この橋が渡る芦川は、笛吹川の支流。遡ると、いまは合併して笛吹市となったが、かつては芦川村という自治体が存在した。源流はその芦川村の中、「富士山は月見草がよく似合う」の御坂峠から西に連なる尾根の北面である。 建設経緯や時期は『身延線 笛吹川橋梁』とまったく同じ。おそらく笛吹川橋梁と同時に櫻田機械で四つの同型154フィートトラスを製作し、そのうちのひとつがここに架けられたのだろう。 ここには北側(芦川の下流側)左岸からクルマでアプローチした。川の上空は開けているので、周囲の建物よりも高さのあるトラスはけっこう遠くから見えていた。トラスを横から見るとスッキリした台形である。 桁の裏。 トラスの部材と横桁(左右のトラスを結ぶ部材)、縦桁(レールの真下の桁。横桁同士を結ぶ)を見比べてほしい。横桁の高さに驚く。もちろん必要に応じてこの大きさなのだろうが、それにしても。 縦桁の少し内側にレールが見えている。つまり、レール幅よりも縦桁幅のほうが広い。これは、子どもの頃に読んだ鉄道模型の本にも書いてあったような気がする。 また、縦桁と横桁の接続部分、縦桁のフランジが一部欠き取られている。横桁の補剛材を避けるためだ。 東京
株式会社 桜田機械製造所 昭和二年製作 と読める(すべて右書き)。 先の笛吹川橋梁もそうだが、身延線にはあまりトラス橋がない(北半分では、おそらく善光寺駅すぐ南の、濁川を渡る橋梁のみ。橋梁名は手元の資料では不明。会社にはあるのだが)ので、このふたつは乗っていても分かるだろう。斜材が同じ方法に続き、ついでバッテン、そして逆向きになったらこのふたつの橋である。 今回も「見てきただけ」になってしまった。 今回も、笛吹川橋梁に続き、廃道探索ついでに丸田祥三さんに立ち寄っていただいた。最後になりましたが感謝申し上げます。 PR いままで、原田勝正氏の文章は、編者としての文章しか読んだことがなかったので、本書を読み始めて驚いた。小説のようではないか。冒頭、いきなり明治5年9月12日(当時;太陰暦)の情景の描写から始まる。そう、この本はドキュメントの手法も取りつつ、事実を重ねて著述していくのだ。 内容は、なにからなにまですばらしい。さすが『日本国有鉄道百年史』の執筆者。 しかし!残念な点が多々ある。これは著者の責任ではなく、版元の責任といえるものなのだが。本書が最初に刊行されたのは1983年(昭和58年)。まだ国鉄が存在していた時代である。文庫化は2010年(平成22年)。その間、27年が経過している。なのに! 記述が当時のままで、注釈が一切ない! 刊行当時の事実が書いてあるので、今もその通りだという誤解を生みかねない。これは、版元の責任で注釈を入れるべきだと考える。 もうひとつ残念な点は、本書が日露戦争後で終わってしまっていることである! 内容で興味深かったのは、日清戦争後に鉄道投資熱があったというくだりだ。著者に依れば、熱に浮かれたのは1896年(明治29年)から1897年(明治30年)。1896年に設立申請のあった鉄道会社の総数は推定450以上。1886年から1890年までの5年間での起業は39社であるから、それと比べると数字のすごさがわかろう。出願の大部分は計画が杜撰すぎたり実現性が低かったりしており、ほぼすべてが却下された。江ノ島周辺では7社がほぼ同じルートで出願し、すべて同日に却下されている。申請の実例は、『日本の廃道』49号所収の「大峰電気鉄道」、同53号「山上軽便鉄道」などに見て取れる(これらは日露戦争後のものであり、あくまで計画性の杜撰さの例である)。 アメリカの鉄道投資ブームから約50年経って日本に現れた鉄道投機熱。アメリカの投機熱は、銀行が(当時は銀行が証券も扱っており、分離する規制はなかった…はず)西部開拓への夢を煽り文句に人を騙し続けたようなもので、また、実際の事業としては、競合路線を敷設し、競合したあとでその鉄道をライバル会社に高値で売りつけるなどということもしている。日本も、あとで国鉄に買い取らせればいい、という近い投機もあったようだ。ただし、日本では、鉄道を敷設しようとする地元の人たちによる費用面や労働面での奉仕もこれまた多かっただろう。その点ではアメリカと事情は異なる。 鉄道史とは、単なる路線ごとの年表の集合体ではない。さまざまな社会、経済、政治情勢を絡めて理解しなければならない。その入門書的な存在である。交通史というフックにひっかかる方には、ぜひご一読をおすすめしたい。
『鉄道ピクトリアル』2011年1月号を見ていたら、根室本線新富士駅の1967年の写真が掲載されていた。それを見て驚いた。まるで函館本線森駅のように、線路のすぐ脇が海ではないか。現在はこんな状態であり、現地を何度もクルマや列車で訪れている私の認識も、下記のとおりであった。
釧路の工業地帯であり、駅北に日本製紙、南に各社油槽所がある。かつて、東京都の間に近海郵船がカーフェリーを運航していたときは、このすぐ南に着岸していた。地図を拡大すると「近海郵船西港ビル」がある。何度かバイクで利用したが、最後の年、1999年も東京行きに乗船した。 比較は航空写真による。1961年度の1万分の1である。国土変遷アーカイブで表示させたものを切り貼りしている。 続いて1967年の写真。こちらは国土画像情報に掲載されているもの。 わずか6年で、現在とほぼ同じ形にまで埋め立てられている。画像右、新釧路側ににょろにょろしているのは、船が何かを引っ張っているように見えるのだが、なんなのだろうか。 これらを見比べると本当に興味深いのだが、その感じ方は個人個人で異なるだろうから、ここまでとする。 最後に。 「新富士」の駅名の由来はその日本製紙の前身の富士製紙にちなむ。と書くと簡単だが、いささか経緯は複雑である。製紙会社の合従連衡を整理してみる。カッコ内は、この地の製紙工場の名称である。 1887年 富士製紙創業 1888年 前田製紙が創業、この地に工場開設(前田製紙釧路工場) 1920年 富士製紙が前田製紙を吸収(富士製紙釧路工場) 1933年 富士製紙が王子製紙と合併(王子製紙釧路工場) 1949年 王子製紙が3社に分割される。十條製紙創業(十條製紙釧路工場) 1993年 十條製紙が山陽国策パルプと合併、日本製紙となる(日本製紙釧路工場) 製紙会社の統合・分割、工場の統廃合の経緯は、同じ名称を用いた会社があったり似たような名称だったりして本当に複雑なのだが、その流れの中で工場として生きながらえていることに感動する。その工場人生(とでも表現しようか)の後半で、駅の南が埋め立てられて釧路港ができ、オイルターミナルができた。願わくばこのまま地方都市の工業が盛況であらんことを。
国道140号旧道(多分/山梨県市川三郷町)の続き。身延線の笛吹川橋梁について。場所はここ。
身延線は全線、富士身延鉄道が開通させたもので、この区間は最後の開通区間となる。市川大門から甲府間の開通を以て、現在の身延線が全通したのだ。身延以北は政府が建設するとの話もあったことからか、規格は国鉄(当時は鉄道院)のもので建設され、この笛吹川橋梁も、設計は鉄道院の規格のようである(『歴史的鋼橋集覧』にそのような推定がある)。 笛吹川は富士川の支流。山梨市駅真北の国師ヶ岳の東面に発し、国道140号秩父往還に沿って南下、石和で他の支流とあわさって甲府市外の南を西流し、この 笛吹川橋梁をくぐってしばらく行くと、長野・山梨県境に発して中央本線沿いに東南に流れる釜無川と合流する。釜無川は富士川の本流だが、地形図ではこの合 流地点から下流を富士川と表記している。 東京
株式会社 桜田機械製造所 昭和二年製作 とかすかに読める(すべて右書き)。 鈑桁を見てみる。 対傾構の、向かって右上の剛結部分が少し不思議。どうなっているのかを読み取れない。 また、下部には部材が付加されている。落橋防止の部材にしては心許ない。なんだろう? 最後に、この橋から見える山を紹介する。 本当に最後になったが、この地は、廃道探索のついでに、丸田祥三さんにわざわざ私のために立ち寄っていただいた。感謝申し上げます。
先に紹介した京葉臨海鉄道 白旗川橋梁と同型の桁がある。
この区間は複線になっており、下り線がポニーワーレントラスになっている。 このトラス桁には近づくことはできない。歴史的鋼橋集覧において、白旗川橋梁と同じように「信越本線犀川橋梁上り線から撤去した鉄道院設計の桁を架設した」ということと、同じスペックが記載されている。 おもしろいのは、その犀川橋梁上り線はこのトラス桁を撤去後、もちろん新しい桁を架けたのだが、その新しい桁も歴史的鋼橋集覧に収録されていることだ。現地の開通は1888年(明治21年)8月15日であり、転用されたポニーワーレントラスは1919年(大正8年)石川島造船所製だ。ということは、このポニーワーレントラスは二代目(以降?)の桁で、いまあるのが三代目(以降?)ということになる。初代の桁がどういうものかはわからないが、おそらく信越本線の史書や絵葉書等に残っているだろう。探してみようと思う。 |
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