忍者ブログ
[397] [398] [399] [400] [401] [402] [403] [404] [405] [406] [407]
PC222728_R.JPG

12月21日(火)16時、東京地裁627号法廷にて、丸田祥三氏が長年悩まされてきた「風景剽窃」を問うた裁判の判決が言い渡されると聞き、傍聴に行った。傍聴に行くのは初めてである。

10分ほど前に法廷に入ってみたが、だれもいない。ひとりもいない。そんなものか。いったん廊下に出ると、丸田さんの話し声が聞こえた。行ってみると、待合室のようなところで、同じく傍聴に来た方3人(それぞれ別個で来ていた)とお話されていた。5分ほど前に入室すると、徐々に傍聴人がやってきた。おそらく20人くらいはいたのではないかと思う。丸田さんは傍聴人席の隅に座った。原告側席につくのではないのかと驚いた。

裁判官入室。全員起立、黙礼。柵の向こう側、原告側席にも被告側席にもだれもいない。、裁判官(と事務の人?)しかいない。そんなことを思っていると、判決が読み上げられた。

「原告の請求を棄却する。裁判費用は原告の負担とする」(記憶による。細部が違っていたらすみません)

読み上げた直後、裁判官らは起立、黙礼をして退席。ほとんどの傍聴人も一斉に退席。この間、ほんとに一瞬であった。メモを取ろうとしていた私も呆気にとられた。ペンを持ち直す時間すらなかった。もっとも呆気にとられたのは丸田さんであろう。判決文のなかで「盗作」の基準を明示することもなかったのだから。私を含めた数人の傍聴者と丸田さんが、裁判官が去った法廷に残った。あまりにも呆気なかったが、傍聴していた栗原景さんのお話では、民事裁判では、刑事事件と違い、法廷では認定した事実は言わずに書面で出されることが多いらしい。その書面は後刻、弁護団が受け取ることになった。のちにわかったのだが、その書面は通常よりもずいぶんと分量の多いものだったようだ。(この段落、「傍聴していた」以降、一部事実と異なっていたので修正しました)


丸田さんに何を話しかけていいのかわからない。何しろ1998年に被告が本を出してから12年間、悩み続けたことへの答えが、数秒で読み終えてしまう単語しかなかったのだ。1998年、丸田さんはまだ34歳である。いまの私の年齢よりずっと若い。まだ「お兄さん」と言っていい年齢のころから、痛めつけられてきたのだ。考えれば考えるほど、気が遠くなる。

たぶん、丸田さんも実感がなかったのだろうと思う。場所を変えて、栗原さん、私、他の傍聴者おふたりと5人でお茶を飲んだ。18時半頃、丸田さんは記者会見に向かわれた。記者会見は「司法記者クラブ」所属の人たちしか(たぶん)入れないので、私にはどういうものだったのかはわからない。後刻、丸田さんにお聞きしたら、会見に来てくれたメディア各社は、カメラマンが同行しているということもあり、この問題の本質をきちんと理解されていたようだということだ。

記者会見の結果が最初にネットに載ったのは時事新報か。参考までにリンクを置く(どれも、いつまでリンクが生きているかはわからない)。
時事通信
朝日新聞
日経
読売新聞




PC222723_R.JPG

場所を阿佐ヶ谷の「よるのひるね」に移し、23時から、丸田さん(中央)に枡野浩一さん(右)と切通理作さん(左)がインタビューするような形でUSTREAMで「枡野書店ラジオ」が生放送された。思っていたよりも狭いスペースで、でも20人以上は来ていたと思う。この時刻なのに。夏の「盗作かもしれない」でご一緒した方や、廃道写真集製作取材でご一緒した方などもいらした。私は栗原さんといっしょに、お三方と上の写真の距離の席に着く。

このときのUSTREAMはアーカイブされているのでぜひご覧いただきたい。判決時には読まれなかった、廃十数枚分(七十数枚かもしれない)の判決文がどういうものであったか、どういう問題をはらんでいるかが話されているはずだ。
http://www.ustream.tv/recorded/11562832
http://www.ustream.tv/recorded/11563150
http://www.ustream.tv/recorded/11563628

結局、USTは0時半頃で終了。配信を終了したあと、終電の都合などで客は半分ほどになった。それでも12人ほどが残った。輪が小さくなった。そしてトークは続いた。USTとは違って、みんなでテーブルを囲んでいるような雰囲気の中で、丸田さんの表現というものに対する考えや、その発表、今回の争点の本質などが話題の中心となってきた。丸田さんは他人に気を遣うあまりほとんど主張しない方なのだが、徐々にそれがが解け始めたか、本当の気持ちがその場にいた人に突き刺さるように伝わってきた。

ここで私は書くのをやめる。その場の丸田さんのお話は、一字一句間違わずに文字にしたとしても、誤って伝わってしまうような気がするからだ。裁判にまで持ち込まざるを得なかった、丸田さんの気持ちを、もし私が誤って伝えてしまったら取り返しがつかない。その場の雰囲気があってこその、丸田さんや客(?)の発言なのに、それを棒読みされることの恐ろしさ。あるいは「私の丸田祥三論」になってしまう恐ろしさ。そういう懸念があるため、私は書かない。いつか丸田さんがご自身でお気持ちをお書きになると思うから、「UST後」を知りたい方も多いとは思うが、待ってほしい。

そのまま2時、3時、4時、5時…となり、まだまだ丸田さんを囲む話は続いていたのだが、私は中座し、帰宅した。朝から仕事であることが恨めしかった。その後、ほどなくして終了したようだ。

<ご参考>
PR
12月18・19日と、若狭湾沿岸の鉄道路線に乗ってきた。小浜線と北近畿タンゴ鉄道宮津線、宮福線である。

いくつかの駅に降りた際、高架化された駅はどれも引っ込んでいて、やたら駅前広場が広いことに強い違和感を憶えた。なんとなく、町が嘘くさいのだ。そんな言い方をすると怒られるかな。

そう思ったのは、小松駅、東舞鶴駅、西舞鶴駅、福知山駅。まあ、「引っ込む」理由はなんとなく推測できる。かつては貨物扱い用に、あるいは車両基地的な役割をするために、大きな駅には多数の引き込み線があった。それが、高架化に際して抜本的に整理され、十数本が平行していた線路がわずか数本に縮小された結果、広大な空き地が誕生するのだ。

鉄道は町を分断する。そのため、よく「高架化して、分断された町を取り戻そう」みたいなかけ声と共に高架化が進められるが、実感として、地方都市では高架化されても分断された町が一体化するようには思えない。もともとの集客力が小さいうえに、前述のように高架化の際に駅前が異様に広くなり、それがさらに町の分断感をもたらすような気がするのだ。


その顕著な例として、福知山駅を見てみる。

20101219-02.JPGまあ、これくらいのスペースがある。Googleマップを見ると、実はわかりやすい。衛星画像は高架化工事中、しかし地図は現在(より少し前)の姿になるからだ。「現在より少し前」というのは、北近畿タンゴ鉄道宮福線の位置が古いままになっているからだ。現在は高架化されている。

大きな地図で見る

高架化工事中の衛星写真でも、駅南側は既にロータリーになったり、だだっぴろい土地が遊んでいたりする。そこにはなにがあったのか。35年前、1975年の航空写真を見る。

20101220map.jpg国土画像情報のページから転載、トリミング)
どうだろう、この駅南側のすごさは。扇形庫とターンテーブルもあるそこは、福知山機関区である。のちに福知山運転所に改組され、さらに移転して現在の福知山電車区となった組織だ。これらの敷地がすべて不要になったため、駅前の広大なスペースができてしまったのだ。

もともと、北側が駅の「正面」であり、街もそちらに発達してた。南側は上の航空写真でもわかるとおり、畑ばかり。それが、現在では南側にも多少の住宅地が出来たが、高架化して1階を自由通路にしても、長年かけて構築された北側の商店街と、新興住宅地である南側の交流が得られるとは思えない。そもそも、南側には駅の出入り口が存在しなかったわけで、そうして形成された街の南北を、高架化と共に馴染ませようとして無理だろう。


こうした事例は、東舞鶴駅と西舞鶴駅にも確認できた。小松駅はこちらの調査不足で断定はできない。興味を持ったらぜひ比較していただきたい。

12月18・19日と、小浜線・北近畿タンゴ鉄道に乗ってきた。ただただボケッと乗っていただけで、気になるものがあってもカメラを向けずにいたのだが、気づいたことも多かった。

由良川橋梁は、走行動画を撮った。


この由良川橋梁を、列車はゆっくりと走行した。そのため、普段は気づけないことに気づいた。枕木の加工である。

この由良川橋梁はリベットが多用されたプレートガーダーであり、フランジとウエブをつなぐのもリベットである。そのリベットは、当然上面、すなわち枕木が載る面にも出ているわけで、そこの処理がどうなっているのかなど考えたこともなかったが(なにしろ上面を見る機会よりも下から見上げる機会のほうがずっと多い)、こんなふうになっていた。

20101220ill.jpg枕木が、主桁の、フランジの幅だけ欠き取られているのは村田川橋梁の記事でも書いたが、ここのものはそれにプラスして(だったと思う)、リベット頭部が干渉する部分は枕木をえぐってあるのだ。

動画を撮影していたため、その証拠写真はない。

今度、他の古い鈑桁を見る際は、上面も見るようにしよう。
なお、歴史的鋼橋集覧の記事はこちら

20101216-01.JPG山駅の東側、車道が鉄道をアンダーパスする部分にプレートガーダーと鉄製橋脚(鋳鉄か鋼鉄か不明なため鉄製と書くが、時代からしておそらく鋼鉄製)がズラリと並ぶ場所がある。画像上、裏側がのっぺりしているのは北側の歩道橋、その向こうのグレーのものはおそらく新設の桁、その向こうにプレートガーダー群がある。

場所はここ。上の写真は、apaホテルの前から南を向いている。


もう少し進む。
20101216-04.JPG橋脚が何本あって、桁がいくつあるかは数えていない。写真から読み取ろうとしたら、うまくいかない。まあだいたい11組くらいはある。でも衛星画像を見ると8線しかないんだよな…。

この場所で右を向くと、いちばん手前の新設の桁である。その真下にはこんなものがある。
20101216-02.JPG切断された鉄製橋脚。なんというか、グロ画像?


そのまま立ち位置を左にずらすと、ズラリと並ぶプレートガーダーの裏側を見られる。この対傾構(これも対傾構と呼んでいいのだろうか)、なんの根拠もないけれど、ほんとに昭和17年製?という印象(製造年については後述の銘板参照)。

20101216-05.JPG橋脚に載る部分の補強がなかなか。

この、対傾構もフランジもスティッフナーもぶっとい気がするのは、桁高さを抑えるためにそれぞれの部材に強度を持たせているのかもしれない(←当てずっぽう)。

また、プレートガーダーの上に載る線路を桁裏から見ることができないことから、この上には砂利が敷かれていることが分かる。地図を衛星画像に切り替えてもわかることだが。

真後ろを向く。
20101216-06.JPG橋台との部分はこう。

実は、この向きで11枚、似たようなカットを撮影している。橋脚の本数からいって、プレートガーダーが11本、平行に架けられているような気がする。数えていなかったので正しいかどうかは分からない。また、衛星画像で見ると、線路は11組もないので、どうなっているのかはよくわからない。

銘板。
20101216-03.JPG鉄道省
活荷重KS-15 ○○○519(3)-1
株式会社横河橋梁製作所大阪工場製作
昭和拾七年(○○○第1393○)
-----------------人人仝仝仝仝
C:材料 八幡製鉄所
L:仝上
L:○○○○株式会社
○:○○○○○
○(鋲?):○○○○○○所

以上、JRの橋梁群。以下、少し離れて富山地鉄の桁。
20101216-07.JPG歩道部分にはこのような短いIビーム桁が架かり、車道部分にはプレートガーダーが架かる。

この画像は、富山地鉄の2本の桁のうち、北側(JR線寄り)。

プレートガーダーはこう。
20101216-08.JPGスティッフナーの位置からして、明らかにJR線の桁とは製作時期が異なる。

そしてもう1本の富山地鉄の橋梁のうち、Iビーム部分はこうなっている。
20101216-09.jpgよく見て欲しい。4主桁になっている。Iビームの大きさをよく見ると、高さが先のものの3分の2程度しかない。桁下高さ確保のためか。そのために、主桁が2本ではなく4本となっている。

一見、同一の桁かと思いきや、根本的に異なる桁であった。もっとも、もしかすると、後年の補強かもしれないという可能性はある。

不思議なのは、古く見えるJR線の桁と、それよりは新しく見える富山地鉄の桁の見た目のことである。電鉄富山駅に乗り入れたのは1931年(昭和6年)10月3日 。冒頭で見たJR線の桁が1942年(昭和17年)とすると、なぜJR線の桁のほうが、富山地鉄よりも古く見えるのだろうか。もしかしたら、富山地鉄のプレートガーダーは、それ以降に架け替えられたのかもしれない(←まったくの当てずっぽうです)。

そもそも橋梁名すらチェックを怠っているので、そんな経緯を探れるはずもなく、今に至っているが、念頭に置いておこうと思う。


上記の場所に、「なんでこれが歴史的鋼橋集覧に収録されてんの?」と思ってしまう橋がある。

20101215-04.JPG熊ヶ根橋。1954年(昭和29年)開通の、上路のスパンドレルアーチ。「普通の鋼製アーチ橋じゃん」と思うかもしれないが、実は現在の姿はかなり改修されてしまったものである。

その秘密は断面を見ればわかる。
20101215-02.JPG中央のアーチが初代の部材。そこから左右に添えられているのが、新しい部材だ。初代の部材は基本的にリベット留め、左右の新しい部材はボルト留めなので、すぐに見分けがつく。

斜めから見る。
20101215-01.JPGこの角度にすると、元からあったアーチの部位がわかるだろう。手前(画像左)はプレートガーダーだ。上のアーチ内部の写真は、この鈑桁の下にもぐって撮った。

この改修がどういうものかというと、いまでも資料が残っているので引用する。
国交省のサイトより。

寸法もある。


国交省のサイト( 一般国道48号 熊ヶ根橋補強・補修)から。

左右に張り出すのだが、片側(東側、下流側)を車道、片側(西側、上流側)を歩道とする。車道幅は、6mから10.9mに広がる。旧橋は東側に歩道が張り出していたことが上の図からもわかる。張り出し方はこんな感じ。

20101215-99.jpg国交省のサイト( 一般国道48号 熊ヶ根橋補強・補修)掲載の画像をつなぎ合わせた。

なんか、歩道部分、三弦トラスに見えるんですが、ちょっと検索しても分からなかった。

この改修にあわせて橋台も改築された。銘板がある。
20101215-03.jpg熊ヶ根橋 A2橋台
2002年7月
東北地方整備局
道示(1996)B活荷重
基礎構造:直接基礎
躯体コンクリート:24N-8-20
施工:後藤工業株式会社

この橋についても、とくに発見はない。


なお、歩道からは仙山線の第二広瀬川橋梁が見える。こんな橋だ。
これは歩道のフェンスによじ登って撮っている。フェンスを全面的に信頼していいのかという疑問を持ちつつ、恐怖感に駆られながら撮った。かなりの高さだ。この橋については上記リンクをご覧いただきたい。



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 6 7 8 9
10 12 13 14 15 16
17 18 19 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
カテゴリー
twitter
twitter2
プロフィール
HN:
磯部祥行
性別:
男性
自己紹介:
メールはy_磯部/blue.ぷらら.or.jpにお願いします。日本語部分等は適宜置き換えてくださいませ。
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア