最後に、終了後も会場にいた人が誤解をしているといけないので、説明したいことがひとつある。この写真だ。 三頭山の例の場所に写っているのは中筋純さんだ。 中筋さんは、かつて『アウトライダー』の編集者であり、私が会社に入った頃には独立してカメラマンになっていた。1980年代か1990年代前半に、ツテをたどって堀淳一氏に会いに行ったような方であり、廃墟の先駆者の一人である。1990年代後半から『廃墟本』はじめさまざまな本を出されており(いまamazonで見えるのは、リニューアル版の別商品である)、いまでもロードムービーさながらにクルマで適当に走りながら被写体を見つけ、撮影してはまた走るというようなやり方を、1週間以上続けるような方である。一昨年に『廃墟チェルノブイリ』という、これまたものすごい写真集をものしたが、これも「チェルノブイリを撮りたい」という執念から、現地への立ち入りを手配し、単身乗り込んで、ガイガーカウンター片手に撮影に臨んだような方だ。 そんな中筋さんの写真が画面に出ていたので、私は「中筋さんも、丸田さんの写真を盗作したのだろうか?」と思ってしまった。中筋さんは、上述のとおり編集者からカメラマンになった方であり、誰かの弟子などではない。もし師に相当する方がいたとしても、時代的に小林氏では絶対にない。その頃の小林氏は、バブル的カタカナの物撮り風の作風だったのだ。 擁護が長くなったが、この中筋さんについては、先のとおり、常人には発想できない行為を多々見ており、くだらない盗作のような企てをしたり、それを隠したりするような方ではない。 ではなぜこの写真が大写しになっていたのか。それは、「この写真のアングル」が極めて丸田さんの作品に似ているのだ。中筋さんは被写体であり、撮影者ではない。つまり、この近影を写した人が……というニュアンスで大写しにされていたのだ。私はホッとした。 (2010.8.12一部修正) PR
『山さ行がねが』で公開されている『小鹿野町深山の廃吊橋』を拝見し、思うところを三つ書く。
(1)鋼製の主塔を持つ吊橋 この廃吊橋レポの主眼は、一方の橋脚部分が鋼製である点に置かれている。しかし、実は鋼製の主塔を持つ吊橋も、そう多くはない。通常、主塔は鉄筋コンクリート製である。用途を終えた吊橋の主塔だけが残っている光景はいたるところで見られるが、そのほとんどはRC製で、少なくとも石積みや煉瓦積みはない。鋼製のものは少ない。 これは、土木学会中部支部のサイト内で紹介されている白川橋の解説が裏付けている。曰く、 とある。珍しいのだそうだ。 鋼吊橋は、山行が内でも探索済みの橋がある。新潟県の鹿瀬橋だ。 本ブログでも紹介している(こちら)。 主塔の横桁(というのだろうか)は、たいていRをつけた処理がなされている。 この「非常に珍しい」鋼吊橋は、全国にそこそこの数がありそうだ。 ●白川橋(岐阜県)…うさ★ネコサンドさんのサイト ●上松発電所の吊橋(長野県)…同 ●飛龍橋(静岡県)…同 ●名称不明(静岡県)…Morigenさんのサイト。 ●芋畑橋(福島県)…たつきさんのサイト。 ●名称不明(福岡県)…Flickrにshenkuさんの画像があり。 ●二見吊橋(北海道)…札幌。北海道鋼道路橋写真集。 ●土木図書館の『本邦道路橋集覧』に図面がある。 (2)鋼製の主塔 ここで、なぜ主塔が鋼製なのかが気になってくる。吊橋の主塔には、橋の長手方向には引張力が、鉛直方向には圧縮力が働くのだと思うが、鋼は、延びには強いが圧縮に弱いのだ。もしかしたら、鋼製であるがゆえの柔軟性の高さが評価されたのか、などとも思うが、まったくの当て推量なので今後の課題としたい。 (3)トレッスル橋 余部橋梁を筆頭に、鋼製トラス橋脚がある橋を「トレッスル橋」などと言い慣わすが、鉄道におけるトレッスル橋の概念は「トレッスル橋脚の真上に、トレッスル橋脚の幅分の短い桁を載せる」だったような気がする。ソースは失念。余部橋梁も、橋脚間に1つの桁、橋脚上の1つの桁があった。 (仙山線第二広瀬川橋梁) (ここまで書いて寝落ちしてしまった。日本語は大丈夫だろうか。一部修正した。) しかし、それでは道路橋での場合が説明できないので、歴史的鋼橋集覧にのっとり、上部構造と下部構造を分け、橋脚のみを「トレッスル橋脚」としたほうが誤解を生まないだろう。トレッスル橋脚の上に乗るのは鈑桁とは限らないわけだ。 これは、「トレッスル橋脚+トラス桁」の例である。どの橋かといえば、アメリカのゴールデン・ゲート・ブリッジらしい。wikimedia commondsよりパブリック・ドメイン画像を転載したが、元ページがフランス語のためまったくわからない。ゴールデン・ゲート・ブリッジではないかもしれない。 「トレッスル橋脚+トラス桁」は、ここにもある。 ●画像 日本では「トレッスル橋脚+鈑桁」しかないと思われているのでそれでもよかったのだが、今回の廃吊橋の発見により、「トレッスル橋脚+鈑桁」の代名詞として「トレッスル橋」と言うことは適切ではなくなってしまった。もう少し、海外の画像で事例を探してみたい。
「四国三郎」こと吉野川にかかる、もとは国道32号だった橋である。現在は町道穴内尾生線となっているらしいが(歴史的鋼橋集覧による)、車両通行はもとより不可能な状態にされているうえ、立ち入り禁止の処置がなされている。下流に現在の国道32号の吉野川橋がかかり、さらに下流から写真を撮ると、このように見える。
緑色のワーレントラスが国道32号の車道部分、その手前のピンク色の桁は歩道である。その下に、ちょろりと見えている茶色いものが、今回ご紹介する(旧)吉野川橋である。 (新)吉野川橋から見るとこうなる。 向かって左から、10格間のポニーボーストリングトラス(径間36.5m)、11格間のプラットトラス(50.2m)、そして右端は樹木に隠れて見えないが、5格間の短いポニーボーストリングトラス(15m)がかかっている(数値はすべて歴史的鋼橋集覧による)。 Yahoo!地図やGoogleマップでは描画されていないが、その場所にこの橋がある。 国土地理院の地形図には描かれている。 (DAN杉本氏作製のカシミール3Dを使用しました) この橋は、残念ながら通行できない。北側から見た姿はこうだ。 1985年に現在の形、すなわち中央部に幅の狭い金網を敷いて人道橋としたのだが、現状はこの有様だ。右側の木の枝振りは数年程度でもこれくらいにはなると思うので、通行止め処置からそれほど年月は経っていないのかもしれない。 『歴史的鋼橋集覧』並に大切な情報を掲載しているサイト、『橋の散歩径』の記事を拝見する限り、1999年の時点では通行止めになっていない。今回、この吉野川橋を見に行ったのは、『橋の散歩道』で衝撃的な写真を見たからだ。詳細は後述する。 もう一歩近づき、白い柵ごしに眺める。 植物園の通路のようだ。 左右に見えているボーストリングトラス、これが実に小さい。15mあるのだが、5パネルゆえか、もっと短く見える。銘板などはない。 本当に植物園のようだ。 南側に移る。 南側はこうだ。 北側より厳重な感じで通行止めとなっている。柵ではない、コンクリートの壁が立ちふさがっている。 壁際に立つと、このように見える。 ボーストリングトラスの存在感が、北側とまったく違う。 扁額。橋梁には珍しいと思う。1911年開通の橋らしく、右書きである。 そして、見たかった部分が見えた。ピントラスのピンが曲がった部分である。『橋の散歩道』で見て以来、ここにはぜひ来てみたかった。もちろん、まだ通れるものだと思って来たのだが、通行止めとなっているのはそれはそれで仕方ない。 35mm判280mmでこの見え方なので、トリミングする。 この写真は上流側。下流側も曲がっているようだが、よくわからなかった。 なお、上から2枚目の写真を再度ご覧いただくと、プラットトラスの左端のアイバーと横桁が不自然な曲線を描いているのがわかる。 これはボーストリングトラス(10パネル)のアイバー。ピントラスというのは、上弦から垂らした垂直材と横桁を結合し、それをアイバーで繋いで下弦を構成するものだが、この吉野川橋はピン部分が横桁とともに丸見えなので、その構造を実感できる。 また、この3つの桁のアイバーは一部にレーシングが施されており、左右が一体化している。このようなアイバーは、私は初めて見るものだ。上の、曲がったアイバーの写真でも一体化している。 この吉野川橋は、開通から43年後の1954年に地滑りにより左岸側の橋台が移動し、桁が破損した。それにより廃橋となったのだが、上述の通り、それから31年後に人道橋として再生している。 プラットトラス部分の、ぐんにゃりと曲がったアイバーはその地滑り・破損の名残だと思うが、右岸側橋脚が煉瓦積み、左岸側がコンクリート製と異なっているのもその名残だろう。ただし、橋台は両側とも煉瓦積みなので、もしかすると『歴史的鋼橋集覧』にある「左岸の橋台が移動」というのは「左岸の橋脚が移動」の誤りなのかも、などとも思うが、『歴史的鋼橋集覧』が典拠とした資料にあたらないとなんともいえない。 冒頭の写真、緑色の(新)吉野川橋は、上述の地滑り・廃橋の影響で1958年に建造されたものである。銘板を見ると、こう書いてある。 とある。富士車輌! 富士重工ではない。この富士車輌が鉄橋の製作を始めたのは1954年、この橋が破損した年。現在の事業案内では、鋼橋などの製作は書いていない。wikipediaによれば、2000年代に入ってからの民事再生の途次、鋼橋製作から撤退したという。いろいろな意味で、この新・旧吉野川橋はいろいろなことに巻き込まれるようである。 群馬県の中之条町の、以前六合村だった部分にこの吾嬬橋はある。長さは69m、14パネルの分格プラットトラスで、いわゆるペンシルベニアトラスである。いろいろ書きたいことはあるが、今回はピントラスたるアイバーの位置関係について書く。 この下弦のアイバーこそが美しさだと思っているのだが、「移設したときにはアイバーもバラバラにしてはこんだんだろうな」などと思いながらこの写真(左手が西)を見ていて、アイバーのつなぎ方で気がついたことがある。14パネル中、アイバーが使われているのは10パネル。偶数だ。画像の左端から眺めていて、なにも考えずに、この橋のアイバーは交互にこのように組まれていると思っていた。 ところが、写真(左が「西」である)を見ると、こうなっている。 どうしてこうなった。いや、両端部を「内側」にするだめだというのはわかる。 アイバーの斜めがけはいままでも見たことがあるので別に珍しくもないとは思うのだが、どうも「?」とした北側ではまた組み方が異なるように見える。残念ながら、そちら側の写真は新道から見下ろして撮っており、アイバーがどうなっているのかまでは確認できない。 これに気がついてしまったら、もう一度現地へ行き、両側の、さらに外側と内側のアイバー、のべ40本の位置関係を調べてみなければ気が済まない。欲を言えば、移設前の利根橋とも比べてみたい。移設前と後でアイバーの組み方や、内/外が入れ違っていたら、興味深いことではないか。 以上、いつかわからぬ未来に続く。 なぜか旅の空、愛知県下でこんな時刻に更新。
(wikipediaのパブリック・ドメイン画像より拝借)
東京の永代橋は、いわゆる「復興橋梁」であり「隅田川六橋」とも称される。「復興橋梁」とは、関東大震災後、内閣直属の帝都復興院(のちに格下げされて内務省復興局)が東京と横浜の破損した橋梁を、都市計画・道路計画的な意味合いをもって115橋(だったと記憶)架設した橋梁群の総称である。その復興橋梁のシンボル的なものが隅田川六橋であった。さらに、その六橋の中でも永代橋と清洲橋はさらに特別視されていた。なにしろ、総予算の17%をこの2橋に投入したのだ。2橋で585万959円。この金額をわかりやすく比較できる数字がちょっとみつからない。統括していたのは太田圓三土木局長で、実務はその下の田中豊橋梁課長が統率していた。太田が自害した後も、田中は橋梁課長の任を続けた。 その田中豊が、永代橋の完成に寄せて書いた文章『記念すべき世界的の一橋梁 新永代橋の型式選定に就いて』(工事画報第3巻第3号)で、永代橋をタイドアーチ(繋拱=けいきょう、と読むのだと思う。繋=タイド、拱=アーチ。)にした理由について、下路式ではなく上路式にせざるをえない事情を説明したのちにこんなことを書いている(下線筆者。すべて現在の漢字と仮名遣い、口語を使用し、適宜読みやすく修正)。 私はトラスの斜材こそが美しさだと思っているし、プラットトラスの斜材(引張力がかかる部分で、垂直材より細い)こそ端麗だと思っているのだが、それを思い切り否定されている。しかも、あまりにも根拠のない理由。冒頭の写真のようなごっついリブのついたタイドアーチ橋を、贔屓の引き倒しのようにほめているように見える。このむちゃくちゃな論旨はこのように書き換えても成立しそうだ。赤い文字部分が、書き換えたものだ。 かなりひどい断定だということが、これでわかろう。 さて、ここで引っかかるのは「不規則なる斜材」である。なにが不規則なのか。ある程度は同じ向きに斜材が並ぶが斜材の太さが中央に向かうにつれて徐々に太くなるピン結合のプラットトラスの斜材を不規則だと言っているのか、それともワーレントラスのように互い違いに斜材が来ることを不規則だと言っているのか。私は、時代的に後者、つまりワーレントラスを敵視しているのではないかと思っている。 同様に、ワーレントラスの斜材が交互の向きになることを、これが書かれたのより9年後の昭和11年に、田中の上司・太田圓蔵のかつての上司・樺島正義がいやだと書いている(引用凡例同前)。 ワーレンにはなぜかあまり惹かれないが、いまから90年近く前にも惹かれなかった人たちがいた。引用書では、ふたりのその感覚の違いを似て非なるものとして根拠を提示して解説してゆく。その論旨は本書をご覧いただきたい。 |
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