より大きな地図で 天王洲ふれあい橋 を表示 首都高羽田線を走っていると、天王洲付近で内陸側にピン結合のプラットトラスが見えて驚いたことはないだろうか。それが、天王洲ふれあい橋。先に紹介した芝浦橋から旧海岸通りを南下し、天王洲運河を渡るときに東側(左側)に見える。 この橋は、近年建造されたピン結合のプラットトラスであるという点で、おそらくそんなものはこれひとつしかない。名称が、なんの謂われもない、かえって無個性なふれあい橋であることだけが非常に残念だ。 休日の午後だったからか、人が途切れることがない。渡った向こうは東京海洋大学(昔の商船大学)、周辺は品川駅近くで住宅街でもある。また、運河に沿って遊歩道があり、開放感あふれたスペースになっている。この写真でいえば左側にオサレなカフェがあり、とてもいいにおいのパンを売っていて、中あるいはテラスでお茶ができる。スノッブな休日の午後を楽しむには非常にいい感じだった。 さて、ピン結合部を見る。 なんということだ、うっかりと裏側を撮らなかったのだが、こうして見る限り、ピン結合プラットトラスのセオリー通り、左右の垂直材が上下で結合されて軸方向が□型となり、それをアイバーがつないている構造になっているようだ。床版は、下横構の上に縦桁を渡し、その上に設置されていると思うが、それは確認していない。迂闊! 北側に渡って、東側を撮る。 また戻って垂直材。 以下は私の勝手な想像である。 このふれあい橋は、もともとは天王洲アイルから品川駅に行くための近道として設置された人道橋である(天王洲開発協議会による)。通常、こうした人道橋は、開放的な橋にする。橋長69.3m。プレートガーダーでできないスパンではない。あるいは斜張橋が採用されやすいスパンかもしれない。 なにしろ人が歩く道だ。トラス橋は、中を歩く人にとっては檻のように感じることもあるだろう。天蓋も部材で覆われているので、人道橋としてはもっとも敬遠される。それなのにトラス橋が採用されたのは、レトロ感を演出するために違いない。そういう意味で、現代の技術で作る「形鋼をガセットプレートで剛結したトラス橋」ではまったく意味がなく、「レーシングのある、リベットを多用したトラス橋」でなければならないのだ。それを徹底的に作り込むと、ピン結合のプラットトラスとなる(プラットトラスは、ピン結合に向いた形式である)。 たしかに「運河」という空間には、近代的な斜張橋よりも、こうしたレトロなイメージを持つ鋼橋のほうが似合う気がする。また、新築されたビルが林立する天王洲アイルという土地柄にこのようなレトロなイメージを持つ鋼橋があると、浮ついた印象がかなり減る。歴史があった場所を再開発した、というような印象になる。横浜の赤レンガ倉庫や汽車道と同じ手法だ。 実際に歩いてみると、鋼材の圧迫感などはまったく気にならない。横浜の汽車道も、三つの古い鋼橋が残されてアクセントとなっており、そこで写真を撮る人も多い。 このリベット風のボルトについてはこちらのブログに詳細がある。その前のエントリにはトラスの解析もある。この「トルシア形高力ボルト」については、こんな蘊蓄もあった。いままで、橋のボルトに注意したことはなかったが(リベットかボルトのどちらかだと思っていた)、この形式のボルトかどうかも今後、見て行きたいと思う。 最後に、施工した宮地鉄工所のサイトをご覧いただきたい。意外にも、このふれあい橋はポンツーン工法で架けられた。このサイトを見て私が不思議に思ったのは、ポンツーンの艀における橋桁の受け方だ。橋桁というのは両端下部の支承で支えるようにできているのだが、こうしたピントラスが艀に乗る場合は下弦か、下弦を左右に結ぶ下横構が支点となって桁全体を支える。そうしたときに、どこかしら破断が生じたりしないのだろうかということだ。そこらへんも踏まえた上で設計されているはずだが、光景としては不思議な感じがする。 PR
昨日のエントリ芝浦橋・芝浦併用橋は長くなったので割愛したことなど。これらの橋の関連情報について。主として銘板について。
より大きな地図で 芝浦橋 を表示 ●芝浦橋(道路橋)の他径間 その短い桁の西側の面に、銘板がある。 1970年6月
東京都港区建造 鋼示(1984)一等橋 製作 横河橋梁製作所 千葉工場 材質 ●●●●●、SS41 支承には「横長の楕円形、中に縦三本線」の陽刻があるのだが、メーカーはわからない。いや、社団法人日本支承協会のサイトも見たのだが、わからなかった。毒を食らわば皿まで。支承もコレクションしとかないといけないかもしれない。 ●西側のビームとその橋脚 基礎工 場所打コンクリート杭φ150cm L=9.5m 5本
基礎根入 けた座面から22.3m
着手 昭和44年6月24日 しゅん工 昭和46年8月9日(注:1971年) そうか、橋脚にも活荷重があるのか。あたりまえといえばあたりまえだが、上に乗る桁の重量(RC製のほうが鋼製よりも重いはず)にも左右されるし、いまある桁の重量を前提に設計されているのだろうか。また、表記が、塗装標記や橋梁制作会社の表記と異なる点も興味深い。この当時から「橋りょう」だったのだな。 いや、それよりもN-18という標記に注目。N荷重だ。新幹線貨物を想定した、車体長13.5mの活荷重だ。ということは、1970年代まで、新幹線貨物は、土木構造物において、一応は想定されていたのだ。状況証拠から、思わぬことを発見してしまったのでフォントを赤くしてしまった。KS-18標記は在来線の活荷重であるから、この橋脚は、新幹線(貨物)と在来線のふたつを想定していることがわかる。 ●東側のビーム 橋りょう名 高浜第二西運河橋りょう
位置 元汐留-東京貨物(タ)3K847M84 支間 28M500 塗装年月 1991年6月 塗装回数 3回塗り 塗装種別及塗料名 下塗 シアナミド鉛さび止めペイント 中上塗 長油性フタル酸樹脂塗料 塗料メーカ 日本ペイント株式会社 施工者 建設塗装工業株式会社 1991年の時点では、汐留駅はなくなっていたがこの路線は生きていた。それが標記に現れ「元汐留」となっているのだろうか。 銘板。 SS46 宮地鉄工所 東京工場 おお、宮地! なぜここで宮地なんだ。周辺の桁は全部横河橋梁なのに、なぜこのビームだけ異なるんだ。 そして、KS-18。新幹線の桁は、上記の通り、別に設けた橋脚に乗っかっているから考慮する必要がない、というわけだ。 以上、周辺情報。 タグを一つしかつけられないのがもどかしい橋。高浜西運河にかかる道路橋の「芝浦橋」、その上にかかるのが東海道新幹線大井回送線の「芝浦併用橋」(手前)と休止状態の貨物線「芝浦併用橋」(奥)だ。 ![]() また、この芝浦橋を見た人は、関西本線第四大和川橋梁(大阪府)を連想するに違いない。こういう橋だ。ここに見えるトラスは「桁受トラス」と呼ばれ、通常は鋼製の箱を渡してビームとするのだが、ここではどうしたわけか、トラスがその代わりをしている。その理由が明記された文献にはいまだあたっていない。 さて、芝浦橋はここにある。東京都の海っぺり、運河にかかる橋だ。 より大きな地図で 芝浦橋 を表示 先に整理する。 道路橋の芝浦橋は、1970年5月、東京都港区建造。一等橋。 新幹線の芝浦併用橋は、1970年、日本国有鉄道。NP-18。1973年9月1日開通。 貨物線の芝浦併用橋は、1972年、日本国有鉄道。KSー18。1973年10月1日開通。現在休止中。 三橋とも、横河橋梁製だ。貨物線の桁のみ製造年が異なるが、設計は一体でやっていたと考えるのが自然だろう。 それ以前は、細い橋がかかるだけだったようだ。国土変遷アーカイブより転載。 どんどんディテールを見て行こう。 そもそも、この程度の長さの橋なら、一等橋(活荷重の基準の一つ)とはいえ、トラス橋にする必要などないだろう。単純な上路プレートガーダー橋で十分だと思う。それなのに、この橋の側面にトラスがあるのは、トラスがその上を横切る桁の橋脚の役割を果たすからだろう。 真横(西から東側のトラスを見る)から。 左側が貨物線の桁、右側が新幹線の橋脚。貨物線は、トラスを橋脚として使用し、新幹線は橋脚を介してトラスに接続している。また、貨物線に架線が張っていないのがわかるだろうか。 反対側(西側) これも横から(東から西側のトラスを見る) こちらから見ると、左が新幹線、道が貨物線。トラスへの乗っかかり方は変わらない。 寄ってみる。まずは新幹線の桁を支えるほう。 貨物線のほう。 橋の上から、公園が見えた(地図参照)。そこに行ってみると、このように西側が見える。 地図に示した公園から、支承を見る。 北側。 これらのすべてに銘板があるので、掲載する。 ●芝浦橋(道路橋) ●新幹線の桁 ●貨物線の桁 続いて塗装標記。 ●新幹線の桁
位置 大井回送線 5K696M 支間 12M471 塗装年月 1999年1月 塗装回数 2回塗 塗装種別及び塗料名 補修塗 亜酸化鉛さび止めペイント 中.上塗り 長油性フタル酸樹脂塗料(中)灰色1号 (上)灰色2号 塗料メーカ 大日本塗料株式会社 施工者 明治塗工株式会社 ●貨物線の桁 位置 元汐留東京貨物ターミナル間 3K758M16 支間 12M70 塗装年月 1990年10月 塗装回数 3回塗 塗装種別及塗料名 下塗 鉛系さび止めペイント 中・上塗 長油性フタル酸樹脂塗料 塗料メーカ 大日本塗料(株) 施工者 (株)中村塗装店 「元汐留」というのがなぜそうなったのか、知りたい。 とりあえずここまで。 この橋の紹介は『横河橋梁技報』創刊号(1972年1月号)に記載があるはずだ。いつか目にしてみたい。 参考サイト:『水路をゆく・第二運河』
インドネシアのトレリストラス+ランガー(?)+トレッスル橋脚というエントリを9月8日に書いた。先日、それを調べるきっかけとなった米屋浩二さんのお会いする機会を得た。
「現地では、こんなビデオが売ってるんですよ」 この橋梁の画像がgooglemapsに貼り付けられていることから、ファンが少しはいることはわかるが、ビデオまで出ているとは! 開けてしまった箱の蓋、このまま閉じておこう…。 なお、Cikubang Bridgeの写真は『日本カメラ』に掲載されているとのこと。拝見してこようっと。 このとき、米屋さんが「買っちゃいました」と言って取り出したものを見て驚いた。バイテンのフィルム。使ったことのある人は知っているが、実物を見たのは初めて。今月7日まで、長野電鉄の信濃川田駅で米屋さんの写真展を開催しているが、そこで実物を見られるはずだ。下記告知ページの画像がそれ。 http://railf.jp/event/2010/10/27/192900.html
大きさも形も歴史的経緯もよく知られた橋である。場所はここ。
大きな地図で見る 「歴史的鋼橋集覧」によれば、支間164.6m、1928年川崎造船所兵庫工場製。歴史的経緯はwikipediaに詳しいが、簡単に書くと ・猛急の工事であった ・陸軍の要請により、単径間となった という曰くがある。それはともかく、1928年に製造されたこの澱川橋梁が、現在でも単純トラス橋としては日本最長であるという点が、橋梁史的に興味深い。 真横から見る。 これだけだといまいち大きさがわかりづらい。引いて見る。 こうして遠くから真横を見ると、華奢に見えるが、もちろんそんなことはない。南側から見る。 あれ? 端柱に接する斜材が… 下に潜ってみる。 角度を変える。 そして、この重さを一手に引き受ける支承。 なんて思ったら、ちゃんと資料があるではないの。『澱川橋梁の設計について-現代トラス橋との比較の試み-』(月岡康一、小西純一、和田林道宣 )。それによれば、昭和52年(1977年)に支承が水平移動しないことが判明し、昭和58(1983年)に更新されている。 では、その『澱川橋梁の設計について-現代トラス橋との比較の試み-』(月岡康一、小西純一、和田林道宣 )を基に少し。 この巨大な桁は、のちに横河橋梁に転ずる関場茂樹が設計した。関場はアメリカン・ブリッジ帰りの橋梁技術者であり、個人的にはこれからもっと人となりをさぐってみようと思っている。 現在でもそうなんだから、当時でも日本最長のトラス桁である。では、当時、世界の単純トラス橋の長さはいかほどだったかというと、1位のメトロポリタン橋(支間219.5m、1917年完成)を筆頭に5位までと7~10位がアメリカの橋。6位にドイツのライン川にかかるDuisburg Ruhrort(デュイスブルク・ルーアオルト)橋(支間186m。リンク先は推定。ガセット結合の分格ワーレンであること、ライン川に架かる橋はこれしかないこと、実際に200m弱らしいことから推定)がランクインするくらい。橋王国・アメリカの面目躍如たるところだが、この澱川橋梁はその当時のランクでいうと世界第11位となる。 1位のメトロポリタン橋は、全長1958mの橋。このうちの南側の1径間が、最長のものだ。 大きな地図で見る 上記の衛星写真でストリートビューを選択すると、この橋の外見を撮影した画像が表示されるはずだ。この橋のディテールは、このサイトが詳しい。見れば、トレッスル橋脚+プレートガーダー部もある。雄大さは日本の比ではない。 元々はCB&Q(シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道。別名バーリントン鉄道)として開通し、いまはCNR(カナディアン・ナショナル鉄道)が保有している。蛇足だが、後者のリンク先は私が起こしている。 ああ、また海外のサイトを漁って時間を過ごしてしまった。キリがない。 |
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