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12月18・19日と、小浜線・北近畿タンゴ鉄道に乗ってきた。ただただボケッと乗っていただけで、気になるものがあってもカメラを向けずにいたのだが、気づいたことも多かった。

由良川橋梁は、走行動画を撮った。


この由良川橋梁を、列車はゆっくりと走行した。そのため、普段は気づけないことに気づいた。枕木の加工である。

この由良川橋梁はリベットが多用されたプレートガーダーであり、フランジとウエブをつなぐのもリベットである。そのリベットは、当然上面、すなわち枕木が載る面にも出ているわけで、そこの処理がどうなっているのかなど考えたこともなかったが(なにしろ上面を見る機会よりも下から見上げる機会のほうがずっと多い)、こんなふうになっていた。

20101220ill.jpg枕木が、主桁の、フランジの幅だけ欠き取られているのは村田川橋梁の記事でも書いたが、ここのものはそれにプラスして(だったと思う)、リベット頭部が干渉する部分は枕木をえぐってあるのだ。

動画を撮影していたため、その証拠写真はない。

今度、他の古い鈑桁を見る際は、上面も見るようにしよう。
なお、歴史的鋼橋集覧の記事はこちら

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20101216-01.JPG山駅の東側、車道が鉄道をアンダーパスする部分にプレートガーダーと鉄製橋脚(鋳鉄か鋼鉄か不明なため鉄製と書くが、時代からしておそらく鋼鉄製)がズラリと並ぶ場所がある。画像上、裏側がのっぺりしているのは北側の歩道橋、その向こうのグレーのものはおそらく新設の桁、その向こうにプレートガーダー群がある。

場所はここ。上の写真は、apaホテルの前から南を向いている。


もう少し進む。
20101216-04.JPG橋脚が何本あって、桁がいくつあるかは数えていない。写真から読み取ろうとしたら、うまくいかない。まあだいたい11組くらいはある。でも衛星画像を見ると8線しかないんだよな…。

この場所で右を向くと、いちばん手前の新設の桁である。その真下にはこんなものがある。
20101216-02.JPG切断された鉄製橋脚。なんというか、グロ画像?


そのまま立ち位置を左にずらすと、ズラリと並ぶプレートガーダーの裏側を見られる。この対傾構(これも対傾構と呼んでいいのだろうか)、なんの根拠もないけれど、ほんとに昭和17年製?という印象(製造年については後述の銘板参照)。

20101216-05.JPG橋脚に載る部分の補強がなかなか。

この、対傾構もフランジもスティッフナーもぶっとい気がするのは、桁高さを抑えるためにそれぞれの部材に強度を持たせているのかもしれない(←当てずっぽう)。

また、プレートガーダーの上に載る線路を桁裏から見ることができないことから、この上には砂利が敷かれていることが分かる。地図を衛星画像に切り替えてもわかることだが。

真後ろを向く。
20101216-06.JPG橋台との部分はこう。

実は、この向きで11枚、似たようなカットを撮影している。橋脚の本数からいって、プレートガーダーが11本、平行に架けられているような気がする。数えていなかったので正しいかどうかは分からない。また、衛星画像で見ると、線路は11組もないので、どうなっているのかはよくわからない。

銘板。
20101216-03.JPG鉄道省
活荷重KS-15 ○○○519(3)-1
株式会社横河橋梁製作所大阪工場製作
昭和拾七年(○○○第1393○)
-----------------人人仝仝仝仝
C:材料 八幡製鉄所
L:仝上
L:○○○○株式会社
○:○○○○○
○(鋲?):○○○○○○所

以上、JRの橋梁群。以下、少し離れて富山地鉄の桁。
20101216-07.JPG歩道部分にはこのような短いIビーム桁が架かり、車道部分にはプレートガーダーが架かる。

この画像は、富山地鉄の2本の桁のうち、北側(JR線寄り)。

プレートガーダーはこう。
20101216-08.JPGスティッフナーの位置からして、明らかにJR線の桁とは製作時期が異なる。

そしてもう1本の富山地鉄の橋梁のうち、Iビーム部分はこうなっている。
20101216-09.jpgよく見て欲しい。4主桁になっている。Iビームの大きさをよく見ると、高さが先のものの3分の2程度しかない。桁下高さ確保のためか。そのために、主桁が2本ではなく4本となっている。

一見、同一の桁かと思いきや、根本的に異なる桁であった。もっとも、もしかすると、後年の補強かもしれないという可能性はある。

不思議なのは、古く見えるJR線の桁と、それよりは新しく見える富山地鉄の桁の見た目のことである。電鉄富山駅に乗り入れたのは1931年(昭和6年)10月3日 。冒頭で見たJR線の桁が1942年(昭和17年)とすると、なぜJR線の桁のほうが、富山地鉄よりも古く見えるのだろうか。もしかしたら、富山地鉄のプレートガーダーは、それ以降に架け替えられたのかもしれない(←まったくの当てずっぽうです)。

そもそも橋梁名すらチェックを怠っているので、そんな経緯を探れるはずもなく、今に至っているが、念頭に置いておこうと思う。


上記の場所に、「なんでこれが歴史的鋼橋集覧に収録されてんの?」と思ってしまう橋がある。

20101215-04.JPG熊ヶ根橋。1954年(昭和29年)開通の、上路のスパンドレルアーチ。「普通の鋼製アーチ橋じゃん」と思うかもしれないが、実は現在の姿はかなり改修されてしまったものである。

その秘密は断面を見ればわかる。
20101215-02.JPG中央のアーチが初代の部材。そこから左右に添えられているのが、新しい部材だ。初代の部材は基本的にリベット留め、左右の新しい部材はボルト留めなので、すぐに見分けがつく。

斜めから見る。
20101215-01.JPGこの角度にすると、元からあったアーチの部位がわかるだろう。手前(画像左)はプレートガーダーだ。上のアーチ内部の写真は、この鈑桁の下にもぐって撮った。

この改修がどういうものかというと、いまでも資料が残っているので引用する。
国交省のサイトより。

寸法もある。


国交省のサイト( 一般国道48号 熊ヶ根橋補強・補修)から。

左右に張り出すのだが、片側(東側、下流側)を車道、片側(西側、上流側)を歩道とする。車道幅は、6mから10.9mに広がる。旧橋は東側に歩道が張り出していたことが上の図からもわかる。張り出し方はこんな感じ。

20101215-99.jpg国交省のサイト( 一般国道48号 熊ヶ根橋補強・補修)掲載の画像をつなぎ合わせた。

なんか、歩道部分、三弦トラスに見えるんですが、ちょっと検索しても分からなかった。

この改修にあわせて橋台も改築された。銘板がある。
20101215-03.jpg熊ヶ根橋 A2橋台
2002年7月
東北地方整備局
道示(1996)B活荷重
基礎構造:直接基礎
躯体コンクリート:24N-8-20
施工:後藤工業株式会社

この橋についても、とくに発見はない。


なお、歩道からは仙山線の第二広瀬川橋梁が見える。こんな橋だ。
これは歩道のフェンスによじ登って撮っている。フェンスを全面的に信頼していいのかという疑問を持ちつつ、恐怖感に駆られながら撮った。かなりの高さだ。この橋については上記リンクをご覧いただきたい。

20101212-08.JPG先のポスト、身延線芦川橋梁の続編。すぐ南西にある架道橋。写真は南から。場所はここ。


この場所に、わずか支間4m15cmの架道橋がある。支間がコレということは、道の幅はそれよりもずっと短い(狭い)。測ってくればよかった。

北側に回ってみる。
20101212-10.JPG太陽の位置の都合で飛んでしまっているのがお恥ずかしいが、南側とほぼ同じように見える。コンクリート製の橋台、練り石積みの翼壁。一瞬、橋台はコンクリート製に改築されたのかとも思ったけれど、開通したのが1928年(昭和3年)なので当初からのものだろう。

上の写真でもわかるが、こんな小さな桁にもきちんと銘板と塗装標記がある。
20101212-06.JPG分厚い塗膜ゆえに文字が判別しづらいが、芦川橋梁などと同じく

東京
株式会社
桜田機械製造所
昭和二年製作

と書いてあるように読める(すべて右書き)。塗装標記はこうだ。

橋りょう名 第三上手河原架道橋
位置 市川本町~芦川間 71K001M60
支間 4M15
塗装年月 2003年8月
塗装回数 3回塗
塗装種別 下塗 シアナミド鉛さび止ペイント
及塗料名 中・上塗 長油性フタル酸樹脂塗料
塗料メーカー 大日本塗料K.K
施工 佐野塗装K.K

銘板類は北側についている。


北側から少し裏側を。
20101212-07.JPG桁の手前(画面の点方向、北側)に1本アングル材があり、枕木を貫通しているレール固定器具を固定する鉄の棒が、そのアングル材を握っている。南側にはその部材はない。

また、このようなIビーム桁だが、時代の要請でリベットが打ってある。溶接ではない。

桁の裏側を見てみる。
20101212-09.JPGどうも、レールは桁に対して北側(画像の天方向)に1本分ほどずれているように見える。レール面を見たわけではないので、もしかしたら補助レールがあるのかもしれない。とにかく、桁の真上にレールがあるわけではない。


Googleマップの衛星写真を見ていると、身延線の橋梁の写真をアップしている方がいる。殆どが鈑桁だが、すべてを網羅してみるとなにか見えてくるかもしれない。


今回も、芦川橋梁と同時に廃道探索ついでに丸田祥三さんに立ち寄っていただいた。タイムスタンプを見ると、芦川橋梁とここで15分もお待たせしてしまった。すみませんでした…。なお笛吹川橋梁は、それだけで20分も…。重ね重ねスミマセン!

20101212-01.JPGさきのエントリ、『身延線 笛吹川橋梁』と同型のトラス橋。写真は北側(下流側)。場所はここ。



この橋が渡る芦川は、笛吹川の支流。遡ると、いまは合併して笛吹市となったが、かつては芦川村という自治体が存在した。源流はその芦川村の中、「富士山は月見草がよく似合う」の御坂峠から西に連なる尾根の北面である。

建設経緯や時期は『身延線 笛吹川橋梁』とまったく同じ。おそらく笛吹川橋梁と同時に櫻田機械で四つの同型154フィートトラスを製作し、そのうちのひとつがここに架けられたのだろう。

ここには北側(芦川の下流側)左岸からクルマでアプローチした。川の上空は開けているので、周囲の建物よりも高さのあるトラスはけっこう遠くから見えていた。トラスを横から見るとスッキリした台形である。

桁の裏。
20101212-03.JPG河原に降りづらく、河原も枯れ草がすごかったので、ここに行くまでにひっつき虫で大変なことに。

トラスの部材と横桁(左右のトラスを結ぶ部材)、縦桁(レールの真下の桁。横桁同士を結ぶ)を見比べてほしい。横桁の高さに驚く。もちろん必要に応じてこの大きさなのだろうが、それにしても。

縦桁の少し内側にレールが見えている。つまり、レール幅よりも縦桁幅のほうが広い。これは、子どもの頃に読んだ鉄道模型の本にも書いてあったような気がする。

また、縦桁と横桁の接続部分、縦桁のフランジが一部欠き取られている。横桁の補剛材を避けるためだ。
20101212-91.jpg左だけ黄色でなぞってみたので、右と見比べていただきたい。フレアが入っているのは御容赦。

20101212-02.JPG橋台。現在、あらゆる桁に落橋防止措置が講じられているが、この芦川橋梁はコンクリートブロックがその役割を果たしている。おそらく、ブロックと兄弟との間に幾本もの鉄筋が通じているのだろう。

20101212-04.JPG南側(上流側)。右側の端柱、横の縞模様がついている。下記の銘板部拡大をご覧いただければ後付けだというのがわかるが、これはハシゴの役割だろうか。

20101212-05.jpg銘板拡大。

東京
株式会社
桜田機械製造所
昭和二年製作

と読める(すべて右書き)。


先の笛吹川橋梁もそうだが、身延線にはあまりトラス橋がない(北半分では、おそらく善光寺駅すぐ南の、濁川を渡る橋梁のみ。橋梁名は手元の資料では不明。会社にはあるのだが)ので、このふたつは乗っていても分かるだろう。斜材が同じ方法に続き、ついでバッテン、そして逆向きになったらこのふたつの橋である。

今回も「見てきただけ」になってしまった。

今回も、笛吹川橋梁に続き、廃道探索ついでに丸田祥三さんに立ち寄っていただいた。最後になりましたが感謝申し上げます。


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