ジュンク堂で開催された【「東京人」創刊25周年記念 「私は、東京人」BNフェアイベント 電車に乗って、東京散歩】というトークイベントに行って来た。本日発売の『東京人』の8月号の特集「なつかしの鉄道」に合わせたもの。『東京人』は定期的に鉄道特集を組むが、12ページから96ページ、つまり85ページにもわたって鉄道の記事が続くのは初めてではなかろうか。
いままで、丸田さんのイベントはほぼ見てきたが、今回は「文章作家・池内紀と写真作家・丸田祥三」の対談、というような印象の進行。池内さんのファンの方にも、「丸田さんとは写真作家である」ということが十分に伝わるような、正当な(?)イベントだった。いわゆる写真論もないので、写真のことを知らない人が聞いてもとてもわかりやすいものだったと思う。 (表紙画像は公式サイトより) 話は、池内さんの鉄道の旅から始まる。高校生の時に鉄道で日本一周した話、学生時代に「実家のある姫路→天王寺→紀勢本線→関西本線→名古屋→東京→高崎→信越→中央→名古屋」という経路で旅した話。後者は、そのきっぷを持参されていて、昭和40年当時で1365円(記憶、誤っていたらすみません)だったという。 注:以下、記憶で書くので、ニュアンスの取り違いはないと思うが、言い回しや発言の順序は違っている。その点、ご容赦いただきたい。 「当時の駅は、割と旅人に寛容で、水とトイレとベッド(椅子)があるので、寝袋ひとつで旅ができました。駅員さんがお茶いれてくれたりしてね」(池内さん) 「私も同じように紀勢本線を1週間くらいかけて旅しました。ただし、ユースホステルでした。おもしろいのは、紀伊半島は時計回りかその逆かしかないので、泊まる先々で、以前会った人にまた会うのですよ」(高橋さん) 次いで、丸田さんがなぜ鉄道を撮るようになったかという話。「好きな鉄道は」(ではなかったけれど、そういうニュアンスの、とても答えづらい)質問に、 「都電、ですかね。生まれたのが新宿区で、都電と、それにとってかわった地下鉄と、両方を見た世代です。1980年代に映画会社に勤めていたとき、『都電がなくなり、都電で通勤しなくなって、日常を感じなくなって、面白いものがつくれなくなった』という会社の先輩方がいた。」(丸田さん) 「かつて、都電は都民の足だった。終戦後、復興が進んだのは、まず都電の復興が早かったからだ。都電は、あの速度がいいし、風景が見える。風景の変化がわかる。都電のスピードは遅いけれど、とってかわった地下鉄と、都電とで、出発地から到達地までの時間を比較した人がいて、それを見ると、都電のほうが実際は早い。階段もないし、すぐ乗れるからだ。都電はとてもいいものだった。かつて、デートの帰り道、都電で去る彼女が自然に小さくなっていく風情がよかった。地下鉄にはそれがない。」(池内さん) 『東京人』の紹介をしながら、過去を含めて誌面に掲載された丸田さんの作品を、その意図と共に解説していく。 「普段からカメラを持ち歩いているのですか? それとも、いいなと思ったら構図を決めて、後日撮影に行くのですか?」という高橋さんの問いには「普段からカメラを持ち歩くことはしません。私は超広角で引いて撮るので、他人と撮影すると干渉してしまうのです」と丸田さん。 また、「丸田さんの作品は、非常に特徴的な色彩をしていますが、その意図するところは?」という高橋さんの問いには、以前、 「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント」vol.1にも書いたが、戦時中の新宿のイメージを「黄砂が舞っているようだった」と聞いたことから黄色いフィルターを使ってみたという話、あるいは尊敬する脚本家(M・S氏のことかと推察するが違うといけないのでイニシャルで)が「色」を認識できないのに素晴らしい作品を作るので、色について考える話など(ちょっとこのあたり、記憶が曖昧…)が披露された。 トークはわずか1時間。いくつかのテーマがあったが、それぞれを話の流れにまかせて展開していくには、全然足りない! とはいえ、冒頭に書いたとおり、丸田さんの写真家としての話は十分に池内さんファンにも伝わったと思うし、丸田さんファンにも伝わっていると思う。また、丸田さんファンにも、飄々としながらも体験に基づく考察から考えを話す池内さんのお話に、池内さんの本を読んでみたい!という気持ちが生じたと思う(私がそうだ)。こんどは、時間など気にせずに話を流れで展開できるようなイベントをぜひ! PR
雨の朝、えちぜん鉄道沿いをクルマで走っていたら、すてきなモービルが現れた。
そのときのようすは江東ドボクマッピング 新観光講座 ガソリンスタンド編をご覧いただくとして。 sgmさんによれば、「円形キャノピーが不評だったため、後に登場したペガサス21型というタイプで、改修したものではなく、まったくの新造です。」とのこと。残念。 「ペガサス21」とかググっても、給油所のことなど出てこない。いや、「ペガサス21○○」というモービルの給油所は出てくるけれど。こういう意匠の流れは知りたい。さて、どこから攻めるかな…。
小舟渡橋 その1 (福井県)の続き。
200フィートクラスの曲弦プラットを通り、小さい桁のほうへ。 欄干が違う。そして 燕だろうか、巣をかけている。 あれ? 駅名は「こぶなと」…。まあ、どちらでもいいのだろう。かつて同級生に小舟渡くんと小舟渡さんがいたけれど、どちらも濁らない「こふなと」さんだった。小舟渡という地名は全国至る所にある。 この小舟渡橋を撮ったときは雨が降ったり止んだりで、さらに先を急いでも居たので、河川敷に降りての撮影をしていない。ちょっと後悔しているが、また行けばいいさ。
(小舟渡橋より先に…)
昨年、ガーミンのdakota20を購入後、地形図はカシミール3Dから切り出して転送して使用していた。不便な点はサイズに制限があることで、2万5000分の1地形図なら、東京都全部をdakota20に入れることはできない。便利な点は無料である、ということだ。 旅行時でも、PCを持参することでなんとかしていたのだが、10年ぶりに北海道ツーリングに行けることになり、対策が必要になった。そこで、TKAから「日本地形図25000全国版 microSD版」を購入した。地理院の2万5000分の1地形図が全国分入って、2万4800円である。なお、dakota20は、イギリスの自転車屋から購入している。そのほうが安かったからだ。当時222.12ポンド、現在のレートなら2万8000円ちょっとだ。当時は3万円を切る、くらいだったと思う。アメリカでは349.99USDだ。 さてこの「日本地形図25000全国版 microSD版」(以下「本地図」とする)。予想以上にすばらしかった。以下、キャプチャ中心に。 Enabledとなっている、「TopographicMap25k」というのが2万5000分の1。その下の数字(2011068286)は、おそらく「2011年6月版」ということだろう。ほかに「RoutingMap」「Topo50m」が同時に利用できるようになる。 これで、スケールを変化させると、それにあわせて省略された地図が表示されるようになる。TKAによれば 5m~200mスケールまでは25000分の1の地形図、300m~800mスケールまでは空間データ基盤(25000)を元にした地図、1.2kmスケール以降は広域地図が表示されます。 となっている。 これまで「カシミール3D」からマップを切り出し、[CustomMap]として利用していた人もいるだろうが、そのままの設定では、CustomMapのデータがある部分では、本地図より優先されてそちらが表示されてしまう。 左の地図になぜ500m刻みの等高線があるかといえば、標高0mと1mとの境に等高線があるためだ。以下同じ。 なんでそんなことに気づいたのかというと、地図入れて真っ先に見たのがここだったからだ。 等高線は50mごと。 等高線は地形図と同じ10m。だたし、50mごとに、別データによる等高線が重なるので、多少の見苦しさがある。これを消すためには、[Setup]→[Map]→[Map Information]で、「Topo50m」を「Disabled」にすればいい。これを「Disabled」にしても、800mスケールより大縮尺の地図での等高線の見え方は変わらない。 左の、本地図のクッキリ度がよくおわかりいただけると思う。川がきちんと水色になるのが嬉しい。 2万5000分の1地形図としての使いやすさは、200mスケールから120mスケールまで。その次の80mスケールでは、周辺がわからなくなる。そして50mスケールではこんな。紫色の破線は、地下鉄駅の表記。わかりづらいからか、電子国土では、地下鉄駅は破線ではなく塗りつぶされた四角になっている。 等高線は、ここまで拡大すると、「50mごと」の黒い線との誤差がはっきりとわかるので、やはり「Topo50m」は「Disabled」にしておくのがよさそうだ。 赤いトラックデータが絡まっているのは、本日買い物をした池袋のエルブレス。買ったものはこれ。 以上、Dakota20とTKA「日本地形図25000全国版 microSD版」の相性というか表示についてのレポートである。 結論:この地形図、早く買ったほうがいいですよ。 「歴史的鋼橋集覧」には収録されていない。なぜ小舟渡橋が「歴史的」収録されていないかは謎。しかし、絵葉書は「愛知県」と誤記された上で掲載されている。 また、「日本の近代土木遺産2800」にはCランクで記載されている。そして、福井県の「福井の歴史的建造物」にはきちんと解説がある。GJ! それによれば、この場所に初めて架橋されたのは明治15年(1882年)で、いわゆる「舟橋」であった。橋の名もそれに由来する。その後、大正3年(1914年)に越前電気鉄道が開通した際、小舟渡駅が設置されたが、九頭竜川を挟んでいたため、永久橋の架設が計画され、大正9年(1920年)工事が開始された。開通は大正10年(1921年)。下流に市荒川大橋が完成し、換線されたのが昭和44年(1969年)なので、主役として48年、脇役としても42年、合計90年が経過している。 当初の舟橋の写真が、福井駅西側の湊地区公民館のサイトやいち市民氏のサイト(1)、「郷土の自然」に掲載されている。 場所はここ。小舟渡駅のすぐ近く。 左岸から、歩測200フィートの曲弦プラットトラス、歩測100フィートないくらいの平行弦プラットトラス。その下が流路。右岸にかけてはRC桁橋で、その下は河川敷となっている。1948年撮影の航空写真でも流路が同じなので、架けた当初から川の流れ方は変わってないのかもしれない。今回は曲弦プラットトラスのみを掲載する。 (続く) (余談) 画像の右上に移っている黒い点は、撮像素子についたゴミです。 (続き)小舟渡橋 その2 (福井県) |
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