長屋の背中とトロッコのある蔵元の続き。 岩村の町筋の外れに倉庫があった。板壁も屋根も雨樋も新しく、正面から見ると、一見、最近の築のよう。いまでも下見板張りの建物は作られている。 側面も同じく張り替えられている。窓はサッシだ。しかし、妻面を見ると古そうな感じがする。 正面の4枚引き戸は、4枚が同じレールに吊られた吊り戸。レールの端部はカーブして屋内に引き込まれていた。なんと現代的な! オフィスビルの会議室などで天井にレールが走り、仕切りが移動・アレンジできるタイプがあるが、それを連想した。この右端の幅の狭い扉を手前に空け、4枚の吊り戸を順繰りに送り込みのだろう。倉庫内にはその4枚を重ねられるようにレールが配置されているのだろう。 PR 踏切防護協力員 いまに残る国鉄名鉄局を見て、国道418号を南東に向かって走り始めてすぐ、登り坂で左を見ると、なんだかすごい光景が見えた。長屋のように繋がっているけれど、屋根が大きく、すべてこちらに背を向けている。そして、どの家も「裏庭」が細長くこちらに伸びている。 かといって、すべてが古いというわけではない。新しい屋根も見える。 結構な高低差がある。この家の並びはなんだ?と思い、入って見ると… 私が知らないだけで、重要伝統的建造物群保存地区の「いわむら城下町」だった。冒頭で見たのは紛れもない「長屋の背中」だったが、表側も、とてもきれいに保たれていた。 大きな工場。外壁が幾度にも渡って補修されていて、まったく情報量の多い建物だ。 伝統ある食べ物屋。三階建て。右の出っ張りはなんだろう。トイレか。 元はなんだったのだろう、倉庫かな。いまは車庫になっているようだ。 こちらの造り酒屋は、通りからトロッコの線路が見えていた。ぼくはまったくの下戸だが、ここでは甘酒ソフトクリームが売っていたので、それを食べつつ、写真を撮らせてもらった。
twitterで上記の情報をいただいたので、行った折に見てきた。 国道からの位置関係は、こう。国道からは見えない、というか警戒標識206(昭和25年3月制定)しか見えない。 二つの標識は支持柱が別になっている。 この「止まれ」は、昭和35年12月に制定された336で、3年後の昭和39年8月には現在も大多数が残る逆三角形の330の2になる。それ以前は昭和25年3月に制定された黄色い八角形だった。当時でも、海外では「止まれ」は赤い八角形が多かったはずだが、色を海外に合わせたのだろうか。 海外の「STOP」については、『まちモジ』(小林章著)に詳しい。 ●参考:dark的道部屋:標識部屋 明知鉄道岩村駅近くに「踏切防護協力員 名古屋鉄道管理局」の看板があると大町パルクさんのツイートで知り、見に行った。民家の軒先にある。日陰で屋根の下だからか、かなりきれいに残っている。錆びてもいない。 描かれた三角形は、こういう形をした柵があったようだ。こちらのサイト「駅の風景」に写真がある。 踏切との距離感。踏切手前の側溝については後述。 逆向き。このお宅は1階の道路側の外壁が改装されているので、かつては商店だったと思われる。おそらく4枚(以上)の引き戸だったのではないか。「国道情報連絡所」もそうだが、こういうのは一般家庭よりも商店に託している印象。 2枚上の「踏切手前の側溝」は、レールを同じ長さで切断し、両端に板を溶接し、ハシゴ状(踏み段がレールに相当)にしたものだった。レール底面が上面になっている。 * * *
踏切防護協力員については、いろいろな方が書いていた。 ●こちらも岐阜県内、中央線沿線にあったとのこと。関係ないけれど、国労の黄色いバッジの写真も貴重。 国鉄の遺品、そして分割民営化に揺れたころ ●こちらには、ご自身の家がそうだったという記録。
●こちらにも。 福来口御番所屋敷と踏切防護協力員 ●「専用線の機関車」で我々に強烈な情報を与えてくれた岩堀春男氏のブログ http://nainen66.livedoor.blog/archives/8223624.html 軒の補修に人名の看板の隣の小屋。真正面から見るとのっぺらぼう。その前に小さな畑。農作業で使うものが置いてあるのだろう。 実にいいサビ具合。戸は、屋内用の建具の流用だろうか。 反対側はプラの波板で塞がれていた。きっとこちらも戸があったに違いない。 |
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