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留萌本線の下り列車が留萌駅を出るとすぐに、車窓右に使われていないトラス橋がある。それが副港橋梁だ。



20110713_000.JPGこんな感じで、本線(向こうが増毛側)に隣接して架けられている。写真は手前が留萌方、向こうが増毛方。右の副港橋梁は、このまま朽ちていくのだろうか。

歴史的鋼橋集覧」によれば、1929年櫻田機械製。銘板類は見えない。

20110713_001.JPG副港橋梁の端部は藪で覆われているので、近寄れない。そのため、これくらいしか撮れない。桁下にも潜れない。いや、どちらも、前身を藪に預ける覚悟があればいけないことはないだろうが。

スタイルは昭和初期によく見るパターンで、とりたてて部材の美しさなどは感じられない。

20110713_003.JPG興味深いのは、枕木が残っていることだ。隣の留萌本線の車窓に見えてあわてて撮ったのだが、枕木がわりときれいにあるのがわかろう。


留萌駅の周辺は、貨物輸送がなくなったことで、大きく変化している。たとえば、国土変遷アーカイブより。
20110713-998.JPG画像ほぼ中央が、この副港橋梁と留萌本線。単線並列だ。その右のヤード風が留萌駅、左が石炭桟橋。留萌港の石炭桟橋は、かつてはこんなだったようだ。(函館の絵葉書より)
20110713-199.JPG鉄筋コンクリート製である。そもそも留萌駅(当時は留萠)まで鉄道が通ったのが明治43年(1910年)であるから、まさに鉄筋コンクリートの時代が始まろうというときである。これがそのまま昭和50年代まで使われていたのかどうかは知らない。

留萌駅に、昭和28年(だったと思う)の市街地図が貼ってあった。
20110713_101.jpgいろいろ描き込まれていることだけでなく、「留萠」の「留」の省略形も興味深い。


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2012.9.4追記

副港橋梁(留萌)脇にかつてあったアラントラス?
留萌本線の脇にかつてあったアラントラス?のつづき。


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以前書いた、トレッスル橋脚を持つ巴橋のすぐ近くにある中央本線の新・第4木曽川橋梁。複線区間であり、今回は上り線(名古屋→塩尻方向)の桁について書く。

場所はここ。


もともと中央本線は単線で開通しており、現在の下り線(塩尻→名古屋方向、東側)が明治43年(1910年)11月25日の開業当初からのもので、上り線(西側)が、昭和43年(1968年)9月30日の複線化時に増設されたもの。それは、すぐ北の隧道の坑門の意匠をみればすぐわかる。
20110707_005.JPG(左が今回書く上り線で、「しなの」が通過中。坑門は無地のコンクリート製。対して、右の下り線の坑門は石積をコンクリートで改修したもの?)

巴橋から見ると、こう。

20110707_000.JPG写真左が塩尻方面、右が名古屋方面。左から、46.8mの上路箱桁と、16mの下路鈑桁の2径間である。

まずは下路鈑桁。
20110707_001.JPG薄っぺらく見えるのは、たぶん目の錯覚。まあ、支間16mなので、高さもそれほどない。

向かって右の擁壁は、もちろん複線化時に作られたものだろう。「1967-11」という陰刻がある。

下路鈑桁の裏側。
20110707_006.JPG小さいなあ。という印象。

20110707_004.JPG塗装標記。

 橋りょう名 新第4木曽川橋りょう
位置 薮原~宮ノ越 266K246M
塗装年月 2005年8月
塗装回数 3回塗
塗装種別 下塗 シアナミド鉛さび止めペイント
及び塗料名 中上塗 長油性フタル酸樹脂塗料
塗料メーカー 大日本塗料株式会社
施工者 佐野塗装株式会社

この区間の複線化は1968年なので、2005年前には一度は塗り替えられたか、というところだろう。

南側橋台には銘板があった(北側は接近できないので確認をしていない)。
20110707_003.JPG新第四木曽川橋りょう
設計 岐阜工事局
施工 佐藤工業株式会社
設計荷重 KS-16
基礎工 くい打R.C.くい7m20本
木曽根入 天端から13m55
着手 昭和42年4月20日
しゅん功 昭和42年6月24日


「橋りょう」「くい打」「しゅん功」いずれも、カナ部分には傍点が伏してあるのが興味深い。このエッチング銘板の原稿を作った人は、交ぜ書きに抵抗があったのか。

橋脚と、上路箱桁の全景。塗装が光っていて美しい。古めの橋ばかり見ていたので、箱桁のような近代的な桁を見るととても新鮮だ。
20110707_002.JPGなぜ橋台よりもきれいなのだろう?

上路箱桁の裏。

20110707_008.JPG桁の下面ののっぺり感が、なんともいえない。

『鉄道構造物探見』(小野田滋)によれば、国鉄が箱桁を初めて採用したのは昭和33年(1958年)で、東海道新幹線の工事で大量に用いられ、昭和42年(1967年)に、「在来線用上路プレートガーダの標準設計でも、支間三六・四メートル以上の桁はボックスガーダとすることが基本となった」とある。とすれば、この箱桁は、その最初期にあたるものだ。


この区間の動画がある。



この前面展望は上り線であり、1分11秒あたりから、この橋を渡っている。鈑桁のほうにはバラストが敷かれ、箱桁のほうにはないようだ。とくに後者は音でも、冒頭の写真でもわかろう。

次回は下り線について書く。



白川橋(岐阜県白川町)その1の続き。

中央径間の右岸側の銘板は「その1」に書くべきだった…。
20110704_008.JPG右岸上流側。

上は、左岸下流側と同じ。

大正十五年製作
大阪
日本橋梁株式会社

下は、

修繕工事
1978年12月
岐阜県
道示(1972)
使用鋼材 SS41
製作 日本橋梁株式会社

というもの。日本橋梁の銘板は、54年を経て少し大きさ等が変わったようだ。

20110704_009.JPG右岸下流側の「請負」も、左岸のものと同じ。同じ銘板が、中央径間中央部を支点にした点対称でついているというのは珍しいのではないか。

20110704_012.JPGさて、もう一度、右岸側に戻る。右側にある中日新聞販売店の前から、橋の下に降りることができる。

その前に、こうやって立っていると、新聞販売店からおばちゃんが袋を持って出てきた。そして、橋を渡り始めた。どこへ行くのだろう、日常的に使われているのはいいな…などと思っていたら! おばちゃんは、その袋を川に投げた。ゴミ袋を投げ捨てたのだった('A`)

ちょっとげんなりしながら桁裏へ。

20110704_014.JPG主塔が建つ橋脚は、円形ウェルを2本並べ、上部を結合したもの。大正15年(1924年)開通だというから、当時からあるものだろう。ただし、開通当時、補剛桁の床版は木製だった。それをコンクリート製に改装したのは、銘板のとおり昭和53年(1978年)。それまで54年間、木製床版でがんばっていた。もちろん、適宜、床版はとりかえていたことだろう。

20110704_015.JPG補剛桁の裏側をアップにする。鋼矢板のように見えるのが鋼デッキプレート、その上にコンクリートで床版が敷かれている。
から上が、昭和53年の改装時のもので、補剛桁そのものは開通時からのものである。


アンカーがどうなっているのか、見てきてなかったなー…と思ったら、うさ★ネコサンドさんに驚愕の実態があった。これを見てないなんて。無念(そんなのばっか)。

20110704_018.JPG(左岸・下流側より)

JR高山本線白川口駅の近くにある、飛騨川を渡る橋。鋼製主塔を持つ吊橋で、85年が経過している。現在は歩行者用となっている。場所はここ。


飛騨川と、支流・白川の合流地点である。白川はここから東に遡上し、東白川村、中津川市加子母に至る。その道筋を「白川街道」という。現在の県道62号と国道256号の一部である。同じ岐阜県ではあるが、白川郷とは関係がない。同じ県内に「白川町」と「白川村」があるのはよそ者には混乱を招きそうだ。

地図を見てわかるとおり、ここに白川橋がかけられたのは、白川街道の重要性と、国道41号(1953年より)の重要性からである。文章で説明するとまどろっこしいが、川が合流するところで橋を2本かけて済ませられるようになっている。

1960年、下流に飛泉橋(ランガー桁)が架けられて国道が換線され、こちらは県道となった。白川街道から国道41号に出たい人にとっては、飛泉橋を経由すると遠回りになるため、この白川橋が現役のころは重宝されたに違いない。

この白川橋がどんな橋であるかは下記に譲り、ここではディテールを見て行くだけにする。

wikipedia(写真がどこかで見たことがあるのは偶然ではない)
歴史的鋼橋集覧


まず、東側からアプローチする。

20110704_000.JPGこの手前は鈎形になっている。画像右には電気店がある。左の掲示板のようなものは、この橋が選奨土木遺産になったことをきっかけに掲げられた解説である。

20110704_001.JPGいろいろ書いてある。拡大してご覧いただきたい。

さて、一歩踏み込む。
20110704_002.JPG古めかしい送電鉄塔のような出で立ちの鋼製主塔。「白川橋」という扁額も掲げられている。補剛トラスは径間ごとに区切られている。

20110704_017.JPG隧道の扁額は石材だが、橋梁は金属製である。装飾的要素としてだと思うが、額縁のように、リベットが文字を囲っている。

20110704_003.JPG中央径間の補剛桁に製造銘板がある。まず左(下流側)。

大正十五年製作
大阪
日本橋梁株式会社

とある。扁額は右書きなのに、銘板ひ左書きである。

20110704_004.JPG右側の銘板は…

請負
飛州高山
山本宗兵衛(と読める)

請負が銘板を残すのか!

20110704_007.JPG主索とハンガー。主索がもっとも低くなる部分では、主索は補剛桁の上弦より低い位置に来る。主索が何かに巻かれているように見えるが、主索は錆びないようにコートされているのが普通。現代の長大吊橋では、その中に乾燥空気を送り込んでいるはず。

20110704_005.JPGハンガーが補剛桁を吊っている部分。補剛桁側にU時フックのようなものがあり、それで吊っている。

20110704_006.JPG渡ってきた方向を振り返る。主塔の裏側(?)もよくわかる。興味深いことに、表側(?)とアングル材の見え方も同じだ。

(続く)



ジュンク堂で開催された【「東京人」創刊25周年記念 「私は、東京人」BNフェアイベント 電車に乗って、東京散歩】というトークイベントに行って来た。本日発売の『東京人』の8月号の特集「なつかしの鉄道」に合わせたもの。『東京人』は定期的に鉄道特集を組むが、12ページから96ページ、つまり85ページにもわたって鉄道の記事が続くのは初めてではなかろうか。

20110702.jpgそのなかで21ページにわたって原稿・写真を提供している丸田祥三さんと、『東京人』レギュラー執筆陣のドイツ文学者、池内紀(おさむ)さんが鉄道と東京について語るこのイベント、1時間という枠では全然おさまらない、とても楽しいイベントとなった。司会進行は編集長の高橋栄一さん。

いままで、丸田さんのイベントはほぼ見てきたが、今回は「文章作家・池内紀と写真作家・丸田祥三」の対談、というような印象の進行。池内さんのファンの方にも、「丸田さんとは写真作家である」ということが十分に伝わるような、正当な(?)イベントだった。いわゆる写真論もないので、写真のことを知らない人が聞いてもとてもわかりやすいものだったと思う。
(表紙画像は公式サイトより)


話は、池内さんの鉄道の旅から始まる。高校生の時に鉄道で日本一周した話、学生時代に「実家のある姫路→天王寺→紀勢本線→関西本線→名古屋→東京→高崎→信越→中央→名古屋」という経路で旅した話。後者は、そのきっぷを持参されていて、昭和40年当時で1365円(記憶、誤っていたらすみません)だったという。

注:以下、記憶で書くので、ニュアンスの取り違いはないと思うが、言い回しや発言の順序は違っている。その点、ご容赦いただきたい。

「当時の駅は、割と旅人に寛容で、水とトイレとベッド(椅子)があるので、寝袋ひとつで旅ができました。駅員さんがお茶いれてくれたりしてね」(池内さん)

「私も同じように紀勢本線を1週間くらいかけて旅しました。ただし、ユースホステルでした。おもしろいのは、紀伊半島は時計回りかその逆かしかないので、泊まる先々で、以前会った人にまた会うのですよ」(高橋さん)

次いで、丸田さんがなぜ鉄道を撮るようになったかという話。「好きな鉄道は」(ではなかったけれど、そういうニュアンスの、とても答えづらい)質問に、

「都電、ですかね。生まれたのが新宿区で、都電と、それにとってかわった地下鉄と、両方を見た世代です。1980年代に映画会社に勤めていたとき、『都電がなくなり、都電で通勤しなくなって、日常を感じなくなって、面白いものがつくれなくなった』という会社の先輩方がいた。」(丸田さん)

「かつて、都電は都民の足だった。終戦後、復興が進んだのは、まず都電の復興が早かったからだ。都電は、あの速度がいいし、風景が見える。風景の変化がわかる。都電のスピードは遅いけれど、とってかわった地下鉄と、都電とで、出発地から到達地までの時間を比較した人がいて、それを見ると、都電のほうが実際は早い。階段もないし、すぐ乗れるからだ。都電はとてもいいものだった。かつて、デートの帰り道、都電で去る彼女が自然に小さくなっていく風情がよかった。地下鉄にはそれがない。」(池内さん)


『東京人』の紹介をしながら、過去を含めて誌面に掲載された丸田さんの作品を、その意図と共に解説していく。

「普段からカメラを持ち歩いているのですか? それとも、いいなと思ったら構図を決めて、後日撮影に行くのですか?」という高橋さんの問いには「普段からカメラを持ち歩くことはしません。私は超広角で引いて撮るので、他人と撮影すると干渉してしまうのです」と丸田さん。

また、「丸田さんの作品は、非常に特徴的な色彩をしていますが、その意図するところは?」という高橋さんの問いには、以前、 「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント」vol.1にも書いたが、戦時中の新宿のイメージを「黄砂が舞っているようだった」と聞いたことから黄色いフィルターを使ってみたという話、あるいは尊敬する脚本家(M・S氏のことかと推察するが違うといけないのでイニシャルで)が「色」を認識できないのに素晴らしい作品を作るので、色について考える話など(ちょっとこのあたり、記憶が曖昧…)が披露された。



トークはわずか1時間。いくつかのテーマがあったが、それぞれを話の流れにまかせて展開していくには、全然足りない! とはいえ、冒頭に書いたとおり、丸田さんの写真家としての話は十分に池内さんファンにも伝わったと思うし、丸田さんファンにも伝わっていると思う。また、丸田さんファンにも、飄々としながらも体験に基づく考察から考えを話す池内さんのお話に、池内さんの本を読んでみたい!という気持ちが生じたと思う(私がそうだ)。こんどは、時間など気にせずに話を流れで展開できるようなイベントをぜひ!



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