大井川鐵道E10形E103。日立製の自社発注機で、一時的に三岐鉄道に行っていたことがある。いまは、左に見える元西武鉄道のE31に代替されるのを待つばかりで、千頭に留置されてからすくなくとも数年が経過し、雨だれによる汚れも目立つ。検査期限は平成22年4月で切れている。
E103の台車。『電気機関車展望』を手放してしまったため、形式がわからない。wikipediaにも形式名がないので、もしかしたら調べづらいのかもしれない。 台車枠を形鋼で組んだもので、もっとも特徴的なのは、軸箱上部に飛び出た板バネの軸バネだろう。板バネを固定するための棒(なんと言えばいいのだろう)は、両端の2本は台車枠から、内側の2本は台車の中央、台車枠の中に収まっているイコライザー(横長の部品)に結ばれている。 特徴的…と書いたものの、それは2軸台車だからなんとなく違和感を持つだけで、いわゆる旧型電機の棒台枠の台車ではごく普通の構造だ。EF58などの台車を見るとよくわかる。これは、横から見ただけでは理解しづらいが、すてきなサイトがあった。 ・3DCGの世界 すばらしいね。 この日もすべて17mmで撮ったのだけれど、記録用にもっと普通に撮ればよかったと後悔している。 PR
鉄道車両の台車の構造はとても興味深い。狭いスペースを立体的に使いつつ、絶対に壊れてはいけない構造物を作り上げている。眺めていて飽きることがない。新たに台車のカテゴリを作った。
●(推定)大井川鐵道モハ310の、日車D-18台車 現在、千頭駅構内に置いてある台車。もはや使う見込みはないだろうに、こうして赤錆びている。見下ろす形でしか撮影できないが、それゆえ、真横からでは見えない部分が手に取るようにわかる。 枕バネは、()という向きに組み合わされた板バネが枕木方向に3列並列2組ある。奥の1組はこちら側に傾いており、手前側の1組は1列のみ残っている。それも()という組み合わせが開放され、(の形となって下に落ちている。 この枕バネ、画像検索するとやはり3列2組なのだが、鉄道模型ではGMとトミーテックから出ているにもかかわらず、板バネが2列2組でモールドされている。なんということだ。 (参考リンク)リトルジャパン 名鉄3800型を組み立て加工する2 この部分以外はほぼ欠品もないように見える。ブレーキのリンクもまだ動きそうだし、それを台車を真上から見ると平行四辺形になっているのもよくわかる。 斜め上から見ると、ブレーキシューを車輪踏面に押しつけるコの字型の部品が見える。 また、写真右端の車輪の左側、小さなコイルバネが4組並んでいるところは、モーターを台車枠に引っかける部分である。これゆえの「釣り掛け式」の名称だ。 イコライザー式台車(釣り合い梁式台車)は、車体の荷重を枕バネを介して台車枠上面に伝え、上面からコイルバネ→イコライザー→車軸端、という方向で荷重が伝わる。こうして上から見ると、イコライザーのコイルバネの位置、イコライザーが軸受けに乗っかっている位置などもわかる。 冒頭に「(推定)大井川鐵道モハ310の、日車D-18台車」と書いたが、元々は名鉄の3800系である。3800系のうち2両1編成が大井川に入り、さらに4両2編成分の「車体」も大井川に入った。後者は大井川にストックのあった下回りと交換したというし、最初の2両のうちの1両はのちにオープンカーとなって、いまも新金谷の側線にある(名鉄ク2805→大井川クハ510→クハ861)。となると、この台車の持ち主は、モ3805→モハ310だろうと推測される。さて、モーターはどこに消えた?
赤谷線の廃線跡を訪ね、並行する道路を走っていると、それまでほとんど廃線跡らしいものがなかったところに突然でてくるこのコンクリートの塊に驚くはずだ。この橋を不動橋梁だ。
上の写真では、コンクリートの「こちら側」は築堤だったはずだ。これだけ切り下げられたのだ。 向こう側の橋台に、プレートガーダーから垂れた錆びの色がついている。 反対側。こちらはなんとか登れそうだ。 上部に出た。蔓状の植物がのたくってて、一見、ゴザが敷いてあるかのようにも見える。 そこに銘板があった。 運輸省 昭和22年 ては512-11 汽車製造株式会社製作 ---- 材料 L. 日本鋼管八幡製鉄所 ●川崎重工業八幡製鉄所 ●●●●●●(不明)
東新潟港駅付近の廃線跡(夜)
東新潟港駅付近の廃線跡(昼)その1 東新潟港駅付近の廃線跡(昼)その2 東新潟港駅付近の廃線跡(昼)その3の続き。 東新潟港から南下した線路はやがて通船川を渡る。通船川は、その名の通り、阿賀野川と信濃川(現在は栗の木川)をバイパススル運河で、西側に「山の下閘門」がある。阿賀野川側(東側、下流)は貯木場になっているが、上流側にも貯木されている。 スパンの小さな鈑桁3連である。塗装標記に「通船川橋梁」、塗装年月は「199●年5月」と読める。最末期に塗装したのか。 リベット留めであるし、どこかからの転用桁だろうな。 橋台にある銘板には、こうある。 通船川橋りょう 設計 新潟支社 施工 株式会社加賀田組 設計荷重 K.S-16 基礎工 井筒工 鉄筋コンクリート造 圣=6m3 根入=3m7 基礎杭 鋼管杭 圣=318.5mm 厚=6.9mm 長=13m0 20●(←不明) 基礎根入 天端から7m1 着手 昭和42年2月17日 しゅん功 昭和42年12月 上に上がると、現役の線路のようだ。 線路沿いにさらに南下すると、ザイエンスへの踏切があり、踏切を渡ったところで工場の敷地となる。この踏切は警報機も遮断機もある。現役かどうかはわからない。 (了)
東新潟港駅付近の廃線跡(夜)
東新潟港駅付近の廃線跡(昼)その1 東新潟港駅付近の廃線跡(昼)その2の続き。 「その2」からさらに南へ。 いかにも、工業地帯の線路の雰囲気が漂っている。工業地帯まで宅地化が及んでいるのが見えるというか。もし左の宅地がなかったら、それはそれでとても荒涼として見えるのかもしれない。 「国有鉄道」。境界標だろうか。 線路に沿って、いくつもこれがある。こちら側は広大な空き地を持てあましているのに、向こうに見える住宅地は、建物が密集している。なんと不均衡な土地の利用の仕方だろう。住宅地の人々は、この、利用されていない敷地をどう見ているのか。 さらに行くと、踏切がある。もちろん、警報機や遮断機は撤去されているが、柵には「大山…」と書かれていた。 踏切をはさんで、さらに奥(南)を見る。 もう少しだけ、続く。 |
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