田中銀行の創業者、田中平八は、その子孫も「田中平八」を名乗っているうえに事業を引き継いだりしている。そのため、文脈からはどの田中平八なのかを特定できないことがある。執筆者、区別してるのか? と思えるほどのこともある。2代目と3代目の混同もある。たぶん『天下の糸平』(早乙女貢)などを読めば氷解すると思うのだが、たぶん4~5冊先になる。後日のためにメモしておく。後日、修正するかもしれない。
●初代田中平八(1834-1884)…「糸平」 ●2代目田中平八(未詳)…初代の長男(?) ●3代目田中平八(未詳)…初代の長女の婿 ●田中銀之助(1873-1935)…3代目の長男。 ●高田釜吉(1876-1967)…初代の次男説、三男説。高田万由子曾祖父。 田中平八の名は鉄道史に時折登場するが、私が知ったのは、手塚治虫『シュマリ』においてである。黒田清隆率いる薩摩閥の堀基とともに、北有社を率いる村田堤に敵対する人物として描かれている(しかも登場時(角川文庫版下巻P161の5コマ目で堀と田中の名前を誤って書いている)。そのなかで、薩摩弁を話しているので、最初は薩摩閥かと思っていた。 後日、なにかの折りに、山梨県の田中銀行の記事をネットで見かけた。山梨県? いやどうみても田中平八は薩摩弁は話しません。また、『北海道の鉄道』(田中和夫)によれば、どうも村田を是、堀・田中を卑劣漢という描き方には無理がある。そもそも『シュマリ』は設定の無理や話の矛盾がたくさんあるので、それらに比べれば史実などどうでもいいのかもしれないし、手塚は史実に架空の人物を挿入したるもするのは承知しているのだが、こと私のような者にはこのあたりは話を作り上げないで欲しかった。 で、その山梨のことを見たころから気にはかけていたものが、先日、ようやく「北海道炭礦鉄道に関わったのは二代目」という記述を見つけた……はずなのだが、どの本に載っていたかを覚えていないorz。またいろいろひっくり返してみなければならない。 PR 仙山線の新川川橋梁。なんとも珍妙な名称だが、ここを流れる川が「にっかわ川」というのだから仕方がない。古い資料では「しんかわ川」としてあるものもあるが、ここにある駅が「おくにっかわ」駅であるから、「にっかわ川」をとる。 ご覧の通りのトレッスル橋脚2基+鈑桁4連である。こ新川川橋梁についての歴史的鋼橋集覧には誤りがある。 ・橋長×幅員 71.8m ・径間数×支間 4×31.5 この時点で算数がおかしいしが、写真を見れば分かるとおり、トレッスル橋脚間の第2連は、第1・3・4連よりも明らかに長い。そして、下記に見るように、第4連(おそらく第1・3連も)は支間12.9mである。 そうすると、もし橋長が正しいとするならば、71.8-(12.9* 3)=33.1で、第2連の支間は33.1mと推測する。これに現地で気がついていれば、第2連の塗装標記を撮ろうと努力したかもしれない。悔やまれる。 第1・第2橋脚がトレッスルであり、第3橋脚はコンクリート製である。第1橋脚(画面右側。向こう側)の足下は藪に囲まれてよく見えないが、第2橋脚(画面中央、手前川)は5/6パネル。川側のほうに、脚が延びている。なぜわざわざ基礎を段違いにさせたのかはよくわからない。 2009年に再塗装されたこともあり、とても美しい。まるでつい最近架けられた橋のようにも見えるが、開通は1937年である。 第2橋脚の支承部。平面で、向こう側(第2連)とは剛結されており、手前側(第3連)はスライドするようだ。 足下。とにかくきれい。こういう場所に立っていると、眼下の沢からさやさやという音が上がってきて、とても「山」を感じる。 線路の高さに立つと、こんな印象。ここまでは、道路からホームへあがる通路であるかのようなふみ跡がある。 奥新川駅のホームから見ると、橋は意外に小さくみえる。乗客がもし前面展望を見ていたとしても、こんな橋の足下がすごいことになっているとは思いもしないだろう。 また写真の羅列だけで終わってしまった。。。
いろいろなところで、いろいろな人が話題にしているものに、これがある。
先月、三重奈良京都滋賀兵庫鳥取あたりをうろついて気がついたのだが、この手の子供の人形(?)の「飛び出し注意」の看板は、関西でメジャーなのだな。東京ではまったく見ない。 関西では、三重でも大阪でも滋賀でも見た。見た、というよりも、住宅街でも2~3軒ごとに1個この坊主(裏面は嬢ちゃん)がいるようなイメージ。それくらいたくさん見かけた。 あまりにたくさんいすぎて、「飛び出し注意とかクルマに呼びかけるんじゃなくて、お前んとこの子供に飛び出すなって これだけたくさんあれば、当然劣化するものや破損するものもあるだろう。また、いまはプラ板みたいなのに印刷されているが、以前の製品であるベニヤのものや、似せて手作りしたものもあり、となれば劣化・破損は避けられず、いろいろなネタになるのも必然である。 先に「関西でメジャー」と書いたが、私の行動範囲はフォッサマグナの東側が中心なので、そこらへんではまず見たことがない。いや、あるのかもしれないが、「しつこすぎるんじゃないの?」という印象になるほどのことはなかった。中京圏や、もっと西、岡山以西などではどうなのだろうか。
東陽片岡をイメージしたタイトルになってしまった。
ある本に「東京-大阪間600km」とあった。oioi、600kmってば神戸だよ。新幹線の実キロだって515kmくらいなんだからさ(←ほぼ正確に覚えていたのがちょっと嬉しい)。そう思いながら、では実際には何kmなのか、交通手段による変化はどれくらいあるのか調べてみた。基準は東京駅付近と大阪駅付近である。 ●新幹線…519.2km(東京駅-大阪駅) 東京-新大阪間の実キロは515.4km、新大阪-大阪間の営業キロは3.8km。これを足した。 ●在来線…556.4km(東京駅-大阪駅) ●国道1号…543.1km(日本橋交差点-梅田新道交差点) ●高速道路…515.7km(八重洲IC-梅田IC) 八重洲-谷町-東京-伊勢湾岸-新名神-京滋BP-第二京阪-近畿-西船場-梅田 ●高速道路(未成)…約500km(八重洲IC-梅田IC) 八重洲-高井戸-中央道富士吉田線-(赤石トンネルルート=未成)-小牧-梅田 ごく初期の頃に計画されていた「本来の中央道」のルートが完成していた場合、現在の中央道ルート(東名と比較してもほぼ同じ距離)より約53km短くなる。 (参考:日本の廃道45号『夢幻の道を追う 中央自動車道』byヨッキれん氏) ●徒歩で一直線…420km 山も谷も一直線に、ほぼ真西(255度方向)に、地球の表面を歩いていった距離。最大で標高2100mほどまで上がる。長さに対して高さもあるため、微妙ではあるが、それも勘案した「沿面距離」。山もあるので、山の登りは時速2kmくらいだから、平均して時速3kmとすると140時間。 ●とにかく一直線…404km 山や谷どころか、地球の地面をも無視した距離。東京駅と大阪駅を一直線に最短距離でつなぐ。東京駅から255度の方角に、1.57度で少しずつ下がっていくと、最大で地下2700m地点に達しながら、最短距離で大阪駅に出る。沿面距離での最大標高が2100mほどなので、そことの差は4800mにもなる。それだけ深くもぐっても、地表を這っていくよりも16kmしか短くならない。真っ平らなので時速4kmで歩けるとして101時間。 一直線については、dan杉本氏のカシミール3Dでシミュレートした。 ということは、「東京-大阪間600km」というのは何を持ってしても間違い。最小約400km(ただし実現不可)、最大でも約560km。 改めて認識したのは、新幹線も高速道路も、ほぼ最短距離で結ばれているということだ。新幹線は、もし、山陽新幹線以降の「とにかくトンネル」という考えに従えば、もっと短くなるに違いない。高速道路はICを設置する必要上、ある程度は街への寄り道もあるかと思うが、昭和30年代になってもまだ盛んに議論されていた赤石山脈をぶち抜くルートであれば、現在の豊田から名古屋を南に迂回するルートよりもさらに全長を短くできたはずだ。 ひとつ心残りなのが、東京駅と大阪駅間の大圏航路での距離だ。私の算数の力ではわからないが、上記沿面距離とさほど変わらないという予想はつく。実現不可能ではない方法として最短なのは、これであろう。 大変に美しいカンチレバートラスである。片持ち梁部分の高さが低く、優しい感じであるのに、鈍いアルミ色みたいなその塗装がたくましさを感じさせてくれる。手前には三弦トラスの水道橋まである。 少し引いた、全体の姿はこれ。このあたりの最上川は川幅が狭い。この大橋も、全長は480フィート(146.3m)しかない。そして、この最上川は、1913年(大正2年)の洪水時には、水位が17尺(5.15m)も上昇したという。そのため、初代は木橋だったものを、桁の位置を上げ、この形式にして架け替えた。開通は1930年(昭和5年)12月7日である。この優美な姿をもって、80年前からここにあるとはちょっと思えない。せめて昭和30年代くらいなのではないか、と思うような洗練された姿である。 西側の橋門構。道路の幅員5.4m、センターラインが引けないほどの狭さというのがおわかりだろう。 これでも国道347号の旧道である。1989年(平成2年)に上流に「虹の大橋」(由来は斎藤茂吉の歌によるので安心してほしい)がバイパスとして架けられたが、この大橋はいまでも通行量が多い。 西側にある銘板。 京 東
社会式株 所造製械機田櫻 作製年五和昭 とある。 東側の橋門構。親柱が観光的なものに置き換えられている。 こちら側にも銘板がある。記載内容は同じ。 カンチレバーたる部分を見ていこう。 片持ち梁と中間桁との接合部(上部)。画面右側の太い斜材は中間桁の端柱。ここだけ非常に太くなっているが、他の部分の斜材は細い。 逆側を真横から見たもの。∠型部分が中間桁。/部分の太さと、それを受ける「部分の太さの違いを見て欲しい。 片持ち梁と中間桁の接合部、下部。リベットで剛結してある。 路面は、もちろん橋脚上ではなく、片持ち梁と中間桁の路面は連続している。これらの処置のためか、クルマが行き交ってもそれほど大きな揺れはない。 裏に回って支承。 桁裏側。 そして桁にあった塗装標記。どれがどの桁のものかメモしていないが、クルマや歩行者から見える部分が美しい銀色をしているのに、その下はこのように錆び放題だ。ここらもケアしてあげたほしい。 この大橋は活荷重6tの三等橋として設計された。しかし、現在の橋に重量制限の標識はない。前述のとおり、かつては国道であり、交通量も多かった橋である。もしかすると、桁を補強しているのかもしれない。 最後に、『道路の改良』に記述された、架設当時の記事のリンクを張っておく。ここには図面もある。→こちら |
カレンダー
最新記事
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
(10/22)
(10/21)
(10/20)
(10/19)
(10/06)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|