1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(2)の続き。
大晦日は竹富島と黒島に、バイクを持ち込まずに行った。竹富島では原付を、黒島では自転車を借りた。 石垣に戻り、市場でグルクンやシャコガイの刺身などを2000円分も買った。そして、夜。 刺身はとても食べきれない量だったので、翌日、寄ってきた猫にあげた。
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翌2日は、闘牛を見て過ごした。1時間近く、角を突き合わせたまま動かないこともあり、いささか退屈なときもあったが、全部見た。 バイクはその日の朝、大半の荷物はくくりつけたまま、有村のターミナルに預けた。自分のために買い込んだ大量の缶詰…TULIPのポーク340g缶1ケース、ルートビア1ケース、キャンベルスープ1ケースなどは、小包で1月7日(日)着指定で送った。 飛行機には、デイパックとタンクバッグだけで乗り込んだ。まさかこんなことになると思っていなかったので、靴も持っていないから、オフロードバイクのブーツだ。上着はバイク用の、肩パッドの入ったゴアのジャケットだ。頭は…三が日は銭湯が休業だったので、4泊、風呂に入っていないことをなんとかバンダナで隠している。荷物にくくりつけてあるのはトレーナーだ。 12時45分、石垣発。那覇で乗り継ぎ、17時5分、羽田着。行きは77時間かかったが、帰りは4時間20分。なんというあっけなさだ。東京の家に戻ったら、留守電に、現地でずっといっしょに過ごした3人から「おかえりなさーい」と入っていた。約2週間、バイクの走行距離はわずか300kmだった。後日、3人から受け取った手紙には、私を空港に送った後、約束通り大城さんは船に乗せてくれたという。その写真も送ってくれた。 翌週、1月8日(月)午前中は半休を取り、有明でバイクを受け取ってそのまま鮫洲の運転免許試験場に向かった。そこで受けた限定解除の試験で合格した。
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こうした旅が、17年前にはあった。大城さんが飛び入りしてくれた大晦日があった。ただ、懐かしい。 PR
1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(1)の続き。
船内で知り合ったZZ-R1100氏、チャリダーA氏、チャリダーB氏と4人で、サザンゲートブリッジの下にテントを張る。また、年末年始のためか、波照間、与那国行きの運航日が時刻表と異なり、頭を悩ませた。西表島には行けなそうだ。「年末年始だから」ということが念頭にないあたり、自分のダメさ加減がわかる。 以後の行動はこう。 12/27(水) 12/28(木) 石垣→波照間→与那国(バイクと。フェリー) 12/29(金) 石垣→与那国(バイクと。フェリー) 12/30(土) 与那国→石垣(バイクと。フェリー) 12/31(日) 石垣→竹富島→黒島→石垣(人間だけ。高速船) 1/1(月) 無 1/2(火) 闘牛見る 1/3(水) 雨 1/4(木) バイクを無人航送に託し、ZZ-R氏のバイクで石垣空港まで送ってもらい、飛行機で帰京。
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この時期は3日ごとに1往復なので、島に2泊するといろいろおしてしまうということで、日帰りで往復した。2時間ばかりの滞在。当時の『ツーリングマップ九州』には波照間の地図は(たしか)なくて、会社にあったB4判の『マップル』をコピーして持っていった。2万5000図を…などとは思いつかなかったのが不思議。 まだまだ沖縄ブームではない頃。年末のこの場所には誰もいなかった。 次に、与那国。フェリーよなぐにの写真はない。 事前にZZ-R氏から「比川浜というところがテント張れるよ」「ユキさんち、というカレー屋がうまいよ」と聞いていたので、そこに向かってテントを張る。ここに長期間滞在している人もいる。サトウキビのアルバイトをする「ワタリ」だ。
実家は「小学校前の文房具店兼駄菓子屋」だった。いまと違って子供たちもたくさんいた。10円を握りしめて何を買おうか10分も20分も迷っていく子供たちがたくさんいた。店番は母か祖母の仕事だったが、手を離せないときには私が出ていた。1980年頃、私が小学校中学年の頃の話だ。
大晦日も店を開けていた。午後を回ると、子供たちが来るようになる。掃除に飽きたか、邪魔になったか。けっこう駄菓子が売れる。それも夕方くらいまでで、午後7時くらいになると、もう誰も来なくなって2時間、という感じになるので「そろそろ閉めるか」といって店を閉めていた。 元日。 店は休みなのだけれど、午前中から玄関の呼び鈴が鳴る。子供たちだ。「今日は休みですか」。店が閉まってるんだから休みなんだよ!と言いたいところだけれど、鍵を開け、入れてあげる。お年玉をもらったからだろう、子供たちはちょっと贅沢に買い物をしていく。いつもは買えない、ポテトチップスなどの100円(当時)のお菓子を買ったりして。あとはおもちゃ。50円の飛行機や文房具。思えばその頃、駄菓子やおもちゃは100円以下のものがほとんどだった。300円のガンダムのプラモデルなどは、なかなか売れなかった。でも、毎日何十人もの子供たちが店に来て、10円、20円を相手に商売をして、もちろん大人もそれなりにものを買いに来ていた。商店街でもない、街の中にぽつりとある店が(副業としては)やっていける時代だった。 2013年になった。 このいまの状況を、30年後、「あのころはこうだった」と懐かしむ時が必ずくる。逆に、30年後がどうなっているかはちょっと想像ができないけれど、よい1年1年が重なればいいと思う。あらゆる人々の健康を願いつつ。
2013年1月1日
磯部祥行 著者は鉄道誌でもおなじみの、名古屋機関区OB。昭和4年生まれ、戦時下に国鉄に入り、促成栽培で機関助士に登用され、終戦を迎えるまでの体験を記した本だ。「戦火をくぐり抜けた汽車と少年」のサブタイトルどおり、著者の、14歳から17歳までの記録である。現在御年83歳、よくこれだけの記憶が…と驚く。 総じて、戦中の話である。本書の終盤では、同僚が空襲で殺されても、駅が炎上していても、命じられている仕事を黙々とこなしている川端氏と鉄道員たちが描かれている。宮脇俊三の『時刻表昭和史』に、玉音放送のあとも列車はいつも通り動いていたという記述があり、東京大空襲や広島の原爆投下の直後でも、市電は復旧してできるところから動き始めたというような記録があるが、おそらく、当時の「働くこと」の感覚というのはそういうものなのだろう。自分に与えられた仕事、しなければならない仕事のを、個人的な事情よりも優先する。それが当たり前の時代だったのだろう。失礼な憶測になるかもしれないが、個人が、与えられた労働を捨てて自分や家族を守りに走ってもほとんど意味をなさない時代、そして社会だったのかもしれない。『関東大震災と鉄道』(内田宗治著/新潮社)に描かれた鉄道員の姿とも重なる。 もしいま同様の状況になったとしても、現代人の常識では、仕事よりも自分や家族を優先するだろう。逃げる必要があるときは逃げるし、その仕事が危険だったとしても逃げる。それが許される時代、それを許す社会になった。 ただし、ひとつだけ苦言を。本書では、昭和20年8月15日に放心状態のようになった日本でも鉄道だけは動いていた、というような描写がなされるとともに、夜からは沿線の家々に明かりが灯っていた、ということも書かれている。その灯りは、誰が作りだしているのか? 鉄道がいつもどおりであることが世の中に安心感を与えたと書くならば、電力もまたそうではないか。電力は物体として目に見えないので、鉄道ほど身近ではないかもしれないが、戦時下に電力を確保することは鉄道業界と同じくらいに大変なことだったろう。そうしたことも配慮してあれば、なおよかった。 大木茂氏の写真展『汽罐車』でも、トークショーをご一緒されている。そのとき、川端氏は「機関士仲間と会っても、電気機関車に乗務するようになってからの話はいっさい出ない、蒸機の話ばかり」とおっしゃっていたが(本書のあとがきにもある)、戦後のこと、転換教育のこと、電機のこと、蒸機に戻ったこと、ご本人にとっては思い入れのないことでも、読者が渇望しているエピソードはたくさんあると思う。読者としては、ぜひ本書の続編をいくつも望みたい。 ●追記 本書に『鉄道精神の歌』というものが出てくる。youtubeにあった。 山田耕筰作曲。「国鉄国鉄国鉄国鉄…」すごい。原曲の著作権は切れている。
友人に誘われて、『LIVE IN TOKYO CROSSOVER NIGHT』に行った。計六つのバンドがぶっつづけで約6時間、演奏する。フェスのようなイメージだが、会場はホールなので、途中で抜けて屋台で飲み食い…というようなスタイルではい。
六つのバンド…とはいえ、すごくスタイルが違う。とりわけ対照的なのが、高中正義や鈴木茂の「一人のミュージシャン+バックバンド」スタイルと、ナニワエキスプレスの「完全なバンド」スタイル。渡辺香津美は異種格闘技といったところか。そのなかで、ナニワが本当にすごかった。かっこいい「バンド」だった。 「今回は、久々に5人で演奏できる!青柳誠が帰ってきた!」という清水興の言葉。ギターの岩見とキーボードの中村のかけあい。ベースの清水と岩見のかけあい。「ひさびさに一緒に演奏できる!」キーボード&サックスの青柳と岩見のかけあい。ステージ上を動き回るフロント陣、全員で飛び跳ねながら引き、ピンチヒッタードラマーの平陸まで立って叩く始末。曲間には、清水のよどみないMC。完璧なショーだった。 MC の清水興によれば、26日のリハが終わり、ホルモンを大量に食べたところ、28日の朝になって東原力哉から「痛風が出た、ダメだ」と連絡が来た。過去に足に痛風が出ても注射を打って平気な顔してライブに出ていた力哉。片手でもライ ブ出演を欠いたことがない力哉。彼がダメだというのだから、相当なものだと思い、急遽、平に打診したという。以前から曲も知っていたのだろうが、それにしても。通常の曲も完璧だが、ラスト、ナニワ80年代の曲のメドレーも完璧。 清水のMCと合わせ、今回のライブをもっとも真剣に考えていたのは、ナニワの5人なんじゃないか。高校生の平含めて。お客さんに楽しんでもらう、演奏を聴いてもらうということ。他の出演者は「会場が提供されるから出る」くらいにしか感じなかった。勝手な憶測だけれども。それくらい、ナニワの気持ちが伝わってきた。感動した。2003年、初回のCROSSOVER JAPANでも、幕間の不手際を清水たちが自らフォローし、セッションを始めたそうだ。そうした優しさを強く感じたナニワのステージだった。 曲は、 ・(未詳) ・BETWEEN THE SLY AND THE GROUND ・SPOT ・9TH MOUNTAIN HIGH ・メドレー(RED ZONE、JASMIN、BELIEVEIN'ほか<順不同>) だったか。こういうの覚えるの苦手なので。
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高中、鈴木は「オレのギターを聴け」というスタイル(別に悪いという意味ではない)。鈴木はMCもないに等しいし、演奏が終わるごとに必ず「どぉーもー」と一言だけ言って、そこは素人かよというレベル。パラシュートはセッション的な印象でバンドらしいまとまりは感じられず、バンドと言うよりも「井上鑑+バックバンド」だった。香津美は香津美らしく、バンドとしてのまとまりとか求めてないのでこれはこれでよし。すごい。オラシオ・エルネグロ・エルナンデスのものすごいドラミングも聴けたし。カシオペアはさすがだけれど、基本はナルチョによるフィーチャリング・野呂一生。今回のイベントは、ナニワがいなかったら単なる寄せ集めフェスにしかならなかったんじゃないだろうか。 個人的には、ナニワに感動した。2月のライブも行こうか。香津美もすごかった。香津美はCDより生に限る。 書きたいことは山とあるけれど、きりがないしとりとめもないのでここまで。 あ、高中バンドの、高中のボーヤ。ボーヤなんだから、バックで首を振り振りしないで。高中にスポットが当たると、その後ろで低い位置に生首が動いているように見える。ボーヤは隠れていてください。
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