寿都の市街から北に向かうと、歌棄(うたすつ)、種前という集落がある。両者を結ぶ国道229号に、こんな場所がある。
手元の2万5000図では、まだ旧道しかないのだが、更新が遅いのだろう。新道が開通したのは1987年だ。旧道となった種前トンネルは、完全に閉鎖することの多い国道229号沿いの多の隧道とは異なり、まだ口を開けている。 大型車の車庫として。すぐ手前は漁具置き場、その手前(撮影地点の左後ろ)では、鉄骨造りの建物を建設中だった。 まだ7時すぎだた、建設工事中なので、ここで引き返し、向こう側から見ることにした。 旧道よりも新道のほうが盛られている。 旧道の手前には、大きな街灯が転倒していた。 旧道。閉鎖されていないのも例外なら、扁額や坑門意匠もそのままというのも例外。扁額には「種前隧道」とある。意匠は、要石までしつらえてある。 ヴォールト内部、坑口側のみ鉄骨で補強されている。これは、地山が坑門を押す力が働くことによるヴォールト入口部分のひび割れを補修したものだろう。 PR
国道229号を北上する。島牧に入るあたり、茂津多トンネル、狩場トンネル、兜岩トンネル、白糸トンネルと千数百メートルの長大隧道をいくつも抜ける。いずれも、新道として近年開鑿された隧道で、海岸沿いには旧道が眠っている。あまりに連続しているので、写真に撮ることすらしていないが、ちゃんと旧道の隧道は坑門が塞がれている。
そのうち、狩場トンネルと兜岩トンネルの間の明かり区間で北に見えるのが、このシェッドである。 シェッドの表面には装飾がしてある。シェッドの銘板は剥がされている。 シェッドの奥には隧道の坑口が見えるが、塞がれている。また、手前のシェッドそのものも、立ち入り禁止の柵がある。海を回れば入れないことはないが、そうする義務もないので立ち入ってはいない。 廃道探索者に限らず、釣り人も入っていくんだろうなあ。 振り返ると、現道との接続部分の向こうに狩場トンネルの北側坑口が見えている。
樹木の成長に伴って、仏像の頭を取り込んだり、自転車を取り込んだりすることがある。この倉庫は、そういうことを連想させる。
車号は消えているが、ワラ1か、同じスタイルで一回り小さいワム60000だろう。 倉庫用として貨車の販売を大々的に始めたのが1984年2月以降。ということは、貨車の屋根のカーブに合わせて壁が作られているこの建物も、それ以後の築ということになるが、どうもそう見えない。もっと古そうに見える。 ここは道路を隔ててすぐ海、木造建築が早々に古びてしまったとも考えられなくもないが、それにしても…。 塩害もあろう。徐々に錆が進行している。 これは、向かって右の「取り込まれた」ほう。 右のものは、ちゃんと銘板も残っている。昭和38年製造ということは、仮に払い下げを昭和59年とすると、現役21年、こうして倉庫になって28年。余生のほうが長い。 貨車の廃車体はほうぼうで見かけるが、その大部分がそういう状態なのだろうと思う。
前回の昭和シェル跡から10分ほど走ると、今度は大協石油のマークが見えた。バイクを止め、雨の中、少しだけお邪魔する。
イエローラインのR105、周辺には普通に民家がある。サービスルームの真正面に、壊された計量器がひとつ。その横に土台だけがひとつ。サービスルーム横にひとつ。奥にひとつ。 上桧木内給油所。残念ながら、サービスルームは荒廃している。 もっとも、計量器の検査期限が昭和53年8月であったりするのだ。閉めてから30年以上が経過している。美しくある方が難しい。この計量器、真ん前に照明灯が立っているのだけれど、なんでこんな位置に…。 左手の防火壁。 大協石油のマスコットと「Hello!」の文字。 地下タンクへの注油口。フタには大協石油の五稜星の陽刻。 すぐ右に大協ホーム灯油の計量器。 そして「丸銀商事」の文字。 ここで直角になり、 この防火壁の(かつての)扉からは、秋田内陸線が見える。ちょうど、列車が通過していった。 右手の防火壁には、欠けた五稜星とDAIKYO OILの文字。その手前の、切断された支柱状のものともども、高さが嫌われて除去されてしまったか。 アイランドに残された給油機。これは人為的に破壊されたものだろう。おかげで内部のポンプが前後対照になっているのがわかる。 その外側らしきものは、サービスルーム内にあった。「ダイナミック」の文字も、大協のマークも残っていた。 |
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