「新桂川橋梁」ということは「旧」もあるわけだが、それは後述する。この「桂川」は相模川の山梨県での呼び方であり、山中湖を水源をする。その桂川をまたぐ部分がこの長大なトラスであり、川でない部分は支間40mの合成桁が架けられている。それぞれ大変な高さがある。 少し左に振って…… まずはトラス、セオリー通り、真横から見てハの字型になる部分に圧縮力がかかるので、ハの字型の斜材は左右のトラスを対角線で結ぶ部材を付加している。 そして、この画像を見るとよくわかるのだが、あくまでも桁橋としての機能は巨大なトラスが負担する。その格点を、まるでプレートガーダーのような縦桁が結び、その上にレールが敷かれる。縦桁は、スティッフナーが内側についているため、トラスの表面とあわせてツルリとした印象を見るものに与える。 猿橋側の端に、銘板が… このトラスを製造したのがどこなのかちょっと調べたが、どうやら汽車製造株式会社だったらしいことがわかった。もう少し掘ってみようと思う。 鳥沢方には塗装標記がある。 位置 鳥沢~猿橋間81k848M60 支間 70M+130M+70M 3径間連続トラス 塗装年月 2002年3月 塗装回数 4回塗 塗装種別及塗料名 下塗1層中塗2層・3層 厚膜型変性エポキシ樹脂塗料 上塗り ポリウレタン樹脂塗料 塗料メーカー 日本ペイント株式会社 施工者 建設塗装工業株式会社 これを見ると、なぜ「km」を意味する「k」が小文字で、メートルが大文字なのかとか、不自然な文字間隔などに違和感を持つ。 さて、いよいよ下へ…。 新桂川橋りょう 設計 東京第二工事局 施工 株式会社熊谷組 設計荷重 KS-18 基礎工 鉄筋コンクリート工 基礎根入 天端から[11.0]M 着手 昭和42年7月20日 しゅん功 昭和43年7月19日 この銘板は橋脚にもついていた。基礎根入の部分だけをそれぞれ変えている。中央径間を支える橋脚のうち鳥沢方のものは、「根入 天端から31M」とあった。 外に出て、合成桁に戻る。 首都高でも見ているのかと思うような、すらりと伸びた合成桁。箱桁部分が鋼製、上路の床版がコンクリート製か(←推測)。この合成桁部分では、線路はバラスト軌道となっている。 支間40mということ以外はトラスと変わらない。 長くなったので一度切る。 先に書いた『本邦最古の鉄道用桁 浜中津橋(大阪府)』にも写っている、すぐ隣り(東側=上流側)にかかる三複線の橋梁である。とても撮りづらい。歴史的鋼橋として記載されているのは、ここに紹介する桁と堤防を挟んでつながる『新淀川橋梁』の下流側の2複線。ここに掲載するのは、かつて長柄運河だったところに架かる桁のみであり、おそらく『新淀川橋梁』ではない。正式名称は不明なので、『長柄運河の橋梁』とする。 元々、この下流側の2複線しかなかったのだが、上流側にさらに複線が開通したのが1959年(昭和34年)2月18日。これをもって、梅田~十三間が3複線となった。なお、地形図はその差異をなぞっていない。以下、便宜上、下流側から「下流桁」(トラス+鈑桁)、「中央桁」(トラス+鈑桁)、「上流桁」(鈑桁)と書く。 この3複線区間の歴史はいささか複雑である。私自身が阪急に詳しいわけでも基礎的知識があるわけでもないので、ボロがでないように書く。 ・1910年(明治43年)3月10日 箕面有馬電気軌道がこの区間を開通。 ・1926年(大正15年)7月5日 高架化(下流桁と中間桁使用開始) ・1959年(昭和34年)2月18日 3複線化(上流桁使用開始) 京阪神急行電鉄株式会社
活荷重 71.12t 電車荷重 支間 35.600M 重量 37.080T 汽車製造株式会社 昭和33年製作 「京阪神急行電鉄」と名乗っていたのは、1943年(昭和18年)10月1日 から1973(昭和48年)3月31日限り。 「汽車製造会社」が存在していたのは、1972年(昭和47年)まで。 もう一丁。下り線の西側、梅田方についているもの。 有名な浜中津橋。詳細はwikipediaがあるので、そちらに任す。さらなる詳細は、土木史研究発表会論文集の1987年6月分にあったはずなのだが、ちょっとリンクが見あたらないのでわかったらリンクすることにする。歴史的鋼橋集覧もぜひ。大阪市のサイトにすらある。 水平がおかしいように見えるかも知れないが、画像右に向かって下っているから、これでいい。勾配は1/32。右が梅田方(大阪駅方)、左が新淀川方である。 浜中津橋の下は遊歩道である。もちろん最初からこうだったわけではなく、以前はここは長柄運河という独立した川だった。そのため、ここに架橋が必要だったのだ。 この桁は数奇な運命を辿った桁で、1874年に鉄道が開通した際、単線桁として使用開始された。しかし、複線化を織り込み済みであり、本来の姿は3主構(トラスが3つ、トラスの間に線路が敷かれる)であった。それの、「中央主構+側主構」のみでとりあえずは製造された。煉瓦積み隧道でいえば下駄歯仕上げにしてあるようなものである。 それが、後日複線化され、やがて道路橋に転用された。その際には最初からあった側主構が撤去され、中央主構と追加された側主構だけが転用されたのだ。土木学会をして「撤去の時期が来たら復元保存すべき貴重桁である」と言わしめる存在である。 あとは写真を並べるのみ。 <参考文献> 冒頭にリンクを貼った各文献。 京阪電鉄 宇治川橋梁(京都府)の続き。 この橋梁は宇治川橋梁の兄弟で、基本的には同一仕様。両端が少し短い5パネルのプラットトラス、これはおそらく長さ25mほど。中間7連が6パネルのプラットトラス、これが宇治川橋梁と同じなら36mほどとなっている。文末資料によれば、径間は28.2mと37.8m。 京都方(右)の2連は、塗装工事中である。 6連のトラスを側面から。 宇治川橋梁と同じく、このトラスは「コリジョンストラット」が特徴的である。コリジョンストラットとは画像に赤矢印を引いた部材で、端柱(トラス両端の斜めの部材)の中間から下弦材の第1格点とを結ぶ部材。 このコリジョンストラットがあるのは、たしか英国系トラスだったと記憶する。1880年代の200フィートダブルワーレントラス(錬鉄)において、日本で建築師長であったポーナルの元で設計された桁にはこのコリジョンストラットがあった。しかし、それを英国在住の顧問技師、シャービントンがチェックしたところ、コリジョンストラットをやめ、垂直材を追加するなどした例がある。 また、1896年に開通した、やはりイギリスのハンディサイドで製作された日本鉄道の隅田川橋梁にも、コリジョンストラットがある。リベット結合の200フィート複線プラットトラスで、これはのちに川崎の江ヶ崎跨線橋に転用されている。現在は撤去されたが、写真は残っている。 ![]() コリジョンストラットは、意味からすると「対抗する支柱」のようなものになるのだろう。引張力がかかるらしいが、なくてもいいということは、ほとんど意味をなさないということか。計算する術もなく、ただスケルトンをなぞるがまま。 この木津川橋梁については、とくに短い桁だけでも塗装標記を探して撮るべきだった。失敗した。 (追記) この複線トラスになる以前、ここには別の9連(*)の複線トラスが架かっていた。径間28.2mと37.8mの2種類があり、車両大型化による耐荷力が不足するために架け替えられた。『鉄道ピクトリアル』1984年1月号に写真が掲載されている。 鉄道院設計桁を元にしているが、走行するのは電車のみのため、耐荷重を軽くし、「軽快」(後述資料)な姿をしていた。 (*)『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報)--国内設計桁--』(小西純一・西野保行・淵上龍雄)によれば、「木津川に7連、宇治川に9連」という旨の記載がある。しかし、現在は木津川に9連、宇治川に7連なので、これは誤記であろう。 |
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