米坂線は1926年(大正15年)から1936年(昭和11年)にかけて開通した。この時期には既に橋梁は国産化されている。それなのに、この地に1910年代初頭を最後に輸入されなくなったアメリカン・ブリッジ製の200フィートクーパートラスが架設されている。それは、この地に架けられていた橋桁が水害で被災したためだ。かといって、流失した橋桁が初代かといえばそうではなく、初代の橋桁は1940年に雪崩で流失しているので、このクーパートラスは三代目ということになる。なんだかややこしいが、順を追って書こう。 初代の橋桁(開通時~1940年3月5日) 初代の橋梁がどういった形式だったかはわからないが、水量の豊かな荒川を横切るのだから、現在とスパン割は変わらない200フィートだったのではないかと推測する。1940年3月5日、雪崩が初代橋桁を押し流し、そこにさしかかった列車が荒川に転落するという事故が起きた。橋桁は4~5年の命だった。事故の内容はwikipediaにある。現地には慰霊碑があり、私が訪ねたときでも、まだ添えられて日が経っていない花があった。ご遺族だろうか、保線関係者だろうか。 二代目の橋桁(1940年~1967年8月28~29日頃) 一昨日のエントリにも書いたが、1967年8月28日から翌日にかけての豪雨が「羽越水害」を招いた。羽越水害については小国町のサイトに詳細があるのでそちらを参照していただきたいのだが、このときに二代目の橋桁が流失してしまった。流出したあと、下記の写真のような状態になった。 ![]() 残された橋脚の位置からして、二代目橋桁は上路トラスで、左手の隧道につながる部分にはプレートガーダーかなにかが架かっていたことがわかる。しかも、現在はトラス橋が第2連だが、この当時は第3連だった可能性もある。あるいは上路ゲルバートラスだったか、などとも考えたが、流失した初代の桁を復旧するという急を要する時に、専用設計のようにゲルバートラスなど架けるとは考えづらいな。ということで上路トラスではないかと想像する。 興味深いのは、隧道坑門の形状だ。これは、後述のスパン割から、隧道坑門ではなく、それをそのまま延長した落石・雪崩防止のヴォールトであろう。そのヴォールト内には地盤があるわけではなく、プレートガーダー橋がある。同じような例は、関西本線第四大和川橋梁(大阪府)の東端部でも見られる。 三代目の橋桁(1968年7月~現在) さて、橋桁が流失したからといって、さっと別の橋桁を作れるわけではない。他の例でいうと、他の場所に架けようとしていた橋桁を転用したり、橋梁の架け替えで不要となった橋桁を転用したりするものがあった。ここ米坂線には、東海道本線大井川橋梁としてかつて使われていた橋桁を、宮地鉄工所で改造して転用することにした。改造内容は不明であるが、図面番号は「TTR462-2」である。 転用元について、かつて書いたことがある。こちらをご覧いただきたい。 →アメリカン・ブリッジの記憶(大井川橋梁上り線の怪) 要するに、廃止したまま放置してあったトラス橋の転用先が見つかったのである。架設中の写真が残っている。 ![]() 隧道前に新しい橋脚を設置している。流失を免れた橋脚はあるが、既に足場扱いだ。帰宅してからこの写真を見たので、現地では、その存在を調べなかった。 (塗装標記に誤記。「支間」が「文間」になっているような気がする。) 第四荒川橋梁は、冒頭の写真で奥(隧道側)から1、2…と連を数える。 ・第1連 KS12 スパン12.9m ・第2連 KS14 冒頭のクーパートラス ・第3・4連 KS18 スパン22.3m ・第5連 KS18 スパン12.9m ・第6連 KS18 スパン4.19m ・第7連 KS12 スパン6.70m ということは、第1・7連はオリジナル、第3~6連は、KS18ということは架け替え済み。第2連は上述のとおりだ。 現在の米坂線第四荒川橋梁は、三世代の桁が同居した橋であった。 PR 廃道取材(5)東北に掲載した橋。単なる偶然ではあるのだが、いろいろシンクロニシティを感じたので海尻橋について書く。 海尻橋は、五十里湖にかかる。五十里湖は、鬼怒川の支流である男鹿川(おじかがわ)に作られたダム湖だ。かつて、西側にキャンプ場があり、そこにゲリラ的に泊まったことが何度かある。いまは閉鎖されているようだ。 ランガートラス。タイドアーチの一種で、タイをトラスに組んである。一般的に、タイドアーチの場合、タイには桁橋(いわゆる普通の橋)と同じ役割が与えられるが、だからこそ補剛桁がトラスなのか。んなわけないか。 ランガートラスはあまり例が多くないのだが、偶然にも今月の『日本の廃道』で「山家橋(やまやばし)」の現在線が、ランガートラスだと知った。 なお、似たような音の形式として「トラスドランガー」がある。そちらは、アーチとタイをトラス状に結んだ形式であり、タイをトラスに組んだものではない。 橋長117.4m、幅員6m。とにかく大きい。 そして銘板。 昭和30年(1955)
建設省建造 内示(昭和14年)一等橋 松尾橋梁株式会社 東京工場製作 と書かれていた。 この橋について、もうひとつシンクロニシティを感じたことがあるのだが、忘れてしまった('A`) これからはこのランガートラスも見に行くようにしよう…。
米坂線の玉川橋梁と杉橋梁に残る銘板について記す。
玉川橋梁はここ。 開通したのは1936年8月31日。この小国~越後金丸間の開通を以て、米坂線は全通した。 この部分にかかる橋は、4連のプレートガーダー。 これらのうち、第2~第4連の銘板が見えた。まず、第2連。 一番長い桁は、支間51.7mでトピー工業製だった。 次いで第3連。塗装標記から、支間19.2m。 第4連。塗装標記から、支間9.8m。 土木学会誌22巻9月号(1936年)の時報に「全通近き今坂線」(今坂線=今の米坂線)という記事がある。その中に、「第2荒川橋梁 101.3m」とある。 トピー工業製の第2連だけが、KS-16であり、また桁製作が1967年となっている。これは、1967年8月28日から翌日にかけての「羽越水害」で、この桁だけが傷んで交換せざるを得なくなったということだろう。羽越水害については小国町のサイトに詳しい。 なお、第1連の銘板や塗装標記は確認していないが、上記「101.3m」から類推するに、第1連の支間は19.2m(第3連と同じ)ではないかと思う。 次に、杉橋梁。この区間(手ノ子~羽前沼沢)の開通は、1933(昭和8)年11月10日。場所はここ。 こんな感じで銘板がある。 鉄道省
活荷重KS15*(で出519) 株式会社●● 松製作●● 昭和八年***1379 ------- ** L.八幡製鉄所 L.日本鋼管株式会社 ●:●●●●●● ●:●●●●●● 鉄道用橋梁は、一定の範囲でテンプレート的に設計済みのものを各地に据え付けていく。ここ米坂線でもそれは例外ではなかった。玉川橋梁は活荷重KS12、杉橋梁はKS15。開通時期が異なるため、杉橋梁が架設された時期(米坂東線建設時)はKS15だったのが、全通区間(伊佐領~越後金丸間)はKS12で敷設されたのか…などとも考えてみたが、その差は3年しかない。そのため、杉橋梁がKS15である理由は謎である。 一方、玉川橋梁の第2連の活荷重がKS16であることは、単に、桁が1967年に作られたからに過ぎない。当時はKS16とKS18でしか桁を作らなかったはずだ。 なお、こうした活荷重は、「クーパー荷重の解決」に書いたとおり、1D+4軸の機関車が重連で走ることを想定している。そのため、桁そのものが負担できる荷重としては、総重量から考えると、軸重が多少上回る機関車でも入線は可能だ。実際、そうした経験値で特例があった例はいくつか聞いている。 いつか、米坂線の全橋梁を調べてみたい。
週末を利用して、引き続き、丸田祥三さんの廃道撮影にくっついて来ている。道案内役兼運転手。今回は、先日回りきれなかった栃木~福島から、山形に入り、明日も山形だ。決め撃ちで撮影するもののほか、車中から旧道や廃道を見つけるとクルマを停めて撮影したものもかなりの数にのぼる。時間の制限もあるため、すべてを撮影できないのが残念だ。なにしろ、17時すぎにはほぼ真っ暗になるのだ。
この橋は、実は珍しい形式で、走行中、思わず声を上げてしまった。ランガートラスという形式で、タイドアーチの一種。アーチリブ(いわゆるアーチの部分)の両端を結ぶタイがトラス形式になっている。しかも、トラス部分は箱状に組まれており、路床はその上にある。これを中路アーチか、と書いてあるサイトもあるが、路床はアーチ下端と同じ高さであるため、下路だと考える。 ばかでかい橋で、スパンは110mを超える。 丸田さん撮影中。なぜか逆光の場面ばかり。後ろ姿が多いのは、私が前から丸田さんを撮ってしまったら、丸田さんが撮影できないからだ。当たり前か。とくに丸田さんは超広角を多用するので、真横にいることすら不可な場合も多い(はずだ)。 米沢側は採石場内を通過しなければならないが、事務所に挨拶すればおk。「クマが出るからね」と言われ、用心しながら歩き始めた。採石場から少しクルマであがると簡単なゲートがある。危険なので徒歩で行け、と保存会の張り紙がしてある。ここから栗子隧道まで約4km。秋らしい、真っ青な青空のもと、紅葉真っ盛りの栗子山を左手に見ながら歩いた。丸田さんも、心身ともにリフレッシュされたようだ。栗子隧道の前では風が冷たく、吐く息がときたま白くなった。 なお、作務衣で撮影されている丸田さん。上の画像ではわからないが、足下はモンベルの登山靴で固めている。また、インナーは発汗製の高いもの、アウターは別に持参している。私はいつもの登山スタイル。違うのは、背負うものがカメラバッグで、三脚を手に持っていることだ。片道1時間強、まあ、ガチガチに固めるまでもない。 今晩は米沢泊。明日も米沢周辺を取材する。
仕事で、ノースライナーみくに号やらなにやら調べていて、結局私が取材に行くことはできなくなたのだが、そんなことをツイートしていたら何人かの方が反応してくださったり、ブログにアップしていただいたりしたので、ここでは十勝三股の地形について述べたい。
十勝三股は、北海道の帯広市から北北西に約67kmいったところにある、扇状に広がった地域である。その南に周囲は石狩山地に囲まれ、それらの南面から流れ出た水が十勝三股を潤し、音更川となって糠平湖を形成する。音更川は十勝川の支流である。 音更川を遡る形で説明すると、十勝「三股」というとおり、音更川はこの扇状地に入ると三俣地区で三つに別れる。本流は西へ向かい、ニペソツ山の北側の峰まで遡る。北へ向かうのは中の川。東へ向かうのは十四の沢。これらをして「三股」といったのかどうかはわからないが、おそらくそうだろうと思う。 この三股の周囲はぐるりと山に囲まれている。そして、峰に向かってどの方向へも緩い傾斜をもって向かっている。その不思議な地形は、平面の地形図ではなかなか実感できない。このような鳥瞰図をもってして初めて理解できる。 よくぞこんなところまで鉄道を敷いたものだと思う。もともと、北海道の鉄道は開拓の最前線という側面があるので、現代の観点で簡単に判断してはならないのだが、それにしても、と思う。糠平まであったことでさえ驚きなのに、さらに十勝三股まで。もうすぐ三国峠、その向こうは層雲峡、そして上川だ。 十勝三股の扇状地を拡大して真俯瞰するとこんな感じだ。 これだけ広大な土地に生活していた人たちの心はいかばかりか。学校や神社まであったらしい。 十勝三股の北西に、石狩岳がある。20年ほど前、この山に登ろうと思っていろいろと情報を集めていたことがある。「シュナイダー尾根」というコースの名称に惹かれたのだ。なぜこんな奥地にドイツ名(だと思う)が!? しかし、アプローチがどうにも難儀な気がして、断念した。そして他の山に向かった。トムラウシ(テント泊2泊3日)、利尻岳、大雪山(こちらはお手軽に)に行った。いまならレンタカーを借りて…なんて思うが、当時はそんなことは思わなかった。石狩岳は幻の山だった。このエリアは、十勝三股から徒歩で三国峠に向かい、途中で砂利道になったので、そこからヒッチハイクで上川に抜けた。 ところが2年前、廃道の本を作っているときに、nagajis氏から「十石峠を自転車をかついで越えた」と聞いた。まさかまさか。後日、写真を見せてもらった。本当に、十石峠に自転車が写っている。その写真は『廃道ナイト』でも使われたような気がするが、おそらくそのすごさに気づいた人はいないか、いてもごく少数だと思う。まさかまさかの峠越えである。 十勝三股は、もう8年ほど行ってない。いま、猛烈に行きたくなっている。いまこうして地形図を見ていて、置戸に抜ける勝北峠を走ってみたくなった。なぜ、自由に行けた時代に行かなかったのだろう? 知らなかったのかもしれない。 <参考> ・賑やかなりし十勝三股駅界隈(@golgodenkaさん) ・ツイート(@dodoshiryoさん) ・十勝三股あの頃。(編集長敬白) <関連項目> 糠平、昭和24年の20万図と昭和30年の5万図 |
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