西新井駅の伊勢崎線ホームの南側(北千住側)は、古レール支柱による上屋がかかっている。断面はπ型。ここでは上り線ホームを紹介する。
北側(春日部側)は、新しい上屋。両者の差は、支柱の太さもさることながら、天井の高さがすごい。近年の基準なのだろう。西武池袋線の各駅も、高架化に伴う改築で、おそろしい高さの屋根に生まれ変わった。 支柱ではなく、枕木方向の梁をまずご覧いただきたい。頂点は/\という形にレールを縦方向に曲げ、その下を二等辺三角形のアングル材で補強。支柱との接合部にもアングルをかましている。屋根の波板の下、線路方向の部材は角型のようだ。 支柱同士をつなぐように使われているレールは、直線が1本、その下に台形のように1本。これが延々と繰り返されている。東武鉄道の駅で見かける上屋の支柱は、このタイプが多い印象。 レール方向の部材と支柱とのつきあわせ部。支柱はレール頭頂部同士を向かい合わせていることもわかる。 続いて、大師線のホーム。 こちらの断面はY型。しかし、そのセンターを線路方向に古レールが結んでいる。その形状は、伊勢崎線のそれとそっくりだ。 Y字が支えている部分。 この部分のレールはいろいろなものがあった。この写真の上のレールは1960年代の50kgレール。ひとつ前の写真には1927年の陽刻が見える。 このレールなど、偏摩耗がひどい。戦時中に酷使されたものだろうか。どのレールも、頭頂部の形状がおかしい。 ぱっと眺めたところ、1927年製のレールはそこそこあったが、1960年製のレールもまざっていた。他の年代や外国メーカーのものがあるかどうかは不明である。 PR
もっともかっこいいと思う蒸気機関車は、キューロクである。スマートなボイラが高い位置にあり、一方で短足と形容できる径の小さな動輪、そして1両ごとに位置がバラバラなエアタンクとパイピング。なぜキューロクの動態保存機がないのか、私はおおいに不満である。
デフはあってもなくてもいいが、あるなら切り詰めデフがいい。煙突は化粧煙突がいい。その後ろに給水温め器があるとなおいい。エアタンクは、少なくとも左は前方がいい。右は、コンプレッサーとの兼ね合いで前方でない場合もあるが、それはそれでいい。キャブ下のS字カーブはどちらでもいい。…となると、具体的には79618などがかなり近い。 これは、大井川鐵道の千頭駅構内に保存展示してあるキューロクで、49616。雨ざらしゆえ多少のくすみはあるけれども、容姿の美しさは毫も揺るがない。 エイ出版の『9600』、ひどいできのものが多いエイの本とは思えないほど普通に鉄道書だ。キューロクの専門書はなかなかないので、大切に眺めている。
廃止になってずいぶん経つ神岡鉄道は、富山県の猪谷から神通川の支流である高原川を遡っていた。
川の上流から見ると、神岡側から流れる高原川、高山側から流れる宮川が合流する地点が猪谷で、そこから神通川と名前が変わる。ふたつの川が合流する付近では、富山・岐阜県境をなしている。 再び下流から見ると、猪谷を出た神岡鉄道はすぐに宮川を渡り、しばらく高原川の左岸を行たあと、高原川を計4回渡る。そのうち、2番目に渡るのが、ここ第二高原川橋梁だ。撮影地として有名だった場所だ。 200フィート級のプラットトラス(正確には205フィート)なのだけれど、クーパートラス(アメリカン・ブリッジ製の200フィートプラットトラス)よりちょっと大きく見えるのは8パネルであるせいか。実際、高さはクーパートラスよりも2フィート大きい。 このトラス桁は御殿場線の第3酒匂川橋梁と同じ形式で、もちろん転用桁である。第3酒匂川橋梁は1914年横河橋梁製で東海道本線天竜川橋梁であるのはわかっているが、こちらは1922年石川島製で、天竜川ではない。果たして? それにしても、色がひどい。 参考:歴史的鋼橋集覧
JRと東武東上線の接続駅、小川町。東武「東上」線は、東松山からほぼ西に向かっているので方向感覚が狂ってしまうのだけれど、この跨線橋は南側=駅本屋につながる跨線橋である。見ての通り、古レールをプラットトラスに組んだもの。写真は東を向いていて、右が南である。
ご覧のように、ホーム上屋の支柱も古レール。線路方向の梁として、レールを縦に2本重ねているのだけれど、下側が/ ̄\になっているのを東武ではよく見かける。 階段部分を覗く。よくある跨線橋……ん? なにか見える。 なんだこれは? 一瞬、歩く方向を分ける柵かと思ったが、もちろんそんなことはない。おそらく上弦の上に乗っかっている横梁は、上弦とつながっているだろう。アングル材を添接しやすいレールの底面が向こう側なので、反対側の写真を撮らなかったのが痛恨なのだが、時間がまったくなかったので仕方がない。 となると、跨線用としては珍しい、「3主桁のトラス橋」ということになる。3主桁のトラス橋は日本の鉄道創業期の複線桁にもあったし、条件によってはあり得るのだけれど、跨線橋のような、たいして荷重のかからないもので3主桁は、過剰な構造なのではないだろうか? こんな跨線橋は初めて見た。 古レールの陽刻には「6040 CARNEGIE 1922」と見える。また、左に監視カメラが見えるが、これは日立製。まったくの印象なのだけれど、珍しい?? 冒頭の写真を拡大すると、たしかに、跨線橋の裏側には主桁(トラスの下弦)が3本見えている。 この跨線橋は、北側=八高線ホームにもつながっているのだが、まったく形が異なる。 アングル材をプラットトラスに組んでいる。 中はこう。幅は、東上線のものよりも狭い。 しかし、どちらが先にできて、どちらが継ぎ足されたのか、そこまで見ることができなかった。近々再訪して、もっときちんと見てこようと思う。
久しぶりに、アメリカン・ブリッジのピン結合200フィートプラットトラス。福井県の越美北線の柿ヶ島駅のすぐそばにある。暴れ川である九頭竜川を200フィートのプラットトラス1連と短いプレートガーダー計7連、橋長214mでまたいでいるのだが、こうして見ると、上流なのに川幅がこれだけ広いというのが実感できる。これは、南側の国道158号から見下ろしている。
場所はここ。 反対側から見る。写真左が柿ヶ島駅。 下唯野側の鈑桁。22.3mの6連。 拡大すると「第一九頭竜川」と書いてあるのだが、文字の高さが揃っていない。「第一/頭」「九/竜川」でそれぞれ段差がある。 美しい、9パネルのプラットトラス。 真横。斜材を叩いてゴイーン…ってしてみたい。 下弦。このアイバーの並びが美しい。 柿ヶ島駅からはこの近さ。 ここに銘板があるが… 上が、アメリカン・ブリッジの銘板、左右が欠けており、「(AMERI)CAN B(RIDGE)」「(CO)MPAN(Y)」「(N)EW YO(RK)」「(US)A 19(11)」。 その下には国鉄の銘板。 「日本国有鉄道/1962-3/TTR462-1/**** **** /株式会社宮地鉄工所/********」 1962年? 越美北線が、この区間を含む勝原まで開通したのは1960年(昭和35年)12月15日。しかし、ここには1962年の銘板がある、ということは、架け替えられているということだ。 冒頭で、トラスで流路を、鈑桁で溢流部を…というようなことを書いたが、開通時には9連の鈑桁で構成されていた。それが、開通翌年である1961年9月14日から16日にかけて日本各地に甚大な被害をもたらした第二室戸台風による増水で橋脚3基が倒壊、鈑桁も流失した。台風による福井県の被害は、流失・家屋損壊125戸、農地及び宅地の浸水面積3264Ha。この台風により、全国で194名が亡くなった。 復旧工事には、東海道本線の大井川橋梁からの桁を転用した。それが、このプラットトラスだ。宮地鉄工所で改造し、流路部分に架けた。柿ヶ島寄りの1スパンは、コンクリート桁に置き換えた。そのため、9スパンだったものが8スパンになった。 …これは帰宅後にわかったもので、もし事前にわかっていたら、鈑桁やコンクリート桁の銘板類も撮ってきていたのだが…。 ディテール。 さて、どこが改造された部分か。 自分の過去の記事(カテゴリー「アメリカン・ブリッジ」をご覧ください)と見比べても、ちょっとよくわからない。不勉強ですみません。 <参考> ・歴史的鋼橋集覧 ・ 水害と治水事業の沿革(PDF) <関連項目> ・[西勝原第三発電所の水圧管路と九頭竜川第二橋梁] ・[無表情な戦後型のポニープラットトラス] ・[小舟渡橋 その1 (福井県)] ・[小舟渡橋 その2 (福井県)] |
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