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伊豆半島の道路は多くの改良を重ねられているので、そこかしこに旧道や廃隧道がある。廃道についてはよっきれん氏のレポート以上のものはできないので、写真だけ。

20121009_000.JPG北側。国道の御石ヶ沢トンネルと新宇佐見トンネルの間、すぐ脇に旧道が見えるので、アプローチはたやすい。クルマを置く場所もある。ここから北に向かう。

20121009_001.JPG片一号洞門。

20121009_002.JPGこれだけの設備が放棄されている。向こうに見えるのは片二号洞門。

20121009_003.JPG坑門…と称していいのだろうか、洞門の入口も。コンクリートで作られたこの意匠、あまり嫌みがない。

20121009_004.JPG片二号洞門を出て振り返る。蛍光色の「危険」、表情が険しい。

ここで道路の上に土砂が崩落している。これ以上先に進むには、藪をかき分けながら土砂を乗り越えなければならない。この日は天気がイマイチであり、また行程がギュウギュウだったので、ここで引き返す。

20121009_005.JPG帰り道、振り返ったところ。


一度、出発地点まで戻り、今度は南に向かう。

20121009_006.JPG宇佐見隧道が静かに佇む。

20121009_007.JPG入口から振り返ると、海のほうへ空が抜けていた。雨が上がり、雲もどんどん上がっていく。廃道は、雨上がりが美しい。


この日は、写真集『廃道 棄てられし道』の取材で、丸田祥三さん、平沼義之さんと伊豆の廃道を訪ねたときのもの。この隧道や洞門は写真集にも収録されている。丸田さんの作品をこそ、ご覧いただきたい。

(2010年9月撮影。2012年6月再訪、ほとんど状況変わらず)

 
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20121004a_000.JPG靖国通りが山手線と交差する地点の架道橋。中央分離帯、歩道と車道の境界に計3基の橋脚が立つ。山手線の内側から撮影。向こうに見える箱桁は東北新幹線で、橋脚はなくひとまたぎ。

20121004a_003.JPG山手線の外側反対側から。上を覆っているのは新幹線。この地点では、線路と道路がほぼ直交しているので、ガード下といえどもスッキリしている。

20121004a_001.JPGガードの幅が狭く、明かりが差すためだろうか。とはいえ、ションベンくさいという印象はもちろんある。

20121004a_005.JPG桁は、4主桁の複線橋にも見えるが、2主桁の単線橋の一部分を剛結した、というものだろうか。4本並行する主桁の下部にブレースはあるが、対傾構はない。写真では見えないだけで、2本の(?)鈑桁の間にある覆いの向こう(上)に、きちんと剛結している部材があるのだろうか。

20121004a_002.JPG橋脚は4本1組。4本というのは4つの主桁に対応している。少しだけ道路と角度をつけて交差している斜橋である。

20121004a_006.JPG橋脚下部。鋳物だろう。

20121004a_004.jpg橋台にあったプレート。都営新宿線のシールドが描かれている。



 
20121007_002.JPG廃鉄塔の続き。そのまま東に向かうと、やがて道路は狭くなった。そして、路面に「40高中」のペイントが現れた。

もう20年ほど前に廃止された表示で、ということは、この路面は20年以上前からそのままだということだ。舗装というもの、そして路面のペイントというものが、どれだけもつのかは知らないが、交通量は僅少であろうこの山間部では、これくらいのもちはあるのだということがわかる。

20121007_003.JPGすぐ近くには、バス待合所があった。

20121007_004.JPG1980年頃の公園のトイレのようだ。しかし、外装のタイルはそれほど汚れてもいない。周囲の草もなかなかであり、水道もないためここで野宿するのは気が引けるが、十分な施設だ。

岩見沢市のサイト(PDF)を見ると、ここは「巴公団前」という市営万字線のバス停のようだ。


20121007_005.JPG少し行くと、万字交通センターが現れた。一見、万字線の駅舎の転用かと思ってしまうが、違う。万字線はこの道路よりも北、一段低いところを走っていた。建物の中には市の職員らしき人がいた。

20121007_008.JPG建物脇には踏切の警報機。

20121007_006.JPG倒れている廃線の碑。表側が下になっているため、裏面しかわからない。地震で倒れたのだろうか。

20121007_007.JPG警報機の間から建物裏手に続く階段があり、登っていくと、駅構内かと思うような原っぱがあった。ここは駅の跡地ではないのだが、十分に誤解を招く造りになっている。


万字の集落には入らなかったので、いずれ再訪したい。


 
20121007_001.JPG北海道・岩見沢の志文から、かつての国鉄万字線跡に沿って幌向川を遡る。ふと右手に送電鉄塔…の骸。

送電線が張られているように見えるが、道路を挟んで位置する下記の鉄塔で終わっている。

すぐ北側には幌向川ダムがあるのでその発電…などと思ったが、幌向川ダムは灌漑用とのこと。では、この鉄塔はどこからどこへ…? 1975年頃の空中写真を見ても、その頃にはすでに送電線は張られていないように見えた。

20121007_000.JPG道路北側の鉄塔。ハンガーは5個ある。鉄塔は門外漢だが、このような形状は見たことがない。

積雪のせいか、いくつかのトラス構造は崩れ、部材がひしゃげている。放置された年月を物語っている。
 
<ご参考>
英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考の整理ページ

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20121006_000.JPG国道399号の旧道にある伊達橋。英国系100フィートポニーワーレントラスが3連+200フィートワーレン2連+100フィートポニーワーレントラス1連+鈑桁1連となっているのだが、こちら側の200フィート桁は100フィート桁2連をバラし、200フィートに作り替えたものだ。いまは歩道橋となっている。

20121006_005.JPG早速だが横桁。魚腹形だ。秩父鉄道の見沼代用水橋梁と同じか。

20121006_001.JPG西側。

20121006_002.JPG西側の銘板、左側。「伊達橋」。

20121006_003.JPG西側の銘板、右側。「阿武隈川」。

20121006_004.JPG横から。他の英国系100フィートポニーワーレントラスともちろん同じシルエット。

いったん、東側へ。
20121006_008.JPG東側、左の銘板。「だてはし」。

20121006_007.JPG東側、右の銘板。「昭和五十四年三月竣功」。これは、歩道橋へと改装した時点での銘板だ。歴史的鋼橋集覧によれば、この橋が架けられたのは1921年(大正10年)である。

さて、少し戻る。



20121006_006.JPG改造された200フィート桁。

20121006_009.jpg部材をつないでいるのがわかる。こちらは圧縮力がかかる部分。

20121006_010.jpgこちらは引張力がかかる部分。


この伊達橋は、かつては信達軌道が通っていた橋である。興味を引かれた方は下記を是非ご覧いただきたいのだが、とくに『日本の廃道』には、この伊達橋に軌道が通っていたときの写真もふんだんに掲載されている。ぜひぜひ。

『日本の廃道』47号「旧橋紀行 伊達橋」(TUKA氏)
wikipedia 伊達橋
wikipedia 福島交通飯坂東線




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