和歌山県和歌山市の大門川にかかる新興橋。英国製の鉄道用ポニーワーレントラスを転用した道路橋である。100フィートポニートラスは9パネルであるが、この新興橋は8パネル。では、どこで短縮したのだろうか。実は、この日は和歌山に行く予定など毛頭なく、「歴史的鋼橋集覧」を見てちょいと行っただけなので、いまにして思えばもっとちゃんと調べるべきであった。 こんな感じで街中に唐突にある。いままで見てきたものは鉄道橋だったり、元鉄道橋だったりしたので、「橋がここにあって当然」というシチュエーションであり、ここまでの唐突感はなかった。住宅街の中にあるので、電車が住宅街の軒先に保存してあるような感じ、といえば近いだろうか。 道路橋に転用した際に拡幅したとのことで、下弦材の上に乗っかっていた本来の横桁は失われている。その跡が、このようになっている。横桁があった場所に、適当な(そう見える)鉄板があてがってあるように見える。適当に見えるのは、この鉄板が歪曲していることから来る印象だろうか。しかもリベット留めなので、もともとあったものなのか、後付けなのかは不明だが、リベット留めしてあれば、その上に横桁が載る訳もなし、その理由が理解できない。 では、新たな横桁はどうなっているのか。下に潜ってみた。 この新興橋がかかるのは、大門川である。地元の方には申し訳ない感想だが、ドブ川である。余談になるが、ドブ川を漢字表記すると「溝川」になることを今知った。ドブ川と言っていいと思ったのは、水質調査で「2級河川ワースト5」の常連だからである(→参考資料)。で、そんな生温かい、かつ高さが確保できない環境ではこれくらいしか撮れなかった。まさか水に入ってまでは撮らない。 そんな環境なので、全貌を把握できなかったのだが、どうやら新たな横桁は、旧横桁のあった位置の真下に位置するようだ。旧横桁は下弦の上に載っていたが、新横桁はその同じ位置の、下弦材の内側の部材にリベット留めされている。 二つ上の写真のとおり、縦桁は横桁の間にある。いままでに見てきた英国系100フィートポニーワーレントラスはみな横桁の上に縦桁があったが、愛知川橋梁(いずれ)などは横桁の間に縦桁があるものがある。 (上の青い橋が福島県伊達橋、下の赤い橋が滋賀県愛知川橋梁) もし、この新興橋の転用元が愛知川橋梁タイプの横桁と縦桁を持つものだったのであれば、ポニーワーレントラスの左右の主桁を結ぶ床の部分を横桁ごとバキッと取りはずし、そのまま取り付け位置だけを変更すると、この新興橋のようになるのではないか。寸法も測らずに乱暴なあてずっぽうだとは思うが、この新興橋の横桁がどうにも転用された1954年頃に作られたようには思えないのだ。これは一つの謎である。 また、どこで短縮されたのだろうか。真横から見るとこうだ(適当な合成で見づらくてすみません) 黄色く囲んだ部分に、継ぎ板が当ててある。これを見る限り、左から2パネル目と3パネル目の間の上弦部分と、左から3パネル目の下弦部分で接合しているのかもしれない。こうした接合部の考証も、少しずつ進めている。 参考までに、上弦のピンの写真を。 和歌山市内の100フィートポニーワーレントラスについては、さらにもう一つ、疑問がある。和歌山市内に架設された数だ。 和歌山市内のは計3連が転用されたと、サイト「橋の散歩道」に書いてあるが、『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第2報) 英国系トラスその2』(西野保行、小西純一、渕上龍雄、1986年6月)にはこの新興橋の記述はなく(「歴史的鋼橋集覧」は小西氏の記述、ただし1996年)、もうひとつ現存する中橋のみである。「歴史的鋼橋集覧」にはこの新興橋と中橋のふたつ。もうひとつの行方を知りたいのだ。 今回の訪問では、中橋を見るのを忘れていた。いつかまた行ってみなければならない。同時に、縦桁や横桁の寸法も測ってこようと思う。三つの疑問は、なんとか解決してみたいと思っている。 PR
4月9日の記事『万世橋架道橋』を書いたときに気づいた、開通時と桁架設時の時期の違いの理由はいまだに不明だが、『鉄道ファン』の不定期連載「東京鉄道遺産をめぐる」が東京-万世橋間市街高架線を採り上げ始めたので、きっと明らかになるに違いない。wktkして待つ。
関西本線は、開通時からの施設が多数残されていることで知られている。そのなかのひとつ、木津駅の東西自由通路に行ってきた。たまたまそこらへんに行っていたときに、小倉沙耶さんに「ここにこんなものがあるよ」と教えていただいたので立ち寄ったが、なかなかに感銘を受けた。写真は西口、Yahoo!地図の航空写真では、橋上駅舎化工事中のため、この写真のようにはなっていない。 木津駅において、線路は築堤上にある。写真ではわかりづらいが、バスからバス1台ちょっと分左側に、ぽっかり口を開けている部分がある。これが、東西自由通路である。もともとは、駅改札内の通路として利用されていたものを、橋上駅舎化するにあたって東西自由通路にして(もちろん橋上駅舎内を通り抜けることもできる)、保存したものである。 木津駅のレール面は地平ではなく築堤の上にある(水害対策らしい)ので、この通路はその築堤に穿たれている。レールの真下は煉瓦で組まれた隧道状になっており、それはたしか4線分(確証なし、違っているかも)、つまり煉瓦隧道が四つある。それぞれの間(写真では白い壁の部分)は別の方法で埋められている。この白い部分の真上はホームだろうし、塗り込められた壁の向こうには、ホームへの階段があったのだろう。 駅舎が新しいこと、この通路も清潔に保たれていることもあり、「古い隧道的な通路」であるわりに、不潔感はまったくない。路床がきれいなことや、異臭がしないこともそういう印象に結びつくのだろう。 なお、上から2枚目に見るとおり、断面は欠円アーチだ。 先に「以前は改札内の通路だった」と書いたが、こちらの『大仏鉄道研究会』内の「JR木津駅橋上駅舎化工事の経緯」ページに当時の写真があった。「大仏鉄道」って最近なにかで聞いたな、と思ったら、昨日kinias・近畿産業考古学会で見学会に行っていたやつだった。まったくの偶然で大仏鉄道の名がここでリンクした。 これがいつできたのかはわからない。朝日新聞によると「大正時代ではないか」とある。『とれいん工房の汽車旅12ヶ月』(JTBキャンブックス『鉄道未成線をあるく』の著者、森口誠之氏のサイト)は、資料は見つからなかったとしながらも根拠を推測しながら明治時代と推測している。木津駅の開業は1896年(明治29年)。そのころ、わざわざ金のかかる地下通路などを設けたのかどうか、気になるところではある。 もののついでに、昭和49年の航空写真へのリンクを貼り付けておく。→こちら 左上(北西)、国道24号泉大橋のカンチレバーっぷりについては後日。
工場や団地の写真集などに見る、フェースが直立した、完璧な建築写真といいましょうか、そういうものに目が慣れすぎてしまった。そういうものが美しいという眼になってしまったのか、「そこまで手をかけなければならない」という意識になってしまったのか。
通常、背の高い建物の写真を撮影すると、遠近感で上すぼまりになる(左)。しかし、建築写真はそうなっていない(右)。ホテルのパンフレットの外観写真などを想定して欲しい。身近な例では、トンネルの坑口を撮影するときには(左)のようになってしまう方も多いはずだ。 フィルムの時代、それを解決するにはふたつの方法があった。 (1)アオリ(ティルト)を使った撮影 …簡単にいえば「それができる」特殊な機材を使う。 (2)なるべく望遠で撮る…根本的解決ではないが、焦点距離が長いほど遠近感が消える。 これを応用すると、人物を撮影する際、地面の高さから望遠で撮ると、気づかない程度に上すぼまりになって、つまり足が長く顔が小さく写る。 ところが、現在では次の手段がある。 (3)デジタル画像を加工する 上に例示した2図は、逆の手順にはなるが、右を作製後にわずか2つのドラッグ操作で左を作った。まあ、手順だけでいえばそれくらい簡単なことだ。いま出版されている工場や団地の写真集などは、著者がシノゴを使っているとどこかで読んだ気もするが、デジタルで撮影したものを、こうしたパースをなくす処理をしているものもあるだろうと思う。 さて、ここで困ったことが起きた。 先日、非常に美しい、ウズベキスタンの写真集を見た。しかし、しかしだ。美しいものはともかく、寺院(?)の入り口などの説明的なカットは、撮影の都合上、広角レンズを使用するものが多く、そのほとんどが少し極端な上すぼまりなのである。それを見てしまった私は、もしこれがこのままなら、美しくないと思ってしまったのだ。この感覚に困っている。おそらく読者のだれもが、そして制作サイドの誰もがそんなことにすら気がつかないだろうと思うが、私はそれに満足がいかない。つまり、他人が制作するものに対して、文句を言いたくなる。この気持ちそのものと、その悩みを理解してくれる人が身近にひとりもいないことに困っている。 |
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