昭和50年代の駅名標(越後線)その1のつづき。
●南吉田駅 燐駅表示にご注意。「あおうづ AOUZU」である。 ●粟生津駅 「あおうづ」が 「AÔZU」 と、「おう」が長音になる! これを初めて見たとき驚いた。駅名標が好きだったので、ローマ字は読めたのだが、こう来るとは。 「う」の形が違うので、南吉田とは異なる筆跡である。 ●地蔵堂駅(現:分水駅) これまた長音記号の連発に萌える。JIZÔDÔ! そして AÔZU! ÔKÔZU! 古レールでできた駅名標に5つも長音記号がある。 「鳥居型」ではないが、こんなのもあった。どうですか、おの極太丸ゴシックといおうか、看板文字。フォントにして配布したいくらい。 ●分水駅(改称) 昭和58年4月1日、地蔵堂は分水に改称された。このとき、前日と当日の2回、新潟駅から往復した。当日は朝4時50分発という始発に乗って入場券を買いに行ったが、すでに100番を超えていた。 この時代はまだ手書きであるのがよくわかる。前日には駅名標は書き換えられており、上に「じぞうどう」と書いた張り紙がしてあった。 駅舎。「分水駅」の文字、「駅」の「馬」の中の点々を一直線に書くのもお約束である。 ●大河津駅(現:寺泊駅) 少し投げやりな感じの書体。擦れているので、薄幸な感じもする。いや、擦れていると共に、イタズラでなぞって削ってあるのだが。燐駅表示の「き」が好きだ。 鳥居自害は古レール型。 ●桐原駅 この「桐原」で駅名標に目覚めた。この平仮名とローマ字のぶっとい書体、そしてサビ具合。 この鳥居いは照明がない。 ●小島谷駅 美しい駅名、「おじまや」。「き」「R」「A」の書き方からして、大河津と同系統。「大河津系」とする。 漢字表記の「谷」だけ、ちょっと書き直したようにも見える。 偶然か、鳥居の形状も同系統。風格のサビ。 ●妙法寺駅 エキゾチックな名前だと思う。妙法寺。同レベルのものは「妙寺」しか知らない。 「桐原」と同系統。もっとも好きな系統。 あるときからプレハブ駅舎になった。そして、こんな駅名標が掲げられた。こんなものでも、手書きである。 ●出雲崎駅 桐原系かと思いきや、所在地表記の「潟」が略されている。真相は不明。 ●小木ノ城駅 分かち書きとでもいおうか、ローマ字が一音一音に対応している。 昭和50年代の駅名標(越後線)その3に続く。 PR 19歳まで新潟に住んでいた。そして母方の実家が柏崎だったため、日頃は急行「しらゆき」または「赤倉」をよく利用していた。「とがくし」は、利用時間が都合が悪かったのか、1回しか乗った記憶がなく、気動車急行が非冷房で窓全開だったのに対し、冷房が寒すぎた記憶がある。もちろん、自由席にしか乗ったことがない。 昭和55年、なぜかは知らないが、越後線で行った。急行なら柏崎まで1時間半のところ、越後線の各停は3時間かかる。吉田を過ぎると子供心にエキゾチックな駅名が続き、興味をそそられた。その時の写真が、上のキハ55である。これは母がカメラを持っていて(ミノルチナSという)、母が撮った。 それから少し経って、ミノルチナが壊れた。シャッターが下りなくなった気がする。もともと写真など撮る家ではなかったので、私がへたくそな小学生らしい写真を撮るために、お年玉でミノルタハイマチックSというカメラを買った。それで駅名標を撮った。間違いなく、種村直樹『鈍行列車の旅』巻末の、森嶋孝司さんの824列車全駅名標撮影、が大きく影響している。そのため「鳥居型」に絞って撮った。 総じて、越後線の鳥居型駅名標には木製ので鳥居型に組んだものはなく、すべて鉄製であったと思う。L字型のアングルか、古レールを組み合わせていた。興味深いのは書体である。すべて手書きであるため、個人のクセが出ている。文字にも、矢印にも、罫線にもクセが出る。そのおかげで、同じ人が書いたと推測できる複数の駅名標がある。そうした観点で見て行く。 なお、定型は、 ひらがな
漢字 ローマ字 (所在地) ←---→ 燐駅|燐駅 である。 ここにアップするのは、。そのとき、あるいは後日撮った写真である。雪景色のものは、ほとんどが昭和56年冬の撮影である。モノクロは昭和57~58年頃と思う。 ●新潟駅 「鳥居型」がないので割愛。 ●白山駅 とにかく平仮名の太さが目立つ。「は」「さ 」に、後日書く越後西線の駅名標と同じテイストを感じるが、他の平仮名を見ると別。所在地表記もない、オリジナル型。 後ろのキハ45 32は、寒冷地仕様の500番台とともに新潟の顔だった。 白山駅は島式ホームで、駅舎には地下道が通じていた。その、地下道の階段がとても味わい深かったのだが、いま現在はホームともども改築中で、跨線橋が架設されている。白山駅は、高校時代、「汽車通」してた友人をときどき見送りに行った。私は自転車通学だった。 ●関屋駅 この時代の駅名標は、ローマ字に特徴がある。PCで言うところの「全角英数字」になっているのだ。こんなに丸っこいアルファベットはアルファベット文化圏の人は読み取りづらいのではないか。アルファベットには、アルファベットを表記するのに適した書体があるのだ。気にしてない書物が世の中には多すぎるけれど。 窓の外を見れば、まだ貨物輸送をしていた時代。 新潟から内野あたりは当時でも乗客が多く、車内から駅名標を撮るとどうしても人が入ってしまい、思うように撮れなかった。子どもとはいえ、(被写体でもない)人にカメラを向けることには抵抗があった。 ●青山駅 当時は存在しない。 ●小針駅 駅名標は、古レールである。ローマ字を「TE RA O」と書くようなスタイル。これは新潟口で見られた。 ●寺尾駅 これも「アルファベット全角系」だ。露出オーバーのため、よく見えない。 ●内野駅 「てらお TE RA O」の書き方からして、小針駅と同系統だろう。 ●内野西が丘駅 当時は存在しない。 ●越後赤塚駅 ここだけ書体が違う。丸ゴシック系ではなく、角ゴシック系で力強い。「か」を見ると、国鉄フォントに似ているが、他の文字はそうではない。 ローマ字表記、「越後」と「赤塚」の間にハイフンが入る。 ここまで(旧)新潟市。 ●越後曽根駅 白山駅と同系統かもしれない。所在地表記もないし。また、ここも「越後」「曽根」の間にハイフンが入る。 その向こうの「銀バス」が気になる人もいるかもしれない。 ●巻駅 なぜかローマ字だけが角ゴシックになっている。それ以外は、後述する荒浜駅などと同じ系統に見える。 こちらも古レール。古レールを門型に組み、その上に鉄板をかぶせてある。 ●岩室駅 こんな写真ばかりで本当に申し訳ない。所在地表記あり。 ●北吉田駅 当時は存在しない。 ●吉田駅 岩室駅と同系だろう。「み」「よ」がかわいいし、「わ」も筆順ではなくレタリング的に処理されていて、かわいい。 燐駅表示、「いわむろ 」とスペースがあるのが気になる。 昭和50年代の駅名標(越後線)その2に続く。 昭和50年代の駅名標(越後線)その3もあるよ。
国道20号 新大月橋の旧道・旧旧道・大月橋
国道20号の大月橋(上路カンチレバートラス)のつづき。中央本線の新第二桂川橋梁である。なぜ「第二」なのかといえば、東京方に新桂川橋梁というものがあるのである。そのあたりは 中央本線 新桂川橋梁(1) 中央本線 新桂川橋梁(2) に詳説した。 場所は、大月橋と同じくここ。 桂川の上流側(富士吉田側)からはこのように見える。 手前の上路カンチレバートラスが国道20号大月橋で、その向こうに見えるごついイメージの上路ワーレントラス二つが、中央本線新第二桂川橋梁である。その下に見える橋脚は、さらに向こうの新大月橋(国道20号旧道)のものだ。 ここでは橋梁全体は見えていないので別の場所から… なぜか全景を撮っていない。撮りづらかったのかもしれない。 いずれにしろ、5パネルの上路ワーレントラス。通常、上路トラス橋は、両端の形状が斜めではなく垂直材で終わっているが、実際にはその部材は単純な圧縮力を受け止めるだけでそれほど重要ではないので、この場所のように橋台がその役割を果たす場合は省略できる。 真下に入って対岸の橋台を見る。左が下り線、右が上り線。左の橋台はコンクリート製、右の橋台は石積であることから、右が古く、左が複線化時に設置された新線だということがわかる。 振り返って。 同様に、右(下り線)がコンクリート製、左(上り線)が石積。もっとも、そのさらに下部は、コンクリートで作り直されたのか補修されたのか、ともかく年代を新しくしている。 橋台には銘板があった。 新第二桂川橋りょう 設計 東京第二工事局 施行 勝村建設株式会社 設計荷重 KS18 基礎工 鉄筋コンクリート 基礎根入 天端から18M.00 着手 昭和39年8月24日 しゅん工 昭和40年8月23日 この区間が複線化されたのは昭和41年(1966年)11月30日である。 桁を増したから見上げる。電車が通過するゴウゴウという音はすさまじい。 かつてここにはA&Pロバーツ製の200フィート上路プラットトラスが架けられていた。1901年(明治34年)製で、1902年(明治35年)開通。しかし、不思議なことに、『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第5報)米国系トラス桁・その5』(小西淳一・西野保行・淵上龍雄)によれば、撤去は昭和43年(1968年)だという。そうすると、複線化の時期と合わせるには、 1)既設線に平行して新線を設置。新線を下り線とする。上り線は旧橋のまま 2)上り線の旧橋を交換する という手順が必要となる。そうでない方法を取るなら、さらにもうひとつ廃橋跡があるはずである。このあたりがちょっとわからない。
約1年前、山梨県大月市の国道20号大月橋について『国道20号大月橋(山梨県大月市)ゲルバートラス桁』を書いた。ここには、南から、
・国道20号の大月橋(上路カンチレバートラス) ・JR中央本線 新第二桂川橋梁下り線(上路ワーレントラス) ・JR中央本線 新第二桂川橋梁下り線(上路ワーレントラス) ・(市道?)新大月橋(上路プレートガーター) と、四つの橋が平行してかかっている。大月橋の記事では「興味深い発見」などと書いたが、それは次のものである。 これは桂川の右岸(東側=大月駅側)で写したもの。左端に写ってしまっているものが、国道20号の大月橋。メインで写っているのが中央本線の第二新桂川橋梁2線分。右が、新大月橋。その下、赤い矢印をした部分に橋脚がひとつ、その右、赤い矢印をした部分には橋台が残っているのだ。 これについて、『山さ行がねが』のヨッキれんさんと、写真家の丸田祥三さんにお話ししたら、お二人とも資料や写真をお持ちだった。すごい。今回、それらをお借りできたので、自分が再調査したこともふくめて1年ぶりにここに報告する。 新大月橋は、ここにある。 この橋の真下に橋脚が、そしてその北側に橋台と橋脚の痕跡がある。左岸がわかりやすいので、そちらからいこう。 左の新大月橋の橋台はコンクリート製である。他面左端には橋脚があるのだが、その間にひとつ、背の低い橋脚がある。 その右には、やはり橋台と、石積みの橋脚がある。右側の橋台の延長線上には、橋脚の痕跡として円柱がふたつ、見えている。 新大月橋の上から見ると、右の橋台はこんな感じ。その上、畑になっているが、そこがかつて道路だったのだろうと推測する。その右にも橋台らしき形状をしたものがあるが、その対岸は完全に擁壁になっているので関係があるのかどうかの推測ができない。 橋脚の痕跡を同様に見る。まるでトウモロコシの断面だ。 状況からすると2ヶ所に橋脚の痕跡があるべきだが、もう1ヶ所のあるべき場所にはそれが崩れたとおぼしき石が散乱している。 通常、橋梁が鉄橋される際、「河川を占有していた」橋脚は完全撤去を求められると国交省地方建設局の人に聞いたことがあるのだが、ここは例外、というか「体勢に影響ないからそのままでいいよ」となったのだろうか。 右岸を見る。 左岸は降りられなかったので、至近距離で撮る羽目になり、ちょっと状況がわかりづらいかもしれない。右に画面から欠けているコンクリート製のが新大月橋下の古い橋台、画面中央の石積みのが古い橋台。 別の角度から。橋脚がこの位置にあるのであれば、その上にはどのような橋が架かっていたのだろうか。 橋脚から飛び出す鋼材の角度を考えると上路アーチ橋だろうか。 上路トラス橋や上路カンチレバートラス橋ならば支承を設けるだろうし、ラーメン橋にしても同様か、あるいは鋼材の角度がおかしい。(上路アーチ橋も支承を設けるのではあるが…) 旧旧道(?)の写真を丸田祥三さんからご提供いただいた。1980年の状態をご覧にいれたい。 新大月橋から身を乗り出して撮影されたもので、石積橋脚が完全に残っている。そして、その上部を見ると、ここにかかっていたのはやはり支承を要する桁橋ではなく、アーチ橋ではないかと思えてくる。現・新大月橋の下には1スパン、その隣りに橋脚の痕跡だけ残す橋には3スパンのアーチ橋。 ただ、残念ながら、その確証は得られていない。大月市史等で架橋について見いだせた記事は、わずか下記のもののみである。 大月橋 廣里村字大月、花咲間/桂川/明治十七年架設、経営は県 (北都留郡誌 復刻版 昭和48年(1973年)11月14日発行。底本は大正14年(1925年)刊) 【追記】ヨッキれんさんから続報をいただいた(斜字体部分)ので追記する(4/10夜、追記部分は青字)。 大月橋、「街道調査報告書」によれば、近世にはすでに「駒橋」という名前の板橋が桂川と笹子川の合流付近に架かっていたが、大月宿が出来てから大月橋に名前が変わったとのこと。
私も『大月市史』は何度も読み返したのだが、こうした記述を見逃していたのは「読み取る力」がないことによるものだろう。また、「JSCE橋梁史年表」は、まったくノーチェックだった。いつも見ている『歴史的鋼橋集覧』とセットになっているものなのに。「JSCE橋梁史年表」によれば、慶応2年に(おそらく近世からの位置に)土橋形式の大月橋全長38m幅2.4mが架設されたが、明治3年と明治15年に流出。ちなみに明治13年に明治天皇がこの橋を渡って巡幸している。 「JSCE橋梁史年表」には続いて、明治18年6月に(おそらく今の新大月橋付近に)木鉄上路トラス1スパンの大月橋全長62m、幅5.4mが架設されたとしています。この橋はご存じ「大月市史」のなかにある、明治17年架設の橋のことだと思います。「大月市史」はこの明治17年(or18年?)架設の大月橋について、「はじめてセメントを使用した画期的なものだった」としか書いておりませんです。 また、「JSCE橋梁史年表」で大月橋を拾っていっても、その次は現在の昭和33年架設の国道20号大月橋になります。しかし、郡内における藤村紫朗県令の貴重な遺構ということが分かったので、私も今度実見に行ってみたいと思いました。(以上、ツイッターでのよっきれんさんのツイートを転載) ともあれ、比較的容易に閲覧できる資料としては、明治17年または18年架設の橋、その次が昭和33年架設の橋、ということになる。しかし、現実には、その間に少なくとも2回、道路橋が架けられている。 地図で見てみる。すべての旧版地形図をみたわけではないので、現状、把握しているものを掲げる。 <5万分の1谷村(現在の『都留』。昭和27年8月30日発行・応急修正版)よっきれん氏より> 赤く塗った部分が、当時の国道20号である。いまの大月橋はない。 中央本線はまだ単線の時代。当時の航空写真を見ても、現在と同じルートを通っている。大月駅から西へ、堀割で桂川に至り、渡ってからは若干高い位置を走ってまた堀割になる、というものはいまと変わらない。この区間が複線化されたのは昭和41年(1966年)11月30日である。 現在のもの。 (DAN杉本氏作製のカシミール3Dを使用) 赤い線が国道20号、青い線が、先に記した旧道である。 この青い線で記した旧道は、昭和27年の地図では中央本線を横切っている。現在はその痕跡はなさそうだ。しかし、当時もここは堀割で、踏切とするには不自然である。そのような痕跡はない。もしかしたら道路橋が架かっていたのかもしれないが、それはいま思いついた可能性であり、調査では鉄道線はまったくチェックしていないのが悔やまれる。 昭和23年(1948年)に撮影された国土変遷アーカイブをもとに推測してみる。 (国土変遷アーカイブより加工・転載) 光線が左上からではないので、立体感がよくわからないかもしれない。いま見ているのは画像の左側である。 この画像では、すでに現在の国道20号から駅裏(北側)に行く跨線橋が写っている。 【追記】別の航空写真で見たら、北側に道路橋が2本見えるものがあった(追記部分は青字)。 昭和18年(1943年)に陸軍が撮影したものである。 (国土変遷アーカイブより転載) A…中央本線 B…現・新大月橋のルート C…現・新大月橋の北に残る橋脚跡のルート ではないかと推測する。 また、D地点から線路方向に進む道も、おぼろげながら確認できる。よって、旧版地形図に描かれた道は存在したものと考えられる。踏切か立体交差化はわからない。 新大月橋を見る。 桂川右岸(大月駅側)から。 親柱1。右岸左。「新大月橋」。 親柱2。「志んおゝつきはし」。 親柱3。左岸左。 「新大月橋」。 親柱4。「桂川」。 どこにも竣工年がない。それなのに「新大月橋」である。そして市史にもエピソードの記載がない。国道20号大月橋の開通が1958(昭和33)年12月7日なのだから、それより新しいのかもしれない。となると、橋脚を残す旧道、旧旧道の橋の名前は……? 二度も訪問して謎をまだ残している。どこかに、この桂川を渡る道路橋変遷を把握している本などはないだろうか?
古レールに対する知識はまったく持ち合わせていない。なぜなら、首を突っ込むのが怖いからである。アメリカだけでもまったく追い切れないのに、ドイツやイギリスの産業史や経済史まではとても無理。
とはいえ、見つけたものをアップしておけば、どなたかのお役に立てることがあるかもしれないと思い、ここに掲げる。たまたま目に付いたもの、程度である。 UNION(ウニオン)製のものを2点、アップする。ウニオンは、ドイツの製鉄会社である。 wikipediaドイツ語版 ●富士急 富士吉田駅 陽刻は、UNION D 1885 I.R.J.。 Dはドルトムントを意味する(参考:古レールのページ)。1885は製造年、。IRJは官設鉄道だ。1885年といえば明治18年。たぶん、京阪神の新橋~横浜、京阪神程度しか開通していなかったはずである。 富士吉田駅には、他のメーカーの古レールも多数あったように思う。 ●越後線・弥彦線 吉田駅 陽刻は、UNION D 18XX I.R.J.。 年号を読み取れないのが残念だ。 |
カレンダー
最新記事
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
(10/22)
(10/21)
(10/20)
(10/19)
(10/06)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|