ディスカバー・ジャパン。物心ついたときには、このキャンペーンの後半である「いい日旅立ち」も終わりかけ、「エキゾチック・ジャパン」が始まる頃だった。そのため、DISCOVER JAPANは「ひと世代前の、ちょっと古いキャンペーン」という印象を持っていた。会社に入ってからは、一回り以上上の旅好き上司のDISCOVER JAPANへの思い入れを何度か聞かされ、徐々にそれがどういうものだったかを、「旅のスタイル史」という文脈の中で位置づけるようになった。
本書は、DISCOVER JAPANの綜合プロデューサーだった藤岡和賀夫氏が語る「DISCOVER JAPANとはなんだったのか」という本である。氏によれば、DISCOVER JAPANは、DISCOVER MYSELF、つまり「自分発見」、広い意味での「自分探し」である。 私は「自分探し」という言葉が嫌いだった。しかし、それは多趣味な人間が嵌る陥穽だったかもしれない。「自分探し」とは、趣味性(ヲタ気質と言ってもいい)を持たない人が、むりやり趣味(らしいこと)を見つけるようなニュアンスに感じていた。それを、多趣味かつその方面に徹底して突っ込んでいく私は、「そんなんじゃないよ、趣味ってものは」みたいなふうに捉えていたのだと、今になって思う。 最近、写真表現について考えることが多く、「自分探し」については捉え方が変わった。とくに何をする必要もない、自分がしていることを集め、俯瞰してみると、「ある傾向」があることに気づく。自分はこれが好きだったのか、と気づく。それは「自分発見」であり、振り返る行為なんだけれども、それに積極性と将来性を加えれば「自分探し」だ。 このブログで例えれば、鋼製トラス橋や鋼製プレートガーダー橋の記事は多いが、鋼製アーチ橋、RC製の各橋はほとんどない。レインボーブリッジのような巨大な橋についてはもっとない。そして、鋼製トラス橋でも、ピントラスが多く、H型鋼を使用した近代的なものは少ない。自分がわざわざ写真を撮るか撮らないか、そこに傾向が出てくる。 本書は藤岡氏が書いてきた文章のアンソロジーでもあるのだが、その中で、藤岡氏は何度となく明言している。「旅に出て発見するのは畢竟自分だ、言うなればDISCOVER MYSELFが旅の極意だ」。 イメージ先行の、その時代の大人のアタマでは理解できない写真で若者を旅に誘うDISCOVER JAPANのポスター。時を同じくしてananとnonnoがブレークしていた。アンノン族の誕生だ。世の中の潮流を作る圧倒的な世代と、DISCOVER MYSELFの同時代性。旅に出た彼女たちは、あるいはDISCOVER MYSELFに成功し、あるいはそんなことをまったく意識せずに適当な旅を終えただろう。彼女たちが何度も旅に出て、自分の嗜好を知っていく。DISCOVER JAPANは、目的を果たした。 キャンペーン第1号ポスターは、日光の牧場で撮影された被写体ブレの写真である。これは強いメッセージ性を持っている。お節介というか、押しつけがましいとも思う。でも、これが選ばれているのも、時代なのだろう。そういうことに気づけたのも、本書を読んだからだ。 もっと、こうしたポスターやキャンぺーンの裏方の様子を見せて欲しかった。なお、本書は前半半分が藤岡氏のアンソロジー、後半は「絶滅のおそれのある懐かしい日本の風景」の話である。前半だけあればいい。 PR
留萌本線の下り列車が留萌駅を出るとすぐに、車窓右に使われていないトラス橋がある。それが副港橋梁だ。
「歴史的鋼橋集覧」によれば、1929年櫻田機械製。銘板類は見えない。 スタイルは昭和初期によく見るパターンで、とりたてて部材の美しさなどは感じられない。 留萌駅の周辺は、貨物輸送がなくなったことで、大きく変化している。たとえば、国土変遷アーカイブより。 留萌駅に、昭和28年(だったと思う)の市街地図が貼ってあった。 == == 2012.9.4追記 副港橋梁(留萌)脇にかつてあったアラントラス? 留萌本線の脇にかつてあったアラントラス?のつづき。
以前書いた、トレッスル橋脚を持つ巴橋のすぐ近くにある中央本線の新・第4木曽川橋梁。複線区間であり、今回は上り線(名古屋→塩尻方向)の桁について書く。
場所はここ。 もともと中央本線は単線で開通しており、現在の下り線(塩尻→名古屋方向、東側)が明治43年(1910年)11月25日の開業当初からのもので、上り線(西側)が、昭和43年(1968年)9月30日の複線化時に増設されたもの。それは、すぐ北の隧道の坑門の意匠をみればすぐわかる。 巴橋から見ると、こう。 まずは下路鈑桁。 向かって右の擁壁は、もちろん複線化時に作られたものだろう。「1967-11」という陰刻がある。 下路鈑桁の裏側。 橋りょう名 新第4木曽川橋りょう
位置 薮原~宮ノ越 266K246M 塗装年月 2005年8月 塗装回数 3回塗 塗装種別 下塗 シアナミド鉛さび止めペイント 及び塗料名 中上塗 長油性フタル酸樹脂塗料 塗料メーカー 大日本塗料株式会社 施工者 佐野塗装株式会社 この区間の複線化は1968年なので、2005年前には一度は塗り替えられたか、というところだろう。 南側橋台には銘板があった(北側は接近できないので確認をしていない)。 設計 岐阜工事局 施工 佐藤工業株式会社 設計荷重 KS-16 基礎工 くい打R.C.くい7m20本 木曽根入 天端から13m55 着手 昭和42年4月20日 しゅん功 昭和42年6月24日 「橋りょう」「くい打」「しゅん功」いずれも、カナ部分には傍点が伏してあるのが興味深い。このエッチング銘板の原稿を作った人は、交ぜ書きに抵抗があったのか。 橋脚と、上路箱桁の全景。塗装が光っていて美しい。古めの橋ばかり見ていたので、箱桁のような近代的な桁を見るととても新鮮だ。 上路箱桁の裏。 『鉄道構造物探見』(小野田滋)によれば、国鉄が箱桁を初めて採用したのは昭和33年(1958年)で、東海道新幹線の工事で大量に用いられ、昭和42年(1967年)に、「在来線用上路プレートガーダの標準設計でも、支間三六・四メートル以上の桁はボックスガーダとすることが基本となった」とある。とすれば、この箱桁は、その最初期にあたるものだ。 この区間の動画がある。 この前面展望は上り線であり、1分11秒あたりから、この橋を渡っている。鈑桁のほうにはバラストが敷かれ、箱桁のほうにはないようだ。とくに後者は音でも、冒頭の写真でもわかろう。 次回は下り線について書く。
白川橋(岐阜県白川町)その1の続き。
中央径間の右岸側の銘板は「その1」に書くべきだった…。 上は、左岸下流側と同じ。 大正十五年製作
大阪 日本橋梁株式会社 下は、 修繕工事
1978年12月 岐阜県 道示(1972) 使用鋼材 SS41 製作 日本橋梁株式会社 というもの。日本橋梁の銘板は、54年を経て少し大きさ等が変わったようだ。 その前に、こうやって立っていると、新聞販売店からおばちゃんが袋を持って出てきた。そして、橋を渡り始めた。どこへ行くのだろう、日常的に使われているのはいいな…などと思っていたら! おばちゃんは、その袋を川に投げた。ゴミ袋を投げ捨てたのだった('A`) ちょっとげんなりしながら桁裏へ。 から上が、昭和53年の改装時のもので、補剛桁そのものは開通時からのものである。 アンカーがどうなっているのか、見てきてなかったなー…と思ったら、うさ★ネコサンドさんに驚愕の実態があった。これを見てないなんて。無念(そんなのばっか)。 JR高山本線白川口駅の近くにある、飛騨川を渡る橋。鋼製主塔を持つ吊橋で、85年が経過している。現在は歩行者用となっている。場所はここ。 飛騨川と、支流・白川の合流地点である。白川はここから東に遡上し、東白川村、中津川市加子母に至る。その道筋を「白川街道」という。現在の県道62号と国道256号の一部である。同じ岐阜県ではあるが、白川郷とは関係がない。同じ県内に「白川町」と「白川村」があるのはよそ者には混乱を招きそうだ。 地図を見てわかるとおり、ここに白川橋がかけられたのは、白川街道の重要性と、国道41号(1953年より)の重要性からである。文章で説明するとまどろっこしいが、川が合流するところで橋を2本かけて済ませられるようになっている。 1960年、下流に飛泉橋(ランガー桁)が架けられて国道が換線され、こちらは県道となった。白川街道から国道41号に出たい人にとっては、飛泉橋を経由すると遠回りになるため、この白川橋が現役のころは重宝されたに違いない。 この白川橋がどんな橋であるかは下記に譲り、ここではディテールを見て行くだけにする。 ・wikipedia(写真がどこかで見たことがあるのは偶然ではない) ・歴史的鋼橋集覧 まず、東側からアプローチする。 さて、一歩踏み込む。 大正十五年製作
大阪 日本橋梁株式会社 とある。扁額は右書きなのに、銘板ひ左書きである。 請負
飛州高山 山本宗兵衛(と読める) 請負が銘板を残すのか! (続く) |
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