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きっかけは@golgodenkaさんがアップした写真だった気がする。@adusa2gouさんだったかもしれない(すみません)。国道20号が山梨県から長野県に入るときに渡るのが「新国界橋」である。その旧橋の写真がアップされているのをみて、その存在に驚いた。

(golgodenkaさんの記事はこちら国道 20 号旧道【旧国界橋】 - 発見当初は廃線跡かと思った』参照)

そのすぐ近くには「道の駅蔦木」があり、その裏手はゲリラキャンプをするのにちょうどいい場所になっている。何度もキャンプをしているし、あるいは何度も車中泊もしている。山梨県側にはセブンイレブンがあり、そこまで何度も国道を歩いている。それなのに、この橋の存在に気づいていなかった。

ここに、丸田祥三さんと向かった。廃道写真集の撮影で、とある山中を3~4時間ほど歩いた後、ちょっと離れてはいるけれど丸田さんのご厚意でそこに連れて行っていただいた。

20110306-02.JPG信号を南に入るといきなり砂利道。幅員はまあまあ。前方に、ネットと橋が見える…。

砂利道の幅と、橋の幅を見比べていただきたい。

20110306-01.JPGどん。
獣害除けのネット。電流が通じているので、その向こうに国界橋が見えながらも行けない。ぐぬぬ。

現地の左右は畑、もちろん中に踏み込むことは不可能。

よく見ると、向かって右側にはさらに旧橋と思しき橋台がある。
20110306-03.JPG(赤枠の部分)

振り返って交差点のほうを見るとこう。
20110306-04.JPGこの細い道が、かつて国道20号だったとは、にわかには信じがたい。

20110306-05.JPG畑に降りる道があったので、そこから。上記の砂利道部分は、きちんと盛り土してあり、側面は石垣で固められている。

こちら側からの侵入はあきらめて、反対側に向かう。反対側からは行けるというのは、golgodenkaさんからお聞きしていた。

20110306-06.JPGもうすっかり日が落ちてしまったが、それゆえに荒涼感を醸し出す。

欄干というか、ンプレートガーダーの主桁の高さがない。

20110306-08.JPGこうして桁の側面と路面の高さを見ると、中路であることがわかる。

20110306-10.JPG欄干に見えるけれど、主桁。

20110306-09.JPGその一角に、銘板。昭和四年。1929年。82年前。

昭和4年ならば、まだ金属の節約をとかくやかましくは言わない頃だ。もし15年後だったら、きっとコンクリート製になっていただろう。そして、廃な風景のあり方も変わっていただろう。
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P3053571_R.JPG片岡謌郎(かたおかうたろう)という人物を軸にした国鉄史であり、大変な労作である。史書にはいくつかの手法があり、代表的な者は企業側の立場に立って編年で記述するもので、例えば運輸行政ならば、事務次官は○年○月○日からは誰々、何をした、次いで○年○月○日からは誰々、何をした、というものだ。もう一つのメジャーな手法は、人物を主軸にして、○年○月○日からは何をした、○年○月○日からは何をした、と記述していくものだ。本書は後者にあたる。『日本の鉄道をつくった人たち』(悠書館)も、そうした手法を取ったものだ。

『カラー版鉄道の旅手帖』を作った頃から、鉄道官吏に関心を寄せていた。谷口梨花が約100年前に作った観光案内を元に制作したらどうかというライターの案にのっかったもので、谷口自身も官吏ならば、元本には床次竹二郎や木下淑夫らの推薦文が掲載されているあたりに「官」という独特の組織に興味を抱いたのだ。折しも道路に関する内容で、国交省の組織などにも少し足を踏み入れたときでもあった。

時代が時代であり、大学を出ればそのまま行政組織の幹部候補として超エリートの道を歩んでいくその道程。いまでも警察をはじめ、国家公務員というものはそうなのかもしれない。基本的に大卒しかいないという民間企業に勤めている者としては、想像を絶する世界である。

しかし、あまりに複雑怪奇な組織の変遷と、関係してくる膨大な人物の数と姿に恐れおののき、手をつけられずにいる。井上勝や仙石貢とはかどうでもいい。その下、実行部隊としての組織の長として、なにをやったか、どういう人物だったか。それはとても興味深いものだし、今の時代だからこそ受ける要素も十分にあると思う。


片岡謌郎はなにをした人か。誰もが知る事業に通じることだけを書けば
・鉄道弘済会を設立
・交通新聞(の前身)の発刊
・日本通運を設立
あたりか。といっても、「いまの人」には、鉄道弘済会が元々は業務上障害を負ったり殉職した職人の、職員または家族の救済事業が目的だったり、日本通運が国鉄貨物(大運送~だいうんそう)と自動車(小運送~こうんそう)とのフィーダーであったことなど知らないかもしれない。


本書を「労作」と言った所以はふたつある。

ひとつはは、膨大な資料から、片岡に関することを抜き出し、それを片岡の生涯や事象に絡めてまとめたこと。対象となった資料は、一般公開されていない議事録なども数多く含まれる。もう一つは、片岡の家族から、著者が直接聞き取った内容がふんだんにちりばめられていること。後者が、本書の最大のセールスポイントであると思う。よくある、他誌の要素をコピペして作ったものとはワケが違う。著者がこの作業をしなかったら世に出てこなかった片岡のエピソードがあるのだ。

前者、資料からの抜き書きについて。
本書の巻末に、刊行文献が羅列されているが、その数に圧倒される。箇条書きで、なんと17ページ。中には重複もあるのだが、この参考文献を見ても、著者がどれだけ勉強家なのかがうかがえる。片岡はドイツに留学しており、その際の記述に必要だったのだろう、『ワイマール共和国物語』『ワイマール期ベルリンの日本人』、片岡がドイツ国鉄の研究を発表した際の記述に対しては『ドイツ公企業史』『第一次大戦後におけるインフレーションとドイツ鉄道』ほか多数の文献が挙げられている。記述に登場する人物や事象について、単に事典で調べるだけではなく、その背景を理解するために何冊も本を読む。その姿勢にとても共感する。

参照した資料には、こんなものまであるのか、と思うようなものも散見される。片山が時代を同じくした同僚たちの自著、回想録、逝去時の記念本。たかが(!)鉄道官吏について、その息子が父について本を出したりするなど、不思議な感じがする(片岡のことではない)。

ただし、若干、他誌からの抜き書きが多すぎると感じた。とくに歴史的事項への評価などは、著者の言葉でも一般的な言われ方でもなく、歴史書からの引用という形でなされている。例えば、日華事変勃発後に中国に送られた兵力について、参考文献を文中に記している。


後者、片岡の家族からの情報について。
長男・輝雄(東京大学名誉教授)、次男・久(元新潮社)から、多数の書簡やメモの提供を受けたそうだ。著者曰く「肉親でなければ知りえない片岡謌郎の風貌、信条、行動についてお手紙、面談により貴重なご教示を頂戴した」。これがあってこそ、著者は「片岡像」を確実なものとし、それに沿った一冊としてまとめあげることができたのだろう。ここが、本書のものっとも素晴らしい点だ。私のように机上で満足している者にはとうていなしえない作業だ。


本書だけでは、片岡の事績をすべて理解することは困難である。それは、片岡の事績も人的交流も多岐にわたりすぎ、その把握すら覚束ないからだ。登場する人物は多く、登場するたびに肩書きが違う。その肩書きを知るために、国鉄という組織とその変遷を把握する必要がある。

登場する人物に関しては、片山の後輩、友人のように文中に登場する佐藤栄作、下山定則、加賀山之雄、長崎惣之助、十河信二あたりならどういう人物だったかもわかるのだが、佐藤栄作の政治的功績は知っていても、鉄道官吏時代についてまで把握している人などほとんどいないのではないか。また、もっと(今となっては)名の知れぬ、当時のエリート幹部たちの人物像を把握しないと、きっと片山のすごさは実感できないだろう。

こういった点で、本書はあくまで概論であり、新たな興味を拓くきっかけになりうる、素晴らしい本だと思う。読者にいままでなかった視点を与え、かつ視野を広くしてくれる(参考文献を提示してくれている)点で、産業史が好きな人におすすめしたい。

とりあえず、『人物国鉄百年』(青木槐三)は入手した。他に私が「読んでおかなければ」と思う本は、いくつかネットで見つけたものの、高価だったり、珍しくオークションに出たと思ったら高額になってしまったりで、「狙っている人はいるんだなあ」と感じている。


最後に。こんな(失礼!)本を刊行する、中央公論新社に、著者に次ぐ賛辞を贈りたい。



20110304-01.JPG京都府京都市西京区と亀岡市の間にある峠が老の坂峠だ。そこを国道9号と、京都縦貫道が通っている。ここに、仲良くふたつの隧道が並んでおり、片方(上の写真の右。上の写真は京都市側坑口)は車道としての用途を終えて歩行者用となっている。が、いきさつがおもしろい。

まずは隧道を見て行く。

20110304-02.JPG歩道用隧道の坑門。労作・隧道データベースによれば、1933年(昭和8年)竣工、幅員4.7m。坑門はコンクリート製で、ピラスター様のもの(装飾かもしれない)が重量感を持って坑門を押さえている。

20110304-03.JPG「松風洞」という扁額様のものが置いてある。冒頭写真でいえば、「歩行者」標識の向こうにある。

なぜここに扁額様のものがあるのか? 現・車道の隧道にも、この歩行者用隧道にも、それぞれ扁額はある。歩行者用の隧道は、草に覆われていて撮影不能。

20110304-04.JPG扁額様の裏。きちんとここに存置してあるのが見て取れる。

20110304-05.JPG中に入る。蛍光灯がついている。元々車道だったということもあり、広々とした歩道だ。覆工はコンクリート。

20110304-06.JPG亀岡方坑口。ふたつの坑門が並ぶ。向かって左側が歩行者用、右が車道。

先に、この歩行者用が1933年竣工と書いたが、隧道データベースによれば、車道用は1965年(昭和40年)竣工とある。が…。

20110304-08.JPG歩行者用の坑門。意匠は京都市側と同じ。「老の坂隧道」という扁額があるのがわかろう。

20110304-07.JPG上写真から180度振り返る(隧道から出てまっすぐ見据えた状態)と、このようにゲートがある。冒頭のYahoo!地図ではこれでもかというくらいにゲートが地図にプロットされている。

20110304-09.JPGさて、こちら側にも扁額様のものがある。

「遠邇之利往来之便」

yoshim氏のサイトに京都国道事務所からの回答として意味が掲載されている。そのまま転載すれば、 「(この道ができたことにより)遠いところにも近いところにも利益をもたらし、往来の便がよくなった。」という意である。

しかも、この文字は北垣国道の書だという。北垣は、滋賀県の琵琶湖疎水を作り、北海道の狩勝峠を選定した田辺朔郎の岳父だ。ん? 北垣は1916年(大正5年)没…? このあたりは後述する。

そして、yoshim氏のサイトにより、先の歩行者用隧道は「和風洞」と言われていたことも判明した。

20110304-10.JPG北垣書の扁額の裏。


さて、いろいろなからくりである。答えを先に書くと、

1)1884(明治17年)頃 現・車道の隧道が開通。「松風洞」とした。
2)1933年、現・歩行者用の隧道が開通。当時は車道。こちらを「和風洞」とした。
3)1965年 「松風道」を拡幅し、車道とした。
4)****年 元「和風洞」を歩行者専用道とした。

地図を見れば速い。すべて2万5000分の1『京都西南部』、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ」( (C)谷 謙二) により作成。
20110304map-01.jpg1922年(大正11年)測図、1925年(大正14年)11月30日発行

初めて発行された地図。ひとつだけ隧道が見えている。これが「松風洞」。隧道の北東に「新峠」、南東に「(旧)峠)の記載がある。

20110304map-02.jpg1964年(昭和39年)修正、昭和40年4月30日発行

まだ「和風洞」開通前。

20110304map-03.jpg昭和45年修正、昭和47年4月30日発行

ついに隧道が2本描かれる。おそらく、この図では松風洞の拡幅は反映されているだろう。

20110304map-04.jpg1979年(昭和54年)二改、昭和56年2月28日発行

2本の老ノ坂隧道のうち、古い隧道が役割を終えつつある。

20110304map-05.jpg1986年(昭和61年)修正、1987年(昭和62年)4月30日発行

和風洞が消えた。これが現在の書かれ方に近い。


以上、少し不思議な発達史を持つ隧道と扁額について。実は写真はすべて行きがけの駄賃である。撮ったときはこれが北垣国道につながるとは思いもしなかった。面白いものだ。

先日、千駄木の料理屋「せとうち」に行く機会を得た。『週刊東洋経済』の鉄道特集の企画者、@tetsuaniさんと、会社の同僚@kaerudoさんと新年会をしましょうといいながら早3月。3人とも「せとうち」に行きたい!と行っていたので、うまく3人の都合がついた日に予約がとれた。

20110301-02.JPG店内は国鉄時代を中心とした鉄道グッズが壁を埋めている。でも、圧迫されるほどのコレクション展示スペースということはまったくなくて、とてもきれいに並んでいる。きちんと手入れがされているのがよくわかる。

このお店は鉄道好きのなかではけっこう有名だと思う。『鉄道ピクトリアル』の新年号の特別企画の対談でこのお店が使われたり、『鉄道ファン』に掲載されたり。聞けば、亡くなったご主人が1964年(昭和39年)にはじめたもので、当時は2階建て。十数年前にビルになったため、その2階に入っている。

店を切り盛りするのは女性おふたり。料理はコースのみで、飲み物は別途注文。ぼくは酒が(おいしいと思うのに)飲めないので、料理中心のお店はとてもうれしい。そういうお店なので予約客のみに対応しており、この日の客はなんとぼくたち3人のみ。なんだか申し訳ないような気持ちだけれど、贅沢な楽しみ方をさせていただいた。

テーブルはグランドピアノのふた、椅子はグリーン車の座席と京浜東北線(ということは103系か)のロングシート部分。ぼくはうっかり(?)グリーン座席に座ったので、その座り心地のいいこと! 心から寛げる環境の中で、ぼくよりひと世代上のお二方と、旅や鉄道、雑誌や出版社の裏話などをしながら、時に店を切り盛りする奥さまたちも会話にまざりながら、楽しく3時間あまりを過ごした。


20110301-01.JPGあいにくの雨だったのと、そもそもカメラを忘れたので写真を撮っていない。これは携帯で撮ったもの。

20110301-04.JPG外には越後線の時刻表。たぶん吉田駅。まだ駅名が「大河津」であり、急行ひめかわがある。列車番号はすべて「○○○D」。非電化時代だ。注目したいのは、上りにある「新潟始発、5:42」という124D。たしかこれは新潟4時50分発で、何度か乗ったことがある。

20110301-03.JPG急須。芸大の学生さんが作ってくれたという。昔から、お客さんとの交流を大切にしていたのだというのがよくわかる。そうしたエピソードもたくさん聞かせていただいた。ぼくが訪ねたときも、「いそべさん」と話しかけてくれる。また行かなきゃ!
東京港臨海大橋(東京ゲートブリッジ)桁架設見学の次の次の作業となる、最終工程・中央径間架設を見学してきた。午前5時10分頃、若洲キャンプ場の前に到着、当然まだ駐車場は開いていないが、警備員さんのはからいで5時20分頃には入れてもらえた。ありがたい。

中に行くと、すでに昨晩からいらしていた方々が数名、構えていた。

20110227-01.JPG周囲はまっくら。前日までに桁吊り上げまでは済ましているので、この状態で待機している。

20110227-02.JPG吊っている箱桁は、長さ108m、幅23.6m、重さ約1600t。海面上約20mの位置だ。



桁には合計16本のワイヤーがかけられている。1本あたり100tの荷重がかかっている計算になる。

写真をよく見ると、桁がブレている。このときにはうっすらと明るくなってきているのだが、それでもシャッタースピードは30秒にした。そのため、起重機船は静止して写っているが、風で揺れてしまう桁はブレている。


20110227-03.JPG







「犬が向き合う」と表現される状態の最後の姿。この時点で6時少し前。この直後に起重機船が前進開始。

このころから、少しずつ見学者も増えていており、ついには工事主体、東京港湾事務所も登場。ところが、私たちが撮影していた場所の真下にテントを張るという。画面にかぶられては悲しいので、やむなく場所を移動したが、動画を撮影していた人もいるのでかなり泣きたくなる展開になってしまった。

20110227-04.JPG徐々に前に進む起重機船。既に桁も少し巻き上げられている。

20110227-05.JPGこの状態で、海面上70mほどのはず。向こう側のトラス桁の道路上に、ちらほらと人が見え始めた。

20110227-06.JPG少し引くとこんな感じ。

20110227-07.JPGこの時点で6時40分頃。ここに写っている人たちの、ざっと3倍はいた。

20110227-08.JPGよくもまあ、これだけの精度で吊り下げた巨大な桁を下ろせるものだと思う。

ここでもう当分動きが亡くなるので、突堤に移動する。

20110227-09.JPGこちらからは近くで見ることができるので、迫力も増す。また、太陽に対して逆光になるので、そうした効果もある。

20110227-10.JPG中央径間の接合部。見事。

20110227-11.JPG突堤の側はこんな。

20110227-12.JPGそしてこんな。これだけの人数がいても、釣り人はほとんどいない。

20110227-13.JPGとりあえずこれで見納めとした。


少し時間を持てあました後に、いよいよ芋煮会がスタート。鍋5つを、竈またはガスコンロにて作る。
20110227-14.JPG醤油味+牛肉と…

20110227-15.JPG味噌味+豚肉。とにかくうまい。

そして、若洲キャンプ場でのくつろぎ方、これがとても楽しかった。バイクの仲間といるようだ。

そこで食べて飲んでで約6時間すごし、ふと振り向けば起重機船はとうに引いていた。
20110227-16.JPG早くこの上を歩いてみたいと思う。



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