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福岡県の、かつて矢部村だった地域。東は大分県に接するところ。国鉄矢部線が目指すも到達しなかった村。そこに、古いイギリス製のトラス橋がある。

 
ポニープラットトラス。パテントシャフト&アクスルトゥリー製だ。

 
いかにもイギリスらしい太さだが、鉄道橋より幅が詰められているように見える。『歴史的鋼橋集覧』にも幅の記載はない。英国系100フィートポニートラスは多くの鉄道橋があり、現存するものもそこそこあるが、ほとんどはポニーワーレンで、プラットトラスは少ない。

明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第2報)英国系トラスその2』によれば、パテントシャフト&アクスルトゥリー製のポニープラットトラスは、120フィートのものが関西鉄道により①木曽川と②揖斐川に1連ずつ架けられたようだ(「それ以外がない」ということにはならない)。

また、『歴史的鋼橋集覧』の石手川橋梁(愛媛県)は1893年の開通時からそこにあるので違うが、「③筑豊興業鉄道遠賀川橋梁初代と同形」と記載されており、ということは、①②③のどれかを改造して転用した可能性がある。地理的にいえば③と短絡したいところ。『歴史的鋼橋集覧』には「日向神ダム建設の際水没する橋を惜しんで現在地に改造移設した」との伝聞が書かれているので、二度目の転用ということになる(さらに転用されていた可能性もある)。

 
右岸側は右側だけ親柱がある。文字は読めないが「36」のように見える。

 
対岸から。「止まれ」の向こうは国道442号。

 
国道から集落に入る橋として架かったようだが、いまは上流側、下流側ともにもう少し幅の広い橋が架かっており、渡った側(写真手前)は無住の家屋ばかりに見えた。少し行くと市営住宅だろうか、きれいな建物がいくつもある。

 
 
左岸左の親柱に「石岡橋」。右は削られたか、なにもないように見える。


幅だけでなく、桁高さも長さもいじっているようだ。6パネルになっているが、もし元が100フィートまたは120フィートだとすると、元は8パネルだろう。

 
 
斜材の角度が、端柱は45度だが、それ以外はもう少し緩い。これも、高さを詰めたのではないかという推測の元だ。

類似の橋梁については、
英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考の整理ページ
をご覧いただきたい。











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西小倉駅の跨線橋は、特殊な構造をしている。3本のホームに2本の異なる桁を通しで架けていて、通路部分は一体化しているのだ。しかも、博多側の桁が、ク5000の台枠だと言われている。写真は鹿児島本線の5番線から、同3・4番線と日豊本線の1・2番線側を見たもの。

 

2・3番線を跨ぐ桁。写真上が、台枠と思われる桁。連結器の緩衝器を納めていた窪み、台車中心ピンがあったと思われる枕梁、タイヤ用の溝などが見える。

 
こちらは4・5番線を跨ぐ桁。こちらは枕梁がない。台枠だとして、ク5000の車体長は20.5m。しかし、複線幅しかないので、せいぜい10mというところ。切り詰めたのだろうか。切り詰めたとしたら、それぞれの写真でボルト留めしてあるところが2ヶ所あるので、そこで詰めたのだろうか。どちらの桁も、ボルト留めしてある部分でタイヤ用の溝が途切れいてる。

 
小倉駅側から博多駅側を見る。

 
通路部分。写真に見えている通路が、台枠の上だ。左の通路との間の支柱はそれぞれの桁で設置されていて、こちら側の太いものの形(幅)を見ると、ク5000の側板にも見える。しかし、ク5000の側板高さはせいぜい1.6~1.7m程度であり、通路の天井高さは2.3m程度はある。側板そのままではなさそうだ。

西小倉駅は、開業時から日豊本線のホームしかなかったが、1987年10月に鹿児島本線にホームが設置され、その際に跨線橋も設置された。最初から跨線橋はこの形だったのか、それとも最初はどちからの1本で、あとから添接されたのか。空中写真などではわからなかった。

***

twitterにアップしたところ、貝島コロ助さんより、下記の貴重な情報をいただいた。ありがとうございます。



●上樋脇駅跡

廃止になった宮之城線上樋脇駅跡。ホームが残っている。線路跡はコンクリート舗装され、道路になっている。が、周辺の住宅のためにそのようにしてあるだけで、通り抜けることはできない。線路はこの先、樋脇川を渡っていて、そこ部分の橋梁は撤去されている。

 
ホームは、駅前だった住宅へのアクセスのためか、2ヶ所で欠き取られている。


 
市道?との交点には「上樋脇駅開設記念碑」がある。

●樋脇駅跡
 
 
そこから2kmほど西にある樋脇駅跡。「鉄道記念館」となっているが、特別な展示物があるわけではない。蒸気機関車の動輪がある、現地では大きく見えなかったのだけれど、C57のものらしい。宮之城線は簡易線でC57は入っていなかったと思うが。

 
廃止当時のものではないと思うが、駅によくあるタイプのベンチ。

 
1971年には荷物扱い廃止、無人化のようだが、窓口はサッシ化されている。後年の改造だろうか。

 
窓もサッシ化されているので、無人化以降もなにかしらの事務所として使われ、全体的に手を入れたのだろう。

 
 
ホーム側。線路が敷かれているが、嵩上げされている。大歯車のついた、電車の輪軸が置かれている。

 
写真左は「駅裏」だったところ。そこにバイパスができている。駅舎はバイパスに背を向けた形になる。





 
(Kashmir3D+スーパー地形セット+地理院地図)

農協の給油所跡を見つけたのは、もともとは「四国最東端」蒲生田岬に行く道中だった。蒲生田と、その北側の椿泊には「○○半島」のような名称はないようなので、便宜的に「蒲生田」「椿泊」と書く。

 
(Kashmir3D+地理院地図)
位置関係はこうだ。

蒲生田は、冒頭の地図を見ればわかるとおり、岬の先端に溜池があり、その先に水田と住宅がある。この水田をすべて潤すのが、この溜池だと思うと、水資源の必要量というか、それを確保する努力というか、いろいろなことに思いが至る。

 
田から「上流」を見る。道を左に曲がると上り坂で、その左に溜池が見える。

 
 
 
蒲生田岬の灯台。








●スクールゾーンの標識

 
島根県の雲南吉田IC近くで見たもの。スクールゾーンは警戒標識とも違う、正式な標識ではないと思われるので、ローカル標識になるのだろうか。

 
裏側。腕木も溶接されている。丁寧。


●周布川ダム
 
幅広い自由越流式の堤頂を持つ、ゲートレスのダム。越流しているのを見たいけれど、それは非常時なので、見ることができないほうがいいやつですね。

●切り出された木
 
 
奥出雲町の東部。このあたりでは木材搬出のトラックもよく見た。

●道路を跨ぐアーチ(概念)
 
浜田市に合併された旧旭町の町章が残る「交通安全」のアーチ(概念)。道路上にあるけれど、やはり占用許可を出しているのだろうか。

●手作業によるドボク的景観
 
 
袋状の谷に作られた棚田。近代以前に手作業でこの形が作られたのだろう。そのスケールに圧倒される。

●平衡感覚が問われる小屋
 
柵に囲われた棚田の集落にある小屋。上り坂にあるのに窓は下り坂。屋根は谷側に下っている。左の小屋もまたすごい。すべてセルフビルドのようだ。

●国道491号 貴飯峠(きばだお)
 
酷道の峠。










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