歌人・枡野浩一さんによる、丸田祥三さんのトークイベントに行ってきた。ゲストはおふたりの間をつないだ切通理作さん。会場はNaked Loft。 今年、丸田さんの著書が共著をふくめて3冊出るはずだ。そのうちの1冊は、枡野さんとの共著である。そしてもう1冊は、私が担当している、ヨッキれんさんとの共著、廃道の写真集だ。今回のトークは、一連の裁判を経た(継続中ではあるが)からこそ始まったともいえる新たな動きをきっかけに、丸田さんの作品を広くしってもらうためのものだ。 作品を大写しにしながら、作品に関するトークが始まる。1枚目は、新宿駅に佇むEF13と三井ビル。 (『東京人』2009年3月号の表紙に採用されたもの。原版横位置。amazonにリンク) 丸田さんは、「戦時決戦機関車」として作られたEF13と、1970年代の象徴である新宿三井ビルディングを対比して撮影したかったのだという。そのとき、小学生。その1枚を得るために、1ヶ月半、学校にも行かずに新宿駅に通った。当然、学校の先生が何度も訪問してくる。先生は丸田少年に言う。「大人になったら撮ればいい」。しかし、丸田少年は答える。「大人になったら、もう撮れない」。製造後30年たったEF13はいまこのベコベコの外板で佇んでいるが、1970年製のものが30年経ったとて、EF13のようにはなる保証はない、いや、ならない。それを見越して撮影しているのだ。 あるいは、新宿駅貨物ホームのEF13。「戦時中に作られた機関車を、戦時中のイメージで撮りたかった」と思った小学生(中学生?ちょっと失念)の丸田少年は、父(出征している)の友人に聞いた「戦時中は黄砂でほこりっぽかった」という言葉から、Y2フィルター(モノクロフィルムのコントラストを高める、黄色いフィルター)をカラーフィルム(ネガ?)に使用し、そのイメージを作り上げた。 そんなエピソードがどんどん出てくる。小学生にして、そんなことを考えているのか。話は写真論、そしていつのまにか「丸田祥三論」になり、『日本風景論』になり、また写真論になり、たまに脱線。そんな感じで、「休憩にします」と言っても話は続いてしまい、観客もほとんど席を立たない。 さまざまな論評も飛び出した。ひとつ、丸田さんの持論にして私も常々そう思っている、「フラット化」への反対は、それだけで1冊の単行本ができそうな内容だった。私も「酒で(問題を解決しないまま)仲直り」とかは大嫌いだ。 第1部終盤、ひとつ質問をした。丸田少年は、常にカメラを持ち歩いていたのか? これは、1970年代の都内の普遍的な光景を撮影した作品に対しての疑問だった。答えは否。ということは、「こういう写真が撮りたい」と決めて、カメラを持ち出しては撮ってたということになる。 「カメラが常に持ち歩くのは、警官が拳銃をつねに手にしているのと同じだ」。という丸田さんの言葉も少し極端かもしれないが、でもまあ、そうだろう。私もよく「ここを、あのカメラとあのレンズで撮りたい」などと思うことが多々ある。結局はそれっきりになってしまうのだが、丸田少年は、そう思ったら必ず撮りに行っていただろう。そんな気概を、トークの節々に感じられた。 ここまでの話は、USTのアーカイブにあるのでぜひご覧いただきたい。ただし、いずれ削除される可能性があるのでお早めに。 22時30分頃から、第2部として、枡野さん・丸田さん共著の公開編集会議となった。 この本は、丸田さんの作品に枡野さんの短歌が載るもので、おもしろいのは、枡野さん、丸田さんがそれぞれ、それぞれの事情で単行本未収録だったり未発表だったりした作品が、偶然組み合わされ、桝野さんの言葉を借りれば「自分では硬いと思っていた短歌が、丸田さんの作品と組み合わさることで、風通しがよくなる」ということだ。大きな示唆をいただいたと思う。 そうこうしているうちに終電時刻。まだまだトークは続きそうだったが、中座してしまった。無念。また来月もあるだろうから、楽しみにしています。 写真について。 私は、個人個人の写真へのスタンスは異なるのが当然なので、思い切り「自分にしか撮れない」ものを追求するのも、没個性でフラットに撮るものも、なんでもいいと思う。私は前者を目指すけれど。後者は後者で、数がまとまればそれとて前者に近づいていくのではないだろうか。 また、カメラも、日常的に持ち歩けるような環境になったのだから、持ち歩いてもいい。私はよく「いまここに5Dと28mmがあればいいのに!」という後悔をしている。そういうときに撮れないと「また今度でいいや」になり、結局は撮りに行かない。ぼくがいま一番撮りたいのは、会社のビル1階にある、タワー式駐車場の前にあるターンテーブルだ。 PR この巨大な船底型のワーレントラス橋は、中央本線の撮影地としても名高い新桂川橋梁だ。3径間連続トラスで、もっとも長い中央支間は130m、左右はそれぞれ70mあり、計270mの連続トラスである。 「新桂川橋梁」ということは「旧」もあるわけだが、それは後述する。この「桂川」は相模川の山梨県での呼び方であり、山中湖を水源をする。その桂川をまたぐ部分がこの長大なトラスであり、川でない部分は支間40mの合成桁が架けられている。それぞれ大変な高さがある。 まあ、美しいこと。 少し左に振って…… 現代版余部橋梁と言っていいのではないだろうか。6連の合成桁。通常、架線柱は50mおきに建てられるが、合成桁部分では支間と同じ40m間隔となっている。トラス部分においては少し不揃いとなっている。 まずはトラス、セオリー通り、真横から見てハの字型になる部分に圧縮力がかかるので、ハの字型の斜材は左右のトラスを対角線で結ぶ部材を付加している。 ここが中央径間の中央部。ハの字型のところと、逆ハの字型のところを見比べて欲しい。 向かって右の部分。\方向の斜材は左右が結合され、/方向の斜材はスラリと鉄骨があるだけ。 そして、この画像を見るとよくわかるのだが、あくまでも桁橋としての機能は巨大なトラスが負担する。その格点を、まるでプレートガーダーのような縦桁が結び、その上にレールが敷かれる。縦桁は、スティッフナーが内側についているため、トラスの表面とあわせてツルリとした印象を見るものに与える。 猿橋側の端に、銘板が… 遠い! これでも35mm判換算300mm相当。 トリミング。見えない…。 このトラスを製造したのがどこなのかちょっと調べたが、どうやら汽車製造株式会社だったらしいことがわかった。もう少し掘ってみようと思う。 鳥沢方には塗装標記がある。 (新桂川橋りょう)←うっかり写さなかった
位置 鳥沢~猿橋間81k848M60 支間 70M+130M+70M 3径間連続トラス 塗装年月 2002年3月 塗装回数 4回塗 塗装種別及塗料名 下塗1層中塗2層・3層 厚膜型変性エポキシ樹脂塗料 上塗り ポリウレタン樹脂塗料 塗料メーカー 日本ペイント株式会社 施工者 建設塗装工業株式会社 これを見ると、なぜ「km」を意味する「k」が小文字で、メートルが大文字なのかとか、不自然な文字間隔などに違和感を持つ。 さて、いよいよ下へ…。 橋台の銘板。 新桂川橋りょう 設計 東京第二工事局 施工 株式会社熊谷組 設計荷重 KS-18 基礎工 鉄筋コンクリート工 基礎根入 天端から[11.0]M 着手 昭和42年7月20日 しゅん功 昭和43年7月19日 この銘板は橋脚にもついていた。基礎根入の部分だけをそれぞれ変えている。中央径間を支える橋脚のうち鳥沢方のものは、「根入 天端から31M」とあった。 支承。思ったよりでかくない。そして、橋台の垂直面でも結合されている。そして… 中央にはこのような荷重を受けるダンパー(?)が鎮座する。 でかい。…と、列車が通過する。 恐ろしい騒音だ。恐怖を感じるレベルの音。いや、こんな場所に潜りこんでいるのが悪いのだが、本当にこのまま鉄骨がバラけて自分を潰してしまうのではないかと思うほどの恐怖。 外に出て、合成桁に戻る。 首都高でも見ているのかと思うような、すらりと伸びた合成桁。箱桁部分が鋼製、上路の床版がコンクリート製か(←推測)。この合成桁部分では、線路はバラスト軌道となっている。 箱桁の塗装標記。 支間40mということ以外はトラスと変わらない。 長くなったので一度切る。 先に書いた『本邦最古の鉄道用桁 浜中津橋(大阪府)』にも写っている、すぐ隣り(東側=上流側)にかかる三複線の橋梁である。とても撮りづらい。歴史的鋼橋として記載されているのは、ここに紹介する桁と堤防を挟んでつながる『新淀川橋梁』の下流側の2複線。ここに掲載するのは、かつて長柄運河だったところに架かる桁のみであり、おそらく『新淀川橋梁』ではない。正式名称は不明なので、『長柄運河の橋梁』とする。 元々、この下流側の2複線しかなかったのだが、上流側にさらに複線が開通したのが1959年(昭和34年)2月18日。これをもって、梅田~十三間が3複線となった。なお、地形図はその差異をなぞっていない。以下、便宜上、下流側から「下流桁」(トラス+鈑桁)、「中央桁」(トラス+鈑桁)、「上流桁」(鈑桁)と書く。 中央桁。5格間の100フィートプラットトラスだ。おもしろいのは中央格間にハシゴがつき、上弦に登れるようになっていることだ。通常、この手の階段は端柱に刻んである。 支承部分。 中央桁の裏面。 下流桁の裏面。 右=中央桁、左=下流桁。 上流桁。これのみ、1958年(昭和33年)製造である。他のトラスは、1926年(昭和元年)7月3日開通となっている。 この3複線区間の歴史はいささか複雑である。私自身が阪急に詳しいわけでも基礎的知識があるわけでもないので、ボロがでないように書く。 ・1910年(明治43年)3月10日 箕面有馬電気軌道がこの区間を開通。 ・1926年(大正15年)7月5日 高架化(下流桁と中間桁使用開始) ・1959年(昭和34年)2月18日 3複線化(上流桁使用開始) 上流桁のみ銘板がある。上り線の桁の東側、梅田方のもの。 京阪神急行電鉄株式会社
活荷重 71.12t 電車荷重 支間 35.600M 重量 37.080T 汽車製造株式会社 昭和33年製作 「京阪神急行電鉄」と名乗っていたのは、1943年(昭和18年)10月1日 から1973(昭和48年)3月31日限り。 「汽車製造会社」が存在していたのは、1972年(昭和47年)まで。 もう一丁。下り線の西側、梅田方についているもの。 こちらは左上のネジが飛ぶのが仕様らしい(笑) 有名な浜中津橋。詳細はwikipediaがあるので、そちらに任す。さらなる詳細は、土木史研究発表会論文集の1987年6月分にあったはずなのだが、ちょっとリンクが見あたらないのでわかったらリンクすることにする。歴史的鋼橋集覧もぜひ。大阪市のサイトにすらある。 阪急各線が梅田を出て、中津を過ぎて新淀川を渡る直前、車窓左にこの桁が見えるはずだ。写真奥は1926年開通の阪急の新淀川橋梁だ。 水平がおかしいように見えるかも知れないが、画像右に向かって下っているから、これでいい。勾配は1/32。右が梅田方(大阪駅方)、左が新淀川方である。 浜中津橋の下は遊歩道である。もちろん最初からこうだったわけではなく、以前はここは長柄運河という独立した川だった。そのため、ここに架橋が必要だったのだ。 この桁は数奇な運命を辿った桁で、1874年に鉄道が開通した際、単線桁として使用開始された。しかし、複線化を織り込み済みであり、本来の姿は3主構(トラスが3つ、トラスの間に線路が敷かれる)であった。それの、「中央主構+側主構」のみでとりあえずは製造された。煉瓦積み隧道でいえば下駄歯仕上げにしてあるようなものである。 それが、後日複線化され、やがて道路橋に転用された。その際には最初からあった側主構が撤去され、中央主構と追加された側主構だけが転用されたのだ。土木学会をして「撤去の時期が来たら復元保存すべき貴重桁である」と言わしめる存在である。 あとは写真を並べるのみ。 追加された端部の部材。また、裏側をよく見て欲しい。 両サイドの水色のトラスが本来のもので、4本の縦桁は後生に加えられたもの。 床版は、このようトラスの下弦からは浮いている。 親柱1。梅田方・下流側。 親柱2。梅田方・上流側。 親柱3。新淀川方上流。 親柱4。新淀川方下流。 梅田方から。 塗装標記。 斜材の様子。 <参考文献> 冒頭にリンクを貼った各文献。 京阪電鉄 宇治川橋梁(京都府)の続き。 下流側から。左が京都方、右が大阪方。 この橋梁は宇治川橋梁の兄弟で、基本的には同一仕様。両端が少し短い5パネルのプラットトラス、これはおそらく長さ25mほど。中間7連が6パネルのプラットトラス、これが宇治川橋梁と同じなら36mほどとなっている。文末資料によれば、径間は28.2mと37.8m。 上流側から。撮像素子のゴミが鬱陶しい…。 京都方(右)の2連は、塗装工事中である。 6連のトラスを側面から。 宇治川橋梁と同じく、このトラスは「コリジョンストラット」が特徴的である。コリジョンストラットとは画像に赤矢印を引いた部材で、端柱(トラス両端の斜めの部材)の中間から下弦材の第1格点とを結ぶ部材。 このコリジョンストラットがあるのは、たしか英国系トラスだったと記憶する。1880年代の200フィートダブルワーレントラス(錬鉄)において、日本で建築師長であったポーナルの元で設計された桁にはこのコリジョンストラットがあった。しかし、それを英国在住の顧問技師、シャービントンがチェックしたところ、コリジョンストラットをやめ、垂直材を追加するなどした例がある。 また、1896年に開通した、やはりイギリスのハンディサイドで製作された日本鉄道の隅田川橋梁にも、コリジョンストラットがある。リベット結合の200フィート複線プラットトラスで、これはのちに川崎の江ヶ崎跨線橋に転用されている。現在は撤去されたが、写真は残っている。 (在りし日のの江ヶ崎跨線橋。川崎市のサイトにリンク) コリジョンストラットは、意味からすると「対抗する支柱」のようなものになるのだろう。引張力がかかるらしいが、なくてもいいということは、ほとんど意味をなさないということか。計算する術もなく、ただスケルトンをなぞるがまま。 話を戻して、橋門構。向かって左が塗り替え中。ひとつ奥の桁は、左側のトラスの一部だけが塗ってあって、いかにも作業の途中らしくて好もしい。 この木津川橋梁については、とくに短い桁だけでも塗装標記を探して撮るべきだった。失敗した。 (追記) この複線トラスになる以前、ここには別の9連(*)の複線トラスが架かっていた。径間28.2mと37.8mの2種類があり、車両大型化による耐荷力が不足するために架け替えられた。『鉄道ピクトリアル』1984年1月号に写真が掲載されている。 鉄道院設計桁を元にしているが、走行するのは電車のみのため、耐荷重を軽くし、「軽快」(後述資料)な姿をしていた。 (*)『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報)--国内設計桁--』(小西純一・西野保行・淵上龍雄)によれば、「木津川に7連、宇治川に9連」という旨の記載がある。しかし、現在は木津川に9連、宇治川に7連なので、これは誤記であろう。 |
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