相模川にかかるプラットトラスがずっと気になっていた。国道246の新相模大橋から下流側に見える橋であり、道路橋ではなく水道橋である。水道橋がプラットトラスであるということは、ある程度古い時代に架設されたものだということになるが(鋼トラス橋としては、昭和に入ってからワーレントラス一本になる。すでに大正時代の関東大震災復興橋梁の時点で、プラットトラスはピン結合のための時代遅れの構造だという認識がエンジニアの間ではあったようだ)、人やクルマが渡る橋も満足になかった時代にこれだけの規模の水道橋を架ける意味とは? いろいろなことが気になってくる。 上記の航空写真を縮小して見ると、水道橋の前後もほとんど真っ直ぐな道がついている。ずっとずっと辿ることができるだろう。この道は、遡ればこの上郷水管橋の下流で相模川に合流する支流、中津川に寄り添い、愛川町の半原という地区に至る。下れば逸見浄水場に至る。 この横須賀水道橋は、横須賀の軍備拡張にともなって1912年(明治45年)から1921年(大正10年)にかけて建設されたもので、老朽化を以て2007年(平成19年)に取水を停止している。詳細は横須賀市のサイトにある。こんなサイトを作る横須賀市は素晴らしい。 ●水道のあゆみ(横須賀市) 「横須賀水道」は地形図にも掲載されており、20万分の1地勢図でも記載されるほどの格である。下記に2万5000分の1地形図を掲げる(DAN杉本氏制作のカシミール3Dを使用した)。 いつか、このルートをたどりたいなと思っているが、今回は上郷水管橋についてである。 まずは左岸(海老名市)側から。「上郷水管橋」の「上郷」とは海老名市の地名である。 真正面になんかいる……。 足下を見ると…… 裏側は それ意外にも文字が書かれているのかも知れないが、これ以外にも見たいくつかのものも埋まっており、確認していない。 さらに近づく。 横河橋梁製作所
東京工場製作 大正七年三月竣工 (右書き) 大正7年とは1918年。当初、大阪に工場を持っていた横河橋梁が東京工場を開設したのが1914年であるから、初期の製作である。私が見た少ない例で書けば、のちの銘板には「東京工場」という記載がない。『横河橋梁80年史』には、この上郷水管橋に関する記述はない。 「壮大な土木遺産 ―旧横須賀軍港水道 ~走水の水道~」には「長さが500mにもおよぶ」とあるので、10連で500mくらいになるのか。鉄道用橋梁ではフィートが基準だったので、スパン50mという橋梁は定型ではないが、この水道橋の正確な寸法が知りたい。 (続く) PR
新潟県の柏崎駅には0番線ホームがあり、その向こうに5線、留置線がある。つまり、こちら側に6線ある。私が小学生の頃に撮った写真を見ると、ここにはレールを積んだチキやワム8、タキなどが留置されている。現在は草むしていて、使用されている気配はない。
その0番線、行き止まりの部分に不思議なものがある。 荷役の設備だろうか。ご存知の方がいらしたら、ぜひご教示いただきたい。 (4/10追記:架線の末端を保持する架線柱ではないかとのご指摘をいただきました。TcodeFさん、okuyamatsumiさんありがとうございました。) 0番線の向こうは更地になっている。かつては日本石油の柏崎製油所があり、その後は日本石油加工となったが、とにかく石油関連施設がここにあった。産業遺産的な話がたくさんあるが、それは割愛する。それらをふくめ、新潟県中越地震でその多くに被害が生じ、取り壊されたようだ。 振り向けば、跨線橋。 参考までに、愛知県の武豊線半田駅の跨線橋の橋脚の写真をリンクしておく。出典はwikipediaである。半田駅の跨線橋は1910年設置であるとも記載がある。そこから大きくは離れないうちに設置されたと見てよかろう。 ![]() ●2013.9.26追記 写真を追加する。 この跨線橋も、古いものを利用しながらエレベーターを後付けしている。
中央本線 新桂川橋梁(1)の続き。
周辺にある架橋記念碑について。 「架橋記念碑」となっているが、慰霊碑でもある。 この桂川橋梁は全長五一二米高さ四〇米で其の雄大にして優雅な 姿を桂川の水面に映す景観は実に近代美の極致であります 国鉄は鳥沢猿橋間の復(ママ)線建設に二十年の歳月と約十五億円の巨費を 投じ施工昭和四十三年九月二十日開通しました 而して茲(ここ)に尊い殉職者 高橋正光 宮脇貞夫 古野信昭 望月光雄 四君の冥福を祈ると共に苦心の連続作業で完成した 全従業員の労苦 を感謝して後生に伝へるものであります 昭和四十三年九月二十日 鳥沢工業区長 佐藤初男 鳥沢駅長 久島 薫 汽車製造KK(キは、サンズイ+気、で記載) 竹中土木KK 建設塗装KK ○○工業KK 熊谷組KK 調布保正石材 すぐ下には道路橋がある。そちらは曙橋といい、記念碑まである。 歌人・枡野浩一さんによる、丸田祥三さんのトークイベントに行ってきた。ゲストはおふたりの間をつないだ切通理作さん。会場はNaked Loft。 今年、丸田さんの著書が共著をふくめて3冊出るはずだ。そのうちの1冊は、枡野さんとの共著である。そしてもう1冊は、私が担当している、ヨッキれんさんとの共著、廃道の写真集だ。今回のトークは、一連の裁判を経た(継続中ではあるが)からこそ始まったともいえる新たな動きをきっかけに、丸田さんの作品を広くしってもらうためのものだ。 作品を大写しにしながら、作品に関するトークが始まる。1枚目は、新宿駅に佇むEF13と三井ビル。 ![]() ![]() 丸田さんは、「戦時決戦機関車」として作られたEF13と、1970年代の象徴である新宿三井ビルディングを対比して撮影したかったのだという。そのとき、小学生。その1枚を得るために、1ヶ月半、学校にも行かずに新宿駅に通った。当然、学校の先生が何度も訪問してくる。先生は丸田少年に言う。「大人になったら撮ればいい」。しかし、丸田少年は答える。「大人になったら、もう撮れない」。製造後30年たったEF13はいまこのベコベコの外板で佇んでいるが、1970年製のものが30年経ったとて、EF13のようにはなる保証はない、いや、ならない。それを見越して撮影しているのだ。 あるいは、新宿駅貨物ホームのEF13。「戦時中に作られた機関車を、戦時中のイメージで撮りたかった」と思った小学生(中学生?ちょっと失念)の丸田少年は、父(出征している)の友人に聞いた「戦時中は黄砂でほこりっぽかった」という言葉から、Y2フィルター(モノクロフィルムのコントラストを高める、黄色いフィルター)をカラーフィルム(ネガ?)に使用し、そのイメージを作り上げた。 そんなエピソードがどんどん出てくる。小学生にして、そんなことを考えているのか。話は写真論、そしていつのまにか「丸田祥三論」になり、『日本風景論』になり、また写真論になり、たまに脱線。そんな感じで、「休憩にします」と言っても話は続いてしまい、観客もほとんど席を立たない。 さまざまな論評も飛び出した。ひとつ、丸田さんの持論にして私も常々そう思っている、「フラット化」への反対は、それだけで1冊の単行本ができそうな内容だった。私も「酒で(問題を解決しないまま)仲直り」とかは大嫌いだ。 第1部終盤、ひとつ質問をした。丸田少年は、常にカメラを持ち歩いていたのか? これは、1970年代の都内の普遍的な光景を撮影した作品に対しての疑問だった。答えは否。ということは、「こういう写真が撮りたい」と決めて、カメラを持ち出しては撮ってたということになる。 「カメラが常に持ち歩くのは、警官が拳銃をつねに手にしているのと同じだ」。という丸田さんの言葉も少し極端かもしれないが、でもまあ、そうだろう。私もよく「ここを、あのカメラとあのレンズで撮りたい」などと思うことが多々ある。結局はそれっきりになってしまうのだが、丸田少年は、そう思ったら必ず撮りに行っていただろう。そんな気概を、トークの節々に感じられた。 ここまでの話は、USTのアーカイブにあるのでぜひご覧いただきたい。ただし、いずれ削除される可能性があるのでお早めに。 22時30分頃から、第2部として、枡野さん・丸田さん共著の公開編集会議となった。 この本は、丸田さんの作品に枡野さんの短歌が載るもので、おもしろいのは、枡野さん、丸田さんがそれぞれ、それぞれの事情で単行本未収録だったり未発表だったりした作品が、偶然組み合わされ、桝野さんの言葉を借りれば「自分では硬いと思っていた短歌が、丸田さんの作品と組み合わさることで、風通しがよくなる」ということだ。大きな示唆をいただいたと思う。 そうこうしているうちに終電時刻。まだまだトークは続きそうだったが、中座してしまった。無念。また来月もあるだろうから、楽しみにしています。 写真について。 私は、個人個人の写真へのスタンスは異なるのが当然なので、思い切り「自分にしか撮れない」ものを追求するのも、没個性でフラットに撮るものも、なんでもいいと思う。私は前者を目指すけれど。後者は後者で、数がまとまればそれとて前者に近づいていくのではないだろうか。 また、カメラも、日常的に持ち歩けるような環境になったのだから、持ち歩いてもいい。私はよく「いまここに5Dと28mmがあればいいのに!」という後悔をしている。そういうときに撮れないと「また今度でいいや」になり、結局は撮りに行かない。ぼくがいま一番撮りたいのは、会社のビル1階にある、タワー式駐車場の前にあるターンテーブルだ。 「新桂川橋梁」ということは「旧」もあるわけだが、それは後述する。この「桂川」は相模川の山梨県での呼び方であり、山中湖を水源をする。その桂川をまたぐ部分がこの長大なトラスであり、川でない部分は支間40mの合成桁が架けられている。それぞれ大変な高さがある。 少し左に振って…… まずはトラス、セオリー通り、真横から見てハの字型になる部分に圧縮力がかかるので、ハの字型の斜材は左右のトラスを対角線で結ぶ部材を付加している。 そして、この画像を見るとよくわかるのだが、あくまでも桁橋としての機能は巨大なトラスが負担する。その格点を、まるでプレートガーダーのような縦桁が結び、その上にレールが敷かれる。縦桁は、スティッフナーが内側についているため、トラスの表面とあわせてツルリとした印象を見るものに与える。 猿橋側の端に、銘板が… このトラスを製造したのがどこなのかちょっと調べたが、どうやら汽車製造株式会社だったらしいことがわかった。もう少し掘ってみようと思う。 鳥沢方には塗装標記がある。 位置 鳥沢~猿橋間81k848M60 支間 70M+130M+70M 3径間連続トラス 塗装年月 2002年3月 塗装回数 4回塗 塗装種別及塗料名 下塗1層中塗2層・3層 厚膜型変性エポキシ樹脂塗料 上塗り ポリウレタン樹脂塗料 塗料メーカー 日本ペイント株式会社 施工者 建設塗装工業株式会社 これを見ると、なぜ「km」を意味する「k」が小文字で、メートルが大文字なのかとか、不自然な文字間隔などに違和感を持つ。 さて、いよいよ下へ…。 新桂川橋りょう 設計 東京第二工事局 施工 株式会社熊谷組 設計荷重 KS-18 基礎工 鉄筋コンクリート工 基礎根入 天端から[11.0]M 着手 昭和42年7月20日 しゅん功 昭和43年7月19日 この銘板は橋脚にもついていた。基礎根入の部分だけをそれぞれ変えている。中央径間を支える橋脚のうち鳥沢方のものは、「根入 天端から31M」とあった。 外に出て、合成桁に戻る。 首都高でも見ているのかと思うような、すらりと伸びた合成桁。箱桁部分が鋼製、上路の床版がコンクリート製か(←推測)。この合成桁部分では、線路はバラスト軌道となっている。 支間40mということ以外はトラスと変わらない。 長くなったので一度切る。 |
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