丸善石油のツバメマーク。かなりきれいに保存されている。しかし、これがあるのはれっきとした現役のENEOSの給油所。丸善は、今のコスモ石油につながるブランドである。
まったく別のものを画像検索していたら、偶然、2012年に撮影された写真で日野市内にこのツバメマークがあることを知った。「日野市のはずれ」というヒントが書かれていたのでGoogleのストリートビューで探してみると、上の写真にある価格看板を備えたENEOSがあるにはあったが、ここには建物があった。このように。 どうやら産廃会社のブロック塀があったため、防火壁の裏側は塗装されることがないまま20年以上がたち、産廃会社の施設が取り壊されてそれが露わになったようだ。ストリートビューの撮影は2010年だから、露わになってまだ2年以内だ。 (国土画像情報より転載・トリミング) 1974年の空中写真を見る。中央道に架かる左端の橋の南西にあるのが給油所。その左は黒い土、すなわち畑で産廃会社はまだない。 話はずれるが、こうして見ると、中央道と、この日野駅前から石川工業団地に行く道が、畑の中に突如割り込んで建設されたのがわかる。畑の中にあった小道がそれぞれ分断されている。 さらに、空中写真の中央下、ロータリーの存在。これは帰宅後にきづいたので行っていない。ログを残しておきたい場所だ。 話を戻して、防火壁。このようになっている。小口というか妻面というか断面というか、そこまでは通常のENEOSカラーになっている。 真正面。秋晴れのもと、ゆったりした給油所周辺はとてものんびりした空気が流れていた。 PR
東武博物館に保存されている5700系の台車を見て驚いた。私はもともと私鉄車両のことはほとんど知らない。台車は私鉄におもしろいものがたくさんあるのだけれど。
パッと見ると、枕バネを板バネとするウイングバネ台車に見える。しかし、よく見ると、軸箱の上に、レール方向に板バネがある。 中央上に見える横方向のシリンダーはブレーキシリンダー、下の棒はボルスタアンカーだ。 いちばんの特徴である、軸箱の指示方式。板バネの両端は左右のコイルバネの上につながっている。上下振動を減衰できる板バネを介したウイングバネ台車、という解釈が正しい気がする。これがゲルリッツ式台車と通称されているものだ。 下から。枕梁に結合されているボルスタアンカー。枕梁の下に枕バネ(板バネ)がある。このボルスタアンカーで、車輪が創り出す(と考えるとわかりやすい)牽引力やブレーキ力を、台車の側梁から枕梁に伝え、車体に伝え、連結器に伝える。 前後面。住友のマークと「H2082」という陽刻がある。 東武博物館は、中こそ子どもがそこそこいるが、中庭は無人に近かった。近寄って鑑賞しても、だれの迷惑にならないくらい閑散としていた。趣味的にはとても素晴らしい環境だけれど、人が入るに越したことはないわけで、いや、これは余計なお世話でした。
飯田橋通り架道橋。この下の道路は1000回以上はクルマやバイクで通っているはずだ。客待ちしているタクシーの先には複雑な五叉路の飯田橋交差点(下宮比交差点だと思っていた)。なのに車線幅がイマイチ足りないので、夜の下り方向において渋滞の頭になる部分だ。こちら(西)から、総武線(中央緩行線)、中央快速線があり、かつてはその向こうに飯田町貨物駅からの引き上げ線(?)が1本があった。そのための橋桁もかかっていたが、それは後述する。まずは現役の4線を。
総武線下り線(中野方面行き)の桁がこれ、右に見える桁はホームを支えている。対岸を見るとわかるように、線路の桁には鉄製橋脚(鋼鉄製?)があり、ホームの桁にはない。 鉄製橋脚は、他の場所の橋脚よりもかなり太い。装飾がなく、補強の部材もやたらと太い。補強のブレースは、そこに使われているボルトやリベットの形状からして、後年の付加だろう。装飾がないのは、鋳鉄製ではないことにつながらないだろうか? こうしてみると、線路の桁(両端)とホームの桁(中央)の違いがわかる。ホームの桁の方が荷重の負担は少ないのだろう。 左がホームの桁。右隣が総武線東行き(津田沼方面行き)の桁。その隣が、中央快速線用の3主桁の複線桁。桁ごとに橋脚があり、さらにそれらをまとめて補強がなされている。 橋脚。 複線桁の北側を見ると、乗せかけていた。桁の向こう側にはそうしたジョイント部は見えないので、橋台と桁を結ぶこの部分は三角形かもしれない。 隙間から覗くと、複線桁の形状がわかる。また塗装標記もある。 橋りょう名 飯田橋通り架道橋 位置 飯田橋構内4K281M80 支間 30M100 塗装年月 2003年10月 塗装回数 4回塗 塗装種別及塗料名 下塗1層目・2層目 厚膜型変性エポキシ樹脂系塗料 中塗3層目 厚膜型変性エポキシ樹脂系塗料 上塗4層目 厚膜型ポリウレタン樹脂塗料 塗料メーカ 神東塗料株式会社 施工者 建設塗装工業株式会社 複線桁は南側に銘板が見えるが、角度が悪い上に塗料が厚く塗られており、「鉄道省」がかろうじて読める程度だ。 反対側(東側)。手前にグレーの新しい桁が見える。かつてはこの場所に飯田町からの引き上げ線(?)(向かって右が飯田町駅、左で行き止まりだった)があった。しかし、いま架かるグレーの桁は鉄道線用ではない。明らかに細い。 北側の橋台。かつての桁が斜めに架けられていたのがわかる。グレーの桁の銘板がある。 東日本旅客鉄道 2000 群集荷重 EFTG29-1 春本鐵工千葉工場 「群集荷重」を採用しているならば、歩道橋だろうか? GoogleMapの衛星画像を見ると、JR線用の歩道橋のように見える。桁の上には配管が通っている。 南側の橋台。やはり斜めに架かっていた跡がある。
* * *
飯田町に到着する貨物列車がなくなったのは1997年3月である。それまでの間、何度か中央快速線をDE10が走るのを見たことがある。いま思えば大変贅沢な経験だった。あのときに見たDE10、まだ現役だろうか、それともとっくに鉄屑だろうか?
国道16号西大宮バイパスを、R17から川越方面に走ると、眼下にひとつだけ橋脚が見える。上江橋(かみごうばし)の名残だ。ここは、入間川が荒川に合流する地点のすぐ上流で、新上江橋はふたつの川を連続で跨いでいる。
※以下の写真はすべて2010年10月撮影。このときも丸田祥三さんと『廃道 棄てられし道』の撮影。詳細は後述。 いまの橋は「新上江橋」となり、片側2車線の快適な道路である。ネズミ取りもあるようだ。最初は上流側に架設(上の写真の「奥」、いまの東行き線)、それと旧橋がどちらも使われていた。私はたぶんどちらも走ったことがあると思うが、記憶はない。 その後、現在の西行き線(上の写真の「手前」)が架設され、西大宮バイパスが完成してからのことははっきりと憶えている。下流側にあった上江橋を解体する作業が、徐々に進行していくのを、クルマの窓から眺めていた。上江橋は、その時に走っていた新道(新上江橋)と比べ、ものすごく幅の狭い、コンクリートの欄干を持っていた(と記憶する)。いつしか桁はすべて撤去され、アプローチの築堤だけになっていた。 いま、上江橋のモニュメントとして、ひとつだけ橋脚が残されている。なんの整備もされていないように見え、後述の水路建設の邪魔になっているようにも見えるが、きちんと保存されている。昨2011年に、説明看板が立ったようだ。(ブログ:咲いた万歩に記述あり) 東側の築堤はいまも残る。轍があるから、なんらかの作業がなされるのだろうか。 先端まで行くと、橋脚が見える。橋脚の左(下流側)には、新たに水路が掘られている。 水路は、いまのGoogleMapではまだ完成していない。少し古い衛星画像のようだ。
* * *
1974年撮影の航空写真を見てみよう。 (国土画像情報に掲載されている画像をトリミング) 新上江橋の西行き線が建設中で、撤去された上江橋だけが現役の時代だ。入間川(左)と荒川(右)が合流する地点だということがよくわかる。 三つの橋が共存している写真は、大宮国道工事事務所のサイトにある。→こちら。 上江橋が有料だった時代の料金所の写真、さいたま市西区のサイトにある。→こちら。 上江橋が撤去中の画像はこちら。 上江橋の由来の碑というものがあるそうだ。この碑は未見。詳細はブログ:川越雑記帳2(川越見て歩き) 市街地に架かるモニュメント的な橋だったわけではなく、意匠を凝らした橋だったわけでもない。それでも、荒川と入間川をパスするという大きな役割をもっていたためか、それなりに人々の記憶に残っている、幸せな橋である。
* * *
丸田祥三さんの『廃道 棄てられし道』にはここで撮られた作品が収録されているが、2012年、改めて撮影された作品が朝日新聞の連載『幻風景』に掲載された。その原版を丸田さんが公開されている。下記ツイートのリンクをクリックし、拡大してご覧いただきたい。
2008年夏、永冨さんの旧道倶楽部の記事を参考に、岐阜県の軽岡隧道を訪れた。そして3年後の2011年秋、再訪した。これはそのときの写真。
軽岡峠は御母衣湖の東方向にある峠で、国道158号と東海北陸道も通っている。旧道は隧道がない「新軽岡峠」、旧旧道はここに行く道である。 東側、東海北陸道をくぐるあたりから旧旧道に入る。最初のうちは、クルマも通れそうな林道である。 なかなかの切り欠き。こうした道をしばらく行くと、やがて雑草に埋もれる。とはいえ、雑草は毎年更新されるのか、天端が道幅に揃っているので、かきわけて進むのはたやすい。道もあまり迷わない。一部、道が崩れたところでわかりづらいところがあるが、慣れた人には見えてくるはずだ。 例に漏れず、ここも「そこを右に曲がると、あるな」という予感とともに、坑門が現れる。 天井が抜け、坑門上部の土が流出しており、まるでアーチ橋のように坑門だけがそこにある。その向こうにはヴォールトもあるが、すぐに閉塞している。 坑門の表面は崩れ落ちたのか、もともとこの仕上げだったのか。水平ではない状態で、柱のような木材が埋め込まれている。鉄筋の代わりか。坑門裏側に回ると、同様の木材が見えた。 このように潰れている隧道だが、電子国土にはいまだにきちんと隧道として描かれている。→こちら。 日が出てきた。坑門は北東を向いているため、ここには午前中に来た方がよさそうだ。 坑門に向かって左には石積の壇がある。ここにはかつて「辻堂」があった。これも旧道倶楽部に詳報があるのでそちらをご覧頂きたい。 2008年に来たときは、ここで携帯が鳴った。1時間ほども廃道歩きをしたところなのに…と思ったが、東海北陸道とは数百m、国道とは1km少ししか離れていないのだ。電話に出ると、会社からの、自分の担当書についての問い合わせだった。休暇をとっているときに電話してくんな!と憤慨して電話を切った。 軽岡峠は、東側には2回行ったものの、西側には行っていない。機会があるなら、次は西側へ行こう。 |
カレンダー
最新記事
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
(10/22)
(10/21)
(10/20)
(10/19)
(10/06)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|