2012年3月31日、友人のフォトライター、栗原景さんが、水郡線常陸太田駅で国鉄・JR線完乗になるというので、お祝いというか立ち会いというかでご一緒しようと思い、出かけた。予定では929D、11時50分着の列車だったのだけれど、私は1本前と勘違いして2時間も早く水戸についてしまった。完乗については栗原さんのサイトをご覧いただくとして、その前後の出来事を書く。
当日はものすごい強風が予想されていて、私の列車も強風のための徐行で10分遅れで8時55分頃、水戸に着いた。結果的に、それが吉となった。
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下菅谷で駅便と撮り直し、瓜連から静まで歩いたりして時間を過ごす。砂が顔にバチバチ当たり、髪はゴワゴワに、そして耳の中まで砂で黒くなる始末。 10時34分、上菅谷に戻って栗原さんと合流。その列車は、時々飛んで来た枝を踏んづけているらしく、床下からそんな感触が難度かあった。 この時点で常磐線は強風で止まっており、水戸に向かっていた方々が内原や羽鳥、土浦で足止めを食っていた。 様子を見ながら、栗原さんは完乗列車を1本遅らせることを決めたが、その間常磐線は動かず、機転を利かせてバス移動した方々だけと合流し、完乗列車に。乗車したのは上菅谷発12時33分の931D。風はさらに強く、車内から前方を見ても砂煙でよく見えない。列車は断続的に警笛を鳴らしながら走っていた。ところが、額田と河合の間で… ガコガコガコガコ。 衝撃と共に、車窓になにかが飛び散る。さっきの経験からしで枝だろうと思ったら、なんと枝を押しながら走っている! これが12時41分頃。 急ブレーキがかかるよりも衝撃のほうが早かったので、おそらく発見できなかったのだろう、倒木と衝撃してから非常ブレーキをかけたようだ。停止してから窓を開けてみると、こんな状態だった。 動画。 幸い、単に停車しただけ、のような状態で、ケガ人などはなし。国鉄時代ならば運転士が撤去して点検後再開、なのかもしれないけれど、いまの時代だ。点検後、手歯止めをかけて指令に連絡し、保線の方(?)の到着を待つ。 右前部のドアから。ここに見えるということは、台車の2軸の間にあるということだ。左側には、あまり飛び出していなかった。 いつのまにか保線の方(?)が来て、作業中。鋸で切断し、撤去する。 撤去後の枝を見ると、これは枯れ枝を踏んだのではなく「倒木と衝撃した」のだとわかる。 動画。 左側。 偶然、真横に鉄道電話が! こうして撤去し、車両点検の後、現場停止から約45分後の13時26分頃、運転を再開した。 そして。 おめでとー! 小倉沙耶さんからのお祝いの品を掲げつつ、とんぼ返りする方々をお見送りする。この後、バスで大甕まで出て…と思っていたが、急遽、同じ列車で折り返すことにした。 先の現場は少し慎重に通過し、それよりも上菅谷寄りでは、このように実際に倒木があった箇所の片付けをしていた。白く見えるのは警察官2名。 そうして水戸へ戻ると、本来ならば駆けつけるはずだった、ライターの土屋武之さんが乗ったスーパーひたち13号が4時間以上の遅れをもって到着した。その後、居酒屋で打ち上げ。18時頃にいったん締めたあと、まだ運転再開していないので2次会に。
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20時。そろそろ帰るかと改札に入ったら、すぐに出発するとのこと。急いで乗り込む。建前としては水戸発17時35分の1442Mが2時間以上の遅れで運転する形となった。2次会の参加者のうち、この列車で帰ることにした5人はグリーン車へ。 神立までは比較的順調だったけれど、そこから断続的に抑止がかかる。強風による抑止なのか、上野駅が詰まっているためなのかはわからない。 GPS端末で取得したログを置く。 (拡大版) 佐貫で1時間以上停車した。いささかうんざりしたが、どうしようもない。我々はこういうときの事情も推測できるので、静かなグリーン車で静かにしていると、1駅ずつだが動き出した。 なぜか、藤代を出たところで、車内灯が消えた。 E531系は、デッドセクションでも車内灯は消えないはずだが、検索すると、そういうこともあるらしい。どういうときに消灯するのかは未詳。 そうして0時頃に日暮里に着いた。約4時間かかった。その後、私帰宅した。他の方は、ホテルに泊まった方もいた。 常磐線の特急車内では殺伐とした状態になったらしい。ほかにもあちことでそういうことがあっただろう。乗客および関係者の方々、お疲れさまでした。 PR
4月1日から、勤務先が移転する。銀座一丁目から京橋3丁目へ。徒歩5分ほどの場所への移転だ。
入社後、別館的に京橋2丁目に3年、八丁堀4丁目に3年いて、銀座に戻った。銀座勤務は11年間になる。その感覚からすると、銀座と京橋は華やかさが違う。八丁堀は全然違う。でも、仕方ない。 銀座一丁目の駅を出てすぐ、「わした」の横から路地を入り、裏口からビルに入っていた。入社当時は新築に近く、7階から11階が執務スペースで、ひとりあたりの面積も大きかった。のちに6階~11階を勤務先が占めた。 ぼくは最初8階、異動で10階、異動で9階と動き、宝町は4階から異動で5階、八丁堀は1フロアだったので動かず、銀座に戻ってからは10階だった。 5年近く使ったこの場所も、今日でおしまい。くたびれた什器類も更新される。
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明日は実際に引っ越し作業をするのでフロアに入れる。しかし、明日行っても、もう「自分の場所」はない。裏口から「いつものように」入っても、きっとよそよそしく感じてしまうだろう。 この感覚は、例えば卒業した学校を、あまり時間をおかずに訪ねたときや、実家を出てから帰省したときに見る自分の部屋だったところ、みたいなときに感じるものと同じだろう。 もう絶対に戻ってこない場所。 勤務先におけるそういう場所は、宝町の4階だ。当時はバイク雑誌で仕事をしていて、そのフロアはほかに三つの雑誌があった。そのため、不夜城という言葉が似つかわしく、24時間人がいた。ぼくも、休日など皆無に近い状態だった。でも、仕事はとてもやりがいのあるものだったし、こなせばこなすほど、仕事が楽しくなっていった。そんな場所が宝町の4階だ。すでにそのビルは建て替えられしまった。 感傷的なことを書いたけれど、4月2日、新しいビル、新しい什器で18年目の勤務が始まる。新しいことをやらねばと、わくわくしている。
長野駅の番線の呼称は変則的だ。かつて、善光寺を模した駅本屋があったころ、駅舎側の第1ホームが1番線、第2ホームが2番線・3番線…と、順送りに7番線まであった(『国鉄全線各駅停車6 中央・上信越440駅』に図がある)。しかし、現在は橋上駅舎となり、第1ホームは使用されておらず、第2ホームが1番線・2番線、第3ホームが3番線・4番線・5番線、第4ホームが6番線・7番線となっている。
第3ホームはどうなっているかというと、東側の中央で分断し、車止めを設置した上で、北側を4番線、南側を3番線としている。wikipediaによれば、こうなったのは橋上駅舎化時(1996年)ではなく、2000年12月1日である。 その、分断したあたりから北側のホーム上屋の支柱に古レールが使われている。 北から南を見ている。ホーム中央の自動販売機の上あたりから向こうが、新しい屋根と支柱だ。自販機の右に写っている男性の後方に白い板がみえるが、これが分断された車止めの上に設置してある板である。 ご覧の通り、手前(北側)の支柱は古レール。しかし、屋根は波形鋼鈑であり、支柱が塗り替えられた上に清掃が行き届いてピカピカ光るほどなので、一見、古レールであることに気がつきづらい。 接合部をアップ。 振り返ると… こうなっている。垂木(枕木方向の梁)が鈍角である。支柱は踏面あわせ。軒桁(線路方向の桁)との接合もおもしろそうだ。 軒桁と支柱を真横から見ると、こう。 接合部をアップにするとこう。支柱は貫通し、軒桁が乗るような支え板を用意し、軒桁は支柱に横方向でくっついている。 真横から見るとこう。 軒桁にレールを使う例って、あまりなかった気がする。でも、そこにレールが使われているからこそ、屋根の下が直線になり、スッキリする。 なお、支柱は塗膜が厚いため、古レールの調査はできなかった。
昨年、オイル交換した後から、2速への入りが悪い。かねてより、クラッチワイヤーのレバー側の太鼓のカバーが破損していることと、ワイヤーが伸びきっている疑惑があったので交換した。
約3700円。まだ欠品になっていなくてよかった。 ハンドガードを外し、アジャスタを回してケーブルを抜く。 こんな具合に、プラ製の太鼓のカバーが割れている。以前見たときは、ワイヤーがほつれていたような気がするのだが…。 新品の太鼓。こんなにきれい。 新品のワイヤーにグリスを通すために、ワイヤーインジェクターを使う。これを使うの、10年ぶりくらいかもしれない。 クラッチ側のアジャスト。けっこう簡単に決まって助かった。やっぱり新品は伸びがないから合わせやすい。 しかし。 2速への入りの悪さは変わらない。ドグが欠けてたりするのだろうか。もうこのままつきあうしかないのか。ギヤ抜けが怖い。。。 |
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