深川東京モダン館が開催している「江東ドボクマッピング 新観光講座」。先日は「橋編」に行ってきたが、本日、「ガソリンスタンド編」が開催されたので拝聴してきた。全6回とも拝聴したかったのだが、自分の都合もあり、今回が2回目だ。
講師はガソリンスタンド・ノートの松村さん(@g_stand)。なお、今回のイベントに関するツイートはこちらにまとまっている。 「江東ドボクマッピング」ということで、江東区の給油所についてのお話から。 給油所は消防署が管轄しているのだが、訪ねても何の資料も閲覧させてもらえないという。そして、給油所に関する趣味書などあるわけもなく、でも国会図書館に行ったら『東京都ガソリンスタンド現勢』という昭和30年(1955年)に行き当たった。これがamazonで検索できることは傑作だ。買えないけど。 実際に松村さんが目にしているだけでもどんどん姿を消している給油所。話の中に、ぽんぽん都内各地の姿を消した給油所の話が出てくる。きっと、見ていた人たちは、それぞれに記憶の糸をたぐりながら、ああ、あそこは知ってる、という個々の思いを新たにしたことだろう。私はと言えば、そういえば東京駅八重洲口に給油所があって、バイク雑誌の仕事をしていたときはよくそこを使ったなあ。などということを思い出した。 そうしたことをきっかけに、ブランド別といったらいいのか、看板別にいきなり切り込んでいく。JOMO、ENEOS(このふたつはENEOSに統合中)、出光、コスモ、ゼネラル、、ESSO、昭和シェル、SOLATO…。ブランドの架け替えの話。商売を終えてしまう話。そこに見る個人経営者の話。給油所ひとつひとつに、それほどの話があるとは空想だにしなかった。 看板だけではない。給油所の建物の意匠やキャノピー(天蓋)、計量器の土台にも、ブランドごとの特徴があったなどとは、まったく知らなかった。松村氏のサイトを拝見していれば、たしかに「○○(ブランド名)らしい」という記述があるのだが、つい読み流すというか、それを特徴として得心していなかった。こうして口頭で説明されるとものすごく深く納得できる。いままで漫然と見ていたものが、どんどん整理されて、自分の中でタグ付けされていく感じ。これがリアルイベントのおもしろさだ。 松村氏は、これらのブランドごとの特徴を「数を見る」ことで会得しているという。趣味的な教科書があるわけではない。観察眼と、あとは実際の給油所の人の話だという。いわゆるドボクの分野では、その手法によって年代をある程度特定できるが、それと同じことが給油所にもあてはまるという事実。それを見出したということに感動した。自分も精進しなければ。 最後に、美しい給油所を。 美しい。こちらを参照。 下灘駅か! すばらしいお話だった。カルカルのようなハコでもぜひ! 以下は蛇足だ。 私の給油所にまつわる経験を書く。書きたいので書く。 (1) 最初に給油所を意識したのは、保育園の行き帰りだった。行きは母親に自転車で送ってもらい、帰りはひとりでバスで帰ってきた。その、帰りのバス停の前に、この給油所があった。いまもある。外装は変わったが、当時もキャノピーがあった。そして、そうだ、思い出した、ターンテーブルがあったはずだ。…でも、静電気防止のために床を濡らす必要があるとすれば、記憶違いかな? まあ、あったことにして書く。 大きな地図で見る アポロマークは、おそらく1976年頃には意識していた。長らくあの横顔を麒麟麦酒の麒麟と同じテイストだと思っていた。保育園児のころは。 この給油所の特徴は、立体駐車場があることだ。上のGoogleEarthにも写っているが、これは垂直循環式の駐車場で、いつも、クルマが乗ったゴンドラが右から左へスイングしていくところが見えていた。観覧車のようだ、と思っていた。保育園児だったが。ターンテーブルも、立体駐車場の付属設備として機能していたのではないかと思う。 ついでにいうと、バスのディーゼルエンジンの排ガスの匂いが好きだった。まだ、ときどき半流線形のバスボディを見ることができた。まだ車掌が乗っていた名残があり、そこによく入り込んで乗っていた。背面部が丸く、背面のグリルがダイエーのマークのような欠円になっていた。そこからファンが見えた。マフラー端部は丸かった。角型ボディのバスは、マフラー端部が楕円形だった。下らないことを記憶しているものである。 (2) 日石のコウモリマークも幼少の記憶にある。 柏崎に親戚がいた関係で、よく信越本線の列車に乗っていた。柏崎駅には日石の精油所(当時、どういう名称だったかは不明だが、とにかくそういう役割の施設)があったため、タンク車がゴロゴロしていた。そこに、カルテックス+コウモリマークがついていた。もちろん、幼少のこととてコウモリを図案化したなどとは知らず、筋骨隆々の骨人間(矛盾した表現だな)だと思っていた。小学生になって、コウモリマークが「日本」と読めることに気づいた。日石と柏崎の関係は深く、発祥の地は西山油田だったと思うが(尼瀬油田かもしれない)、柏崎駅近くに本社を置いていたことがある。 (3) また、小学生になってからは共同石油のロゴが好きだった。きっかけは鉄道模型だ。KATOがDE10をリリースしたとき、広告写真でタキ43000を引いていた。それからだ。なぜか、長じて東京へ来てバイクに乗っても、近所の共同石油でばかり給油していた。1993年に日鉱共石がジャパンエナジーになり、その後JOMOブランドを使用し始めた。「joy of motors JOMO」というジングルや、新聞の全面広告は記憶にある。その後、1995年以降も時折、共石の看板を掲げた給油所を見ていたが、いつしか見なくなった。 (4) そして先日、廃道撮影の取材で訪れた米沢で、気になる物件があった。しかし、自分のスタンスとして安易に撮影してアップして適当な感想を載せたり、松村さんに「こんなのがありました」とご連絡するのもおこがましく、写真すら撮らなかったが、我慢できないので書く。ここ。 (注;サービス終了につき地図削除) 怪しげな三角地帯。ここは、バイパスの開通により三角地帯になってしまった場所。もともとは「八谷街道」と書いてあるほうが昔からの道筋だ。いまでは西行きの一方通行になっているが、車線幅は2車線分あり、もちろんかつては交互通行だっただろう。いまは、その余った車線は、給油所関係とおぼしきクルマが堂々と駐車している。 Googleのストビューがないのが本当に残念だが、上記の地図を航空写真に切り替えると、セールスコーナーが円筒形をしているのがわかるだろう。個人経営らしく、サイトなどはないのだが、こんな記述はみつけた。私があえて撮らなかった写真も、小さいが、ある。 くだらんこと考えずに、撮って、そこで給油すればよかった。実は夜と朝とのべ3回通過しており、非常に気になったままだ。なお、この給油所、昭和51年(1976年)の航空写真にもきちんと今と同じ形で載っている。ついでに書くと、その右側、羽黒川を渡る「万世橋」はその後、バイパス的に新しい橋に切り替えられ、その航空写真にある橋は「旧橋」として姿をとどめていたが、先週行ったら解体され、新橋への架け替え工事をしていた。 給油所。まだまだ書ける気がする。それだけ、日常的というか、密接に関わるものだったのだろう。またいつか書こう。 PR
丸田祥三さんとの廃道取材レポの続きです。まずは前夜の話。
その日は栗子隧道を堪能し、夕方に(のちに『山さ行がねが』で公開された)菅野ダムを訪問したあと、米沢駅前のホテルに向かった。まだそれほど遅い時刻でもなかったので、「ホテルにチェックインして、駅前で夕食にしましょう」と話ながら駅に向かうと、アレアレ?という感じで駅に着いてしまった。駅ビルとかないのね…。 イメージとして、置賜地方の中心地たる駅前なんだから、山形駅前くらいの感じだろうと思っていたが、周辺には米沢牛の店ばかりが何軒かあるくらいで、普通の食事ができる店がなさそうだった。仕方なく、クルマで郊外のロードサイド店の多いところに行こうか、と思ったところ、カレーハウス園というお店からいい匂いがしてきたので入ってみた。アタリだった。 ふたりでジャンボカツカレーを注文。私は大盛り。…大盛りを後悔したが、なんとか食べきった。とてもいい雰囲気のお店で、満足した。食事をとる店がアタリだと、とても気分がいい。 翌日、朝6時半出発で行動開始。主目的は国道113号沿いに点在する旧道や廃道だ。 米沢から朝靄の国道287号を北上し、米坂線の羽前小松駅を横切り(踏切は「小松街道踏切」という名称だった)、県道250号へ。ふと右に目をやると、怪しげな道ががあった。「ちょっと止まりましょう」。 既に廃道に入ってしまっているが、このように現道に直角に接続する道路があった。しかも現道との交差点には柵がある。明らかに、使われなくなった「旧道」である。 この、いま正面を左右に走っているバイパスは開通が新しいのか、電子国土で見てもここは旧道のままだ。カシミール3Dで切り出したものを張っておく。 黄色いのが新設されたバイパスで、青いのが、上の写真の道。おそらく、青い線の南半分と北半部とで開通時期が異なるのだろう。本線にも、それらしき白線が写っていた。 丸田さんがカーブ地点の撮影をされている間、私はひとりで旧道を歩いていた。車が入ってこない2車線の道は広い。坂を登ると、カーブミラーがあった。その向こうにはバイパス。 路面には草。こういうものを見ると、植物の強さをものすごく感じる。そのうちアスファルトを割り、アスファルトを粉々にしてしまう。 さらに坂道を登ると、舗装路はこんなふうに幅が狭くなっていた。現道に切り取られているのだ。それでもなお1車線分の幅はある。 なぜかというと、右に写っている電柱がヒントだ。電線(電話線)は道路に沿って延びていくのが普通だが、道路の経路が変更されても、電線の経路は変更しないことがある。変更することと比べて多いのか少ないのかはわからないが、かなり見かける。その、古い経路に沿って設置された電線の点検の「ため、旧道部分が維持されている場合がある。ここなどはその例だ。 振り返ると、丸田さんが撮影していた。 藪中に標識がないか眺めたが、ここにはなにもないようだった。 この場所で30分ほど撮っていた。このようにして、予定していなかったところにしょっちゅう停まるせいで、撮影はいつも押せ押せだ。作品作りをしている写真家に向かって「すみません、そろそろ…」などと催促する不躾な私。申し訳ございません…。 この日はこの後、宇津峠や片洞門に行った。八ツ口も行くつもりだったが、事前にあまりに藪がひどく、しかもイバラだとトリさんからの情報が入ったので断念した。 米坂線は1926年(大正15年)から1936年(昭和11年)にかけて開通した。この時期には既に橋梁は国産化されている。それなのに、この地に1910年代初頭を最後に輸入されなくなったアメリカン・ブリッジ製の200フィートクーパートラスが架設されている。それは、この地に架けられていた橋桁が水害で被災したためだ。かといって、流失した橋桁が初代かといえばそうではなく、初代の橋桁は1940年に雪崩で流失しているので、このクーパートラスは三代目ということになる。なんだかややこしいが、順を追って書こう。 初代の橋桁(開通時~1940年3月5日) 初代の橋梁がどういった形式だったかはわからないが、水量の豊かな荒川を横切るのだから、現在とスパン割は変わらない200フィートだったのではないかと推測する。1940年3月5日、雪崩が初代橋桁を押し流し、そこにさしかかった列車が荒川に転落するという事故が起きた。橋桁は4~5年の命だった。事故の内容はwikipediaにある。現地には慰霊碑があり、私が訪ねたときでも、まだ添えられて日が経っていない花があった。ご遺族だろうか、保線関係者だろうか。 二代目の橋桁(1940年~1967年8月28~29日頃) 一昨日のエントリにも書いたが、1967年8月28日から翌日にかけての豪雨が「羽越水害」を招いた。羽越水害については小国町のサイトに詳細があるのでそちらを参照していただきたいのだが、このときに二代目の橋桁が流失してしまった。流出したあと、下記の写真のような状態になった。 (小国町のサイト「壊滅した米坂線」より転載) 残された橋脚の位置からして、二代目橋桁は上路トラスで、左手の隧道につながる部分にはプレートガーダーかなにかが架かっていたことがわかる。しかも、現在はトラス橋が第2連だが、この当時は第3連だった可能性もある。あるいは上路ゲルバートラスだったか、などとも考えたが、流失した初代の桁を復旧するという急を要する時に、専用設計のようにゲルバートラスなど架けるとは考えづらいな。ということで上路トラスではないかと想像する。 興味深いのは、隧道坑門の形状だ。これは、後述のスパン割から、隧道坑門ではなく、それをそのまま延長した落石・雪崩防止のヴォールトであろう。そのヴォールト内には地盤があるわけではなく、プレートガーダー橋がある。同じような例は、関西本線第四大和川橋梁(大阪府)の東端部でも見られる。 三代目の橋桁(1968年7月~現在) さて、橋桁が流失したからといって、さっと別の橋桁を作れるわけではない。他の例でいうと、他の場所に架けようとしていた橋桁を転用したり、橋梁の架け替えで不要となった橋桁を転用したりするものがあった。ここ米坂線には、東海道本線大井川橋梁としてかつて使われていた橋桁を、宮地鉄工所で改造して転用することにした。改造内容は不明であるが、図面番号は「TTR462-2」である。 転用元について、かつて書いたことがある。こちらをご覧いただきたい。 →アメリカン・ブリッジの記憶(大井川橋梁上り線の怪) 要するに、廃止したまま放置してあったトラス橋の転用先が見つかったのである。架設中の写真が残っている。 (小国町のサイト「復旧から復興へ」より転載) 隧道前に新しい橋脚を設置している。流失を免れた橋脚はあるが、既に足場扱いだ。帰宅してからこの写真を見たので、現地では、その存在を調べなかった。 (塗装標記に誤記。「支間」が「文間」になっているような気がする。) 第四荒川橋梁は、冒頭の写真で奥(隧道側)から1、2…と連を数える。 ・第1連 KS12 スパン12.9m ・第2連 KS14 冒頭のクーパートラス ・第3・4連 KS18 スパン22.3m ・第5連 KS18 スパン12.9m ・第6連 KS18 スパン4.19m ・第7連 KS12 スパン6.70m ということは、第1・7連はオリジナル、第3~6連は、KS18ということは架け替え済み。第2連は上述のとおりだ。 現在の米坂線第四荒川橋梁は、三世代の桁が同居した橋であった。 廃道取材(5)東北に掲載した橋。単なる偶然ではあるのだが、いろいろシンクロニシティを感じたので海尻橋について書く。 海尻橋は、五十里湖にかかる。五十里湖は、鬼怒川の支流である男鹿川(おじかがわ)に作られたダム湖だ。かつて、西側にキャンプ場があり、そこにゲリラ的に泊まったことが何度かある。いまは閉鎖されているようだ。 西側(上流側)。右に見えるのは国道121号で、クルマで走っていてにこの海尻橋が目に飛び込んできたとき、思わず声を上げた。 ランガートラス。タイドアーチの一種で、タイをトラスに組んである。一般的に、タイドアーチの場合、タイには桁橋(いわゆる普通の橋)と同じ役割が与えられるが、だからこそ補剛桁がトラスなのか。んなわけないか。 ランガートラスはあまり例が多くないのだが、偶然にも今月の『日本の廃道』で「山家橋(やまやばし)」の現在線が、ランガートラスだと知った。 なお、似たような音の形式として「トラスドランガー」がある。そちらは、アーチとタイをトラス状に結んだ形式であり、タイをトラスに組んだものではない。 下流側(南側)。長大すぎて木に隠れてしまう。 橋長117.4m、幅員6m。とにかく大きい。 横構がアーチのようになっているのはもちろん「アーチ」ではなく、吊材と接続する部分のハンチが丸味を帯びているだけだろう。 先にも上げたが、袂には公式に「こっちが旧道」という案内標識がある。 そして銘板。 昭和30年(1955)
建設省建造 内示(昭和14年)一等橋 松尾橋梁株式会社 東京工場製作 と書かれていた。 この橋について、もうひとつシンクロニシティを感じたことがあるのだが、忘れてしまった('A`) これからはこのランガートラスも見に行くようにしよう…。
米坂線の玉川橋梁と杉橋梁に残る銘板について記す。
玉川橋梁はここ。 開通したのは1936年8月31日。この小国~越後金丸間の開通を以て、米坂線は全通した。 この部分にかかる橋は、4連のプレートガーダー。 左が坂町方、右が米沢方。正式名称は知らないが、起点側=米沢側から、第1連、第2連…とすると、第1連は短く、第2連は一番長く、第3連は短く、第4連はすごく短い。 これが第2連・第3連だ。 これらのうち、第2~第4連の銘板が見えた。まず、第2連。 一番長い桁は、支間51.7mでトピー工業製だった。 次いで第3連。塗装標記から、支間19.2m。 第4連。塗装標記から、支間9.8m。 土木学会誌22巻9月号(1936年)の時報に「全通近き今坂線」(今坂線=今の米坂線)という記事がある。その中に、「第2荒川橋梁 101.3m」とある。 トピー工業製の第2連だけが、KS-16であり、また桁製作が1967年となっている。これは、1967年8月28日から翌日にかけての「羽越水害」で、この桁だけが傷んで交換せざるを得なくなったということだろう。羽越水害については小国町のサイトに詳しい。 なお、第1連の銘板や塗装標記は確認していないが、上記「101.3m」から類推するに、第1連の支間は19.2m(第3連と同じ)ではないかと思う。 次に、杉橋梁。この区間(手ノ子~羽前沼沢)の開通は、1933(昭和8)年11月10日。場所はここ。 左端が米坂線の杉橋梁。真ん中はR113号の旧道。右は現道。 こんな感じで銘板がある。 鉄道省
活荷重KS15*(で出519) 株式会社●● 松製作●● 昭和八年***1379 ------- ** L.八幡製鉄所 L.日本鋼管株式会社 ●:●●●●●● ●:●●●●●● 鉄道用橋梁は、一定の範囲でテンプレート的に設計済みのものを各地に据え付けていく。ここ米坂線でもそれは例外ではなかった。玉川橋梁は活荷重KS12、杉橋梁はKS15。開通時期が異なるため、杉橋梁が架設された時期(米坂東線建設時)はKS15だったのが、全通区間(伊佐領~越後金丸間)はKS12で敷設されたのか…などとも考えてみたが、その差は3年しかない。そのため、杉橋梁がKS15である理由は謎である。 一方、玉川橋梁の第2連の活荷重がKS16であることは、単に、桁が1967年に作られたからに過ぎない。当時はKS16とKS18でしか桁を作らなかったはずだ。 なお、こうした活荷重は、「クーパー荷重の解決」に書いたとおり、1D+4軸の機関車が重連で走ることを想定している。そのため、桁そのものが負担できる荷重としては、総重量から考えると、軸重が多少上回る機関車でも入線は可能だ。実際、そうした経験値で特例があった例はいくつか聞いている。 いつか、米坂線の全橋梁を調べてみたい。 |
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