タグを一つしかつけられないのがもどかしい橋。高浜西運河にかかる道路橋の「芝浦橋」、その上にかかるのが東海道新幹線大井回送線の「芝浦併用橋」(手前)と休止状態の貨物線「芝浦併用橋」(奥)だ。 ![]() また、この芝浦橋を見た人は、関西本線第四大和川橋梁(大阪府)を連想するに違いない。こういう橋だ。ここに見えるトラスは「桁受トラス」と呼ばれ、通常は鋼製の箱を渡してビームとするのだが、ここではどうしたわけか、トラスがその代わりをしている。その理由が明記された文献にはいまだあたっていない。 さて、芝浦橋はここにある。東京都の海っぺり、運河にかかる橋だ。 より大きな地図で 芝浦橋 を表示 先に整理する。 道路橋の芝浦橋は、1970年5月、東京都港区建造。一等橋。 新幹線の芝浦併用橋は、1970年、日本国有鉄道。NP-18。1973年9月1日開通。 貨物線の芝浦併用橋は、1972年、日本国有鉄道。KSー18。1973年10月1日開通。現在休止中。 三橋とも、横河橋梁製だ。貨物線の桁のみ製造年が異なるが、設計は一体でやっていたと考えるのが自然だろう。 それ以前は、細い橋がかかるだけだったようだ。国土変遷アーカイブより転載。 どんどんディテールを見て行こう。 そもそも、この程度の長さの橋なら、一等橋(活荷重の基準の一つ)とはいえ、トラス橋にする必要などないだろう。単純な上路プレートガーダー橋で十分だと思う。それなのに、この橋の側面にトラスがあるのは、トラスがその上を横切る桁の橋脚の役割を果たすからだろう。 真横(西から東側のトラスを見る)から。 左側が貨物線の桁、右側が新幹線の橋脚。貨物線は、トラスを橋脚として使用し、新幹線は橋脚を介してトラスに接続している。また、貨物線に架線が張っていないのがわかるだろうか。 反対側(西側) これも横から(東から西側のトラスを見る) こちらから見ると、左が新幹線、道が貨物線。トラスへの乗っかかり方は変わらない。 寄ってみる。まずは新幹線の桁を支えるほう。 貨物線のほう。 橋の上から、公園が見えた(地図参照)。そこに行ってみると、このように西側が見える。 地図に示した公園から、支承を見る。 北側。 これらのすべてに銘板があるので、掲載する。 ●芝浦橋(道路橋) ●新幹線の桁 ●貨物線の桁 続いて塗装標記。 ●新幹線の桁
位置 大井回送線 5K696M 支間 12M471 塗装年月 1999年1月 塗装回数 2回塗 塗装種別及び塗料名 補修塗 亜酸化鉛さび止めペイント 中.上塗り 長油性フタル酸樹脂塗料(中)灰色1号 (上)灰色2号 塗料メーカ 大日本塗料株式会社 施工者 明治塗工株式会社 ●貨物線の桁 位置 元汐留東京貨物ターミナル間 3K758M16 支間 12M70 塗装年月 1990年10月 塗装回数 3回塗 塗装種別及塗料名 下塗 鉛系さび止めペイント 中・上塗 長油性フタル酸樹脂塗料 塗料メーカ 大日本塗料(株) 施工者 (株)中村塗装店 「元汐留」というのがなぜそうなったのか、知りたい。 とりあえずここまで。 この橋の紹介は『横河橋梁技報』創刊号(1972年1月号)に記載があるはずだ。いつか目にしてみたい。 参考サイト:『水路をゆく・第二運河』 PR
インドネシアのトレリストラス+ランガー(?)+トレッスル橋脚というエントリを9月8日に書いた。先日、それを調べるきっかけとなった米屋浩二さんのお会いする機会を得た。
「現地では、こんなビデオが売ってるんですよ」 この橋梁の画像がgooglemapsに貼り付けられていることから、ファンが少しはいることはわかるが、ビデオまで出ているとは! 開けてしまった箱の蓋、このまま閉じておこう…。 なお、Cikubang Bridgeの写真は『日本カメラ』に掲載されているとのこと。拝見してこようっと。 このとき、米屋さんが「買っちゃいました」と言って取り出したものを見て驚いた。バイテンのフィルム。使ったことのある人は知っているが、実物を見たのは初めて。今月7日まで、長野電鉄の信濃川田駅で米屋さんの写真展を開催しているが、そこで実物を見られるはずだ。下記告知ページの画像がそれ。 http://railf.jp/event/2010/10/27/192900.html
大きさも形も歴史的経緯もよく知られた橋である。場所はここ。
大きな地図で見る 「歴史的鋼橋集覧」によれば、支間164.6m、1928年川崎造船所兵庫工場製。歴史的経緯はwikipediaに詳しいが、簡単に書くと ・猛急の工事であった ・陸軍の要請により、単径間となった という曰くがある。それはともかく、1928年に製造されたこの澱川橋梁が、現在でも単純トラス橋としては日本最長であるという点が、橋梁史的に興味深い。 真横から見る。 これだけだといまいち大きさがわかりづらい。引いて見る。 こうして遠くから真横を見ると、華奢に見えるが、もちろんそんなことはない。南側から見る。 あれ? 端柱に接する斜材が… 下に潜ってみる。 角度を変える。 そして、この重さを一手に引き受ける支承。 なんて思ったら、ちゃんと資料があるではないの。『澱川橋梁の設計について-現代トラス橋との比較の試み-』(月岡康一、小西純一、和田林道宣 )。それによれば、昭和52年(1977年)に支承が水平移動しないことが判明し、昭和58(1983年)に更新されている。 では、その『澱川橋梁の設計について-現代トラス橋との比較の試み-』(月岡康一、小西純一、和田林道宣 )を基に少し。 この巨大な桁は、のちに横河橋梁に転ずる関場茂樹が設計した。関場はアメリカン・ブリッジ帰りの橋梁技術者であり、個人的にはこれからもっと人となりをさぐってみようと思っている。 現在でもそうなんだから、当時でも日本最長のトラス桁である。では、当時、世界の単純トラス橋の長さはいかほどだったかというと、1位のメトロポリタン橋(支間219.5m、1917年完成)を筆頭に5位までと7~10位がアメリカの橋。6位にドイツのライン川にかかるDuisburg Ruhrort(デュイスブルク・ルーアオルト)橋(支間186m。リンク先は推定。ガセット結合の分格ワーレンであること、ライン川に架かる橋はこれしかないこと、実際に200m弱らしいことから推定)がランクインするくらい。橋王国・アメリカの面目躍如たるところだが、この澱川橋梁はその当時のランクでいうと世界第11位となる。 1位のメトロポリタン橋は、全長1958mの橋。このうちの南側の1径間が、最長のものだ。 大きな地図で見る 上記の衛星写真でストリートビューを選択すると、この橋の外見を撮影した画像が表示されるはずだ。この橋のディテールは、このサイトが詳しい。見れば、トレッスル橋脚+プレートガーダー部もある。雄大さは日本の比ではない。 元々はCB&Q(シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道。別名バーリントン鉄道)として開通し、いまはCNR(カナディアン・ナショナル鉄道)が保有している。蛇足だが、後者のリンク先は私が起こしている。 ああ、また海外のサイトを漁って時間を過ごしてしまった。キリがない。
深川東京モダン館が開催している「江東ドボクマッピング 新観光講座」。先日は「橋編」に行ってきたが、本日、「ガソリンスタンド編」が開催されたので拝聴してきた。全6回とも拝聴したかったのだが、自分の都合もあり、今回が2回目だ。
講師はガソリンスタンド・ノートの松村さん(@g_stand)。なお、今回のイベントに関するツイートはこちらにまとまっている。 給油所は消防署が管轄しているのだが、訪ねても何の資料も閲覧させてもらえないという。そして、給油所に関する趣味書などあるわけもなく、でも国会図書館に行ったら『東京都ガソリンスタンド現勢』という昭和30年(1955年)に行き当たった。これがamazonで検索できることは傑作だ。買えないけど。 実際に松村さんが目にしているだけでもどんどん姿を消している給油所。話の中に、ぽんぽん都内各地の姿を消した給油所の話が出てくる。きっと、見ていた人たちは、それぞれに記憶の糸をたぐりながら、ああ、あそこは知ってる、という個々の思いを新たにしたことだろう。私はと言えば、そういえば東京駅八重洲口に給油所があって、バイク雑誌の仕事をしていたときはよくそこを使ったなあ。などということを思い出した。 そうしたことをきっかけに、ブランド別といったらいいのか、看板別にいきなり切り込んでいく。JOMO、ENEOS(このふたつはENEOSに統合中)、出光、コスモ、ゼネラル、、ESSO、昭和シェル、SOLATO…。ブランドの架け替えの話。商売を終えてしまう話。そこに見る個人経営者の話。給油所ひとつひとつに、それほどの話があるとは空想だにしなかった。 看板だけではない。給油所の建物の意匠やキャノピー(天蓋)、計量器の土台にも、ブランドごとの特徴があったなどとは、まったく知らなかった。松村氏のサイトを拝見していれば、たしかに「○○(ブランド名)らしい」という記述があるのだが、つい読み流すというか、それを特徴として得心していなかった。こうして口頭で説明されるとものすごく深く納得できる。いままで漫然と見ていたものが、どんどん整理されて、自分の中でタグ付けされていく感じ。これがリアルイベントのおもしろさだ。 松村氏は、これらのブランドごとの特徴を「数を見る」ことで会得しているという。趣味的な教科書があるわけではない。観察眼と、あとは実際の給油所の人の話だという。いわゆるドボクの分野では、その手法によって年代をある程度特定できるが、それと同じことが給油所にもあてはまるという事実。それを見出したということに感動した。自分も精進しなければ。 最後に、美しい給油所を。 すばらしいお話だった。カルカルのようなハコでもぜひ! 以下は蛇足だ。 私の給油所にまつわる経験を書く。書きたいので書く。 (1) 最初に給油所を意識したのは、保育園の行き帰りだった。行きは母親に自転車で送ってもらい、帰りはひとりでバスで帰ってきた。その、帰りのバス停の前に、この給油所があった。いまもある。外装は変わったが、当時もキャノピーがあった。そして、そうだ、思い出した、ターンテーブルがあったはずだ。…でも、静電気防止のために床を濡らす必要があるとすれば、記憶違いかな? まあ、あったことにして書く。 大きな地図で見る アポロマークは、おそらく1976年頃には意識していた。長らくあの横顔を麒麟麦酒の麒麟と同じテイストだと思っていた。保育園児のころは。 この給油所の特徴は、立体駐車場があることだ。上のGoogleEarthにも写っているが、これは垂直循環式の駐車場で、いつも、クルマが乗ったゴンドラが右から左へスイングしていくところが見えていた。観覧車のようだ、と思っていた。保育園児だったが。ターンテーブルも、立体駐車場の付属設備として機能していたのではないかと思う。 ついでにいうと、バスのディーゼルエンジンの排ガスの匂いが好きだった。まだ、ときどき半流線形のバスボディを見ることができた。まだ車掌が乗っていた名残があり、そこによく入り込んで乗っていた。背面部が丸く、背面のグリルがダイエーのマークのような欠円になっていた。そこからファンが見えた。マフラー端部は丸かった。角型ボディのバスは、マフラー端部が楕円形だった。下らないことを記憶しているものである。 (2) 日石のコウモリマークも幼少の記憶にある。 柏崎に親戚がいた関係で、よく信越本線の列車に乗っていた。柏崎駅には日石の精油所(当時、どういう名称だったかは不明だが、とにかくそういう役割の施設)があったため、タンク車がゴロゴロしていた。そこに、カルテックス+コウモリマークがついていた。もちろん、幼少のこととてコウモリを図案化したなどとは知らず、筋骨隆々の骨人間(矛盾した表現だな)だと思っていた。小学生になって、コウモリマークが「日本」と読めることに気づいた。日石と柏崎の関係は深く、発祥の地は西山油田だったと思うが(尼瀬油田かもしれない)、柏崎駅近くに本社を置いていたことがある。 (3) また、小学生になってからは共同石油のロゴが好きだった。きっかけは鉄道模型だ。KATOがDE10をリリースしたとき、広告写真でタキ43000を引いていた。それからだ。なぜか、長じて東京へ来てバイクに乗っても、近所の共同石油でばかり給油していた。1993年に日鉱共石がジャパンエナジーになり、その後JOMOブランドを使用し始めた。「joy of motors JOMO」というジングルや、新聞の全面広告は記憶にある。その後、1995年以降も時折、共石の看板を掲げた給油所を見ていたが、いつしか見なくなった。 (4) そして先日、廃道撮影の取材で訪れた米沢で、気になる物件があった。しかし、自分のスタンスとして安易に撮影してアップして適当な感想を載せたり、松村さんに「こんなのがありました」とご連絡するのもおこがましく、写真すら撮らなかったが、我慢できないので書く。ここ。 (注;サービス終了につき地図削除) 怪しげな三角地帯。ここは、バイパスの開通により三角地帯になってしまった場所。もともとは「八谷街道」と書いてあるほうが昔からの道筋だ。いまでは西行きの一方通行になっているが、車線幅は2車線分あり、もちろんかつては交互通行だっただろう。いまは、その余った車線は、給油所関係とおぼしきクルマが堂々と駐車している。 Googleのストビューがないのが本当に残念だが、上記の地図を航空写真に切り替えると、セールスコーナーが円筒形をしているのがわかるだろう。個人経営らしく、サイトなどはないのだが、こんな記述はみつけた。私があえて撮らなかった写真も、小さいが、ある。 くだらんこと考えずに、撮って、そこで給油すればよかった。実は夜と朝とのべ3回通過しており、非常に気になったままだ。なお、この給油所、昭和51年(1976年)の航空写真にもきちんと今と同じ形で載っている。ついでに書くと、その右側、羽黒川を渡る「万世橋」はその後、バイパス的に新しい橋に切り替えられ、その航空写真にある橋は「旧橋」として姿をとどめていたが、先週行ったら解体され、新橋への架け替え工事をしていた。 給油所。まだまだ書ける気がする。それだけ、日常的というか、密接に関わるものだったのだろう。またいつか書こう。
丸田祥三さんとの廃道取材レポの続きです。まずは前夜の話。
その日は栗子隧道を堪能し、夕方に(のちに『山さ行がねが』で公開された)菅野ダムを訪問したあと、米沢駅前のホテルに向かった。まだそれほど遅い時刻でもなかったので、「ホテルにチェックインして、駅前で夕食にしましょう」と話ながら駅に向かうと、アレアレ?という感じで駅に着いてしまった。駅ビルとかないのね…。 イメージとして、置賜地方の中心地たる駅前なんだから、山形駅前くらいの感じだろうと思っていたが、周辺には米沢牛の店ばかりが何軒かあるくらいで、普通の食事ができる店がなさそうだった。仕方なく、クルマで郊外のロードサイド店の多いところに行こうか、と思ったところ、カレーハウス園というお店からいい匂いがしてきたので入ってみた。アタリだった。 ふたりでジャンボカツカレーを注文。私は大盛り。…大盛りを後悔したが、なんとか食べきった。とてもいい雰囲気のお店で、満足した。食事をとる店がアタリだと、とても気分がいい。 翌日、朝6時半出発で行動開始。主目的は国道113号沿いに点在する旧道や廃道だ。 米沢から朝靄の国道287号を北上し、米坂線の羽前小松駅を横切り(踏切は「小松街道踏切」という名称だった)、県道250号へ。ふと右に目をやると、怪しげな道ががあった。「ちょっと止まりましょう」。 この、いま正面を左右に走っているバイパスは開通が新しいのか、電子国土で見てもここは旧道のままだ。カシミール3Dで切り出したものを張っておく。 なぜかというと、右に写っている電柱がヒントだ。電線(電話線)は道路に沿って延びていくのが普通だが、道路の経路が変更されても、電線の経路は変更しないことがある。変更することと比べて多いのか少ないのかはわからないが、かなり見かける。その、古い経路に沿って設置された電線の点検の「ため、旧道部分が維持されている場合がある。ここなどはその例だ。 振り返ると、丸田さんが撮影していた。 この場所で30分ほど撮っていた。このようにして、予定していなかったところにしょっちゅう停まるせいで、撮影はいつも押せ押せだ。作品作りをしている写真家に向かって「すみません、そろそろ…」などと催促する不躾な私。申し訳ございません…。 この日はこの後、宇津峠や片洞門に行った。八ツ口も行くつもりだったが、事前にあまりに藪がひどく、しかもイバラだとトリさんからの情報が入ったので断念した。 |
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