青森・北海道の駅における跨線橋 撮り散らしの続き。
●蘭島駅 古レールでフレームが組まれたプラットトラスタイプ。もちろん脚も古レール。外壁が木製で、フレーム以外は塩谷駅(前日のポストを参照)と同じに見える。 階段部分の屋根に、枕木方向(と言っていいのかな)に4本、部材がある。そういえば、トタン屋根は、端部にこういうのがあることを思い出したが、これ、なんだろう。屋根上に上がったときの万一のためか、雪が滑らないためか。ご存知の方はご教示くださいませ。 ●余市駅 プレートガーダータイプの跨線橋。脚は古レール。ガーダーもリベット接合で、時代を感じさせる。 この跨線橋は、いつ架けられたのだろうか。1948年の航空写真には、ないように見える。1967年はどうだろうか。よくわからない。1976年にはある。 ●倶知安駅 部材は古レール。しかし、窓の部分に斜材が来ないように設計されている。古レールをプラットトラスに組んで跨線橋を製作する場合、斜材を、窓を無視する・窓を考慮するように配置する2タイプがある、ということに気づいた。 よく見ると、レールの底部を利用して壁材を貼り付けているように見える。 ●ニセコ駅 一転して、窓を斜材が塞ぐタイプ。 屋根のスベリ止め(?)も、横棒ではなく、なんと言えばいいのだろう、取っ手タイプ(?)。 脚も古レール。壁材は、古レールの底面の裏側に貼ってある。 跨線橋の入口に扉があるのが、北国らしい。断面積が半分になるので大量の客をさばくことはできないが、冬期の雪の吹き込みを防ぐことには大変効果的だ。駅によっては、夏場は扉を外しておくことがある。 ●蘭越駅 鉄骨でベースが造られているタイプ。1965年の航空写真にもその姿が見える。脚は鋼管タイプ。 内側。鉄骨のベースがあって、その上にコンクリートで階段を造って、それをパネルで覆った感じ。 この駅で1時間半くらいあったので、周辺をいろいろ歩き回った。 ●七飯駅 ちょっと離れて七飯。古レールでプラットトラスタイプ。 窓にご注目。三段窓である…というのは誤りで、単に、目の字型の桟であるというだけ。電車でいう「三段窓」は、最下段と最上段がそれぞれ上昇・下降するもの。こちらのサイトに詳しい。 跨線橋の写真。列車の窓が開かなければ、撮影できない。北海道で乗った各停は、キハ40は窓開けOKだったが、蘭越から長万部まではキハ150だったので不満だった。私たちの世代では、列車は風を浴びてこそ。 跨線橋を見るとしたら、 ・跨線部分のフレームの部材、構造 ・階段部分の部材、構造 ・脚の部材、構造 ・窓 ・階段の踊り場の有無(高さはほぼどれも同じ) ・外壁 ・外壁とフレームの関係 ・跨線部分の屋根構造(山形か片傾斜かなど) などだろうか。 いまさらだが、「プラットトラスタイプ」というのは、トラスが |\|\|\|\|/|/|/|/| または |\|\|\|X|X|/|/|/| となっているもので、鉄(鋼鉄)のトラスを組む場合に多用される。架線を吊り下げているビームがトラス構造である場合もほとんどがプラットトラス。 なお、基本的に、プラットトラスタイプ以外の跨線橋は撮影していない。いま考えれば、ガーダータイプも撮影しておけば、なんらかの類型化ができたかもしれない。今度から、網羅するようにしよう。あと、列車内からなので無理といえば無理なのだが、脚の形式にも注目したい。今度の課題である。 PR
列車に乗ったり降りたりしながら、フレームがプラットトラスである跨線橋があると撮っていた。車内から撮ったものもあるので、その場合は半分しか写ってなかったりするが、ないよりはマシだろう。
●青森駅 ホームは南北方向に配置されている。跨線橋は南側にある。 画像右のものと、左に消えている長いものとはつながっていない。 画像左の長い跨線橋が、旅客用のもの。駅舎本屋(東口=メイン)と西口、各ホームを結ぶもの。右のは、ちょっとうろついたけれどなんだかわからなかった。おそらく、かつて小荷物輸送や郵便輸送をしていたときに使われたものかと推測する。 右の跨線橋を、反対側から。(左の跨線橋から撮っている) 荷物・郵便輸送があった時代、青森駅に入ってくる列車の最後尾に、荷物車や郵便車が連結されていた。その連結位置は、この、青森駅の荷扱い位置によるものだったのかもしれない。@golgodenkaさんのレポートによると、仙台駅も南側に荷物用エレベータがある。東北筋はそれで統一されていたのかもしれない。 北から南方向で見ると、このように、跨線橋が二重に見える。 どちらもトラスは鉄骨作りであり、プラットトラスである。 ●滝川駅(以下、北海道) これまたなんとも長い、檻のようにも見える跨線橋である。駅の西側に、かつては側線が多数あった部分を一跨ぎにする業務用跨線橋。旅客用跨線橋と連続する形で伸びている。 こんな感じでH形鋼を使用している。 旅客が通る部分との間には扉があり、このように注意書きが成されている。 ●岩見沢駅 古レールを使用した跨線橋。プラットトラス。桁裏に行っておらず、写真も撮っていないことを大きく悔やんでいる。 脚も古レールで組まれている。脚だけ最新のものに交換、という例も見るだけに、これはうれしい。 ●塩谷駅 脚は古レール。跨線橋本体はプレートガーダー。跨線橋の側面は板である。 なんというか…すてき。 (青森・北海道の駅における跨線橋 撮り散らし その2に続く) 7月18日(月・祝)、カルカルで開催された『地図ナイト!』に行ってきた。出演者は次のとおり。 ・田代博氏(パソコン通信の時代から展望をPCでシミュレーションしている地理教諭。富士見研究家) ・今尾恵介氏(地図・鉄道 研究家) ・平井史生氏(気象予報士) ・近藤賀誉氏(東京カートグラフィック) ・野々村邦夫氏(元・国土地理院長、現・日本地図センター・理事長) ・小林政能氏(日本地図センター・エンターテイメント担当) 詳細なレポはいずれ公式であがるからそちらに任せるとして、このイベントで「自分にとって、地図とは?」という点に思いが至ったので、そんなことを整理してみる。 ●「地図」と「マッピング」は違う 今回は『地図ナイト』であり、『マッピングナイト』ではない。その違いはどこにあるのだろうか。 ・地図…眺める対象(物) ・マッピング…地図(に類するもの)に働きかける/を作る行為(意識、動作) と考えるとわかりやすい。(「作る」は石川初氏の示唆による) カルカルでは、過去に2回、『マッピングナイト』を開催している。その内容は、まさに後者のようになっている。対して、今回は『地図ナイト』である。地図を眺めるのが好きな人たちのイベントかな…と思いつつ参加して、まさにそのとおりだった。 平井氏は、マッピングに近い発表だったが、他の人は、地図に働きかけたり、地図を作ったりはしない。「すでにある地図」を読み、そこになんらかのおもしろみを見出す。昔からいる「地図好き」の遊びだ。そのためか、カルカルが初めて、という客が半分くらいだったと思う。また『マッピングナイト』に来ていた層とも異なると感じた。 こうした、「地図好きが地図を眺めているときに考えがちなこと」を可視化すると、とてもおもしろい。 ●紙地図のよさ・ネット地図の限界 紙地図のよさは、その大きさである。PCのモニタで見るネット地図とは異なり、その何倍もの大きさで見ることができる。 国土地理院が作る2万5000分の1地形図が「ウオッちず」としてブラウザで見られるのは周知の通りだが、当然のごとく、最大でもモニタサイズ、多くの場合はその数割減の面積にしかならない。 (地図閲覧サービス2万5千分1地形図名:茂倉岳(高田)) ここは群馬・新潟県境の清水峠で、上越新幹線や関越トンネルが近く、山岳地としては谷川岳や巻機山などの三国山脈の一角である。しかし、まったく周囲が見えないので、清水峠をご存じない方は、ここがどこだかわからないだろう。 こうした問題は、同類のサービスでも同じだ。 (電子国土) いま、ウオッちずは電子国土に準じたものに切り替わりつつあるので、同じものである。 以前のタイプも見ることができるが、状況は同じである。。 (ウオッちず) 2万5000分の1地形図は、もっともっと大きな範囲を一度に見ないと、把握しづらいのがわかるだろう。 古い地図のアーカイブも状況はいっしょ。たとえば明治20年の東京都内の地図。2万分の1。 (東京近傍図 中部) この図は、ブラウザ内で自在に拡大・縮小、移動ができるのだが、この窓の大きさでは…。 縮尺の小さなものではもっと顕著だ。 (五千分一東京図測量原図 東京府武蔵国北豊嶋郡高田村近傍) 現在の新宿区西早稲田付近、東京専門学校というのは早稲田大学だ。いま大隈講堂があるあたりの「大隈邸」も見える。この迫力は5000分の1ならではだが、ブラウザではこんな狭い範囲しか見ることができない。もしこれが紙であれば、周辺まで広く見て把握することができる。 私がネット地図の表示範囲の狭さを不満に思うのは、ものごとを俯瞰してみる視点を取り去ってしまうからだ。上の地図でいえば、神田川は当時、どこからどうどうなって流れていたのか、ということを、マウスでドラッグすることも、ホイールで拡大縮小することもなく、視線を移すだけで把握できたら! いつもそう思う。 また、ネット地図は、サイトによってUIが異なることも大きなストレスだ。国土地理院のサイト内だけでも異なる。中の人が「電子国土、じゃなくて原始国土だ」といらだつのも当然である。 ●ウオッちずの危機? 今日、田代博氏のサイトに「地形図が危ない!」と題された一文が掲載された。実は、上記の清水峠の地図も、その話題に関係している。 送電線や発電所が消えている。 私は、国が制作する地図は、プレーンな情報が掲載されているものが望ましいと思う。目的別ではなく、国土がある姿そのものを描いたもの。また、一度盛り込まれた情報は、その情報が消滅したり、より重要な情報に干渉するものでない限り、落とすべきではないと思う。しかし、現在の電子国土基本図は、テロ対策名目で、そこに存在する大きな構造物をなきものにし、「不要だろうから、もうこの情報は掲載しないよ」という基準で歴史的な事項を切り捨てていく。やめてくれ。 地形図だけが送電線や発電所を消してなんになる? 過去に公開された膨大な地図、そして民間による地図や衛星画像。それらに写っているものを、地理院だけが消してどうなる? なお、「送電線は、登山のランドマークになるから消すな」という意見もあるが、個人的には激しく同意するものの、本質ではないと思う。なぜならば、ランドマークが必要ならば、東京タワーやスカイツリーもそれなりに図示すべきという話になるからだ。地形図に掲載する条件は、ランドマークであるか否かではない。情報として掲載する価値があるか否かだ。 「地図ナイト」。地図を肴に酒を飲むことができる人が楽しむイベント。マニアだと言われようが、これはこれで楽しい。一歩引いた目を持っているからと行って偉いわけではない。写真好きがカメラ好きである場合があるように、地図好きは地図そのものも好きな場合もある。 イベントで、そんなことを考えた。 イベントでは、DAN杉本氏制作の「カシミール3D」を使用したスライドや話がいくつも出た。会場でも「カシミール3D」の本を販売していただいた。ご購入いただいた方、ありがとうございました。また、販売にご協力いただきました(財)日本地図センター様、厚くお礼申し上げます。 大きな地図で見る 函館本線の森駅のあたりをうろついていたとき、この鳥崎川橋梁に出会った。複線PC桁だ。持っていたカメラの都合で、2分割で写真を上げる。 (左が函館・森方向、右が桂川・長万部方向) 上の写真の右。(左が函館・森方向、右が桂川・長万部方向) 橋が新しいので、架け替えたのだろうと思っていた。ところが、橋台部分に、こんな銘板を見つけた。 とある。 ちょっと引いて見よう。 橋台だけでなく、桁にも銘板がある。 ちょうど橋台の1年後だ。3月着手、10月竣功という、無雪期の作業だということがわかる。「しゅん工」の「ん」に目が行ってしまうのは、本題とは関係ない。
この単線の旧線は、森駅側の橋台が残っている。PC桁裏。美しい。ところどころにある点々は、テンションを与えていた鉄筋を切断したあとだろう。 こんな形状をしている。 さて、この桁は昭和52年に架けられた。では、それ以前の桁はどうだったのか。 この区間、森~桂川間(当時は信号場。JR化時に駅に昇格)は、昭和54年(1979年)9月27日に複線化された。その際に、それまでの単線に腹付け増線するのではなく、複線桁を架設した。 1976年の航空写真を見てみよう。 (国土画像情報より転載、トリミング) 鳥崎川の西(左)にDD51が牽引する貨物列車が走っている。これが、単線の旧線。その北側に、複線化工事をしているのがわかる。この鳥崎川橋梁の部分は橋台と橋脚が見えている。 橋台の工事は昭和51年なので、まさにこの航空写真が撮影された年度だ。もし撮影が翌年だったら、複線桁が架設された状態だったに違いない。冒頭のGoogleマップと見比べると、それぞれの線形の違いがわかるだろう。 桁下は、現在のように道路だっただろうから、ここにあったのは下路鈑桁だろうか。 ここもちょっと引いて見る。 右が森駅、左が桂川方面。
北海道でよく見るような印象を持つ、この扉の作り方。この形式には、なにか名前があるのだろうか。建物の「下見板張り」みたいな名前が。
正方形に近い扉の枠を、 外周と、中央に十字型に取り、十字の部分を中心にした菱形(または45度回転した正方形)に板を貼っていく。 少なくとも数年以上前に、函館と足寄あたりで見た記憶がある。しかし、それらは写真に撮っていない。なにかひっかかるものがったのだ。以来、ずっと後悔していたのだが、先日、蟹田駅で見つけた。すばらしい。 この形式の名称をご存知の方、ぜひご教示ください。 <関連記事> 木製扉・木製戸の菱形・バツ形 |
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