国道8号を走っていて目に止まった橋。地図でもわかるが、ちょっとへん。どれくらい変かというと… そしてこれが西側から見た路面。 おわかりだろうか。北側は5スパンのカンチレバープレートガーダー、南側は3スパンのプレートガーダーである。それに対して、路面は一体化しているのだ。路面の写真はガードレールが邪魔してうまく見えないが(わかるように撮ればよかったのだが!)、ガードレールはあたかも中央分離帯のように、ふつうに両側と地続きである。路面はひとつ、桁は2種類。 なお、路面の画像、左側に親柱が写っているここには 横関橋
日野川 とかいてある。「橋」のじは異体字で、旁の上がナ、その下がハシゴ高のようになった文字である。 路面を東から見る。 西・南側の親柱。 気になる桁裏に行ってみる。 でも、床版の接合部が見えないので寄ってみる。 振り返る。 再度、床版の上へ上がってみよう。 1982年に撮影された航空写真を見る。 この時点では、カンチレバー側も利用されていて、プレートガーダー側は外側のみを車道として使っている。 この場所に橋が架けられたのは、近くにある中山道六十九次の武佐縮の看板によれば、明治8年(1875年)。それ以前は渡し舟もしくは舟橋だったらしい。明治26年(1893年)改築、さらに昭和12年(1937年)「近代的な横関橋」を新築。旧橋は2年後に撤去された。 この横関橋が渡るのは日野川。小さな川だ。それでも一級河川であるのは、この日野川が琵琶湖に注ぐためだろうか。琵琶湖は「一級河川淀川」である(滋賀県内は瀬田川と称する)から、その支流たる日野川も一級河川ということになる。 PR
昭和50年代の駅名標(越後線)その1
昭和50年代の駅名標(越後線)その2の続き。 ●石地駅 しかし、燐駅表示の矢印がなく、T字型の交点に「・」がある。なぜだろう? ●礼拝駅 ●西山駅 そして、鳥居の組み方だ。古レールなのだが、縦の柱が、側面ではなく、レール頭頂部がこちらを向いている。これはいま気がついた。写真を撮って30年近く経つのに。こういうのに気づくことが、「数を見ることの大切さ」を再認識させられる。 西山と田中角栄。越後線と平行する国道116号は、新潟から来ると、それまで2車線だったものが、西山駅付近から4車線になる。かつてはまた2車線に戻ったような気がするが、いま改めて衛星写真を見ると、国道8号との合流地点まで4車線となっている。私の記憶違いか。その4車線部分を、この西山駅に停車中の電車内から見ることができる。 周辺は刈羽郡。昭和50年代後半、郡名を冠した刈羽郡刈羽村が「村」であるのに対し、刈羽郡西山町が「町」であることに引っかかった。郡名を冠しているのはあまり意味はないのだが、当時はそう思った。そして、駅の「格」は、その当時から、西山駅は交換可能な2面2線、刈羽は1面1線である。いやもちろん、交換設備というのは駅間距離によるもので、「駅の格」などというのは言葉の綾である。 『国鉄全線各駅停車 中央・上信越440駅』(昭和58年刊)によれば、電化・CTC化前の当時の越後西線の交換可能駅は、吉田側から(括弧書きは棒線駅) 吉田-(南吉田)-(粟生津)-分水-大河津-(桐原)-小島谷-(妙法寺)-出雲崎-(小木ノ城)-石地-(礼拝)-西山-(刈羽)-(荒浜)-(西中通)-東柏崎-柏崎 である。現在は、新たに棒線化された駅を<>とすると、 吉田-(南吉田)-(粟生津)-分水-大河津-(桐原)-<小島谷>-(妙法寺)-出雲崎-(小木ノ城)-<石地>-(礼拝)-西山-(刈羽)-(荒浜)-(西中通)-東柏崎-柏崎 となっている。 ●刈羽駅 ●荒浜駅 背景のどんよりとした灰色の空、これが冬の裏日本。 ●西中通駅 ●東柏崎駅 最寄り駅が柏崎駅である母方の実家の祖母は、なぜかこの東柏崎駅を愛用した。タクシーでわざわざここまで来て、越後線に乗って来るのだ。やはり新潟駅ではなく、手前の白山で降りてタクシーに乗って我が家に来た。なんでも、「大きな駅は落ち着かない」とのことだった。かつて、「比角駅」と言った。だから、祖母はこの駅を「比角の駅」と言っていた。もう亡くなって23年経つ。 ●柏崎駅 了。
昭和50年代の駅名標(越後線)その1のつづき。
●南吉田駅 ●粟生津駅 「AÔZU」 と、「おう」が長音になる! これを初めて見たとき驚いた。駅名標が好きだったので、ローマ字は読めたのだが、こう来るとは。 「う」の形が違うので、南吉田とは異なる筆跡である。 ●地蔵堂駅(現:分水駅) そして AÔZU! ÔKÔZU! 古レールでできた駅名標に5つも長音記号がある。 ●分水駅(改称) この時代はまだ手書きであるのがよくわかる。前日には駅名標は書き換えられており、上に「じぞうどう」と書いた張り紙がしてあった。 ●大河津駅(現:寺泊駅) 鳥居自害は古レール型。 ●桐原駅 この鳥居いは照明がない。 ●小島谷駅 漢字表記の「谷」だけ、ちょっと書き直したようにも見える。 偶然か、鳥居の形状も同系統。風格のサビ。 ●妙法寺駅 「桐原」と同系統。もっとも好きな系統。 ●出雲崎駅 ●小木ノ城駅 昭和50年代の駅名標(越後線)その3に続く。 19歳まで新潟に住んでいた。そして母方の実家が柏崎だったため、日頃は急行「しらゆき」または「赤倉」をよく利用していた。「とがくし」は、利用時間が都合が悪かったのか、1回しか乗った記憶がなく、気動車急行が非冷房で窓全開だったのに対し、冷房が寒すぎた記憶がある。もちろん、自由席にしか乗ったことがない。 昭和55年、なぜかは知らないが、越後線で行った。急行なら柏崎まで1時間半のところ、越後線の各停は3時間かかる。吉田を過ぎると子供心にエキゾチックな駅名が続き、興味をそそられた。その時の写真が、上のキハ55である。これは母がカメラを持っていて(ミノルチナSという)、母が撮った。 それから少し経って、ミノルチナが壊れた。シャッターが下りなくなった気がする。もともと写真など撮る家ではなかったので、私がへたくそな小学生らしい写真を撮るために、お年玉でミノルタハイマチックSというカメラを買った。それで駅名標を撮った。間違いなく、種村直樹『鈍行列車の旅』巻末の、森嶋孝司さんの824列車全駅名標撮影、が大きく影響している。そのため「鳥居型」に絞って撮った。 総じて、越後線の鳥居型駅名標には木製ので鳥居型に組んだものはなく、すべて鉄製であったと思う。L字型のアングルか、古レールを組み合わせていた。興味深いのは書体である。すべて手書きであるため、個人のクセが出ている。文字にも、矢印にも、罫線にもクセが出る。そのおかげで、同じ人が書いたと推測できる複数の駅名標がある。そうした観点で見て行く。 なお、定型は、 ひらがな
漢字 ローマ字 (所在地) ←---→ 燐駅|燐駅 である。 ここにアップするのは、。そのとき、あるいは後日撮った写真である。雪景色のものは、ほとんどが昭和56年冬の撮影である。モノクロは昭和57~58年頃と思う。 ●新潟駅 「鳥居型」がないので割愛。 ●白山駅 」に、後日書く越後西線の駅名標と同じテイストを感じるが、他の平仮名を見ると別。所在地表記もない、オリジナル型。 後ろのキハ45 32は、寒冷地仕様の500番台とともに新潟の顔だった。 白山駅は島式ホームで、駅舎には地下道が通じていた。その、地下道の階段がとても味わい深かったのだが、いま現在はホームともども改築中で、跨線橋が架設されている。白山駅は、高校時代、「汽車通」してた友人をときどき見送りに行った。私は自転車通学だった。 ●関屋駅 窓の外を見れば、まだ貨物輸送をしていた時代。 新潟から内野あたりは当時でも乗客が多く、車内から駅名標を撮るとどうしても人が入ってしまい、思うように撮れなかった。子どもとはいえ、(被写体でもない)人にカメラを向けることには抵抗があった。 ●青山駅 当時は存在しない。 ●小針駅 ●寺尾駅 ●内野駅 ●内野西が丘駅 当時は存在しない。 ●越後赤塚駅 ローマ字表記、「越後」と「赤塚」の間にハイフンが入る。 ここまで(旧)新潟市。 ●越後曽根駅 その向こうの「銀バス」が気になる人もいるかもしれない。 ●巻駅 こちらも古レール。古レールを門型に組み、その上に鉄板をかぶせてある。 ●岩室駅 ●北吉田駅 当時は存在しない。 ●吉田駅 燐駅表示、「いわむろ 」とスペースがあるのが気になる。 昭和50年代の駅名標(越後線)その2に続く。 昭和50年代の駅名標(越後線)その3もあるよ。 |
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