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国道8号を走っていて目に止まった橋。地図でもわかるが、ちょっとへん。どれくらい変かというと…

20110418-01.JPGこれが北側。

20110418-06.JPGこれが南側。


そしてこれが西側から見た路面。
20110418-03.JPG

おわかりだろうか。北側は5スパンのカンチレバープレートガーダー、南側は3スパンのプレートガーダーである。それに対して、路面は一体化しているのだ。路面の写真はガードレールが邪魔してうまく見えないが(わかるように撮ればよかったのだが!)、ガードレールはあたかも中央分離帯のように、ふつうに両側と地続きである。路面はひとつ、桁は2種類。

なお、路面の画像、左側に親柱が写っているここには
横関橋
日野川

とかいてある。「橋」のじは異体字で、旁の上がナ、その下がハシゴ高のようになった文字である。


路面を東から見る。
20110418-02.JPGせっかく改修した橋なのに、なっぜこんなに幅員狭小なのか。ガードレールを中央分離帯的な意味とするためにも、向かって右(歩道化した車道、北側)を東行きに、向かって左の現在2車線の部分を西行き+歩道にしたほうが安全なのではなかろうか。

西・南側の親柱。
20110418-05.JPGよこぜきばし
昭和44年2月完成

気になる桁裏に行ってみる。
20110418-08.JPG西側の桁下。向かって左のカンチレバープレートガーダーが北側(下流)、右のプレートガーダーが南側(上流)である。右の方が橋脚がすくないのがわかろう。また、スパンが短く桁幅が1車線分しかないカンチレバープレートガーダーは2主桁、対して2車線分あるプレートガーダーは3主桁である。

でも、床版の接合部が見えないので寄ってみる。
20110418-10.JPGどうだろうか。橋脚と橋桁は独立しているのに、床版がくっついているのがおわかりだろうか。また、向かって左の橋脚は、古い橋脚を包み込むようにして建っているように見える

振り返る。
20110418-09.JPGよりはっきりわかる。そしてなぜかカンチレバー側にはツナイダルがあるのに、プレートガーダー側にはない。
銘板。
20110418-99.jpg横関橋
1968年11月
近畿地方建設局
鋼示(1964年)一等橋
製作株式会社駒井鉄工所
材質SM50B.A SS41

再度、床版の上へ上がってみよう。
20110418-12.JPG片や5スパンのカンチレバープレートガーダー、片や3スパンのプレートガーダーなので、このように、継ぎ目の位置がずれる。

20110418-04.JPG最後にアプローチ道路。このように轍があるので、最近まで車道だったのがわかる。

1982年に撮影された航空写真を見る。
20110418map.jpg国土画像情報よりトリミング・転載)

この時点では、カンチレバー側も利用されていて、プレートガーダー側は外側のみを車道として使っている。


この場所に橋が架けられたのは、近くにある中山道六十九次の武佐縮の看板によれば、明治8年(1875年)。それ以前は渡し舟もしくは舟橋だったらしい。明治26年(1893年)改築、さらに昭和12年(1937年)「近代的な横関橋」を新築。旧橋は2年後に撤去された。

この横関橋が渡るのは日野川。小さな川だ。それでも一級河川であるのは、この日野川が琵琶湖に注ぐためだろうか。琵琶湖は「一級河川淀川」である(滋賀県内は瀬田川と称する)から、その支流たる日野川も一級河川ということになる。

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20110417.jpg古いアルバムに貼ってある写真をスキャンしていたら、こんなものが挟まっていた。

昭和57年11月の上越新幹線開業を控え、直前の夏には試乗会を多く開催していた。私は鉄道少年団という非常に楽しい組織に属していたので、そこからご招待があった。このハコダイヤは、おそらくそのときにもらったものだと思う。


公式試運転とはよく聞く言葉だが、試運転との違いは何だろう? その編成初めての試運転?


昭和50年代の駅名標(越後線)その1
昭和50年代の駅名標(越後線)その2の続き。

●石地駅
e651d12a.jpgいまのいままでオリジナルの書き文字だと思っていたが、RAを見ると、大河津系だ。所在地表記もないのも同じだ。

しかし、燐駅表示の矢印がなく、T字型の交点に「・」がある。なぜだろう?

●礼拝駅
7a862b6b.jpg「桐原系」。このRにしびれるね。

●西山駅
7d80f497.jpgこれは新しい系統。燐駅表示のT字の交点が▼になっている。書体は、角丸ゴシックとでも言おうか。そして「わ」の縦棒が左に撥ねるという特徴的な書体。

そして、鳥居の組み方だ。古レールなのだが、縦の柱が、側面ではなく、レール頭頂部がこちらを向いている。これはいま気がついた。写真を撮って30年近く経つのに。こういうのに気づくことが、「数を見ることの大切さ」を再認識させられる。

西山と田中角栄。越後線と平行する国道116号は、新潟から来ると、それまで2車線だったものが、西山駅付近から4車線になる。かつてはまた2車線に戻ったような気がするが、いま改めて衛星写真を見ると、国道8号との合流地点まで4車線となっている。私の記憶違いか。その4車線部分を、この西山駅に停車中の電車内から見ることができる。

周辺は刈羽郡。昭和50年代後半、郡名を冠した刈羽郡刈羽村が「村」であるのに対し、刈羽郡西山町が「町」であることに引っかかった。郡名を冠しているのはあまり意味はないのだが、当時はそう思った。そして、駅の「格」は、その当時から、西山駅は交換可能な2面2線、刈羽は1面1線である。いやもちろん、交換設備というのは駅間距離によるもので、「駅の格」などというのは言葉の綾である。

『国鉄全線各駅停車 中央・上信越440駅』(昭和58年刊)によれば、電化・CTC化前の当時の越後西線の交換可能駅は、吉田側から(括弧書きは棒線駅)

吉田-(南吉田)-(粟生津)-分水-大河津-(桐原)-小島谷-(妙法寺)-出雲崎-(小木ノ城)-石地-(礼拝)-西山-(刈羽)-(荒浜)-(西中通)-東柏崎-柏崎

である。現在は、新たに棒線化された駅を<>とすると、

吉田-(南吉田)-(粟生津)-分水-大河津-(桐原)-<小島谷>-(妙法寺)-出雲崎-(小木ノ城)-<石地>-(礼拝)-西山-(刈羽)-(荒浜)-(西中通)-東柏崎-柏崎

となっている。


●刈羽駅
5cdff71c.jpg西山系。なぜか「あらはま」の「あ」が消されている。

●荒浜駅
71557edf.jpgこれもかなり好きな駅名標。桐原系。RAの特徴も健在。この「ら」は、ちょっと縦棒を左に振り過ぎたか、というような感じ。他の駅名標(撮ってない)では、ここまでひどく(?)ない。

背景のどんよりとした灰色の空、これが冬の裏日本。

●西中通駅
d6dd634c.jpg桐原系。昭和50年代前半に、一度だけ下車したことがある。そのときは相対式ホームだったような記憶があるのだが、不詳。

●東柏崎駅
6a7b1ca8.jpg新しい系統。

最寄り駅が柏崎駅である母方の実家の祖母は、なぜかこの東柏崎駅を愛用した。タクシーでわざわざここまで来て、越後線に乗って来るのだ。やはり新潟駅ではなく、手前の白山で降りてタクシーに乗って我が家に来た。なんでも、「大きな駅は落ち着かない」とのことだった。かつて、「比角駅」と言った。だから、祖母はこの駅を「比角の駅」と言っていた。もう亡くなって23年経つ。

●柏崎駅
c2fe44b2.jpg確か、手書きではなく、プラスチックを貼り付けたものだと思う。柏崎駅の鳥居型はこのひとつだけだった。そして、鳥居型ではなく、このように逆U字型のパイプに吊す「門型」も新潟界隈では珍しい存在だった。


了。


昭和50年代の駅名標(越後線)その1のつづき。

●南吉田駅
a8041a15.jpg燐駅表示にご注意。「あおうづ AOUZU」である。

●粟生津駅
7d4ebe0d.jpg「あおうづ」が
「AÔZU」

と、「おう」が長音になる! これを初めて見たとき驚いた。駅名標が好きだったので、ローマ字は読めたのだが、こう来るとは。

「う」の形が違うので、南吉田とは異なる筆跡である。

●地蔵堂駅(現:分水駅)
1fffd937.jpgこれまた長音記号の連発に萌える。JIZÔDÔ!

そして

AÔZU! ÔKÔZU!
古レールでできた駅名標に5つも長音記号がある。

b7aea98d.jpg「鳥居型」ではないが、こんなのもあった。どうですか、おの極太丸ゴシックといおうか、看板文字。フォントにして配布したいくらい。

●分水駅(改称)
e3c005c2.jpg昭和58年4月1日、地蔵堂は分水に改称された。このとき、前日と当日の2回、新潟駅から往復した。当日は朝4時50分発という始発に乗って入場券を買いに行ったが、すでに100番を超えていた。

この時代はまだ手書きであるのがよくわかる。前日には駅名標は書き換えられており、上に「じぞうどう」と書いた張り紙がしてあった。

ea7d2d8d.jpg駅舎。「分水駅」の文字、「駅」の「馬」の中の点々を一直線に書くのもお約束である。

●大河津駅(現:寺泊駅)
8fc95543.jpg少し投げやりな感じの書体。擦れているので、薄幸な感じもする。いや、擦れていると共に、イタズラでなぞって削ってあるのだが。燐駅表示の「き」が好きだ。

鳥居自害は古レール型。

●桐原駅
19742179.jpgこの「桐原」で駅名標に目覚めた。この平仮名とローマ字のぶっとい書体、そしてサビ具合。

この鳥居いは照明がない。

●小島谷駅
b8b86c82.jpg美しい駅名、「おじまや」。「き」「R」「A」の書き方からして、大河津と同系統。「大河津系」とする。

漢字表記の「谷」だけ、ちょっと書き直したようにも見える。

偶然か、鳥居の形状も同系統。風格のサビ。


●妙法寺駅
953e65ee.jpgエキゾチックな名前だと思う。妙法寺。同レベルのものは「妙寺」しか知らない。

「桐原」と同系統。もっとも好きな系統。

b5ceb2e6.jpgあるときからプレハブ駅舎になった。そして、こんな駅名標が掲げられた。こんなものでも、手書きである。

●出雲崎駅
9d694e78.jpg桐原系かと思いきや、所在地表記の「潟」が略されている。真相は不明。

●小木ノ城駅
ab71c45f.jpg分かち書きとでもいおうか、ローマ字が一音一音に対応している。



昭和50年代の駅名標(越後線)その3に続く。



20110411-99.jpg

19歳まで新潟に住んでいた。そして母方の実家が柏崎だったため、日頃は急行「しらゆき」または「赤倉」をよく利用していた。「とがくし」は、利用時間が都合が悪かったのか、1回しか乗った記憶がなく、気動車急行が非冷房で窓全開だったのに対し、冷房が寒すぎた記憶がある。もちろん、自由席にしか乗ったことがない。

昭和55年、なぜかは知らないが、越後線で行った。急行なら柏崎まで1時間半のところ、越後線の各停は3時間かかる。吉田を過ぎると子供心にエキゾチックな駅名が続き、興味をそそられた。その時の写真が、上のキハ55である。これは母がカメラを持っていて(ミノルチナSという)、母が撮った。

それから少し経って、ミノルチナが壊れた。シャッターが下りなくなった気がする。もともと写真など撮る家ではなかったので、私がへたくそな小学生らしい写真を撮るために、お年玉でミノルタハイマチックSというカメラを買った。それで駅名標を撮った。間違いなく、種村直樹『鈍行列車の旅』巻末の、森嶋孝司さんの824列車全駅名標撮影、が大きく影響している。そのため「鳥居型」に絞って撮った。

総じて、越後線の鳥居型駅名標には木製ので鳥居型に組んだものはなく、すべて鉄製であったと思う。L字型のアングルか、古レールを組み合わせていた。興味深いのは書体である。すべて手書きであるため、個人のクセが出ている。文字にも、矢印にも、罫線にもクセが出る。そのおかげで、同じ人が書いたと推測できる複数の駅名標がある。そうした観点で見て行く。


なお、定型は、

ひらがな
漢字
ローマ字
(所在地)
←---→
燐駅|燐駅

である。

ここにアップするのは、。そのとき、あるいは後日撮った写真である。雪景色のものは、ほとんどが昭和56年冬の撮影である。モノクロは昭和57~58年頃と思う。

●新潟駅

「鳥居型」がないので割愛。

●白山駅
5048e90e.jpgとにかく平仮名の太さが目立つ。「は」「さ
」に、後日書く越後西線の駅名標と同じテイストを感じるが、他の平仮名を見ると別。所在地表記もない、オリジナル型。

後ろのキハ45 32は、寒冷地仕様の500番台とともに新潟の顔だった。

白山駅は島式ホームで、駅舎には地下道が通じていた。その、地下道の階段がとても味わい深かったのだが、いま現在はホームともども改築中で、跨線橋が架設されている。白山駅は、高校時代、「汽車通」してた友人をときどき見送りに行った。私は自転車通学だった。

●関屋駅
c21b5694.jpgこの時代の駅名標は、ローマ字に特徴がある。PCで言うところの「全角英数字」になっているのだ。こんなに丸っこいアルファベットはアルファベット文化圏の人は読み取りづらいのではないか。アルファベットには、アルファベットを表記するのに適した書体があるのだ。気にしてない書物が世の中には多すぎるけれど。

窓の外を見れば、まだ貨物輸送をしていた時代。

新潟から内野あたりは当時でも乗客が多く、車内から駅名標を撮るとどうしても人が入ってしまい、思うように撮れなかった。子どもとはいえ、(被写体でもない)人にカメラを向けることには抵抗があった。

●青山駅

当時は存在しない。

●小針駅
321e8a5d.jpg駅名標は、古レールである。ローマ字を「TE RA O」と書くようなスタイル。これは新潟口で見られた。

●寺尾駅
dff9b3f0.jpgこれも「アルファベット全角系」だ。露出オーバーのため、よく見えない。

●内野駅
8a813b9c.jpg「てらお TE RA O」の書き方からして、小針駅と同系統だろう。

●内野西が丘駅

当時は存在しない。

●越後赤塚駅
55616d50.jpgここだけ書体が違う。丸ゴシック系ではなく、角ゴシック系で力強い。「か」を見ると、国鉄フォントに似ているが、他の文字はそうではない。

ローマ字表記、「越後」と「赤塚」の間にハイフンが入る。

ここまで(旧)新潟市。

●越後曽根駅
47de0e24.jpg白山駅と同系統かもしれない。所在地表記もないし。また、ここも「越後」「曽根」の間にハイフンが入る。

その向こうの「銀バス」が気になる人もいるかもしれない。

●巻駅
cf905599.jpgなぜかローマ字だけが角ゴシックになっている。それ以外は、後述する荒浜駅などと同じ系統に見える。

こちらも古レール。古レールを門型に組み、その上に鉄板をかぶせてある。

●岩室駅
7ab3b3d1.jpgこんな写真ばかりで本当に申し訳ない。所在地表記あり。

●北吉田駅

当時は存在しない。

●吉田駅
669ffa28.jpg岩室駅と同系だろう。「み」「よ」がかわいいし、「わ」も筆順ではなくレタリング的に処理されていて、かわいい。

燐駅表示、「いわむろ 」とスペースがあるのが気になる。


昭和50年代の駅名標(越後線)その2に続く。
昭和50年代の駅名標(越後線)その3もあるよ。



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