忍者ブログ
[294] [295] [296] [297] [298] [299] [300] [301] [302] [303] [304]
20121229a_000.JPG沢柳健一氏の『思い出の省線電車』と同じ系譜の、著者の体験記。「交通新聞社新書」にはいろいろな思いはあるが、こうした貴重な証言を商業出版物として刊行するのはとても有意義なことだと思う。応援したい。

著者は鉄道誌でもおなじみの、名古屋機関区OB。昭和4年生まれ、戦時下に国鉄に入り、促成栽培で機関助士に登用され、終戦を迎えるまでの体験を記した本だ。「戦火をくぐり抜けた汽車と少年」のサブタイトルどおり、著者の、14歳から17歳までの記録である。現在御年83歳、よくこれだけの記憶が…と驚く。


総じて、戦中の話である。本書の終盤では、同僚が空襲で殺されても、駅が炎上していても、命じられている仕事を黙々とこなしている川端氏と鉄道員たちが描かれている。宮脇俊三の『時刻表昭和史』に、玉音放送のあとも列車はいつも通り動いていたという記述があり、東京大空襲や広島の原爆投下の直後でも、市電は復旧してできるところから動き始めたというような記録があるが、おそらく、当時の「働くこと」の感覚というのはそういうものなのだろう。自分に与えられた仕事、しなければならない仕事のを、個人的な事情よりも優先する。それが当たり前の時代だったのだろう。失礼な憶測になるかもしれないが、個人が、与えられた労働を捨てて自分や家族を守りに走ってもほとんど意味をなさない時代、そして社会だったのかもしれない。『関東大震災と鉄道』(内田宗治著/新潮社)に描かれた鉄道員の姿とも重なる。

もしいま同様の状況になったとしても、現代人の常識では、仕事よりも自分や家族を優先するだろう。逃げる必要があるときは逃げるし、その仕事が危険だったとしても逃げる。それが許される時代、それを許す社会になった。


ただし、ひとつだけ苦言を。本書では、昭和20年8月15日に放心状態のようになった日本でも鉄道だけは動いていた、というような描写がなされるとともに、夜からは沿線の家々に明かりが灯っていた、ということも書かれている。その灯りは、誰が作りだしているのか? 鉄道がいつもどおりであることが世の中に安心感を与えたと書くならば、電力もまたそうではないか。電力は物体として目に見えないので、鉄道ほど身近ではないかもしれないが、戦時下に電力を確保することは鉄道業界と同じくらいに大変なことだったろう。そうしたことも配慮してあれば、なおよかった。

20121229a_002.jpg本書の帯には「蒸気機関車が学校だった」とある。これは、本書にも写真を提供しておられる大木茂氏の『汽罐車』に出てくる「旅は僕の学校だった」と呼応しているものだろう(写真はサインとともにいただいた言葉だが、きちんと本文に出てくる言葉だ)。大木氏と川端氏とは、川端氏の現役時代から親交があり、川端滋賀中央西線の最後の蒸気機関車列車を運転した際にキャブに同乗もしている間柄だ。

大木茂氏の写真展『汽罐車』でも、トークショーをご一緒されている。そのとき、川端氏は「機関士仲間と会っても、電気機関車に乗務するようになってからの話はいっさい出ない、蒸機の話ばかり」とおっしゃっていたが(本書のあとがきにもある)、戦後のこと、転換教育のこと、電機のこと、蒸機に戻ったこと、ご本人にとっては思い入れのないことでも、読者が渇望しているエピソードはたくさんあると思う。読者としては、ぜひ本書の続編をいくつも望みたい。


●追記

本書に『鉄道精神の歌』というものが出てくる。youtubeにあった。



山田耕筰作曲。「国鉄国鉄国鉄国鉄…」すごい。原曲の著作権は切れている。




 
PR
友人に誘われて、『LIVE IN TOKYO CROSSOVER NIGHT』に行った。計六つのバンドがぶっつづけで約6時間、演奏する。フェスのようなイメージだが、会場はホールなので、途中で抜けて屋台で飲み食い…というようなスタイルではい。

六つのバンド…とはいえ、すごくスタイルが違う。とりわけ対照的なのが、高中正義や鈴木茂の「一人のミュージシャン+バックバンド」スタイルと、ナニワエキスプレスの「完全なバンド」スタイル。渡辺香津美は異種格闘技といったところか。そのなかで、ナニワが本当にすごかった。かっこいい「バンド」だった。


「今回は、久々に5人で演奏できる!青柳誠が帰ってきた!」という清水興の言葉。ギターの岩見とキーボードの中村のかけあい。ベースの清水と岩見のかけあい。「ひさびさに一緒に演奏できる!」キーボード&サックスの青柳と岩見のかけあい。ステージ上を動き回るフロント陣、全員で飛び跳ねながら引き、ピンチヒッタードラマーの平陸まで立って叩く始末。曲間には、清水のよどみないMC。完璧なショーだった。

MC の清水興によれば、26日のリハが終わり、ホルモンを大量に食べたところ、28日の朝になって東原力哉から「痛風が出た、ダメだ」と連絡が来た。過去に足に痛風が出ても注射を打って平気な顔してライブに出ていた力哉。片手でもライ ブ出演を欠いたことがない力哉。彼がダメだというのだから、相当なものだと思い、急遽、平に打診したという。以前から曲も知っていたのだろうが、それにしても。通常の曲も完璧だが、ラスト、ナニワ80年代の曲のメドレーも完璧。

清水のMCと合わせ、今回のライブをもっとも真剣に考えていたのは、ナニワの5人なんじゃないか。高校生の平含めて。お客さんに楽しんでもらう、演奏を聴いてもらうということ。他の出演者は「会場が提供されるから出る」くらいにしか感じなかった。勝手な憶測だけれども。それくらい、ナニワの気持ちが伝わってきた。感動した。2003年、初回のCROSSOVER JAPANでも、幕間の不手際を清水たちが自らフォローし、セッションを始めたそうだ。そうした優しさを強く感じたナニワのステージだった。

曲は、
・(未詳)
・BETWEEN THE SLY AND THE GROUND
・SPOT
・9TH MOUNTAIN HIGH
・メドレー(RED ZONE、JASMIN、BELIEVEIN'ほか<順不同>)
だったか。こういうの覚えるの苦手なので。

* * *

高中、鈴木は「オレのギターを聴け」というスタイル(別に悪いという意味ではない)。鈴木はMCもないに等しいし、演奏が終わるごとに必ず「どぉーもー」と一言だけ言って、そこは素人かよというレベル。パラシュートはセッション的な印象でバンドらしいまとまりは感じられず、バンドと言うよりも「井上鑑+バックバンド」だった。香津美は香津美らしく、バンドとしてのまとまりとか求めてないのでこれはこれでよし。すごい。オラシオ・エルネグロ・エルナンデスのものすごいドラミングも聴けたし。カシオペアはさすがだけれど、基本はナルチョによるフィーチャリング・野呂一生。今回のイベントは、ナニワがいなかったら単なる寄せ集めフェスにしかならなかったんじゃないだろうか。

個人的には、ナニワに感動した。2月のライブも行こうか。香津美もすごかった。香津美はCDより生に限る。


書きたいことは山とあるけれど、きりがないしとりとめもないのでここまで。
あ、高中バンドの、高中のボーヤ。ボーヤなんだから、バックで首を振り振りしないで。高中にスポットが当たると、その後ろで低い位置に生首が動いているように見える。ボーヤは隠れていてください。

* * *

20121229a_001.JPG大学4年生のときだっけ? ナニワのコピーバンドをやったときに作ったTシャツと、当時のCD。ほか。MODRERN BEATは発売当時の黒いインナーのものがあったが、人に譲ってしまった。サイレント・サバンナはレコードで持っている。

会社に入って1年目の年末は、週刊漫画サンデーの編集部にいた。週刊誌なので、年末年始は「繰り上げ+1号休み」となり、都合2週間、まるまるあく。それを利用して、八重山に行った。バイクはTT250R、有明埠頭からフェリーに乗って那覇へ行き、那覇から石垣へ。基本的に石垣島に滞在し、周辺の島にも行こうと思っていた。当時は情報がほとんどなく、キャンプ場などがあるのかないのかすらわからなかったが、港でもどこでも野宿できるだろう、という感覚で出かけた。

旅程はこうである。

12/23(土) 20時有明発(琉球海運)
12/24(日) (船中)
12/25(月) 21時30分那覇着。2時間遅れ。石垣行きフェリーに乗り継げず。

49時間30分の船旅では、初めて吐くほどの船酔いをした。その間、コンビニで買ったおにぎりしか食べなられなかった。

さて、石垣に行けなくなった。那覇~石垣のフェリーは3日に1便くらいしかない。ところが、乗る予定だったフェリーとは別の、石垣経由台湾行き『飛龍3』が20時に那覇を出港していたにもかかわらず、犯罪者が乗っていてそれを送還するというトラブルがあり、那覇に戻ってきていた。おかげで、それに乗れた。

2時乗船、5時30分出港。16時頃、宮古島着。3時間ほど停泊するので、下りていいという。

20121229_008.jpg船内で知り合ったライダーとともに散策する。九州本土から遠く離れた宮古島にも、本土と同じ形式で普通に国道があり、県道があることが奇異に見えた。

いや、同じ形ではない。手書き看板のようだ。

初めての沖縄そば(宮古島版)を食べ、18時40分、船に戻る。19時ジャスト、出港。


12月27日(水)0時50分、石垣港接岸。そのまま米原キャンプ場まで走るが、どうもイマイチなので、サザンゲートブリッジの下を住処とすることにした。

事前の情報収集が悪く、帰りはフェリーで帰れないことがわかったので、旅行代理店へ行き、帰りのバイク無人航送の手配を氏、自分が飛行機で帰るためのチケットを取った。飛行機代は、4万9610円もした。

(続く)
PC240058.JPGアメリカの繁栄を築いたのは、土木インフラである。それを実現したのは、目先にとらわれず、遠大な構想を持って未来を見据えて実現に取り組んだ、偉大なる牽引役たちで、その多くは大統領である。しかし、いま、老朽化によってそれらが危機に瀕している。いまこそそれらを大々的に補修すべきであり、そのための投資と管理監督する、全米復興銀行を設立すべきだ…ということを主張する本だ。内容は、アメリカの「歴史的十大事業」の計画から実現、結果までを概説したもので、基本的に礼賛している。

帯にある、十大事業と、それを導いたリーダーたちを列記する。
・ルイジアナ買収(ジェファーソン)
・エリー運河(デウィット・クリントン)
・大陸横断鉄道(リンカーン、セオドア・ジュダ)
・ランドグラント・カレッジ(リンカーン、ジャスティン・モリル)
・ホームステッド(自営農地)法(ジョンソン)
・パナマ運河(セオドア・ルーズベルト)
・地方電化局(フランクリン・ルーズベルト、モーリス・クック)
・復興金融公社(フーヴァー、フランクリン・ルーズベルト)
・復員兵援護法(フランクリン・ルーズベルト、ウォレン・アサトン)
・州間高速道路システム(アイゼンハワー)

どの章も、礼賛、礼賛、礼賛、ネガティブな面、「だがしかし、それを補ってあまりある利がある」的な構成となっている。例えば他国の領土内に自国のための運河を建設したパナマ運河などというものは、アメリカ帝国主義の最たる例だと私は思うし、そうしたことも本文には書いてあるが、「ビッグスティック外交」=軍事力をちらつかせて相手国を脅し、不平等な条約を結ばせることについては、あまりにもアメリカの視点でしか書いていない。だから、各項目のネガティブな面は自分で礼賛と同じくらい調べれば、概要を把握するのには適当な本だ。幸い、ネガティブな面がなんであるかはわかりやすく載っている。


本書を読んで思うのは、次の二点。日本で言えば明治時代の志士のような、志を持ってものごとを成し遂げた人物がたくさんいること。もうひとつは、汚職や腐敗は日本の比ではないということだ。

私が周辺情報を含めてなんとか把握している大陸横断鉄道で見れば、前者がセオドア・ジュダ。後者は、ビッグ・フォーと呼ばれた泥棒貴族的な連中だ。アメリカの資本家は、とにかく自分の腹を肥やす。カルテルを組み、値段をつり上げ、政府から、庶民からむしり取る。株価を操作し、売り抜け、大儲けする。そしてその下で建設に駆り立てられた膨大な人数の最下層(奴隷も含む)が殉職していった。そうしたアメリカ経済の負の面は、本書だけではちょっとわからないと思う。日本では、そこまでの私服の肥やし方はない。働き方については『高熱隧道』的なものや、北海道のタコ部屋労働のようなことがあるけれど。

おもしろいのは、そうした面々やその関係者が、日本の経済にも深く関わっていたりすることだ。それは本書には載っていないので、アメリカ鉄道史とその登場人物(資本家)を丹念に追ってみると面白い。幸い、wikipediaに「アメリカ合衆国の鉄道史」というすぐれた項目がある。僭越ながら私が関わった記事もそれなりに役に立っているようだ。同じように、エリー運河にも、ホームステッド法にも、そういう物語があるだろう。それらを把握してこそ、アメリカのインフラ史をおもしろく感じることができるだろう。本書はきっかけに過ぎない。


栃木県の五十里湖の東に、大塩沢橋という新しい橋がある。その東側、沢を詰めるように旧道があり、旧橋は撤去されている。このときも、丸田祥三さんの『廃道 棄てられし道』の取材に同行させていただいたときのもの。この日はGPSログの取得が不完全だったため、記憶で書く。誤記があったらご容赦願いたい。

20121224_000.JPG南側の行き止まりはこう。まるで、除雪作業はここで終わり!というような塩梅で、ドン付きに土塊が積まれ、その向こうが藪になっている。左手前のカーブの警戒標識は、もっと別なもののほうがいいのではないか。たとえば「もう道はないよ!」というような。写真手前には、砂利取りか、その事務所がある。

20121224_001.JPG少し手前にはR121の標識があった。砂利取りのダンプしか見ない標識。地形図を見ても、もはやここは国道ではない。

20121224_002.JPG標識をアップで。

そして、北側へ。
20121224_004.jpg旧橋の名残。もう少しアップすると…
20121224_006.jpg対岸には、冒頭写真の「反対側」が見える。

…しかし、この写真を見ると、この旧橋はまるで必要がなかったかのように、こちらから対岸に渡る道路がある。そもそも川がない…?

20121224_007.jpgちょっとわかりづらいが、手前から引いてみたもの。旧橋は画面の天端より上で見えていない。写真左が北、右が南。中央の3本の水管が、川だ。川を暗渠化し、その上に道を造っている。

この写真の中央から少し左下に、橋台が見える。これが旧旧橋の跡。

20121224_005.jpg南側から、これとは別の橋脚と、(新)大塩沢橋。

20121224_003.JPG砂利に埋もれつつある橋台。

砂利取りのダンプが出入りしていることもあり、なかなか思うような位置に立ち入ることができないが、なかなかのダイナミックな景観である。国道121号は、国道229号と並んで「相当に開通時と形が違う道」なのではないかと思う。

 


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 6 7 8 9
10 12 13 14 15 16
17 18 19 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
カテゴリー
twitter
twitter2
プロフィール
HN:
磯部祥行
性別:
男性
自己紹介:
メールはy_磯部/blue.ぷらら.or.jpにお願いします。日本語部分等は適宜置き換えてくださいませ。
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア