大阪の淀川に架かる、鳥飼大橋。このゲルバートラスが今年の早いうちに解体されると聞いたので、3月末に行ってきた。場所は、東京モノレール大日駅から徒歩10分強のところにある。既に道路としての役割は終えているが、詳細は下記wikipediaをご覧いただきたい。 wikipediaの記事はこちら。 歴史的鋼橋集覧の記事はこちら。 写真はすべて、左岸側(南側)である。また、下記に「鳥飼大橋」と書くのは、すべてこのカンチレバートラスのことを指す。 このように、アプローチが微妙にS字カーブを描いている。これは、。鳥飼大橋の架け替え用の橋(画像左側)へのアプローチとなっている。 一歩進む。橋門構の前に、背の高い銀の柵。その手前に工事現場でよく見かける黄色の柵。 金網にレンズ先端を差し込めば、そこにあるのはなぜかクルマだけがいない道路。異質である。 向かって右の親柱。「鳥飼大橋」。 向かって左の親柱。「とりがいおおはし 昭和二十九年十月竣工」。 その右に、記念のレリーフがある。書き出してみる。 鳥飼大橋概要 大阪府
路線名 府道堺布施豊中線 橋格 二等橋 橋種 ゲルバートラス 橋長 三四六・九米 四二・六八M 二連六五・五M 七連 幅員 七・五米 工期 自昭和二十(←十を並列した字)七年九月 至昭和二九年七月 橋台 杭打基礎●壁式鉄筋コンクリート二基 橋脚 深二三米井筒基礎重力式コンクリート八基 主体橋 縮碇着桁二連 碇着桁三連 吊桁四連 床版 鉄筋コンクリート厚一五糎(←の略字) 鋪装 アスファルト・ブロック厚五糎 総工費 参億一千五百万圓 使用資材 桁鋼材 一、七〇〇屯 鉄筋 五〇〇屯 セメント 二、四八〇屯 工事請負者 下部・床版 株式会社大林組 桁・高欄 日本橋梁株式会社 鋪装 アスニュー工業株式会社 親柱 関西石材株式会社 照明 近畿電気工業株式会社 向かって右の端柱には銘板がある。 昭和二十九年(一九五四年) 大阪府建造 製作 日本橋梁株式会社 高速道路との間はこれしかない。まだ、反対側も新橋が隣接しているため、ゲルバー桁の美しさを堪能できる場所はない。 橋門構と上弦の突き合わせ部。 その上。部材の曲がり方が美しい。 改めて見てみる。美しい。 下に降りてみる。 碇着桁と吊桁の接合はピン。 桁の裏側。 図面はここにある。リンクを貼っておく。 PR
横須賀水道道 相模川を渡る水道橋・上郷水管橋(1)の続き。
(1)で書き忘れた。(1)冒頭の ここで振り返ると、こうなっている。 怪しげな細い道が、JR相模線に向かっている。右側に立て看板がある。 「この道路は水道用地のため、自転車及び関係車両を除き、車両の通行を禁止いたします。横須賀市 海老名市」 関係車両は通れる、ということは、クルマが通るのに強度に不安があるとか、そういうことではあるまいが、水道道路はたいてい「4t以上通行禁止」みたいになっている。 この、歩行者用道路部分の「低さ」を見ると、水道管がどの高さに埋まっているのかの参考になる。手前、2車線の車道はその上にかなり盛土してあり、水道管を破損するような薄い土被りではないことがわかる。 さて、対岸に渡る。対岸に渡るには、上流の新相模大橋経由で約4kmも迂回しなければならない。R246からこの水道道路に左折で入ると、明らかに通常の道路の線形とは異なる緩やかな左カーブがある。そのまま行くと…… 左が厚木市環境センター、右がソファーのメーカー、セルタン。真正面にトラスが見える。 よいしょ。 よいしょ。柵には「厚木市」ではなく「横須賀市」の表記。横須賀市が厚木市の許可を得て占有してるのだろうか。 柵の隙間から撮影。厚木側は周囲に樹木がないのですっきりしている。 昨日アップしたものとは逆側、上流側。 裏面。 この近くに、オフロードバイクが走れるコースがある。昔っから、このあたりでは練習していた人たちがいた。荒川や利根川、多摩川の河川敷は軒並み締め出しを食らったが、ここではまだ生きているし、。練習している人もいた。ぼくも何度も来ているが、そのころは橋など興味なかったので、この水道橋があったことすらまったく記憶にない。 この横須賀水道道、自転車で踏破されている方がたくさんいるようだ。いつか自分もたどってみたいと思う。 相模川にかかるプラットトラスがずっと気になっていた。国道246の新相模大橋から下流側に見える橋であり、道路橋ではなく水道橋である。水道橋がプラットトラスであるということは、ある程度古い時代に架設されたものだということになるが(鋼トラス橋としては、昭和に入ってからワーレントラス一本になる。すでに大正時代の関東大震災復興橋梁の時点で、プラットトラスはピン結合のための時代遅れの構造だという認識がエンジニアの間ではあったようだ)、人やクルマが渡る橋も満足になかった時代にこれだけの規模の水道橋を架ける意味とは? いろいろなことが気になってくる。 上記の航空写真を縮小して見ると、水道橋の前後もほとんど真っ直ぐな道がついている。ずっとずっと辿ることができるだろう。この道は、遡ればこの上郷水管橋の下流で相模川に合流する支流、中津川に寄り添い、愛川町の半原という地区に至る。下れば逸見浄水場に至る。 この横須賀水道橋は、横須賀の軍備拡張にともなって1912年(明治45年)から1921年(大正10年)にかけて建設されたもので、老朽化を以て2007年(平成19年)に取水を停止している。詳細は横須賀市のサイトにある。こんなサイトを作る横須賀市は素晴らしい。 ●水道のあゆみ(横須賀市) 「横須賀水道」は地形図にも掲載されており、20万分の1地勢図でも記載されるほどの格である。下記に2万5000分の1地形図を掲げる(DAN杉本氏制作のカシミール3Dを使用した)。 道路に沿って水路の記号がある。もっとも、実際には道路の真下にあるので、この地図はいささか正確性に欠ける。 いつか、このルートをたどりたいなと思っているが、今回は上郷水管橋についてである。 まずは左岸(海老名市)側から。「上郷水管橋」の「上郷」とは海老名市の地名である。 国道246号から海老名駅方面に入り、繁華街を過ぎていきなり畑になったころ、右にこんな道がある。この、入口の通せんぼ具合は水道道路の証しだ。 真正面になんかいる……。 トラス橋が見える。立ち入り禁止くさいのも見える。 足下を見ると…… 「水道部」。 裏側は 「横須賀」。 それ意外にも文字が書かれているのかも知れないが、これ以外にも見たいくつかのものも埋まっており、確認していない。 さらに近づく。 なかなかの存在感。 堤防に向かっては、このようなスロープがついている。 当然の如く、柵で塞がれている。 柵の間からレンズを入れて撮る。見たところ、通常の道路橋や鉄道橋と構造は変わりないようだ。 右の端柱には銘板がある。 横河橋梁製作所
東京工場製作 大正七年三月竣工 (右書き) 大正7年とは1918年。当初、大阪に工場を持っていた横河橋梁が東京工場を開設したのが1914年であるから、初期の製作である。私が見た少ない例で書けば、のちの銘板には「東京工場」という記載がない。『横河橋梁80年史』には、この上郷水管橋に関する記述はない。 こうしたディテールも、なにかの参考になるかもしれないのでアップしておく。上弦と橋門構・上横構の関係である。 水管を見る。ボルトで結合された水管。どこかでパイ何mmか見た気がするのだが、思い出せない。 真横から。 河川敷より。全10連である。右端に見えているのは海老名側の最終連。 「壮大な土木遺産 ―旧横須賀軍港水道 ~走水の水道~」には「長さが500mにもおよぶ」とあるので、10連で500mくらいになるのか。鉄道用橋梁ではフィートが基準だったので、スパン50mという橋梁は定型ではないが、この水道橋の正確な寸法が知りたい。 (続く)
新潟県の柏崎駅には0番線ホームがあり、その向こうに5線、留置線がある。つまり、こちら側に6線ある。私が小学生の頃に撮った写真を見ると、ここにはレールを積んだチキやワム8、タキなどが留置されている。現在は草むしていて、使用されている気配はない。
左が0番線、右が1番線。0番線は越後線線用。 その0番線、行き止まりの部分に不思議なものがある。 櫓が、それぞれの線路に対応する形で設置されている。これはなんだろう? 荷役の設備だろうか。ご存知の方がいらしたら、ぜひご教示いただきたい。 (4/10追記:架線の末端を保持する架線柱ではないかとのご指摘をいただきました。TcodeFさん、okuyamatsumiさんありがとうございました。) 0番線の向こうは更地になっている。かつては日本石油の柏崎製油所があり、その後は日本石油加工となったが、とにかく石油関連施設がここにあった。産業遺産的な話がたくさんあるが、それは割愛する。それらをふくめ、新潟県中越地震でその多くに被害が生じ、取り壊されたようだ。 振り向けば、跨線橋。 プラットトラスタイプだ。裏に回れば補強もされている。 青い部材が当初のもの。それを、T字型に受ける柱を付加している。 目を上げると、なんか古そう。 いや、ほんとに古い。鋳鉄製だろうか、こうした鉄製橋脚は、東京都内の鉄製橋脚の年代から考えると1920年代くらいのものだと思いたいのだが、いかがだろうか。 参考までに、愛知県の武豊線半田駅の跨線橋の橋脚の写真をリンクしておく。出典はwikipediaである。半田駅の跨線橋は1910年設置であるとも記載がある。そこから大きくは離れないうちに設置されたと見てよかろう。 ●2013.9.26追記 写真を追加する。 階段部分は、古い桁をベースに、踊り場から下を別の部材で新設している。また、踊り場より上、腰板は木製のままだ。こういうところに「残ってしまった」部材が愛おしい。 内部は木製ということがわかる。 この跨線橋も、古いものを利用しながらエレベーターを後付けしている。 桁裏。汚れているので木製にも見えるが、波板である。 2013年7月に訪れたとき、柏崎駅は更新作業に入っていた。このスタイルとこの色が失われませんように。
中央本線 新桂川橋梁(1)の続き。
周辺にある架橋記念碑について。 橋梁の東側にある。この位置から列車を撮影した画像はネット上にもたくさんある。 「架橋記念碑」となっているが、慰霊碑でもある。 縦書きだが、横書きにして転載する。 この桂川橋梁は全長五一二米高さ四〇米で其の雄大にして優雅な 姿を桂川の水面に映す景観は実に近代美の極致であります 国鉄は鳥沢猿橋間の復(ママ)線建設に二十年の歳月と約十五億円の巨費を 投じ施工昭和四十三年九月二十日開通しました 而して茲(ここ)に尊い殉職者 高橋正光 宮脇貞夫 古野信昭 望月光雄 四君の冥福を祈ると共に苦心の連続作業で完成した 全従業員の労苦 を感謝して後生に伝へるものであります 昭和四十三年九月二十日 鳥沢工業区長 佐藤初男 鳥沢駅長 久島 薫 汽車製造KK(キは、サンズイ+気、で記載) 竹中土木KK 建設塗装KK ○○工業KK 熊谷組KK 調布保正石材 すぐ下には道路橋がある。そちらは曙橋といい、記念碑まである。 わざわざ書き出さない。感じ取ってください。 |
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