「ニッチマニアの為に勝手に作り続ける」をスローガンに、極地的に興味を持ったモチーフを誰に頼まれたわけでもなくTシャツやてぬぐい等に商品化してくれるアパレルブランド(以上、exciteニュースより)、マニアパレルが下北沢に「テト家」をオープンした。3回の週末のみの期間限定だ。 詳細こちら。 もちろん行ってきた。 マニアパレルのバドンさんと初めてお会いしたのは、2008年12月19日にジュンク堂書店新宿店で開催された『ワンダーJAPAN公開編集会議』。そのとき、そのイベントとは直接の関係はないのに「テトぐるみを作ったのですが売れなくて。ここジュンク堂さんで扱ってますので是非」みたいなことをおっしゃっていた気がする。そのときは、いいな、と思ったけれど、ちょっと値も張ったので見送った。でも、今回は買ったよ! . 東京に住んでる人にはテトラポッドといっても馴染みがないかもしれないけれど、私の新潟の実家からは海まで歩いて3分、そこに行けば必ずはテトラポッドが目に入る。そういうところで育った。もうずいぶん、子供の頃とは変わっちゃったけれど、いまはこう。「新潟島」の沖合に、ひたすらテトラポッドが並んでいる。 大きな地図で見る 私にとっての「冬の日本海」は、この、海面上3mくらい顔を出したテトラに波がぶつかり、その3倍くらいの高さにしぶきを上げる姿だ。もちろん空は鉛色。風は海から吹いてくる。 #イメージ画像(2000年代の新潟市。当時とはかなり異なる) . また、母方の実家のすぐ近くには、デンカセメントのテトラポッド製造場があり、ズラリ並んだテトラにのぼったり、できたてのテトラのバリを取ったり、型枠に入ったりして遊んでいた。 #イメージ画像(これは2000年代の新潟市内) . まあ、そんなこんなでテトラポッドは私の琴線に触れるものなのだ。 買っても、家にソファもないので持てあます(?)ことは容易に想像がつくけれど、意外にも家族に受けた。ホッとした。「ウイッグ受けに」という意見にはちょとアレだったが。 さて、「テト家」がある下北沢。@watanabejinさんが、「~沢だな」みたいなことを書いておられたので、カシミール3D+山旅倶楽部(10mメッシュ)で再現してみた。 低い方から、白~29青30~35緑36~40黄41~赤(高)、となっている。下北沢駅周辺は、黄色い部分を見ればわかるとおり、それほどの起伏はない。 きょうみぶかいのは、南側である。緑の部分が急角度で落ち込んでおり、青~白へと低地につながっている。白い部分は、池尻大橋から西に遡る暗渠の先端である。ひとつ尾根を挟んで南にも暗渠があり、池尻大橋につながっている。 世田谷区は全体的に道が細く曲がっており、「道路地図」を把握するのが難しいのだが(これは『上品ドライバー』でも言っていた)、この下北沢の南側のような地形であれば、なるほど道路の直線化などは難しいだろう。練馬区の平べったいところとは違うのだ。 それにしても。 住居表示により、「○沢」が大地の上にあったりするのもよくわかる。「○沢」だからといって、谷底にあるというわけではないことが、この地図でもよくわかろう。 PR
長野隧道(1) (国道163号/三重県)
長野隧道(2)昭和隧道東側坑口 (国道163号/三重県) 長野隧道(3)昭和隧道西側坑口 (国道163号/三重県) のつづき。 ここで、現在のルート、新長野トンネルを見る。 東側。左に行くと、(2)で見た東側坑口に至る…のだが、もともとの道は画像左に見えている道ではなく、新トンネルの坑口すぐ左に入っていく道が本来のルートであった。それが、いま画像左に見えるルートに付け替えられたのだ。それにともない、祠が移設されていた。 . 新長野トンネル。坑口周辺の、地山の押さえつけがすごい。山を切り刻み、そこに坑口を穿ったような印象を持つ。坑門の形状の落ち着かなさは異常。向かって左は上も下も斜めにカットされてるし、向かって右は下だけがカットされ、とってつけたような翼壁がある。そして、上部のワッフル。坑門の意匠としては、相当「ダメ」なんじゃないか? 扁額は、肉筆のように見えるけれども銘はなし。 銘板。 新長野トンネル 2008年3月 延長1966m 巾7.0m 高さ4.7m 施工 株式会社大林組 清水建設株式会社 日本土建株式会社 冒頭の画像の左の道に入り、振り返った図。 画像中央に新長野トンネルの翼壁が見えている。 画像左の道が、本来のルート。これを、画像右のものにつけかえている。そして、このつけかえルートも、(旧)長野隧道廃止とともに主たる役割を追えた。いわば、仮設された国道。新長野トンネルが完成したら用済みとなる国道。とはいえ、橋がかけられ、画像右端のように山を切り崩した法面はコンクリート吹きつけで保護されている。 一足飛びに西口へ。 (旧)長野隧道西口坑口付近、南側に駐車場がある。そこに石碑が建っている。 道路開鑿紀念碑 明治十三年十一月十二日 起工 明治十八年六月十五日 竣功 つまりこれは、石造りの長野隧道(1) (国道163号/三重県)の記念碑である。しかし、この碑の周辺には旧旧長野隧道の案内はない。実際には、碑から道路を渡り、北側の斜面を登り、道なりに行くと旧旧隧道の西側閘門が土砂に埋没している場所に至る。そのあたりの経緯は『廃道本』をご覧いただきたい。 これは、さらに古い道。旧旧旧長野峠越え道とでも言うべき道。 「従是 旧長野峠道 大山田村」という石柱がある。これは、明治の旧旧長野隧道より以前に使われていた長野峠越えの道だ。もちろん、これをたどれば東側に到達する(はずだ)。 さて、ちょっと外れてR163の道路改良跡。 こういう地図にも道路改良跡が反映されているのもすごい。 路肩もない国道163号、それを直線的に改良し、余ってしまった(?)部分は歩道にもせず植栽部分と、意味不明な部分に分かれている。 旧ルート部分、ぶった切られた黄線が生々しい。そして、現道との段差部分の法面、これはきっと土を入れて斜めに突き固めてあるんだと思うのだが、そのまま草も生えずにあるのが、いかにも突き固めた跡に見える。 そして、オニギリは旧ルートにあるまま、移設していない。なぜだ。 なお、一連の記事のうち、2010年撮影のものは『廃道 棄てられし道』の撮影のために現地を訪れた丸田祥三氏に乗せていっていただいたものだ。深く感謝申し上げます。
長野隧道(1) (国道163号/三重県)
長野隧道(2)昭和隧道東側坑口 (国道163号/三重県) の続き。 「通行止め」の看板が出ている。この先に、昭和隧道がある。 坑門右上に直方体の石が載っているのが西側。 こちらでは、シャッターに近づいて見る。 もともとあった配管パイプが取り外され、新たに別のものが配管されている。 路面を見ると、横に三分割されたシャッターの支柱を埋め込んでいるのがわかる。 最後に、2008年の現役当時の姿を。
長野隧道(1) (国道163号/三重県)の続き。
上記の明治隧道は東側であり、西側は強制的に埋没させられている。それはまた後日書くとして、東側の坑口のすぐ「左下」に、昭和の隧道があった。2008年に訪れたときには。そして、2010年に訪れたときも、当然、まだあると思っていた。 しかし。 驚いた。 塞がれていた。 ちょっと手前から。 この「右上」に、明治隧道の坑門がある。そして右側に、なにかの事務所がある。 画面右端に見えている石碑は隧道改修記念碑である。その向こうには、明治隧道から取り外された扁額がある。 隧道改修記念碑。「昭和十四年三月/膵臓が奇襲記念碑/衆議院議員 馬岡次郎書」と刻まれている。「改修」とはいうものの、昭和隧道すなわちここに掲載した閉鎖された隧道の工事を記念したものだろう。昭和隧道は、nagajis氏の記事によれば昭和16年の完成である。 「其功以裕/従三位勲四等岩村定高」と刻まれた扁額。西側のものか東側のものかはわからない。 「補造化/内海忠勝書」とある扁額。このふたつの扁額の解題は、やはりnagajis氏の考察に委ねたい。 2008年に訪ねた際、明治隧道へは、向かって右の斜面をむりやり進んでいった。明治隧道の坑門前に行ったらチェーンソーの音がすぐ近くで響いており、しばらくすると山仕事、というか周辺整備の仕事をしている方が歩いて行った。 しかし、2010年の再訪時には、左に通路ができていた。 整備されるのは嬉しいような、そうでもないような。。。 ここで振り返ると、こう。 路面の状態はこんなだった。これは、台風の後だったからということもあるが、もし昭和隧道が閉鎖されていなければ泥はすぐに撤去されたことだろう。 再度、「寄る」。 この昭和長野隧道の扁額は、なおもnagajis氏の記事に頼れば、当時の三重県知事・佐藤正俊の書である。この写真では、「道」の左に何かしら文字が刻まれているのがわかるが、かろうじて「事」は判別できるものの、ほかは苔が埋めており、判読不能だ。 2008年の東口。左に落石注意の標識がある。拡大 してみる。 ▲の左側に落石がある。現実とは逆側に…。 そして、2010年のもの。 標識が更新されている。支柱が新しくなり、▲の右側に石が落ちている。2008年7月の撮影後、12月に閉鎖されてしまうのに、なぜ標識を新しくしているのだろう? もしかしたら、隧道を塞ぐ際に更新したのかもしれない。その手前までは道路として管理しなければならないためだ。設置年月を確認していないのが悔やまれる。 nagajisさんの『旧道倶楽部』で見て衝撃を受けた隧道。2008年までの詳細はすべてそちらで。 上の写真は2008年8月に撮影したものだ。現在の、長さ1966mの「新長野トンネル」が開業してすぐのもので、旧道も現役だった。この隧道は旧旧道にあたり、旧道の東側の坑門に向かって「右上」にある。 注目していただきたいのは、ピラスター(坑門両脇の柱)の下部、ちょっと装飾してある部分の「高さ」だ。 こちらは2年強を経た、2010年10月の撮影。装飾の「高さ」を見比べればわかるとおり、右の装飾はほぼ埋まっている。全体的に土砂が多く流入している。 2008年の段階では、坑口に立っても要石に手が届かなかったが、2010年の段階では届いた。2008年に「でかい」と感じた坑口は、2010年には「小さい」と感じるようになった。 こうなった原因は、2008年秋頃にあった地震ではないかと推測している(たしかnagajisさん)記事があったが、真相は不明だ。 そして現在、2008年に訪ねたときは通行できた「旧道」は完全に閉鎖されている。後日、アップする。 |
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