱の位置が乾いた場所であるのに対し、こちらは湿っている(気がする)場所だからか。

見ての通り、中路桁だ。横桁が格点よりも幾分上にある。

桁裏を見るとよくわかる。見慣れたトラス橋と違って、床版がずいぶんと上にある。橋脚が細い(ように見える)のもよくわかる。

あまり類似の形状を見ない気がする。小規模の橋はおもしろい。





長崎に取材に行ってきた。

長崎県に足を踏み入れたことは2回あるが、今回、初めて長崎市街を見た。そして、すごくいい街だと思った。ゆっくり歩きたいと思った。

一度目はバイクのツーリングで確か1996年のGW、二度目は2003年にオフロードバイクのレース『長崎サファリ240』の取材でだ。後者は長崎空港から鹿町のあたりを往復しただけだが、前者はざっくり長崎を走った。ただし、印象はよくなかった。

ツーリングの記録として走った道をマーカーで塗っていたので、2001年のツーリングマップルにもそれが転載されている。まだ「平成の大合併」前で、長崎市の南には高島町、伊王島町、香焼町、野母崎町がある。もはや記憶もないが「そのとき、野母崎の先っぽまで行ったのかなあ」などと思って地図を見たら、ちゃんと行っていた。ただし、軍艦島の存在など知らなかったかもしれない、まったく見た覚えがない。

で、なぜ印象が悪いかというと、バイクツーリングに適したキャンプ場が見つけられなかったからだ。しょうがないので長崎駅前で「駅ネ」しようと思ったら、とても居心地がわるかった(でも寝た)。そして駅前で、行きかう人や警官にちゃんぽんのおいしい店を聞いても誰も教えてくれなかった。もちろん道路も混んでいた。そんなことが重なっての印象だ。

それから17年くらい経った。いまの目で見ると、長崎はすごい。街に活気がある。地形の関係で新興住宅地が「郊外」に延びないからだろうか、市街の中心部に人が多い。ここは東京かと思うくらい。新潟の中心部など恐ろしいことになってしまった。土地が狭いというのは、こういう場合にはいい方向に働くのか。いや、いろいろ地元としては問題も多いのだろうけれど。

そして上の写真のような道。歩いてみたい道がたくさんある。実際には路面電車のせいで「あるべき場所」に横断歩道がなくて「コの字形」に歩かねばならなかったりして非常に歩きづらいところもあるが、そんなことを気にしなくていいくらいの時間配分で歩けばいいのだ。この街は、くまなく歩いてみたいと思った。


先の地図を見ると、福岡の北側から唐津、伊万里、田平と出て平戸を一周し、九州本土に戻って佐世保、西彼、長崎で1泊、そこから東へ、千々石、口之津へと走って天草に渡っていた。なにも覚えていない。たぶん写真もない。

そういうことを地図をみて思い出すと、いまは写真を撮ってアップするから、以前よりきちんと「見る」「覚える」のだろうな、と感じる。そこに足を記すことが第一の目的だった当事から、幾分かは人間らしくなってきたようだ。

津和野町日原から北西、県道312号を国道488号に向けて走っていたら、突然、ボーストリングトラスが現れた。驚いた。これは津和野側(西)から益田側(東)を見ている。




これは逆、益田側(東)から津和野(西)。

いや、ボーストリングトラスではなく曲弦ワーレンかもしれない。曲弦ワーレンとされる松室大橋(日本橋梁製/1920)と見比べると、そっくりだ。

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↑これは松室大橋。
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益田側は県道312号と、旧国道488号の合流点。左下、\方向の道路が旧国道。いまは新道ができている。




…と思ってカシミール3Dで地図を見たら…。
2万5000分の1。黄色矢印がこの須川橋の場所。すぐ近くの地名は「須川(すごう)谷」なのでこの橋も須川(すごう)橋かと思いきや、「須川(すがわ)橋」だ(後述)。

地図が古い。行政地名はまだ「日原町」だ。こちらはまだ新道が記載されていない。赤い線はGPSログ、地図ほぼ中央、山の尾根で途切れているのが現在の新道のルートだ。調べると、この部分の数値地図は平成14年刊行のものが最新だ。(こちら

5万分の1に至っては、国道がない! 数値地図の仕様を見ると平成14年に要部修正となっているのだが、国道488号は1993年の指定なのだ。紙地図におけるその前の修正は平成3年(1991年)、それがそのまま数値地図化されているのだろうか。

閑話休題、須川橋。
益田側(西)。親柱はなく、向かって左に「匹見川」、右に「昭和45年3月竣工」。

右の端柱には銘板。
昭和31年(1956)
島根県改造
施行
高田機工株式会社

…「改造」? どこから持ってきたのだろうか。「改造」であるならば、1920年製の松室大橋と同じ桁をどこかから持ってきたという可能性も十分ある。

津和野側(西)から益田側(東)。

津和野側。向かって左は「すがわばし」、右は「須川橋」。「すごう」じゃないのか。



ボーストリングでも曲弦ワーレンでもどちらでもいい。知らなかった橋に突然出会えたことが嬉しい。


ラティスガーダーを見に行ったのだが、なかなか難しいシチュエーションにあるものばかりだ。近づきがたい。これは桁の東側。側面右側(益田側)には選奨土木遺産のプレートがある。


なんとか草や枝を書き分けて近くへ。L字型のアングルを両面に貼り合わせている。これだけのリベットを打つのもさぞ大変だっただろう。大きなプレートを回してもらえないからといって、これだけのことをやってしまう人海戦術っぷりに驚異を覚える。

西側には塗装銘板がある。2001年の塗装にしては完全な手書き文字。しかも薄い金属板に書き、それを針金で留めている。これは珍しいと思ったが、プレートガーダーならば桁に直接書き込めるわけで、これはこれでラティスガーダーの特徴になるのだと思った。


歴史的鋼橋集覧はこちら





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