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5月27日(金)、永田町の憲政記念館の敷地内にある日本水準原点が公開されるというので行ってきた。

入るなりこれ。
20110527_000.JPGんー…。6月3日が測量の日なのはわかるんだけど、でも今日は5月27日で、6月3日には公開してないんだ…。

20110527_006.JPGこんな感じで、大日本帝国水準原点を収めた建物(標庫)の前にはテントが張られ、国交省関東地方測量部の方々が説明のために何人かいた。

私が行ったのは仕事の打ち合わせが済んだ13時頃。まあ、お昼休みの間だ。けっこう、人はひっきりなしに来ていて、常時5人くらいは見学していた感じだ。

20110527_002.JPG日本水準原点についての説明。

20110527_001.JPG隣接して、こちらはそれを収める建物(標庫)の説明。

20110527_003.JPGこれが標庫だ。石造に見えるが、後述のとおり、内側は煉瓦のようだ。それをコンクリートで塗り固めているように見えた。

さて、ご本尊。
20110527_012.JPGこのように、扉を手前に倒して開けると、中に水準原点がある(扉は開いている)。縦長の透明のもの(白く写っているもの)が原点の目盛りであり、水晶でできている。

20110527_011.JPGその前にはコレが置かれていて、覗くと
20110527_009.JPGこう見える。水準測量の例なんだろうと思い込んでいたが、なんのために、どうやって使うのかの説明をしてもらえばよかった。

真裏に回る。
20110527_005.jpg裏側には、表側よりも大きな扉がついている。先の、水晶が埋め込まれた石は舟形をしていて、そのお尻の部分に「明治二十四年辛卯五月建立 陸地測量部」とある。説明員は「辛卯」を読めないし説明できなかったのだが、それじゃいかんだろう。1891年(明治24年)の干支だ。

この「明治245月」が重要。それにちなんで、水準点が24.5mに設定されている。しかし、関東大震災で地盤が沈下したため、先の水晶の目盛り「0」の位置が24.414mになってしまった。現在は、ここから水準測量で各地の水準点の高さを定めている。建前では。

今回、私が滞在していた20分くらいの間で「東日本大震災の影響で、この水準原点が動いたりしなかったのですか?」という質問を5回は聞いた。「まだ精密な測量をしていない。すべてはっきるするのは9月頃になるのではないか」ということだ。同じことを繰り返し説明しなければならない説明員にちょっと同情する。


20110527_004.jpgこの水準原点が、どのように地盤に固定されているかを図解したもの。煉瓦積みなんだ…。































20110527_010.JPGさて、テント内には関連した掲示がいくつかある。ここで、「標高」について説明していた説明員が、しれっと「ジオイド」という単語を発していたが、ふつうの人は理解できないでしょ…。

20110527_008.JPG陸地測量部。映画『剣岳 点の記』の原作を読む際には必要かも…。

20110527_007.JPG「今に伝わる明治の測量標識」」。へー。。。



いままで何度か機会があったが、「こういうものがある」と知っていればそれでいいとも思っているので、スルーしていた。でも、GPSを使い始めてから、見るのは義務であるような気がしていた。おもしろいものだ。

見たからどうだということはないけれど、「見たことがある」と言えるようになった。ついでに、憲政記念館前の道、いつもバイクや自転車で通っている道を歩いたということが嬉しかった。





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20110525_000.JPG

以前、ザックのカビという記事を書いた。これは、もう15年ほどもプラケース内で保管していたものだったので、こうなるのもむべなるかなと思うのだが、そこそこ日常的に使っていたKARRIMORのZOOMというウエストバッグも似た症状となり、しかも底が裂けてしまった。

このウエストバッグはデイパックに変形するもので、上の写真の上面のファスナーを開けると容積が拡大される。
20110525_001.JPGこのように。

このウエストバッグを先の週末の氷見ツーリング(帰りは土砂降り)で使ったのだが、帰宅して見ると、中に入れていたビニール袋に消しゴムのカスみたいなのがたくさんついている。もしや…

20110525_003.JPGやはり。内側のコーティングが剥げていた。水色の部分も、黒い部分(厚い)も。

汚れてしまったこともあり、風呂場でバッグ全体の洗浄を兼ねて、この部分を洗い流す。すると、縫合部が裂けてしまった。上の写真でも写っている。

20110525_002.JPGこんな。

カリマーよ。。。

いつどこで購入したかは覚えてないが、2001年から2004年の間であることは間違いない。基本的に街中でしか使っていないのに、10年ももたずにこんなになるのか。

縫い合わせることもできるが、寄りによって裂けたのは底なので、ちょっと怖い。どうしようか考えあぐねている。

『雑誌の写真を出典なしでネットに』というまとめがある。これについて書く。

ざっと読んでいただきたいが、簡単に言うと
・福井氏が何の気なしに、週刊新潮に掲載されていた写真をtwitpicにアップ
・新潮社なかしまさんが「出典を入れて」と要請
・外野が「出典入れろ? こんなものはフリーで流通させるべき!さすが出版社、古すぎる!」と暴れ出す
・なぜか、博士号まで持ってる人や東大教授が出てきて外野の見方となっていく
という流れ。

私が問題と考える点は三つ。
(1)F氏および外野は、オリジナルに対する敬意が微塵もないこと
(2)明確な「公衆送信権の侵害」であること
(3)そもそもの「写真」がどういうものであったかが、蚊帳の外になっていること



(1)は、丸田祥三氏の風景剽窃裁判に関することで、何度も書いてきたことだ。文章にしろ写真にしろ、あらゆるものは、先駆者の成果を踏み台にしてできている。だからこそ、先駆者へのリスペクトは忘れてはならないと考えている。

(2)を「違う」と考える人は、それなりの数がいる。そして、それを「侵害である」という意見を「古い」「いまのネットの世界では、そんなことはない」というような理屈で塗り固めてしまう。恐ろしい勘違いだ。
「宣伝効果があるから、13万ビューもあれば売上にも貢献したはずだろうから、いいじゃないか」という、一見、正しそうな理屈がある。でも、全然関係ないよ。考え方が新しい/古いも関係がない。パブリック・ドメインにして放流するかどうかは、著作者だけが決めることができる。

(3)が本質的な問題かもしれない。

私にとっては気持ちが悪い「外野の意見」、すなわち「価値があれば、必ずリファーされます」(理化学研究所・藤井直敬氏の言葉、削除済み)、「新しいメディアと消え行くメディアの違いですね。」(東京大学教授・池上高志氏の言葉)という話にすり替わった時点で、元の写真は、相当に不幸だった。写真の価値、記事の価値はまったく文脈に登ってこなかった。

これは、丸田氏の風景剽窃裁判を、「同じ場所で撮ったらダメなのか」という文脈で捉えてしまうのと極めて同じ構造だと考える。週刊新潮も、丸田さんの裁判も、そんなことは言ってないし、本質ではない。ただし、丸田さんの裁判では、幸いなことに常に丸田さんの作品と小林氏の写真が参照されている。裁判には否定的な見方をする人でさえ「作品にしろ話の筋にしろ、オリジナルである丸田氏のほうが圧倒的に素晴らしい」という感想を持つほどに、参照されている。だから、本質を見誤る人は、週刊新潮よりも相当に少ないと思う(とはいえ私の印象では過半数は見誤っている)。


一連のやりとりで、素晴らしかったのは、新潮社なかしま氏の最初の一言だ。

お読み下さりありがとうございます。できましたら出典を明記してくださいましたらばなおありがたかったです。

これは、上記のような問題、メディア新旧論やネットで話題になるなら宣伝になるだろ論、そうしたことすべてひっくるめて、ここを落としどころとする判断だったのだと思う。この素晴らしい落としどころは、しかし、アップした本人にも「外野」にも、まったく伝わらなかった。大変に不幸なことだ。

ここで、アップした当人・福井氏がそれに応じ、新潮社に対してコメント(詫び)をし、新たに記事に対する感想を書き始めたら、そこに成立するのはプチ炎上ではなく美談である。嫌いな言葉でいえば、ウイン-ウインになったはずである。


ああ、ああ。この問題の根深いところは、(3)について書いているつもりが、すぐに別の話題にすり替わってしまうことだ。結局、オリジナルの写真および記事がなんなのかの議論はトゥギャッターのコメント欄にもない。トゥギャッターは恣意的なまとめだから、ここに転載されている人たちも、別の場所ではツイートしているのかもしれない(実例は知っている)。願わくば、このトゥギャッターがきっかけで、オリジナル(週刊新潮)がリファーされんことを。





20110525.jpg
木曽川にかかる玉蔵橋を上流右岸から。

この橋を目的に行ったのではない。向こう側に見えている、
北恵那鉄道 木曾川橋梁を見に行ったのだ。そしたらたまたまあった、というだけの橋だ。

上路カンチレバートラス。国道20号大月橋(山梨県大月市)ゲルバートラス桁と同じ形式であるが、なぜかまったく萌えない。なぜなんだ。まったく分析できないので、なにも書けない。写真も、木曽川橋梁最優先だったのと、時間がなかったこともあり、これしか撮っていない。



帰宅後、ちょっとググったら、この橋の旧橋を紹介しているサイトがあった。

「中津川市 その周辺の自然と文化」

上記サイトによれば、なんと旧橋は「連続補剛桁」とでもいおうか、吊橋の補剛桁を中間で受ける橋脚を持つ、異様なスタイルのものだったという。すばらしい発見。こんな吊橋、他の例はないのだろうか?
偶然、国際日本文化研究センターのサイトにおいてある、所蔵地図データベースを見つけて驚いた。陸地測量部が明治初期に東京都新を測量して作製した5000分の1地図があったりするのだ。

例えば、早稲田周辺。この図は明治16年測量。

(例)五千分一東京図測量原図(東京府武蔵国北豊嶋郡高田村近傍)

都の西北早稲田の杜には、開校したばかりの東京専門学校がある。その隣には大隈邸。江戸川公園にも永青文庫はなく、細川邸しかない。細川邸の東、現在の椿山荘の位置には山縣邸がある(椿山荘は山縣有朋が作ったものであるから、当たり前)。神田川は江戸川である(この区間が「神田川」となったのは1964年)。

…というような気づきが山ほど出てきて時の経つのを忘れてしまう。


個人的に重要なのは、陸地測量部の5000図と5万図。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/rikuchi.html

人によっては吉田初三郎の鳥瞰図のほうがうれしいかもしれない。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/yoshida.html

いろいろな検索ができるので、ぜひご覧いただきたい。


この日文研にあるのは、地図データベースだけではない。さまざまなものが統合されてオンラインで提供されている。

http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/database.html

これらの中で、『近世畸人伝(正・続)』にひかれた。これはいまから30年ほど前、読売新聞日曜版に、この書を元にした奇人伝が連載されていたことで記憶していた書名。もっとも、いま、いちいち読む気はない。上記の地図のほうがはるかに楽しい。




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