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20110315.jpg
大船渡線の猊鼻渓にかかる橋梁である。名称は第二砂鉄川橋梁。砂鉄川は北上川の支流だ。猊鼻渓に至るまではかなりの急流である。

橋脚は石積みの円筒形。大正末期から昭和初期に見られる気がする。上越線の土樽付近などにもある。

銘板等を一切撮らなかったのが悔やまれる。ここ、クルマを停めてじっくり見物できるような場所ではなかったので…。


この橋梁に列車が走ることは当分ないだろう。地域が復興し、再び列車が走る日を心待ちにしている。

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東北地方太平洋沖地震当日、何をしていたかを忘れないうちに記録しておきたい。自分の記憶のためのものなので、お読みいただくほどのものではありません。あしからず…。なお、鶴川駅周辺やゴールポイントは、プライベートな情報であるため、一部曖昧にしてあります。


より大きな地図で 磯部祥行@tenereisobe を表示


その日は、丸田祥三さんとデニーズで10時から打ち合わせしていた。長丁場の打ち合わせも後半に入った頃、14:46に店内が大きく揺れた。窓の外の木も揺れている。「どうせすぐおさまるだろう」と思いながら「大きいね」などと話していたら、一段と揺れが大きくなり、停電した。そこで、テーブルの下に隠れなかったのは、気恥ずかしさがあったからだ。

貴重品だけ持って、とりあえずは店外へ。その場で私は家族にメール。とりあえず送信はできた。ついで、こういうときにこそツイッター。震源や震度などの情報を得る。震度6、という数字に驚く。

デニーズ店内は停電していたが、会計を済ます。ふと見ると、ぼくらの隣の卓にいたおじさんが、店外に出ずにずっと食べ続けていた。そして、いったん外に出たと思しき女性グループが、「なにか食べられない? 飲み物でもいいわ」などと、なにごともなかったかのように店員に尋ねていた。店員は「停電なのでなにもできません」と断っていたが、食い下がっている…。

地震の瞬間も、クルマは普通に走っていた。何度目かの揺れの時、左に寄せて停止したクルマがあった。道路は信号が消えていた。



しばらく、安全に見える屋外駐車場で待機したあと、15時30分頃、丸田さんのクルマで丸田さん宅へ。ご両親とともに待機する。しかし、余震がおさまらないため、戸外のクルマで待機することにする。私はクルマの中でワンセグ中継を見ていた。

少ししてから買い出しに。丸田さん宅から数十メートル離れたところでは、停電していないことがわかった。ちょっと悔しい(?)。ついでに公衆電話から災害用伝言ダイヤル(←「ダイヤル」…)にかけたが、自宅のある03地域は対応していないとのことに落胆し、セブンイレブンへ。セブンイレブンは停電しており、レジも使えないので手計算で販売していた。食材、パンは売り切れ。カロリーメイトが10箱くらいと、パンコーナーにあるお菓子類があったので、それらを2000円分くらい買っておく。

再度、丸田さん宅で待機。その間、たびたび余震に襲われる。かなり暗くなってきたのと、家族から連絡が入らないこともあり、意を決して徒歩あるいは途中で自転車を買うなどなんらかの手段で帰宅することにした。丸田さんから「クルマ貸そうか?」との、これ以上はない言葉をいただいたが、道路の大渋滞が懸念される、というか買い出しの時点で、普段は交通量の少ない通りが渋滞していたほどだったので躊躇していると、ふと鶴川に住む友人を思い出した。彼のところに行けば、バイクか自転車を貸してもらえるに違いない!

丸田さんに話し、友人宅に送ってもらう。当然、電話が通じないので突然押しかけることになる。送っていただく道中、停電しているエリアもあればそうでないエリアもあった。停電エリアでも信号が機能しているところもあれば、信号ごと停電しているところもあった。鶴川の駅に向かっての渋滞がひどく、3kmほどを30分以上かかった。鶴川駅を見下ろすあたりでは、町全体が停電しているのに、駅と列車は停電していないことがちょっと不気味といえば不気味だった。



友人宅。近づくと、中でライトが動いていた! やった! 停電しているのでチャイムも鳴らないので、玄関ドアをノックしながら「いそべです! 突然スミマセン!」 すると、友人は驚きながらも出迎えてくれた。ここで、ここまで一緒に過ごし、送ってくださった丸田さんに感謝しつつ、お別れした。

友人宅は停電こそしていたものの、ガスと水道はOK。コーヒーをいただいた。なんとも厚かましい、バイクか自転車の貸し出しを申し出ると、快諾してくれた。本当に感謝。



そこから帰宅まで約1時間半。世田谷通りを上る。かなり渋滞している。バイクでよかった。都内に入ると突然空き始め、そのまま環七へ。環七外回りはそこそこの混み方。そして、大原付近からはガラガラになった。



20:45頃、帰宅。しばらくネットを見たあと、家族が広尾の帰宅支援センターにいるというのでクルマで迎えに行く。幹線道路が大渋滞していることは知っていたので、裏道、抜け道的なところを行く。R246が恐ろしいことになっているので迂回していたら、偶然青山墓地を通りR246の下をくぐるルートとなり、1時間半ほどで広尾についた。ふだんの夜中の倍くらいか。

そこで家族と再会し、帰宅しようとするも、R246の壁に阻まれて約1時間後にまた広尾に戻ってきた。改めて恵比寿から中目黒に出て、中野通りを主に使いながら練馬まで帰った。中目黒から練馬まで1時間20分かかった。



翌日、翌々日とも、自宅待機。何をする気にもならなかった。体調も悪くなった。



私の周囲にも、長時間歩いて帰宅した人がたくさんいた。そんななか、バイクという飛び道具を得たぼくはとてもラッキーだった。でもね、考えようですよ。

都心部でも、自転車は入手できる。ぼくの勤め先、銀座でいえば、ビックカメラで自転車は売っている。1~2万円でそれに乗って帰るか、家族と連絡がつかない状況で5~6時間歩くか。

あるいは、友人から自転車やバイクを借りる。図々しいことだけれど、ひとつの手段として知っておいて損はない。もし、またこういうことがあった場合、ぼくは自転車やバイクを貸しますよ。場合によっては、バイクで迎えに行ってもいいです。どんどん利用してください。



今回思ったこと。

ツイッター
・ツイッターの使い方が、如実に表れる
・RTの使い方がうまい人と下手な人がいる
RTの「うまい」「下手」から、つまり、ぼくの好みがわかった。
・不安を煽るツイートやデマを拡散する傾向の人がいる
ぼくの好むツイート、というものがわかった。

帰宅支援センターの状況
・19時頃には利用者もまばら
・19時30分ころにはかなり増え、毛布も足りない状態に
・人が少ない頃に来たオバチャンたちが毛布を7枚確保して隠していた
・体育館はとても冷える。どこかで段ボールを調達してから乗り込むといい
・暖房は、巨大なヒーターひとつ
・足の臭いがすごい。たぶんブーツのせい

情報
・「政府は隠している」という陰謀論を語る人がいる
・インフラの復旧が遅いことについて、怠慢だという人がいる→関係者がいちばん必死だよ
・原子力について、質問する記者も、答える総理も理解していない→どんな記事になるのだろう…
・「未定」という記者発表に対して「どのくらい未定なのか」というバカな質問をする記者がいる。
「検討する段階に至っていないということだ」という回答に食い下がってどうすんだよ。
・「1000マイクロシーベルト」ばかり広がり、それがどういう単位なのかの説明がない。
後刻、徐々にそれがどのようなものかの解説が出るようになってよかった。

ちょっと後悔
・カメラを持っていなかったこと。消えた信号機、真っ暗な住宅街、交通整理をする警官など、撮っておきたかった。

以上。追記するかもしれない。

東北地方太平洋沖地震およびそれ以来頻発する地震で被害に遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。

当方、幸いにも破損等の被害は皆無でした。
取り急ぎご報告まで。
財団法人交通協力会という組織がある。ものすごく簡単に言うと、いまの『交通新聞』の前身、『陸輸新報』を発刊していた財団法人陸運協力会の後継組織である。陸運協力会というのは、『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』(高坂盛彦著)に描かれた片岡謌郎が設立時の理事長、相談役を『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』でお馴染みの久保田敬一が勤めた組織で、主たる業務は鉄道の広報・連絡メディアたる新聞、『陸輸新報』の刊行にあった(前述『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』高坂盛彦著による)。

いま、この組織がなにをやっているのかはわからないが、電子図書館という名称でアーカイブを展開しようとしていることに気づいた。利用には、無料での登録が必要である。

現在、閲覧できるのは『交通年鑑』(1947~2009年版)だけであるが、「準備中」として以下のものがある。

『国有鉄道』
『国鉄線』
『交通技術』
『日本国有鉄道百年史』
『交通』

『日本国有鉄道百年史』だと…!? 


現在、交通年鑑だけが閲覧できるはずであるが、なぜか「全ページ閲覧」は元データを別階層に老いてあるらしく、エラーが出てしまう。検索して、当該ページだけを表示させることはできるので、その要領で1ページ単位で閲覧することは可能である。

検索は、本文をOCRで読み取ったらしく、かなりアレなようであるが、ないよりはずっと便利である。
7e215a2f.JPGここでは、「音更川」が「音夏川」「音更]J[」などとなっている。

早くすべての文書が閲覧できるようにならんことを! 有料でもかまわない!


以下まったくの余談だが、「電子図書館利用マニュアル」を見ると、なんとsafariの画面をキャプチャしてある。こういった組織ではWindows+IEが標準だと思っていたのだが、さにあらず。担当者の個人的な好みだろうか。



久保田敬一という名前を書いたので、さきの『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』(高坂盛彦著)に書き忘れたことを書く。

橋梁好きにとって、久保田敬一といえば橋梁技術者として知っているだろう。私は上記の本を読むまで、鉄道次官まで上り詰めた人だとは、恥ずかしながら知らなかった。上記の本には、片岡と、豪放磊落な久保田のコンビのエピソードがいくつも出てくるが、久保田の橋梁技術者たる描写は一切ないというおかしさ(私にとって)。官という組織が非常に興味深く、いずれまとめたらwikipediaにでも久しぶりに書こうかとでも思っている。


20110308-01.JPG(上流側左岸=南から)

京都府下を南へ西へと向かう3本の川、北から桂川、宇治川、木津川は、JR大山崎駅の南でほぼ同時に合流し、淀川となって大阪湾まで下る。川の定義としては、琵琶湖に発する宇治川が淀川の本流であり、桂川と木津川がそれに合流するという言い方となる。

桂川と宇治川に挟まれたところに京都駅があり、そこから京阪本線が大阪に向かうのだが、途中で宇治川と木津川を跨いで、合流後の淀川の左岸(南側)を走るようになる。その、宇治川を渡る部分に架かるのか、この宇治川橋梁である。

20110308-09.JPG(下流側、左岸=南側)

このように、複線の直弦下路プラットラスが7連。うっかりしたことに、上画像で言うと踏切の右側はプレートガーダーなのだが、その写真を撮ってないどころかまともに見てもいない。

20110308-02.JPGトラスのディテール。歴史的鋼橋集覧には寸法は書いていない。たしか『鉄道ジャーナル』の連載で採り上げられていた気もするが、その切り抜きもあったはずなのだが、なぜかいま手元にないので諸元は不明。ただ、橋長257mで7連ということは1連約36mの計算になるが、後述の標記から支間は33.94mとなっている。

このトラスの特徴的な点は、斜材の角度が急に見えることだろう。試しに中央の2パネルの\/という位置の斜材を抜いてみれば、通常の垂直材付きのワーレントラスで見慣れた斜材の角度を描く。ほぼ正三角形だ。

20110308-99.jpg中央の2格間を拡大する。面白いのは、圧縮力を受け持つ斜材(\/、太い、引張力を担当する)とその補強として入る/\の部材(細い)が交わる点を結合しているプレートの形状だ。普通に(?)長方形ではなく、ひしゃげた形をしている。

20110308-98.jpg正面。うまい場所に踏切があったものだ。

20110308-07.JPGその奥。

20110308-08.JPG塗装標記は端柱に。

橋梁名:宇治川橋梁(第1径間)
支間:33.94M
塗装年月日:平成20年5月27日
塗装回数:2回塗
塗装種別・塗料名:下塗 Vグラン(グレー)
増塗(下塗) Vグラン(グレー)
上塗 VトップHB(京阪さび色)
塗料製造会社:大日本塗料株式会社
施工会社:(株)京阪エンジニアリングサービス
(株式会社ハーテック)

ここで支間がわかる。また、塗装の色が「京阪さび色」という名称であることもわかる。

ではその支承へ。
20110308-03.JPGピン支承。可動するようには見えない。橋台の一部が煉瓦積みであることが驚きだ。この橋の開通は1929年(昭和4年)。煉瓦の時代でもあるまいに…。

また、塗装がきちんと塗り分けられているのが興味深い。そして、トラスがリベット結合であるのに対し、支承はボルトが多用されているので、後年の補修とわかる。

20110308-06.JPG橋脚側。
やはりボルトが使われている。向かって右に所在なげに立っているボルトは、かつての支承を支えたボルトだろうか。

20110308-10.JPG反対側に回ったら、支承の銘板があった。
京阪電気鉄道株式会社
1996年6月
宇治川橋梁支承取替工事
松尾橋梁株式会社

とある。

20110308-12.JPG桁裏その1。

20110308-11.JPG桁裏その2。

20110308-13.JPG橋脚の銘板もあった。

京阪電気鉄道株式会社
宇治川橋梁橋脚補強工事
P1 P2 P3
昭和48年度工事
(株)森本組




なにかの参考になるかもしれないので、部材の画像を上げておしまい。
20110308-04.JPG20110308-05.JPG

(追記)
この複線トラスになる以前、ここには別の7連(*)の複線トラスが架かっていた。径間28.2mと37.8mの2種類があったが、ここでは径間37.8mのもののみであったろう。車両大型化による耐荷力が不足するために架け替えられた。『鉄道ピクトリアル』1984年1月号に写真が掲載されている。

鉄道院設計桁を元にしているが、走行するのは電車のみのため、耐荷重を軽くし、「軽快」(後述資料)な姿をしていた。

(*)『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報)--国内設計桁--』(小西純一・西野保行・淵上龍雄)によれば、「木津川に7連、宇治川に9連」という旨の記載がある。しかし、現在は木津川に9連、宇治川に7連なので、これは誤記であろう。


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