副港橋梁 留萌本線脇の廃橋梁に関連して。
映画や映像に造詣の深い、写真家の丸田祥三さんと倉本聰氏の話をしていたとき、『駅 STATION』の話になり、血糊の話になった。この時期の木村大作氏の撮影した映画は、ピストルで撃たれると、血しぶきが水鉄砲のように飛ぶ…というのだ。そうだったのか。そう思って、以前録画してあった『駅 STATION』を再度、見てみた。 倍賞千恵子さんがとてもすてきなのだが、そんなことは割愛して、これだ。 画面下、歩いているのは烏丸せつ子演じる「すず子」だ。でも、私の目は、右上の三つのトラス橋に釘付けだ。 いちばん向こう、端柱が立っているのが副港橋梁。今も廃橋として残っている。その手前が、留萌本線。いまもある。そして、その手前にあるのが…木製のトラス橋! というか、鋼と木の複合橋? これは道路橋である。鋼製のプレートガーダーを、木製のトラスが補強している…なんてことは強度からしてもなさそうだ。トラスの横桁の上にプレートガーダーが乗っているようにも見えるが、横桁が朽ちて離れている部分もあるし、後述の理由もあるので、そうした構造ではないだろう。そして、いちばん注目点したいのは、トラスの組み方はダブルワーレンのようにも見えるが、基本はアラントラスになっている点である。 アラントラスについての参考:上士幌町の仙翠橋/アラントラス備忘録 画面に映っている範囲で書くと、 太い=上弦、下弦、端柱と同じ方向の斜材(/方向) 細い=端柱と逆向きの斜材(\方向) 鉄線?=垂直材 である。拡大してみる。 実は、先の副港橋梁を訪ねたときには、この橋のことを知らなかったのだが、ちょっとだけ写っていた。 この道路橋は、いまはない。改めて地図を見ると、ここだけ道路が分断されている。そして、衛星画像を見ると、プレートガーダーだけ残っているのがわかる。 8月中に北海道を再訪することができれば、ここも見直しておきたい。 この橋の情報、求む!!! == 2012.9.4追記 留萌本線の脇にかつてあったアラントラス?のつづき。 PR 「歴史的鋼橋集覧」の記事はこちら。 下呂駅の南、JR高山本線の車窓から見える位置にこの橋はある。渡っているのは飛騨川。飛騨川は木曽川の支流であり、はるか下流、美濃加茂市の川合というそのままの地名のところで木曽川に合流する。 飛騨川の右岸・西側を走る県道88号からこの六ツ見橋を渡ろうとすると、直角に折れ、JR高山本線を踏み切りで渡る形になる。なにしろこの位置関係だ。 時速30km制限、対面通行、重量制限は8トン。幅員が狭いため、歩道は別。右のみ親柱があり、そこには「飛騨川」と書かれている。 帯雲橋より約3キロメートル、塚田の渡しより上流の地に六ツ見橋が架橋されて、渡橋式が行われたのは大正12年(1923)3月16日である。最初、吊橋形式のものであった。この橋は、昭和6年4月に、鉄骨板橋として改築、当時、3万3401円37銭の経費を要した。時は、高山線下呂駅開業直後のことである。下呂駅へ降りた客を、湯之島温泉街へ運ぶ唯一の橋として、おおいに利用された。昭和39年10月の下呂大橋の完成により、昔日の重要性は減少したが、昭和49年5月には工費3000万円をもって歩道橋も付設された。 名前の由来 六ツ見橋と名付けられたのは「下呂六景」を見渡すことができるところから名付けられたそうです。下呂六景というのは… 弘法山(信貴山)・湯ヶ峰の夕映え・下呂大杉・湯ヶ淵の湯煙・中根山(下呂富士)・温泉寺の桜 (下線磯部。以下略) 株式会社
大阪鉄工所製作 昭和六年 このとおり、このボーストリングトラスの桁が製造されたのは昭和6年。ということは、上記の下線を付した部分、「鉄骨板橋」は、解説看板の誤り。 ……もしかしたら、トラス橋を「鉄骨板橋」と称したのだろうか。でも、検索すると「鉄骨/板橋」に切れてしまうので、どうにもわからない。 対岸に渡ってしまう。 塗装年月 2001年3月
塗装会社 株式会社大装 塗装材料 下塗 鉛系さび止めペイント JIS-K-5623=1種 中塗 長油性フタル酸樹脂塗料 JIS-K-5516-2種 上塗 長油性フタル酸樹脂塗料 JIS-K-5516-2種 塗料製造会社 大日本塗料株式会社 さらに引く。 祖父君が国鉄職員であった@souitohさんのご自宅にあったということで、お借りして読んだ。 高木文雄は大蔵次官から国鉄総裁になった人物である。前任は藤井松太郎、このブログでもたびたび採り上げるエンジニアで、マル生運動のために任期半ばに辞職してしまったことを受けての後任である。本書は高木が話すことをインタビュアーがまとめる形で著作としているが、収録時期は就任後1年半ほどのようである。初版は昭和52年12月、翌年2月には第7刷というから、相当売れたに違いない。当時は鉄道ファンというよりも、版元が東洋経済新報社ということもあり、経済的な視点で読む人に受けたのかもしれない。 書いてある内容は、現在の観点で見ると、かなりどうしようもないものである。なんともグズグズしていて、結論を出さずにいるように見える。しかし、現在の観点で見てはならぬ、とも思う。当時の空気というものがある。国鉄の赤字がさまざまな問題をはらみながら転がり続け、ついに分割・民営化に至るのだが、それまでの十数年間、高木のような人物が、少しずつ下地を作り続けていたからこそ、分割・民営化の三羽烏が活躍できたと言える面も多々あろうからだ。そう思いながら、本書を読んでの感想を少し。 ●あまりにも官僚的、貴族的な高木 ほぼ大卒しかいない民間企業に勤めているとよくわからない感覚がある。「キャリア」と「現場」の差だ。本書には、国鉄の採用の仕組みとしてあからさまにこう書いてある。 自分が属する階層を「エリート」と自称してはばからない。今なら大問題となりそうな発言も、当時の空気では問題視されない。役所というのは、上意下達の命令系統がなければならないので、そういうものなのだろう。 この「大卒=幹部、高卒=現場」という意識は、現JR東海会長の葛西敬之の著書『未完の国鉄改革』を読んで初めて知ったことだ。そんな世界があるのだな…とそのとき感じたことを覚えている。 ●この頃からようやく国鉄の特殊性が理解され始めた? 昭和50年代前半、世間における国鉄への理解度がどのようだったのかはわからない。しかし、高木は再三、次のようなことを述べる(要旨)。 つまり、「経営」の自由がなく、なにをやるにも国会の承認が必要だったりするから、時間ばかりかかって挙げ句の果てに実現できなかったりする。…というのは、現代では国鉄が身動きを取れなかった大きな理由として周知の事実だが、それを再三述べると言うことは、当時、これらのことが知られていなかったのではないか。だから、私は先に「現在の観点で見てはならぬ、とも思う」と書いた。 前任の藤井が「国鉄(わたくし)は話したい」という意見広告(これは藤岡和賀夫氏の作品とのこと)を新聞で展開したように、このころから、ようやく国民に向かって説明しはじめたのかもしれない。時間をかけて世間に理解させたうえ、いろいろな施策を実施する。高木が就任して1年半の頃は、まだ、国鉄再建への胎動期だったのかもしれない。 ●数字の感覚が麻痺している 当時の就業人口は43万人である。全国民は1億1400万人だから、全国民の300人に1人は国鉄職員だったわけだ。収入は2兆円、経費は3兆円、差引1兆円の赤字。よく物価水準の比較対象となる大卒初任給で考えると、現在でいうとそれぞれその倍以上、ということになる。これだけの数字を扱っているので、高木はいろいろ麻痺している。副業収入に対する感想だ。 現代に換算すると約700億円。1000人規模の会社の年間売上に相当する。それだけの金額を、「たったこれだけ」のように扱う。麻痺している。いや、もしかしたら、大蔵官僚だったので、現実離れしているのかもしれない。 現在、JR東日本の広告部門であるJR東日本企画だけで、年商912億円である。民営化のおかげでさまざまな展開ができるようなったことが大きかろう。 ●現代に通じる考え方もある 今となってはおとぎ話の世界の住人の考え方の持ち主に見えてしまう高木だが、鋭い面もいくつか見せている。その代表的なものがこれと、女性の社会進出だ。 「ヤードの仕事だとか、運転の仕事だとか、駅の仕事だとか、ブルーカラーの仕事が多いから、そう大学出をとっても仕方がない。(略)」(略)私はこれからの高学歴社会では、大卒の切符切りや運転士がいて結構ではないか、世の中はだんだんそう変わっていくと思っているのだが……。 相変わらずブルーカラーだなんだと言っているが、1990年代から、徐々にその流れはできている。JR北海道が大卒運転士コースを設置したのは何年前からだったか。現在、ごく一般的には、学歴は知識を期待するものではなく、ものの考え方や人間としての教育の度合いを証明する程度の役割しかないように思う。その流れならば、高木が予言したとおりにものごとは進む気がする。 高木は7年以上、国鉄総裁の座に座り続けたが、結局は、本書で述べている通りの考え方で、煮え切らないというか、思い切った施策を打つことができずに、それが元で任期途中で辞任した。後任はエンジニアの仁杉巌、彼も国鉄の体質を抜本的に修正することができずに辞任、最後は杉浦喬也が中曽根康弘の意を受けて国鉄を解体し、民営化したのは、葛西の著書にある通りである。 本書から、おもしろいエピソードをひとつ。 当時、日本でもっとも土地を持っていたのは王子製紙とのこと。国鉄はそれに継ぐ二番手。6万7000ヘクタール、換算すれば670平方km。琵琶湖と同じ大きさである。うち、線路が47.5%、保安林が23.8%、駅や駅前の土地23.6%だ。保安林の面積の大きさに驚く。そして、そこに国鉄100年の歴史が込められていることも思う。 高木の考え方、当時の空気がわかる、読みやすい本であった。 北側に平行する国道17号のバイパスなのに、国道254号から分岐するのがちょっと不思議な感じもするが、そんな例はそこらじゅうにあるのでパス。 この旧ルートから現在のルートに切り替わったのがいつか、ちょっとわからない。旧ルートを走っていた記憶は明確にあるので、1990年代後半から2000年の間ではないかと思う。記事冒頭の写真の立て看板は「建設相」が塗りつぶしてあるので、2001年1月より以前からその看板があったことがわかる。 航空写真では、1989年のものに旧ルートが写っている。 現在、この旧ルートは資材置き場となっている。しかも、「国道20号新宿こ線橋関連工事」の資材だそうだ。 この写真を撮った場所は住宅街であるにもかかわらず、不法投棄の冷蔵庫や机があった。大きな国道沿いというのは荒れやすいような気がする。 この新大宮バイパス、つまり北町交差点から高島平で首都高が覆い被さる地点までは、鋪装路面が4車線分ありながら、車道は2車線である。その流れも、必要に応じて随時変更されているようだ。ただし、ごく一部の区間だけ、4車線分の幅の用地は確保してあっても、道路がない場所がある。ここだ。 東側、橋脚だけ準備してあるものの、桁が架かっていない。ここだけなのだから架けておけばいいのに! と思うのだが、もしかして、この区間に橋がないことを言い訳として、前後の4車線区間を2車線に規制しているのかもしれない。 その、橋があるべき部分に北側からアプローチする。 ここが4車線になれば…とも思うが、現状、新大宮バイパスのこの区間は、それほど渋滞するわけでもない。だから、新大宮バイパスが北町を突っ切って南下し、平和台あたりまでつながるまで、しばらくはこのままだろう。
青森・北海道の駅における跨線橋 撮り散らしの続き。
●蘭島駅 階段部分の屋根に、枕木方向(と言っていいのかな)に4本、部材がある。そういえば、トタン屋根は、端部にこういうのがあることを思い出したが、これ、なんだろう。屋根上に上がったときの万一のためか、雪が滑らないためか。ご存知の方はご教示くださいませ。 ●余市駅 この跨線橋は、いつ架けられたのだろうか。1948年の航空写真には、ないように見える。1967年はどうだろうか。よくわからない。1976年にはある。 ●倶知安駅 よく見ると、レールの底部を利用して壁材を貼り付けているように見える。 ●ニセコ駅 屋根のスベリ止め(?)も、横棒ではなく、なんと言えばいいのだろう、取っ手タイプ(?)。 脚も古レール。壁材は、古レールの底面の裏側に貼ってある。 跨線橋の入口に扉があるのが、北国らしい。断面積が半分になるので大量の客をさばくことはできないが、冬期の雪の吹き込みを防ぐことには大変効果的だ。駅によっては、夏場は扉を外しておくことがある。 ●蘭越駅 この駅で1時間半くらいあったので、周辺をいろいろ歩き回った。 ●七飯駅 窓にご注目。三段窓である…というのは誤りで、単に、目の字型の桟であるというだけ。電車でいう「三段窓」は、最下段と最上段がそれぞれ上昇・下降するもの。こちらのサイトに詳しい。 跨線橋の写真。列車の窓が開かなければ、撮影できない。北海道で乗った各停は、キハ40は窓開けOKだったが、蘭越から長万部まではキハ150だったので不満だった。私たちの世代では、列車は風を浴びてこそ。 跨線橋を見るとしたら、 ・跨線部分のフレームの部材、構造 ・階段部分の部材、構造 ・脚の部材、構造 ・窓 ・階段の踊り場の有無(高さはほぼどれも同じ) ・外壁 ・外壁とフレームの関係 ・跨線部分の屋根構造(山形か片傾斜かなど) などだろうか。 いまさらだが、「プラットトラスタイプ」というのは、トラスが |\|\|\|\|/|/|/|/| または |\|\|\|X|X|/|/|/| となっているもので、鉄(鋼鉄)のトラスを組む場合に多用される。架線を吊り下げているビームがトラス構造である場合もほとんどがプラットトラス。 なお、基本的に、プラットトラスタイプ以外の跨線橋は撮影していない。いま考えれば、ガーダータイプも撮影しておけば、なんらかの類型化ができたかもしれない。今度から、網羅するようにしよう。あと、列車内からなので無理といえば無理なのだが、脚の形式にも注目したい。今度の課題である。 |
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