先に紹介した京葉臨海鉄道 白旗川橋梁と同型の桁がある。
この区間は複線になっており、下り線がポニーワーレントラスになっている。 橋の東側、国道357号の「塩田第一歩道橋」から西を見ると、浜野水門ごしにポニーワーレントラスが見える。それだ。 このトラス桁には近づくことはできない。歴史的鋼橋集覧において、白旗川橋梁と同じように「信越本線犀川橋梁上り線から撤去した鉄道院設計の桁を架設した」ということと、同じスペックが記載されている。 おもしろいのは、その犀川橋梁上り線はこのトラス桁を撤去後、もちろん新しい桁を架けたのだが、その新しい桁も歴史的鋼橋集覧に収録されていることだ。現地の開通は1888年(明治21年)8月15日であり、転用されたポニーワーレントラスは1919年(大正8年)石川島造船所製だ。ということは、このポニーワーレントラスは二代目(以降?)の桁で、いまあるのが三代目(以降?)ということになる。初代の桁がどういうものかはわからないが、おそらく信越本線の史書や絵葉書等に残っているだろう。探してみようと思う。 PR 丸田祥三さんと廃道取材に行った際、身延線の笛吹川橋梁に立ち寄っていただいた。橋梁については後日書くが、西側から撮ろうとして堤防に上がって驚いた。ここは旧道ではないか。 アスファルトが敷かれ、その上には「40高中」の文字。しかも、頭を突き合わせて点対称にふたつある。写真で言えば、左下にひとつ。右上に、向こう側から読む形でもうひとつある。 しかし、この道に一般車は入れない。このまま西に進むと現在の国道140号と合流するが、この堤防道への進入口には車止めがある。そして、この先(東)、身延線との交差点は柵がしてある。この堤防道が、直接国道140号だったのかどうかは未詳。「県道」と表現しているサイトもある。 柵はこのような感じ。 どうやら踏切だったようだ。 「山梨の林道事典」という素晴らしいサイトがあるのだが、その中で、ここが踏切だった当時の写真が掲載されている。こちら。この踏切は「今川踏切」というとのこと。また、その記事掲載時点では「橋梁塗り替え中」だった。笛吹川橋梁の塗装標記から、リンク先が撮影されたのは2005年6月前後ではないか。 幸い、1975年撮影の航空写真がある。元画像はこちら。 見事に堤防の上を走っている。真ん中の緑の4連トラス橋が笛吹川橋梁で、その左岸(画面下側)の東西に、それぞれ田んぼの中に下りる逆三角形に見える道がある。そして、田んぼの中に、現在の国道140号の姿はない。 偶然しった旧道だが、なかなかに不思議な情景だった。もっと撮っておくべきだった。
山梨県早川町、井川雨畑林道から見える稲又川橋(仮)に、丸田祥三さんと行ってきた。丸田さんはすでに3回目、私は初めて。私が見たいと言っていたら、連れて行ってくださった。ありがたくご厚意に甘えて丸田号の助手席に収まる。名称を「(仮)」とするのは、文末に掲げた報告から考えて、もしかするとここにはのべ三つの橋が架かっていたかもしれない、などと思ったからである。
この稲又川橋(仮)。丸田さんが「ぜひ見てほしい」と仰っていただけのことはある。「山行が」と丸田さんの作品で、橋の概要は知っていたつもりだったが、自分の目で立体的に見て驚いた。怖気が走ったと言っていい。怖い。真下をくぐったり、見上げたりするのはもっと怖い。 この橋は、mixiの「山行がコミュ」で存在が明らかになったものだという。詳細はよっきれん氏のレポートをご覧いただきたい。<前編><後編> 同時に、発見者である「明日、本栖湖集合!」さんに感謝申し上げる。 蛇足になるかもしれないが、「丸田祥三氏は、自分が撮った場所と同じ場所で撮った他の人を訴えた」という大きな誤解がなされてる。事実はその逆で、丸田氏はデビュー当時から、電話や手紙で聞かれるがままに読者に撮影場所を無数に教えている。訴えた内容は、「同じ場所で撮るな」ではない。詳細はこちらをご覧いただきたい。
このレポは発表されたときに拝読し、その後何回か拝見したが、今日行く前にはチェックしなかった。それでも、帰宅後に自分の撮った写真と見比べると同じところを狙ったカットが多いのがおもしろい。 場所はここだ。 対岸からは、冒頭のように見える。見るからに危うい。 隣接する、数段高い新橋の上から見下ろす。鈑桁は外側にはスティッフナーがなく、内側のみである。 袂まで下りる。道中、路面は、つい先日まで川底であったかのようにグズグズだ。 桁のよじれっぷりがわかるだろう 。写真左手が稲又川の上流、右手が下流である。稲又川は雨畑川に合流し、早川に合流し、富士川に合流して太平洋に注いでいる川だ。 左右の主桁上部には、コンクリートを固定していた痕跡がある。そして、主桁のフランジ部分には多数の岩礫が乗っかっている。そして、桁の左側には、対岸の廃橋脚が見えている。 対傾構も歪んでいる。よほど強い力が加わったか。この高さまで水かさが増せば、浮力で桁が浮き上がり、そこに水圧が加われば、通常は橋脚に「乗っかっているだけ」の桁など移動してしまうだろう。 河原まで下りて、対岸の橋脚を見る。左上に見えるトラス橋は、1983年8月日本鋼管製の稲又川橋(現在線)である。 河川敷から、突端。「ひっかかっているだけ」感がすごい。桁の下にいると、ものすごい圧迫感がある。 主桁。これが曲がっているのだ…。 反対に、突端側から。 橋脚の袂には、林鉄用とおぼしきレールが引っかかっていた。 このような稲又川橋(仮)だが、どうしてこうなったのか。私なりにググった結果はこう。 ●1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で、ここは10mの土砂に埋め尽くされた。(出典:ADAMSさんのページ) ●1982年(昭和57年)~1985年(昭和60年)の間に破損した橋梁のリストには、「稲又」に類する名称の橋はない。(出典:国交省甲府河川国道事務所の資料) しかし、 ●1982年(昭和57年)の台風10号、18号、1983年(昭和58年)の台風5号により、雨畑川では、台風10号の総降雨量603㎜最大時間雨量49㎜、また、台風18号において総降雨量468㎜最大時間雨量31㎜となり、1982年には約160万立米、1983年には約180万立米という大量の土砂が流出した。この土砂の流出により、当該事業付近においては 河床が10mも上昇し、上流集落の唯一の生活道である県林道の稲又橋を埋没させるという状況が発生した。(出典:国土交通省関東地方整備局富士川砂防工事事務所による稲又第三砂防堰堤工事報告を要約) ●この廃橋の下流に、平行する3本の鉄骨が刺さったコンクリートの塊が放置されていた。それがこの廃橋の桁でないことは明白だったので、撮影しなかったのが本当に悔やまれるのだが、どうやらそれが「稲又川橋」の橋脚だったらしい。(出典:山梨河川研究会の写真) 疑問をまとめる。 ・「稲又橋」「稲又川橋」という二通りの表記があるが、これは単なる誤記なのか、それとも別々の橋なのか。 ・現在の橋は「稲又川橋」・ ・稲又川橋(仮)下流に横たわっている鉄骨橋脚は、果たしてどの橋の橋脚なのか。 不可解な点が多い。よって、表題を「(仮)」とした。他意はない。航空写真が1/15000であり、不鮮明であるのが非常にもどかしい。 冒頭のとおり、丸田さんは今回三度目の探訪。そして、二度目の探訪時にものすごいカットをものにしている。同じものを撮れと言われても無理。ありえな い。同じレンズ使ってもできない。ものすごい。写真集に掲載するのはそのカットになると思うので、今回はヨッキれんさんと同じカットにせよ、私は私 が撮ったものとしてアップする。レポートとしては丸田さんが出てこなくて恐縮だが、いっしょに河川敷で撮影を重ねた。 また、今回、これ以外に廃隧道1件とかつて車道だった堤を取材した。 京葉臨海鉄道には、歴史的鋼橋集覧に掲載されているポニーワーレントラスが2連ある。そのうちのひとつがこれ、白旗川橋梁だ。場所はここ。 この桁は、信越本線犀川橋梁下り線の桁を転用したもので、同じ桁は同じく京葉臨海鉄道の浜野川橋梁(後日書く)にも転用されている。犀川は、上高地から松本に抜ける梓川の下流にして千曲川に合流するまでの名称で、長野県を象徴する河川名のひとつだ。 国道から眺めることができる。 手前(画面下)のは水道橋。そして、この区間の国道の橋は「汐見橋」という。 約100フィートの4パネルのポニープラットトラス。1919年、石川島造船所製。桁下の白旗川はこのすぐ南(上流)で別れ、やがてどちらも暗渠になる。 東側から見る。西側へは立ち入れない。 向こう側に見えるのは、白旗水門。基本的に空いているようだ。 近づいて見る。 支承。 斜材と垂直材は、すべて共通のようだ。100フィートクラスのピン結合ポニーワーレントラスでは、端部と中央部では部材の強度が異なっている(補強の入れ方が異なる)が、この白旗川橋梁では同じのようだ。 注目したいのは横桁の付き方。垂直材とガッチリ結合されている。垂直材から横桁に対しては、三角形のアングル材で結合されている。 画像の上は縦桁、下は下弦材。村田川橋梁と同じく、一部のリベットがボルト留めに置き換えられている。なぜ一部なのかは不明。 少し引いてみる。縦桁。枕木も見て欲しい。村田川橋梁と同じく、凹型を天地逆さまにしたような形状をしており、その下にスペーサー的に木材が挟まっている。木材は圧縮には強い。枕木のような役割にはぴったりだ。 桁の裏にもぐる…のはかなりつらいので、カメラだけ突っ込んで撮影。横桁の存在感というか、この橋の主役は横桁であることがよくわかる。 最後に、東側の踏切から。 この踏切には警報機はない。信号で交通を遮断する。 これだけ近くで貨物列車を見ることができるのは幸せだ。
都心からもっとも手軽に行ける、アメリカン・ブリッジ製200フィート下路ピントラスが、この村田川橋梁ではないか。
歴史的鋼橋集覧のページはこちら。 場所はここ。 ここは川沿いに歩くことができるので(釣りをしている人がいるくらい)、至近距離で眺めることができる。さわることもできる。一見華奢なアイバー(下弦を構成する、◎==◎型の部材)が実は分厚い鋼鉄であるのを確認できる。 さてと。 道路が平行しているので、好きなように撮れる。だが、道路から見て西側にあるため、午後になると逆光になる。 上の写真は道路から撮ったもので、画面奥が蘇我側、左が市原側。蘇我側に踏切があるので、列車が近づくとすぐわかる。また、どこで入換をしているのか、ホイッスルもよく聞こえる。 この村田川橋梁は、典型的なアメリカン・ブリッジ製の200フィートプラットトラス。9パネルのうち中央3パネルの上弦が下弦と平行になっている。縦桁(枕木が乗る、長手方向の部材)が目立つが、いままで見てきた同型のトラスよりも目立つ感じがするのはなぜだろう。普通は見上げるのでアイバーに隠れて目立たなかったり、点検用の通路があるために目立たなかったところ、ここでは見下ろすので目立ってしまう…というところだろうか。 <比較1><比較2> 南側の支承と端部。八幡運河橋梁でも書いたとおり、元々は東海道本線の大井川橋梁上り線として1958年頃まで使われいたトラス桁を転用し、1963年にこの地で開通させたものである。よって、桁そのものの作りと橋台がマッチしていない。 端梁から端柱に延びる部材や、ピンに記したマーキングが気になる。ピンは塗装で塗り固められている。 さらに寄る。枕木の下部が縦桁にあわせて切り取られているのがわかる。逆凹型。橋台のレール受け部も凹型になっている。 そのまま端柱を見上げると、「ょ」のあたりに不自然にザラついた部分がある。ボルトの位置からしても、以前はここに銘板があったのだろう。対岸にも銘板はないが、どこへ行ったのやら。 ん? その銘板を留めていたボルト下部の左右にあるはずのリベットが、ボルトになってる? 目を降ろして端梁をふたたび。画像右下、縦桁下部のアングル材が、ほとんどボルト留めに交換されている。 真横から見るとこんな感じ。どうせなら全部交換すればいいじゃん…と思うが、リベットを撤去する作業がかなり大変だからか。 ピン結合部を見る。まずは第1パネルと第2パネルの間。下弦となるアイバーだけしかない部分だ。横桁がピンを避けている部分のカーブが美しい。 斜材がある部分はこうだ。1組の下弦材のアイバーの内側に、斜材が入る形になっている。ここで下弦だけの部分を見返すと、斜材が入るスペースにはスペーサーがかましてある。 横から見るとこう。ピンにはマーキングがある。 裏側に潜ってみる。こうしてみると、ピントラスの主役は断面方向の横桁であり、縦桁は横桁に接続されるサブキャラだというのがよくわかる。 西側から全体を。 塗装標記。 日暮れが心配だというのに30分もいてしまった。ピントラス万歳。 |
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