「GPSログを取る仕事」なるもので、東京タワーに登った。標高250mの「特別展望台」にも登った。観覧車程度の高さから地上を見たことは何度かあるが、ここまで高いのは初めてかもしれない。空撮のような感覚。お台場とレインボーブリッジを見ると、ニューヨークかと思った(※行ったことありません)。
平面の地図上ではあまりパッとしない交差点だが、こういう角度で見ると、赤羽橋交差点は重要な結節点というように見えてくる。こんな五叉路を効率よく裁く信号をセッとしている人はすごい。 東京タワーからの写真をもう一点。 それはそれとして、首都高とビルの近接具合は、Nゲージのジオラマでもここまで近くに建物は配置しないよというくらいに近い。これが現実の都市。事実は、ジオラマ上で再現された空想の世界よりも、ずっと空想的なこともある。こういうところで、空間を自在に飛び回って写真が撮れたら面白いだろうなあ。 ※追記 友人から「ここに写っているビルの下に、かつて住んでいた家が沈んだ」というメッセージをもらいました。故郷の喪失ということは、ダムに沈むとか高速道路の建設による立ち退きなどが真っ先に思い浮かびますが、都心のこういう場所にも、というか都心だからこそ数多くのそうした事態が起こっていることを思い知らされました。実家がそういうことになっていない私は幸せなんだろうな。ドーナツ化現象で老人ばかりになり、私がいたころは各学年3クラスあった小学校が統廃合の危機にあるけれども。 PR この車両は1954年製。同系の台車を履いた車両はいまも各地に残っている。両端が電動台車で連接部は付随台車だが、基本は同じ。連接部のほうが写真が撮りやすいので、こちらで書く。 目的は、省スペース化と軽量化だろうか? 2両分の車端部の荷重は、板バネを束ねている部分にかかる。それを台車枠から吊ったリンクが受けて荷重を台車に伝え、されに軸バネ(コイルバネ)を介してレールに伝えている。鉄道車両の台車によくあるように、2組の板バネを上下ペアにして使うよりも天地方向のスペースをとらず、を使っているものだ。
1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(2)の続き。
大晦日は竹富島と黒島に、バイクを持ち込まずに行った。竹富島では原付を、黒島では自転車を借りた。 石垣に戻り、市場でグルクンやシャコガイの刺身などを2000円分も買った。そして、夜。 刺身はとても食べきれない量だったので、翌日、寄ってきた猫にあげた。
* * *
翌2日は、闘牛を見て過ごした。1時間近く、角を突き合わせたまま動かないこともあり、いささか退屈なときもあったが、全部見た。 バイクはその日の朝、大半の荷物はくくりつけたまま、有村のターミナルに預けた。自分のために買い込んだ大量の缶詰…TULIPのポーク340g缶1ケース、ルートビア1ケース、キャンベルスープ1ケースなどは、小包で1月7日(日)着指定で送った。 飛行機には、デイパックとタンクバッグだけで乗り込んだ。まさかこんなことになると思っていなかったので、靴も持っていないから、オフロードバイクのブーツだ。上着はバイク用の、肩パッドの入ったゴアのジャケットだ。頭は…三が日は銭湯が休業だったので、4泊、風呂に入っていないことをなんとかバンダナで隠している。荷物にくくりつけてあるのはトレーナーだ。 12時45分、石垣発。那覇で乗り継ぎ、17時5分、羽田着。行きは77時間かかったが、帰りは4時間20分。なんというあっけなさだ。東京の家に戻ったら、留守電に、現地でずっといっしょに過ごした3人から「おかえりなさーい」と入っていた。約2週間、バイクの走行距離はわずか300kmだった。後日、3人から受け取った手紙には、私を空港に送った後、約束通り大城さんは船に乗せてくれたという。その写真も送ってくれた。 翌週、1月8日(月)午前中は半休を取り、有明でバイクを受け取ってそのまま鮫洲の運転免許試験場に向かった。そこで受けた限定解除の試験で合格した。
* * *
こうした旅が、17年前にはあった。大城さんが飛び入りしてくれた大晦日があった。ただ、懐かしい。
1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(1)の続き。
船内で知り合ったZZ-R1100氏、チャリダーA氏、チャリダーB氏と4人で、サザンゲートブリッジの下にテントを張る。また、年末年始のためか、波照間、与那国行きの運航日が時刻表と異なり、頭を悩ませた。西表島には行けなそうだ。「年末年始だから」ということが念頭にないあたり、自分のダメさ加減がわかる。 以後の行動はこう。 12/27(水) 12/28(木) 石垣→波照間→与那国(バイクと。フェリー) 12/29(金) 石垣→与那国(バイクと。フェリー) 12/30(土) 与那国→石垣(バイクと。フェリー) 12/31(日) 石垣→竹富島→黒島→石垣(人間だけ。高速船) 1/1(月) 無 1/2(火) 闘牛見る 1/3(水) 雨 1/4(木) バイクを無人航送に託し、ZZ-R氏のバイクで石垣空港まで送ってもらい、飛行機で帰京。
* * *
この時期は3日ごとに1往復なので、島に2泊するといろいろおしてしまうということで、日帰りで往復した。2時間ばかりの滞在。当時の『ツーリングマップ九州』には波照間の地図は(たしか)なくて、会社にあったB4判の『マップル』をコピーして持っていった。2万5000図を…などとは思いつかなかったのが不思議。 まだまだ沖縄ブームではない頃。年末のこの場所には誰もいなかった。 次に、与那国。フェリーよなぐにの写真はない。 事前にZZ-R氏から「比川浜というところがテント張れるよ」「ユキさんち、というカレー屋がうまいよ」と聞いていたので、そこに向かってテントを張る。ここに長期間滞在している人もいる。サトウキビのアルバイトをする「ワタリ」だ。
実家は「小学校前の文房具店兼駄菓子屋」だった。いまと違って子供たちもたくさんいた。10円を握りしめて何を買おうか10分も20分も迷っていく子供たちがたくさんいた。店番は母か祖母の仕事だったが、手を離せないときには私が出ていた。1980年頃、私が小学校中学年の頃の話だ。
大晦日も店を開けていた。午後を回ると、子供たちが来るようになる。掃除に飽きたか、邪魔になったか。けっこう駄菓子が売れる。それも夕方くらいまでで、午後7時くらいになると、もう誰も来なくなって2時間、という感じになるので「そろそろ閉めるか」といって店を閉めていた。 元日。 店は休みなのだけれど、午前中から玄関の呼び鈴が鳴る。子供たちだ。「今日は休みですか」。店が閉まってるんだから休みなんだよ!と言いたいところだけれど、鍵を開け、入れてあげる。お年玉をもらったからだろう、子供たちはちょっと贅沢に買い物をしていく。いつもは買えない、ポテトチップスなどの100円(当時)のお菓子を買ったりして。あとはおもちゃ。50円の飛行機や文房具。思えばその頃、駄菓子やおもちゃは100円以下のものがほとんどだった。300円のガンダムのプラモデルなどは、なかなか売れなかった。でも、毎日何十人もの子供たちが店に来て、10円、20円を相手に商売をして、もちろん大人もそれなりにものを買いに来ていた。商店街でもない、街の中にぽつりとある店が(副業としては)やっていける時代だった。 2013年になった。 このいまの状況を、30年後、「あのころはこうだった」と懐かしむ時が必ずくる。逆に、30年後がどうなっているかはちょっと想像ができないけれど、よい1年1年が重なればいいと思う。あらゆる人々の健康を願いつつ。
2013年1月1日
磯部祥行 |
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