上越線 第一利根川橋梁(群馬県)
上越線 第二利根川橋梁(群馬県)の続き。 下り線の開通は1924年(大正13年)3月31日。上り線は1963年(昭和38年)12月20日。その間、約40年の差がある。その時間の感覚は、上り線開通から2011年12月末が48年間であることを思いたい。その40年の間に、大きなプラットトラスでなければならなかったスパン47mは、鋼鈑桁でいけるようになった。 橋脚も両者の時代の差が見て取れる。下り線は石積、上り線はコンクリート。このまま左を向く。 第7連と第8連の間の第7橋脚は白いが、石積を塗ったもの。その左、少しだけ見えている第8連と第9連の間の第8橋脚はコンクリート製だ。 もう少し前に進み、桁の下に行く。 位置を変えて高崎方を見る。 川岸に戻り、上り線のPC桁を。 . 淡々とここまで。 PR 例えて言えば、純文学ではなく娯楽作品である。 内容は、数多ある路線別紀行文から、ダム建設と関連がある路線だけを集めたようなもの。、鉄道好きに「ダムって面白いよ!」とすすめる内容ではないし、それなりに鉄道史に詳しい人であれば、ここに書いてあることはほとんど知っているだろう。その程度の内容だ。何を目的にこの本が作られたのか、まったくはっきりしない。だから、それを「娯楽作品」と表現した。娯楽としての鉄道紀行を読みたい人には楽しい本かもしれない。 私個人は娯楽作品ではなくて純文学を求めているので、その観点で感想を書く。 最大の不満は、「ダムと鉄道」と銘打っていながら、その関係性を俯瞰した記述が一切ないことである。「ダム建設に関わる鉄道にはこうした傾向がある」とか「電力史とダム史と鉄道史と政治史はこう関わりがある」とか「河川管理と水利権」とか、そういうことはまったくない。電力史や水利権の記述がないままに、個別に、黒部峡谷鉄道がどうした、大井川鉄道がどうした、ということばかり書いている。その内容は、wikipediaの各路線の項目を見れば十分、という程度である。 電力史をご存じない方は、戦前の五大電力会社、戦時下の日本発送電、戦後の9電力会社についてwikipediaの項目を読むと、かなり補えると思う。日本発送電の項目だけでも流し読みして欲しい。 以下、指摘したい誤り及び意見。 ●P73~75 立山カルデラの土砂量 「立山カルデラ内には、いまも2億立方メートルほどの崩落土砂が残る。放っておけば富山平野全体が、高さ2メートルの土砂に埋め尽くされるほどの量だという」とある。この数値は公的なサイトを引用したものだと思うが、この数値は実は異常である。かつて、この数値について考察したことがある。こちらをご覧くただきたい。 立山カルデラの土砂の量の不思議 ●P134 アプト式 1968年(昭和43年)まで信越線で用いられていたとあるが、もちろん1963年(昭和38年)の誤記。交通新聞社の本なのに…。 ●P151第4章のリードに異議あり 第4章は奥只見ダム・田子倉ダムである。その章扉に「電源開発の『発電所専用鉄道』から、国鉄に移管された政治路線。」(強調磯部)というリードがある。「政治路線」とはなんだろう? 鉄道建設計画には経済的事情と政治的事情があるのだが、政治的事情のある路線がそういう書かれ方をされるならば、東海道本線よりも先に信越本線が建設されたのも、東北本線が日本鉄道により建設されたのも、日本鉄道の設立そのものも、政治的事情となろう。私はこういうレッテル貼りが大嫌いである。 ●P221~225場ダムに関する記述への大きな違和感 文筆家の竹内正浩氏が「交通新聞新書『ダムと鉄道』を読了。著者は骨の髄まで新聞社の文体が染みついている人。新聞記事ならツボを押さえたいい記事なのだろう、たぶん。ところが どの章も似た構成で、しだいに文章のあざとさが鼻に付く。致命的なのは鉄道ファンにとっての情報量が少なすぎること。着眼点がいいだけに惜しい。」(文字色調整磯部))とツイートしていたが、この章はまさにそうだと感じた。 これ以外の章は、単なる鉄道紀行文なのに、なぜかここだけ八ッ場ダム建設批判になっているのだ。ダムに沈む予定のJR吾妻線の新線、第二吾妻川橋梁(新)に関する記述は、無知ゆえとはいえ、許せない記述になっている。 一方、ダムに沈む旧橋に関する記述。 第二吾妻川橋梁(新)は、このような形式で、橋長431mに対して橋脚(主塔)はわずか2本。中央スパン167m、しかも曲線桁(そうしたことも著者は書いている)。鹿島のサイトには明確に「『PRC斜版橋』という構造形式が採用されたのは,鉄道橋には乗客の安全性と快適性の確保が求められること,吾妻川をまたぐ大スパンを実現することの二つの理由による」と書かれている。一方、旧橋は、スパンが46.8mしかない単純トラス橋である。橋長は68.41m。こうした、規模がまったくことなるものを比較して何がしたいのだろうか。「豪華な橋を作りやがって」という印象をベースに書かれた、本筋に関係ない蛇足である。私はここに、竹内氏の言う「文章のあざとさ」と、新聞記者らしい「無理筋な主張をさも当然のように書く」という書き方を見る。 もし新線が、スパン46.8mで済んだら、現代なら、間違いなくトラス橋より安上がりなプレートガーダーが架かるだろう。著者にそういう視点は、ない。あらゆる土木事業は原則的にコスト最優先で作られているのだが、著者はそれを見ないフリをしている。そもそも、「単線のローカル線には分相応」とはどういう意味だろうか。これは「新聞記者らしい感想」だな、と思う。そういうレッテルを貼りたくなる。 また、橋の構造をとってつけたように解説しているが(ここだけではなく、他の箇所にも散見される)、そんな蛇足よりも、ダムの構造やスキージャンプ式を図で解説したほうがずっといいだろう。冒頭に書いたとおり、俯瞰した記述がないので、読者には、ダムや減勢工の構造はおよそどんな種類があり、それぞれがどんなものに適しているのか、というようなことは必要だ。 ●P251 三弦橋は夕張だけではない 「国内にはこの『三弦橋』しかない」とあるが、もちろん誤記。道路橋はいくつもあるし、そもそも水管橋なら全国に数え切れないほどある。「鉄道の三弦橋は」という条件が抜けているのだ。なな爺さんが起こるのではないか。 以上。 交通新聞社新書は、キャッチが「軽~く読んで、長~く本棚へ」だから、多くを望んではいけないのかもしれない。しかし、『鉄道公安官と呼ばれた男たち』(濱田研吾)という本もある。また、『「動く大地」の鉄道トンネル』(峯﨑淳)は、「トンネルとは何か」という、俯瞰した記述がきちんとあった。結局は著者によるのだろう。別の著者による良書を期待したい。 はっきり言って、安い。地方版元の刊行物は、往々にして安い。その理由はいくつかあるのだが、憶測で書くのもなんなので控える。 この写真集は、「買い」だ。刊行する意義がある本である。そして、あらゆる点で、私の編集コンセプトと大きく異なっているので、いろいろと考えるきっかけになった。 ここには、昭和60年前後の鉄道ファンの関心とその姿が色濃く掲載されている。 同じようなカットが続く。私の考える編集作業では、当然どれか1点に絞るべきところを、まったく絞っていない。なにしろ400ページ以上に1200カットだ。ホームで撮った列車の写真、写っているのは同じ形式、とくれば、自然と同じようなカットになる。それでも、その日その場所で記録されたものが発表されることには大変な意義があると考える。いや、これこそが編集方針なのだろう。私が作る場合とはコンセプトが異なるというだけのことだ。 この本は、写真集というにはあまりに製版と色が悪い。しかし、そこに掲載されている写真は、印刷とか色とかを吹き飛ばす、非常に貴重な記録である。いや、 欲を言えば、それらも完璧なものがあったらそのほうがいいのだが、この印刷や色は著者が満足しているのだろうから「好み」の問題と言うことにしておく。
いままで実際の商業印刷で試した結果から言うと、コンデジのデジタルズームを使用した画像やひと世代前の携帯電話のカメラで撮影したフルサイズの画像を使うとこんな品質になる。あるいは、2000年頃にネガプリントを家庭用のフラットベッドスキャナでスキャンし、自分でCMYKに変換して印刷原稿にして入稿すると、こんな色になった。2000年代前半の製版技術では、35mm判ポジをA4見開きにしてまったく問題ないくらいにはなっていたので、いまなぜこんな、という思いは大きい。著者の原版はもっときちんとしていて、製版・印刷に問題があったのか。著者は他の全国媒体でも仕事をしているのだから、この印刷が、その水準には達しないことは承知の上だと思うのだが…。
掲載内容は、サブタイトルの通り、北海道の廃止されたローカル線のスナップ集である。「車両をかっこよく撮った写真」ではない。たくさんの駅の、駅舎、ホーム、駅で働く人、鉄道で働く人の姿が収められている。たまに、鉄道ファンの姿も収められている。 雪景色も多い。私の郷里・新潟のかつての風景にも重なる。木造の建造物と気動車、雪景色。また、草いきれがにおってくるような夏景色。それらも、あくまでスナップだ。 本書に掲載されたようなものが、紙媒体として刊行されたことを嬉しく思う。掲載されている内容も、いつまでも、何度でも眺めていたくなるものだ。この本は、買いだ。 この本で採り上げているのは次の5人だ。 ・土倉庄三郎(紀伊半島・熊野周辺) ・天爵大神・水谷忠厚(愛知・岐阜・福井周辺) ・禅海和尚(青の洞門) ・増田淳(橋梁設計者) ・村田鶴(隧道設計者) それぞれ重要な人物なのだが、土倉庄三郎と村田鶴が、とくに永冨さんの琴線に触れるふたりなのではないかと勝手に考えている。私も、永冨さんに感化されて関心を寄せていた一人だ。 2008年11月、永冨さんと平沼義之さんの共著として『廃道本』を刊行した。読売新聞が著者インタビューを掲載してくれるというので、担当記者とともに永冨さんを訪ねた。11月20日のことだ。 どこでインタビューしようか。どういうインタビューにしてもらおうか。思いついたのは、村田鶴の話だ。『廃道本』でも村田鶴のページを設けている。利用者と工事関係者の『道に込められた思い』のうち、とくに後者の話に、村田鶴がうってつけだと思ったからだ。当時、村田鶴に関して、まだまだ未知の部分があったから、これをきっかけに何かが動いてくれるかもしれない、という期待もあった。また、「直接の設計者は無記名である」ということも、道路にとってはとても大切なことなのだという思いもあった。 そこで、大阪住まいの永冨さんに米原まで出張っていただき、永冨さんが「発見」した佐和山隧道をバックにお話を聞き、撮影をした。 ほかにも永冨さんにご案内いただいていくつか隧道を回った。 このときは知るよしもなかったが、のちに永冨さんが谷坂隧道竣功記念写真帖を見出し、そこで初めて村田鶴の写真と対面したという、記憶すべき隧道だ。 これらの取材が終わり、記者は一足先に東京に戻ったので、私と永冨さんで食事をした。そのとき、永冨さんがポツリと言った。 「どくらしょうざぶろう、って知ってますか」 私は知らなかった。聞けば、信じられないレベルの大金持ちで、自分の財産だけで数十kmの道路を造ってしまった人らしい。あまりにスケールが大きくて、全貌をつかむのも一苦労らしい。そういう理解をして、その日は別れた。 後日、『日本の廃道』で『熊野街道Odyssey』と題して怒濤の連載が続く。正直なところ、あまりに複雑で、いまだにうまく把握はしていない。地図と首っ引きで見ても、憶えられない。それだけのスケールの物語が、70ページ弱に凝縮されている。ぜひ2万5000分の1地形図を用意して、首っ引きで地図を舐めながら読むことをおすすめしたい。 話を村田鶴に戻す。 かねてより、永冨さんは「村田鶴のことを知る手がかりが、もしかしたら向こうから来るかもしれない」という気持ちで活動してきた。『日本の廃道』すらも、そのためのものである、という気持ち。それが、ついに実を結んだのは2011年になってからである。 2010年8月の『廃道ナイト2』の時点では、まだまだわからない点が多すぎた。その時に上演されたフラッシュがアップされている。村田鶴がどんな人か、永冨さんがどれだけ惚れ込んでいるか、それを知る者には涙なくしては見れないフラッシュだ。実際に、会場では泣いてる人が何人もいた。私を含めて。 http://www.kyudou.org/KDC/murata2+.swf そして、このイベントが縁を結んだ。村田鶴のご子息と連絡がついたのだ。その成果がこの本に収められている。 黙して買うべし。
2011年12月16日。ふたつのできごとがあった。
ひとつは、北海道の国道452号線の、大夕張ダム工事に伴うルート切り替え。これによって、三弦橋が間近で見られなくなる。そして、三弦橋はやがてダムに沈む。 もうひとつは、急行「きたぐに」の廃止だ。 まずは三弦橋から。 この夏、10年ぶりの北海道キャンプツーリングにどうしても行きたかったのは、三弦橋を見ておきたかったからだ。かつて、なんどもこの横は通ったし、いまは通行止めになっている林道から俯瞰したりもした。『廃線跡の記憶2』の表紙になっている地点にも、行こうと思えば行けた(が、行っていない)。当時は、とくに強い関心もなく、「ああ、三弦橋だ」くらいにしか思っていなかったからだ。これが見納めになるか、大夕張ダム完成後もなんらかの形で見ることができるのかは、まったくわからない。 自分としては、餞のつもりでこの写真をアップする。 ルート切り替えについては、サイト道道資料北海道が詳しい。 この春、友人たちと「きたぐに」に乗ってきた。人と鉄道旅をするのは初めてに近い。新潟駅集合、大阪駅解散。不思議な旅だった。その時の写真が上のもの。 さて、ここから約30年前に戻る。 テールマークは「急行」である。今日、@shangri_la_19_oさんに教えていただいたのだが、かつて『鉄道ファン』誌にイラストのトレインマークが掲載されていた(ペンギンモデルのシールとして存在する)。それは、どうやら実在の物ではなかったらしいのだ。しかし、小学校高学年の私は、嬉々としてそのトレインマークを描いていた。まさか、「ウソマーク」だったとは。証拠に(なるかはわからないが)ここに写っているのは「急行」の2文字である。 上の写真は、おそらく運転最終日、1982年11月14日のものである。おそらく、というのは、前後に、11月14日21時新潟着の181系「とき23号」の写真が写っているためだ。新潟発の上りは21時23分発なので、時間的にもつじつまが合う。 「きたぐに」は、1985年3月改正で583系になった。そのニュースを聞いたとき…『鉄道ファン』で読んだ時の衝撃のほうが、今日「廃止」と聞いたときよりも、ずっと大きい。それは、歳とともに鈍感になっていくから、というよりも、「廃止」は後ろ向きの話だが、583系化は前向き、グレードアップの話だからかもしれない。 思わぬところで29年前を思い出した。もう「きたぐに」に乗ることもないだろう…と思いながら2月あたりの平日に座席車に乗ってみたいものだ。 |
カレンダー
最新記事
(02/15)
(01/01)
(12/31)
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
(10/22)
(10/21)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|