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20110206-11.JPG


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20110206-01.JPG楽しみにしていたイベント、『鉄イッターサミット』に行ってきた。この看板の電車がかわいいw

今回の出演者、小倉沙耶さん栗原景さんオオゼキタクさんは、よくツイッターで絡んでいるお友達。そして向谷実さんは、私にとっては20年前にはカシオペアのコピーバンドをしていたくらいの方で、#mmclubもずっと注目している方。どう絡むのかに注目しながら、そしてツイッターという個人対個人のツールをどうイベントに仕上げるのかに注目しながら開演を迎えた。

会場内は、イベントがイベントだけにPCを開いている人が多かった。私はiPadを借りて参加。携帯だといろいろつらいので。また、ツイッターイベントなだけに、会場内で「ツイッター上では知り合いなんだけど、会うのは初めて」のような挨拶があちらこちらで聞こえる。私のTL上にいらっしゃる方も多い。

20110206-02.JPG第一部、乾杯から。左から、小倉さん、向谷さん、栗原さん。

20110206-03.JPGまずは、ツイッターと鉄道旅行の親和性の話。フォロワーを旅気分に誘うだけでなく、現地での情報交換、ニアミス、あるいは実際に(偶然の要素を含んで)出会ったり。いろいろうなづける方も多いと思う。


第2部。名古屋から大阪へ移動中?の斉藤雪乃さんが電話でゲスト出演。会場では雪乃さんの声がほとんど聞き取れず、それもそのはず、電話の声はこのような「電話+マイク」で拡散していたのだ…。リハではうまくいっていたらしい。
20110206-05.JPG.

次いで、鉄道会社などのツイッターの状況の話。和歌山電鉄のたま、ひたちなか海浜鉄道のおさむなどがツイートしている。この場で、琴電のキャラクター、ことちゃんとリアルタイム(少しタイムラグがある)でツイッターで絡む。そして、それに関連してひたちなか海浜鉄道の吉田社長が登壇。
20110206-04.JPG画面右端が吉田社長。ひたちなか海浜鉄道では公式ツイッターはやっていないが、ツイッターが持つ大きな力は感じているという。

ここで、向谷さんが突然「上野発の気動車列車を運行して、阿字ヶ浦まで乗り入れましょうよ!」と提案。それにまじめに答える吉田社長。でも、このノリはまさしく向谷倶楽部。そうして数々のプロジェクトを立ち上げ、成し遂げてきた向谷さんならではの呼びかけだ。ツイッターイベントとは無関係だが、この程度の脱線はまったくOKだ。

第3部でオオゼキタクさん登場。『早春列車』を歌った後、突如向谷さんのiPadによる伴奏つきに!20110206-07.JPG
なにこれすごい。

20110206-09.JPG事後に手の部分だけアップ。いやあ、こうした競演は鳥肌もの。会場でしか味わえない。UST見ている人たちの「行けばよかった」コメントが多数流れる。すかさず向谷さん「どうしてこなかったの?」。ほんと、そうだ。

ハッシュタグで見ていると、この発言にマジレスで返す人が少なからずいた。「事情があって行けない人もいるんです」みたいな。そういう意味で言っているのではないだろうに。他の場面での向谷さんの発言が正鵠を射ている。「ソーシャルなメディアなんだから、自分の意見も言うし反論もする」。

別の場面の話だが、しかしこういう人も出てくる。「USTなんだから放送倫理に云々」。じゃあUSTやめればいいのですね。わかります。ツイッターで異様な正義感を発揮する人には辟易する。

続いて「ツイッターあるある」。
20110206-08.JPG鉄道旅行をしながら見たり書いたりしていると車窓を楽しめなくなったり、ここぞというところで圏外になったり。この場面で、ハッシュタグ#tetsusumにメンションがどっときた。

そしてオオトリはツイッター大喜利。これは先のハッシュタグをご覧いただければわかるが、あまりのメンションの多さに読み切れないものが多数あったようだ。その中から、4つのお題にそれぞれ4~5個くらいのネタがひょみあげられる。高評価のものに「特急」、まあまあのものに「急行」、まあのものに「各停」が与えられるというもの。

これも、参加している人は、お題に対しての回答を発言をしているので、たとえば「クモハのクってなんだっけ」という「ボケ」的な回答をしている人に、そのフォロワーが「駆動のクらしいです」みたいなリプライを送っていたりというなかなかカオスな面もあった。

この大喜利、TLではとてもおいきれないので、この機械が活躍した。
20110206-06.JPG

そんなこんなの盛りだくさんで、21時近くに、終了。

終演後、楽屋で向谷さんにご挨拶して一緒に記念撮影していただいた。光栄です。

終演後、出演者らと打ち上げへ。企画者の小倉さんはほんとうに安堵されたようで、それがとってもさわやかでした。大阪でこのイベントやるなら行きますよ!


タクさんがツイッターで書いていたけれど、ツイッターのおかげで「個人の活動」だった鉄道趣味が大きく広がった。それは私も同じ。いわゆる「鉄仲間」はひとりもいなかったのだけれど~~栗原さんや土屋さんは仕事仲間であり、そういう会話もしてはいたけれど~~ツイッターのおかげで、1年前にはゼロに近かった鉄道の仲間が大きく増えた。40間近になって友達が増えるというのはとても嬉しいことだ。

私は2009年夏にアカウントをとっていて、その後休眠状態だったところ。『山さ行がねが』ヨッキれんさんがツイッターを始めたことできちんと(?)使い出した。そしてそのヨッキさんに進めたのは『廃道写真館』鳴瀬たつきさん。お二人には深く感謝している。

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先に紹介した
上淀川橋梁(東海道貨物線)
上淀川橋梁(東海道貨物線) その2
吹田~新大阪間の経路変更は1912年か1913年か
東海道本線上淀川橋梁(上り内外線)(貨物線の桁との比較)
の続き。

タイトルに挙げたものを逆から書く。まずは、上淀川橋梁の下り内外線をば。
20110205-02.JPG訪ねたのは2010年5月中旬。このときは桁の塗装をしていた。この単線鈑桁を並列させた下り内外線は1956年開通。橋脚は鉄筋コンクリートで間隔は既設のものに揃えられている。現場で塗り替え作業をしている方が多数いるので、カメラを向けるのに少し抵抗があり、ほとんど撮影していない。

さてここで西(上の画像左方向)に目をやると、国道423号の新淀川大橋が目に入る。
20110205-01.JPG地図にマークした橋は、JRの路線では桁が短いために8~9スパンを要している新淀川を、わずか3スパンでまたぐ。上流側(地図右)から、1964年(昭和39年)開通の国道423号(現・南行き)、同時開通の地下鉄御堂筋線、1969年(昭和44年)開通の国道423号(北行き)が開通。御堂筋線のランガー桁が目を引くが、道路は鈑桁である。この中央径間は115mある。

なぜ御堂筋線だけランガー桁としたのかまでは調べきれていないが、「中央径間115m」の由来は戦前の都市計画に遡る。簡単に言うと、この中央径間に1939年(昭和14年)までに自碇式吊橋をかけるための下部工事が完成したものの、資金不足から中断され、それを活用したのがこの新淀川大橋なのだ。。


閑話休題。である。ここまでのことは、余談でしかない。上の写真をよく見ると、ランガー桁の下に、トラス橋が見える。よくみる11パネルのプラットトラスではないか。どうやら水道橋。
20110205-03.JPG美しい。スパン36.88mの8連。


11パネル…。向かって右には端柱(\)に向かって/|という部材があるから、12パネルと考えるのだろうか。そして、なぜ右だけにそれがあるのか?

20110205-05.JPG斜橋だからだ。橋台は隅石を備えた煉瓦製。この落書きにも腹が立つ。

振り返って裏側。
20110205-06.JPG2本の水管が通っている。中央は点検通路だろうか。

端部に寄ってみる。
20110205-04.JPGこの橋を渡らないように、柵がしてある。

この水道橋を、本庄水管橋という。迂闊にも銘板などを調べなかった。撮ったときは、行きがけの駄賃程度の意識だったのだ。なんという意識の低さか!

この本庄水管橋が供用されたのは1911年(明治44年)。現在は使用されていないらしい。それどころか、沈下や橋脚付近の洗掘で、トラス桁そのものが歪んでいるようだ(ソースにあたっていないが、参考文献参照)。

1911年以前の作となれば、鉄道ではアメリカ製の桁を輸入していた最後の時期。しかもピントラスだった。それに対して、この本庄水管橋はガセット結合である。メーカーはわからない。


ここを航空写真で見るとこうなっている。



新淀川の途中で、水管が川面に没しているのだ。この本庄水管橋が供用される直前、1910年(明治43年)には淀川がほぼ現在の形になっているというのだから、「かつてはトラス桁部分が水路で、そうでない部分は河川敷」というわけでもないだろう。この本庄水管橋は「大阪市の西部・中部幹線」を構成しているらしいが、配水のルートはまったくわからないし基礎知識もないので、いろいろ不明なままである。


<参考>

大阪市市政>市の主要計画、指針・施策>川・橋>橋>橋の紹介>橋名一覧新淀川大橋
・国道交通省内>近畿地方整備局>近代土木遺産のページ(こちら
本庄水管橋の構造調査と補強工事について(荒木貞行)
20110204-01.JPG

先に紹介した
上淀川橋梁(東海道貨物線)
上淀川橋梁(東海道貨物線) その2
吹田~新大阪間の経路変更は1912年か1913年か
の東側に隣接するプラットトラスが、この上淀川橋梁(上り内外線)である。両側から他の桁に挟まれているため、このような写真しか撮れていない。

詳細な経緯は上記3ポストをご覧いただきたいのだが、この場所の3組の3複線の建設順序としては、この「上り内外線」がもっとも早く架けられたものである。この「上り内外線」のみ、桁がアメリカ製である。後年、アメリカン・ブリッジに統合されるA&Pロバーツ製。
20110204-09.jpgBUILT BY
A&P ROBERTS COMPANY
PENCOYD IRON WORKS
PENCOYD PA,U.S.A.
1899


場所はここ。



この橋梁は、径間103フィート9インチ(31.623m)といういまなら鈑桁で済ます長さの5パネルのプラットトラスが22連、連なっている。西側の貨物線(内外線)は国産(メーカー不明)の21連だが、そちらは間に1.5倍の長さの桁が2連挿入されており、トラス部分の全長は同じである。

トラス桁を、貨物内外線(左)と比べてみよう。桁の製作年は、左が1920~1921年、右が1899年。その間、20年の差がある。この時代の20年の差は大きい。
20110204-10.jpg全体的に、上り内外線のほうが小振りかつスマートに見える。橋門構も、アングル材をレーシングで結んでいる貨物内外線よりも、アングル材のみで構成している上り内外線のほうがスッキリしている。斜材のレーシングも、貨物内外線のほうが目が細かいのに対して、上り内外線はゆったりしている。端柱のリベットも、貨物内外線は非常に目立つが、上り内外線はのっぺりとしている。

橋脚は、上り内外線(右)が隅石付きの煉瓦+上面がコンクリート。貨物内外線(左)がコンクリートであるのは、両者の建設年が大きく隔たっていることを表している。上り内外線の橋脚を挙げる。この落書きに腹が立つ。
20110204-02.JPG


上り内外線の側面を見てみる。
20110204-11.jpgこのガセットにつく夥しい量のリベット。

対して、貨物内外線の側面。
20110204-12.jpgリベットの打ち方が異なるのがわかろう。また、3パネル目(中央の格間)でクロスする斜材の交点の接合が異なる。

続いて桁の裏側。上り内外線。
20110204-06.JPG
対して貨物内外線。
20110204-05kamotsu.JPGどちらも、堤防の一部を欠き取っている。いいのだろうか……というのはともかく、裏からみても、やはり上り内外線のほうが古いのに華奢かつスマートである。


裏から見ると、枕木が凝った形をしているのがわかる。
20110204-03.jpg(赤いラインは書き足し)なぜここまで欠き取らなければならないのだろうか。ご存知の方はご教示いただきたくお願いします。

この橋の落橋防止対策はこれ。
20110204-08.JPGトラス桁が左右にずれないように、支承のピン部分を押さえる形になっている。ピンの手入れはどうするのだろう?…って、部品を外せばいいだけか。

下り内外線(プレートガーダー)との並びはこう。
20110204-07.JPGこの時は下り内外線の塗装工事が進行中で、作業員がたくさんいた。ついでに、ここをトワイラ色のEF81が牽引する『日本海』が通ったため、非常にたくさんの撮影者がいた。私はそんなことはまったく知らず、ひたすら3組の橋の写真を撮っていた。


このトラス桁。古いだけあって、これも列車がとおるたびに縦桁がしなる。見ていて驚くほどにしなる。建造後、既に111年。それでもまだこの弾力。鋼材ってすごい。




今回はなんの考察もなし。ただ「見てきただけ」。

下り内外線に続く。

P2023367.JPG文句なしに素晴らしい本。「ノート」なのに、一冊の完成品を読んでいるようだ。それはもちろん、底本というか『最著片道切符の旅』を読んでいるからそう思うのかもしれないが、事実の描写、自分の感情の吐露が、普通に作品のように入っている。

宮脇氏の処女作(といっても『旅』などに寄稿はしていた)『時刻表2万キロ』は、氏がまだ中央公論社取締役時代に執筆されたものである。それに対して、第2作目『最長片道切符の旅』はフリーになって初めて取材・執筆した描き下ろしの単行本である。本書はその合間に位置する、第1.5作目であり、『最長片道切符の旅』にとりかかるよりの、本当にピュアな宮脇俊三が詰め込まれている。


しかし! なんだ、この蛇足は! 「鉄道マニア嫌い」と公言している原武史の解説である。巻頭で、宮脇氏ご令嬢・灯子氏が「素晴らしい脚注をつけてくださった」と記しているが、本当にそう感じているのだろうか?と穿った見方をしたくなるほどの蛇足っぷりだ。

加えて! 横書きで記された手書き文字を活字に起こす際の変換ミスの多さ! 間違いなく「キハ」と書いた部分を「モハ」としている部分が何ヶ所があるが、これは「キ」の癖字を「モ」と解釈したためだろう。同様に「ユ」(郵便車)を「エ」、「52」を「62」と誤記している部分もある。編集者が鉄道に少しでも詳しければ、こんな誤りは起こりようがない。そして、このミスが編集者の責に帰するのであれば、宮脇氏を貶める行為である。なぜなら、読者は「宮脇氏は、キハとモハ、ユ(郵便車)とエ(救援車)の区別もつかないのか。キハ52も知らないのか」と思ってしまうに違いない。


的を脚注に絞ろう。あまりにひどいので、読みながら鉛筆でマークしていったら、ほぼ全見開きにマークがついた。いくつか類型に別れる。

◎明確な誤記
・P28 注2)士幌線末端部を「国鉄で最初に営業休止となり」と解説。そうか、昭和53年より前に営業休止になった路線はひとつもないのか。
・P29 注6)「当時の旭川は」とあるが、「当時の旭川は」の誤り。
・P222 注4)紀勢本線の最後の開通区間の誤り。

◎本当の蛇足や脚注者の単なる感想=脚注ではない!
・P29 注4)「落合」という駅名をさして「まさか東京メトロ東西線の落合を指しているわけではあるまい」。くだらない。
・P35 注2)「~皮肉って書いたのだろうか」
・P276 注2)「乗客の立場から言えば、関西のほうが便利」。前提条件がごく一部の事例であって、おかしい。
・P294 注5)「ここは~最も見ごたえのある区間だと思う」。脚注者の感想などいらぬ。
・P329 注6)「香川県にゆかりのある著者は、幼少期から島の多い瀬戸内海を見慣れていたのだろう。だからこそ退屈したのではなかったか。」思い込みで、著者の人格に関わる点において適当なことを書くべきでない。
・P403 注5)「嵐山光三郎とはこの点が違う」。なぜ突然、嵐山光三郎なのだろうか?
・P412 注1)「この感覚、JRから客車の普通列車が全廃されたいまの人々にわかるだろうか。」うるさい。
・P420 注7)つける言葉なし。

◎言葉足らず
・P28 注3)当時はすべて「青函連絡船基準」ということを一切説明していない。
・P58 注3)深名線の、朱鞠内での系統分割について。駅員が「わからない」と言っていることに対して、脚注は「その理由を聞いている」だそうだ。脚注でそれを解説すべき。

◎解説足らず
・(随所)「○○で 分停車」「つぎの (磯部注:駅名が入るはず)で」という記述があるが、一切追記なし。宮脇氏のノートには「何分か」や「駅名」が書いていなかったにしろ、それを補うのが脚注ではないのか。
・(随所)「(要カクニン)」と本文にあるのに、脚注に解説ナシ。
・(随所)「指フ7、グ6、指フ5、自4、…」などという記述が頻出するが、一切解説ナシ。鉄道を知っていれば、「7号車が普通車指定席、6号車がグリーン車、5号車が自由席…」とわかるが、一般人は絶対にわからない。この解説は、なんとP306でようやく出てくる。
・P330「79才と34才のホステス」の事件…というのがなんだかわからない。実際の事件なら、世相が反映されているはずなので、こういうことこそ脚注が必要。
・P390 注8)宮崎のリニア実験線について書いているが、いまその使節がどうなっていて、どう活用されているのかを脚注に書くべきではないのか。


もっともっとあるのだが、キリがないのでこのあたりにしておく。
こうしたネガティブなことばかり書いたが、この本は、宮脇氏の炯眼が随所に盛り込まれている。いまも通用する見方であり、後年、乱作気味に書き散らした作品には感じられない、すばらしい洞察が散りばめられている。それを個々に揚げるのは、読む楽しさを奪うのでやめておく。

本書は、脚注を読んではいけない。腹が立って、宮脇氏の素晴らしい文章を味わえなくなる。裁断機で下から4cmを切断してから読み始めることをおすすめする。

写真家・米屋浩二さんの写真展『アジアン鉄道』に行ってきた。場所は新宿東口、タカノのビルの4階、コニカミノルタプラザだ。作品の画像をあげるわけにはいかないので画像ナシのエントリになるが、御容赦いただきたい。下記リンクをクリックしてほしい。

コニカミノルタプラザの案内
「フォト蔵」に米屋さんがアップされた作品1
「フォト蔵」に米屋さんがアップされた作品2


今回の写真展は、「まだ若いアジアの鉄道(←文言は違っていたかもしれません)」と、それを利用する人々の表情を披露するもので、どの作品もとびきりに明るい。ほとんどの作品は乗客が主役で、みな、カメラを見て微笑んでいる。時にはニヤリとしていたり、無表情だったりもするが、それもコミュニケーションの結果。

作品に写っている女の子はどの子も本当にかわいいし、おじさんも温かみのある表情をしている。舞台となる列車は、旅の雰囲気あり、日常使いの雰囲気あり。モノトーンの作品ゆえに、それらが際立つ。自分も銀塩カメラに広角レンズをつけてトライXを詰めて現地に行けば、そうした風景に出会えるのではないか…という錯覚に陥る。錯覚、というのは、もちろんそんなに簡単にそうした作品をものせるわけがない、という意味である。その錯覚が悪いということはまったくないと思うし、私はかつて所持していたペンタックスKX(デジタル一眼レフのk-xではない)をもう一度入手したくなった。


私が会場を訪れたときは比較的早い時間帯だったので、米屋さんから直接、撮影時のエピソードをお伺いしながら拝見するという非常に贅沢な観覧ができた。じっくり拝見し、もう一度ゆっくり拝見したら、あっという間に1時間以上がすぎていた。

この写真展を見たら、きっと、車両中心で撮っていた写真好きな人でも、人物を撮りたくなるに違いない。今度は5Dに28mmだけつけて出かけてみようと思う。


なお、米屋さんの作品について、過去のエントリはこちら。

インドネシアのトレリストラス+ランガー(?)+トレッスル橋脚
インドネシアのCikubang Bridge(続)




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