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20130103_002.JPG東武博物館の屋外に、バスくらいの大きさの連接車両が展示されている。外側は近寄れないが、内部は館内から立ち入ることが可能だ。その車幅の狭さに驚く。

この車両は1954年製。同系の台車を履いた車両はいまも各地に残っている。両端が電動台車で連接部は付随台車だが、基本は同じ。連接部のほうが写真が撮りやすいので、こちらで書く。

20130103_000.JPGいちばん目を引くには、板バネが「逆さま」に取り付けられている点だろう。「逆さま」というのは便宜的にそう呼ぶ。一般的には2軸貨車のように、U時型、つまり天方向に親バネ(長いバネ)を、地方向に短いバネを配する形の方が、目にする機会が多かろうと思うからだ。

目的は、省スペース化と軽量化だろうか? 2両分の車端部の荷重は、板バネを束ねている部分にかかる。それを台車枠から吊ったリンクが受けて荷重を台車に伝え、されに軸バネ(コイルバネ)を介してレールに伝えている。鉄道車両の台車によくあるように、2組の板バネを上下ペアにして使うよりも天地方向のスペースをとらず、を使っているものだ。

20130103_001.JPG台車枠側面にはブレーキシリンダーがつく。こうした機械的摺動部分は、見ていて本当に飽きない。

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1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(2)の続き。

大晦日は竹富島と黒島に、バイクを持ち込まずに行った。竹富島では原付を、黒島では自転車を借りた。

石垣に戻り、市場でグルクンやシャコガイの刺身などを2000円分も買った。そして、夜。

20121229_001.jpgサザンゲートブリッジの下で宴会をしていたら、地元のオジイが三線と「八重泉」を手にやってきた。大城さんといって、船をもっていた。ラジオで紅白を聞きながら、オジイの話を聞いた。「1月4日に乗せてやる」と言ってくれた。

20121229_004.jpg三線に聴き入った。沖縄に惚れると三線を買ってしまう人は多い。でも、オジイの三線は、石垣に暮らす者としてのたしなみであるかのように、自然だった。アメリカ統治下の話などもしてくれた。「あのころはよかったなあ」という言葉に、世間知らずな二十代前半のぼくらは声も出ない。

刺身はとても食べきれない量だったので、翌日、寄ってきた猫にあげた。

* * *

翌2日は、闘牛を見て過ごした。1時間近く、角を突き合わせたまま動かないこともあり、いささか退屈なときもあったが、全部見た。

20121229_000.jpgそして、ついに1月4日。こんな格好で飛行機に乗った。写真はZZ-R氏からいただいたもの。

バイクはその日の朝、大半の荷物はくくりつけたまま、有村のターミナルに預けた。自分のために買い込んだ大量の缶詰…TULIPのポーク340g缶1ケース、ルートビア1ケース、キャンベルスープ1ケースなどは、小包で1月7日(日)着指定で送った。

飛行機には、デイパックとタンクバッグだけで乗り込んだ。まさかこんなことになると思っていなかったので、靴も持っていないから、オフロードバイクのブーツだ。上着はバイク用の、肩パッドの入ったゴアのジャケットだ。頭は…三が日は銭湯が休業だったので、4泊、風呂に入っていないことをなんとかバンダナで隠している。荷物にくくりつけてあるのはトレーナーだ。

12時45分、石垣発。那覇で乗り継ぎ、17時5分、羽田着。行きは77時間かかったが、帰りは4時間20分。なんというあっけなさだ。東京の家に戻ったら、留守電に、現地でずっといっしょに過ごした3人から「おかえりなさーい」と入っていた。約2週間、バイクの走行距離はわずか300kmだった。後日、3人から受け取った手紙には、私を空港に送った後、約束通り大城さんは船に乗せてくれたという。その写真も送ってくれた。

翌週、1月8日(月)午前中は半休を取り、有明でバイクを受け取ってそのまま鮫洲の運転免許試験場に向かった。そこで受けた限定解除の試験で合格した。

* * *

20121229_014.JPG切符類。波照間のフェリーは、こんな領収証を手書きしていた。要求したわけではない。

20121229_009.jpgサザンゲートブリッジ。元旦、初日の出は橋の上から見た。日の出は7時30分。さすがの西側だ。髪が赤く見えるのは褪色補正の結果。

20121229_003.jpg銭湯、濱の湯。「日本最西端の銭湯」。230円。トイレはなかなか…な汲み取り。お湯は熱い。シャワーはない。八重山毎日新聞のサイトによると、1998年頃に廃業したという。いまは石垣島に、こうした銭湯はない。



こうした旅が、17年前にはあった。大城さんが飛び入りしてくれた大晦日があった。ただ、懐かしい。

 
1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(1)の続き。

船内で知り合ったZZ-R1100氏、チャリダーA氏、チャリダーB氏と4人で、サザンゲートブリッジの下にテントを張る。また、年末年始のためか、波照間、与那国行きの運航日が時刻表と異なり、頭を悩ませた。西表島には行けなそうだ。「年末年始だから」ということが念頭にないあたり、自分のダメさ加減がわかる。

以後の行動はこう。

12/27(水)
12/28(木) 石垣→波照間→与那国(バイクと。フェリー)
12/29(金) 石垣→与那国(バイクと。フェリー)
12/30(土) 与那国→石垣(バイクと。フェリー)
12/31(日) 石垣→竹富島→黒島→石垣(人間だけ。高速船)
1/1(月) 無
1/2(火) 闘牛見る
1/3(水) 雨
1/4(木) バイクを無人航送に託し、ZZ-R氏のバイクで石垣空港まで送ってもらい、飛行機で帰京。

* * *

20121229_010.jpgフェリー波照間。たしか200トン。ものすごく揺れる。船底をサンゴにガンガンぶつける。船内では横になっていたけれども、転がる。

この時期は3日ごとに1往復なので、島に2泊するといろいろおしてしまうということで、日帰りで往復した。2時間ばかりの滞在。当時の『ツーリングマップ九州』には波照間の地図は(たしか)なくて、会社にあったB4判の『マップル』をコピーして持っていった。2万5000図を…などとは思いつかなかったのが不思議。

20121229_005.jpgこうして見ると、いちおうテントも畳んで、荷物をすべて積んでいるのだな45リットルの青いランドナー(これは2012年の北海道ツーリングでも使っている)、その上に28リットルのICIのデイパック、その間にテント。後輪手前のタウチェのデイパックは背負っていった。そしてオフロード車にはとても似合わない、タンクバッグ。

まだまだ沖縄ブームではない頃。年末のこの場所には誰もいなかった。

次に、与那国。フェリーよなぐにの写真はない。

20121229_006.jpg最西端。ここはクルマでは行けないのだが、バイクを押していった。押せば自転車と同じ扱いだからな。もちろん、だれもいなかった。

事前にZZ-R氏から「比川浜というところがテント張れるよ」「ユキさんち、というカレー屋がうまいよ」と聞いていたので、そこに向かってテントを張る。ここに長期間滞在している人もいる。サトウキビのアルバイトをする「ワタリ」だ。


20121229_007.jpg私のテントは写っていない。みなここに定住している。流木とドカシーで屋根を作り、完全防水にしている。しかし、私は少し「引いた」。石垣の米原もそうだが、そこに「住む」キャンパーたちは、地元の人にはどう見えるのだろうか。東京の住宅街の公園に定住している人がいたら、間違いなく追い出される。それとどう違うのだろう? この、旅をしているようでそうではないキャンパーたちに対する否定的な感情は、いまも変わっていない。バイクの仲間たちが、誰一人としてこうしたキャンパーがいず、きちんと働いていることとは対照的だ。というか、私はそういう集団を好むのだろうな。




 
実家は「小学校前の文房具店兼駄菓子屋」だった。いまと違って子供たちもたくさんいた。10円を握りしめて何を買おうか10分も20分も迷っていく子供たちがたくさんいた。店番は母か祖母の仕事だったが、手を離せないときには私が出ていた。1980年頃、私が小学校中学年の頃の話だ。

大晦日も店を開けていた。午後を回ると、子供たちが来るようになる。掃除に飽きたか、邪魔になったか。けっこう駄菓子が売れる。それも夕方くらいまでで、午後7時くらいになると、もう誰も来なくなって2時間、という感じになるので「そろそろ閉めるか」といって店を閉めていた。


元日。
店は休みなのだけれど、午前中から玄関の呼び鈴が鳴る。子供たちだ。「今日は休みですか」。店が閉まってるんだから休みなんだよ!と言いたいところだけれど、鍵を開け、入れてあげる。お年玉をもらったからだろう、子供たちはちょっと贅沢に買い物をしていく。いつもは買えない、ポテトチップスなどの100円(当時)のお菓子を買ったりして。あとはおもちゃ。50円の飛行機や文房具。思えばその頃、駄菓子やおもちゃは100円以下のものがほとんどだった。300円のガンダムのプラモデルなどは、なかなか売れなかった。でも、毎日何十人もの子供たちが店に来て、10円、20円を相手に商売をして、もちろん大人もそれなりにものを買いに来ていた。商店街でもない、街の中にぽつりとある店が(副業としては)やっていける時代だった。


2013年になった。
このいまの状況を、30年後、「あのころはこうだった」と懐かしむ時が必ずくる。逆に、30年後がどうなっているかはちょっと想像ができないけれど、よい1年1年が重なればいいと思う。あらゆる人々の健康を願いつつ。

2013年1月1日
磯部祥行

 
20121229a_000.JPG沢柳健一氏の『思い出の省線電車』と同じ系譜の、著者の体験記。「交通新聞社新書」にはいろいろな思いはあるが、こうした貴重な証言を商業出版物として刊行するのはとても有意義なことだと思う。応援したい。

著者は鉄道誌でもおなじみの、名古屋機関区OB。昭和4年生まれ、戦時下に国鉄に入り、促成栽培で機関助士に登用され、終戦を迎えるまでの体験を記した本だ。「戦火をくぐり抜けた汽車と少年」のサブタイトルどおり、著者の、14歳から17歳までの記録である。現在御年83歳、よくこれだけの記憶が…と驚く。


総じて、戦中の話である。本書の終盤では、同僚が空襲で殺されても、駅が炎上していても、命じられている仕事を黙々とこなしている川端氏と鉄道員たちが描かれている。宮脇俊三の『時刻表昭和史』に、玉音放送のあとも列車はいつも通り動いていたという記述があり、東京大空襲や広島の原爆投下の直後でも、市電は復旧してできるところから動き始めたというような記録があるが、おそらく、当時の「働くこと」の感覚というのはそういうものなのだろう。自分に与えられた仕事、しなければならない仕事のを、個人的な事情よりも優先する。それが当たり前の時代だったのだろう。失礼な憶測になるかもしれないが、個人が、与えられた労働を捨てて自分や家族を守りに走ってもほとんど意味をなさない時代、そして社会だったのかもしれない。『関東大震災と鉄道』(内田宗治著/新潮社)に描かれた鉄道員の姿とも重なる。

もしいま同様の状況になったとしても、現代人の常識では、仕事よりも自分や家族を優先するだろう。逃げる必要があるときは逃げるし、その仕事が危険だったとしても逃げる。それが許される時代、それを許す社会になった。


ただし、ひとつだけ苦言を。本書では、昭和20年8月15日に放心状態のようになった日本でも鉄道だけは動いていた、というような描写がなされるとともに、夜からは沿線の家々に明かりが灯っていた、ということも書かれている。その灯りは、誰が作りだしているのか? 鉄道がいつもどおりであることが世の中に安心感を与えたと書くならば、電力もまたそうではないか。電力は物体として目に見えないので、鉄道ほど身近ではないかもしれないが、戦時下に電力を確保することは鉄道業界と同じくらいに大変なことだったろう。そうしたことも配慮してあれば、なおよかった。

20121229a_002.jpg本書の帯には「蒸気機関車が学校だった」とある。これは、本書にも写真を提供しておられる大木茂氏の『汽罐車』に出てくる「旅は僕の学校だった」と呼応しているものだろう(写真はサインとともにいただいた言葉だが、きちんと本文に出てくる言葉だ)。大木氏と川端氏とは、川端氏の現役時代から親交があり、川端滋賀中央西線の最後の蒸気機関車列車を運転した際にキャブに同乗もしている間柄だ。

大木茂氏の写真展『汽罐車』でも、トークショーをご一緒されている。そのとき、川端氏は「機関士仲間と会っても、電気機関車に乗務するようになってからの話はいっさい出ない、蒸機の話ばかり」とおっしゃっていたが(本書のあとがきにもある)、戦後のこと、転換教育のこと、電機のこと、蒸機に戻ったこと、ご本人にとっては思い入れのないことでも、読者が渇望しているエピソードはたくさんあると思う。読者としては、ぜひ本書の続編をいくつも望みたい。


●追記

本書に『鉄道精神の歌』というものが出てくる。youtubeにあった。



山田耕筰作曲。「国鉄国鉄国鉄国鉄…」すごい。原曲の著作権は切れている。




 


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