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515日土曜日、大阪の日本橋JUNGLEで『廃道ナイトin大阪』が開催された。前の2回はカルカルでの開催だったが、今回はイカロス出版『廃道をゆ 2』出版記念として、手作りのイベントとなった。

私は14日(金)と17日(月)に休暇をとり、13日(木)深夜にクルマで東京を出発 し、各地の橋を見ながら15日午後にミナミ入り。名羽線や羽幌炭礦が縁で(実質)ツイッター上で知り合ったLEVEL7Gと落ち合い、ともに会場に入った。開場は16 30分。私はうっかり「15時に待ち合わせ」とお伝えしたつもりが「16時に」と送信しており、当然のごとく7Gさんは16時に登場。お互い話したいこ とが山ほどあるのに、瞬く間に30分が過ぎ、会場入りの時間になってしまった。会場には、前の週に東京のカルカルで開催された『トーク・ザ・軍艦島』 ご一緒した@Seela111もいらっしゃるはずだ。

さて、 日本橋JUNGLEの中に入ると、会場は試写会会場というような雰囲気。イカロスの担当編集者、大野さんがおひとりで準備をなさったはずだ。会場の交渉か らチケット発券契約、会場でのPA操作など、イベントに関わるすべてのことをアウェイの地で一手に行うのは相当なご苦労があったのではないだろうか。無事 にイベントが終了したいま、まず感謝の気持ちをお伝えしたい。

さて、会場は、スクリーンをバックによっきれん氏とnagajis氏が両端に陣取 り、進行する形となる。パイプ椅子が並べられた7080人入りの会場が満席となったところで時間になった。おふたりの入場だ。

<第一部>

IMG_4466_R.JPG
まずはnagajis氏による「『廃道をゆく2』ができるまで」である。

IMG_4470_R.JPG

前作となる『廃道をゆく』は2008年10月末の刊で(その1週間後に私が編集した『廃道本』発売)、2009年夏頃には『~2』の構想があったようだ。そして、『~2』では、nagajis氏の名前の由来でもある旧JISマークに眼を描いたものをさらに棒人間にしたJIS男(じすお)をフィーチャーしたものにしたいという意向があった。そのあたりの話が異常におもしろい。私もJIS男が大好きで、『廃道本』の最後の校正紙に貼り付けてあったJIS男の付箋は大事にとってある。ビシッ!

IMG_4473_R.JPG・・・こういうものを、マウスだけでシコシコ描いているnagajis氏は素敵だ。photoshop上で描いていることもあるようだが、こちらはillustratorか。

IMG_4474_R.JPGそして実際に「オブ道場」のコンテとゲラ、赤字を入れたものが画面に表示され、どのような過程で本ができあがっていくかの解説がある。私にとっては日常の流れでも、ふつうの人は、たぶんすごく興味をもつ部分なんじゃないかな。


続いて「廃道YES/NOクイズ」。カルカルで開催されたときと構成や設問が変わっていた。カルカルのときは、私は手を挙げなかったが、今回は観客のひとりなので手を挙げてみた。「アドレナリンジャンキー度」ではチェック項目が8個あり、私は1個だった。しかし、7G氏は6個・・・。

<第二部>


第二部は、『山さ行がねが』等で告知されていた「新しい廃道の表現」の発表。水墨画、楽曲、動画など全11編が披露された。そのすべては『日本の廃道』次号にてきっと添付されるだろうからそちらをご覧いただくとして、3編あった動画について書きたい。

IMG_4494_R.JPG謎の元自衛官氏の「構想3時間、制作6時間」の動画『日本の道』。なぜ我々は道に関心を持つのか、ということを端的に、リズミカルに表現した作品。ごくごく一般の人に「道路って、こんな見方をすると、いろいろ別のものが見えてくるよ」とか言いながら見せたい。

IMG_4518_R.JPG続いてなるせ氏の『The obsolete road and GIRLS』。自作の写真を使った力作で、いろいろツイートしていたのはこれのことだったのかと合点。基本的に写真がうまい。コンデジも、撮り方使い方次第でこれだけ撮れるのだ。観客もどんどん引き込まれていくのがわかる。これを見て、フィギュアっていいな、とか、こうした写真の撮り方をしてみよう、と思った方もいたはずだ。カンチレバートラスを背景に入れた写真を自分は見逃さなかったが、これはクレジットに入れ忘れた大石田の大橋らしい。廃道ナイトと関係ないが、これだ。鈍いアルミ色に輝く小さな蛇のような橋で、脇に三弦橋の水道橋を抱える。
20100519-1.jpg20100519-2.jpg

IMG_4524_R.JPGそして、うしこし氏(各所に「うしじま」氏と書いてあったが、動画内には「牛越」とあったのでこちらで書く)の『天王峠をゆく』。大阪・兵庫府県境の天王峠の隧道南側坑口にバイクでたどりつき、一度左へ降ってから右折する形で旧道に入る。バイクはアメリカンだろうか。ここは、少しだけ登るとあとはずっと兵庫県に向かって下り坂となる。そこでエンジンを切り、ひたすらタイヤが土を噛む音、風を切る音とともに、モノローグが続く。私も時々、林道の下り坂でバイクのエンジンを切り、同じことをすることがある。最近は、自転車程度がちょうどいい速さなんだろうなと思いつつある。

動画の応募は、それなりにあると思っていた。3作を多いと見るか少ないと見るか。ただ、告知から締め切りまでそれほど時間はない。その間に3作があがった。そして、もし、動画が10本くらいにもなっていたら、観客はきっと飽きる。この3作という数は絶妙であった。


<第三部>


IMG_4537_R.JPG
時間の都合もあり、ぶっつづけで第三部
に入る。よっきれん氏による千頭森林鉄道の話「夢想の吊り橋」の動画の発表と、夢想の吊り橋についての(ry。

IMG_4563_R.JPG
動画は、本当に迫力があった。いままで見たよっきれん氏の動画の中で、もっとも臨場感があったと思う。見ているだけで心臓の鼓動が早くなる。ここを一度ならず後日出直して二度も渡るなど、歳とともに高いところが苦手になってきている私には考えられない。とにかく、これは大画面で見る価値のある動画だった。

IMG_4606_R.JPGそして終了。右側、nagajis氏の座っていた椅子は何度も舞台から転げ落ちたためか、立ち膝だ。

終了時は、予定の時刻を大幅に超え、終了後に雑誌やTシャツの販売があった。カルカルでは開演前や休憩時に購入することができるが、ここでは会場の狭さの都合もあり、終了後のみとなった。そしてjungleの店員さんたちの厳しい目の中、20時30分ころに撤収。


つづいて二次会。マフラー巻き氏のセッティングで、実は事前申し込みが必要だったのだが、実際には申し込んでいない人も含めて30人以上が行ったようだ。なんばのお店を貸し切り、あっというまの2時間、3時間。まだまだ話したりないけれども私も体力的に相当きつくなり、0時をまわったあたりでおいとまさせていただいた。残っていた方々は、それぞれ3次会に移動したらしい。私は某所に泊めていただき、翌日からまた第二武庫川橋梁の分格ワーレントラスや余部橋梁を見に行った。それらのことはまた後日。

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(続き)
20100512-1.jpgさて、肝心の横桁である。撮影は午後6時前後のため、かなり慌てている。フレームが傾いているのが恥ずかしい。

横桁は直線状である。この写真では、横桁と縦桁の関係がわかる。この橋梁においては、縦桁は長い部材ではなく、短い部材が横桁のフランジ(I形材の「=」という位置にある部分)の上にはさまるような形式になっている。正確に言うと、横桁のフランジの上にスペーサー的に鉄材を挟み、その上に乗っかっている。

縦桁はI形材ではないかもしれない。上の写真で見ると、フランジの長手方向センターに溝がある。これをみるに、縦桁は|状の部材に、L字型の部材を4つリベット結合しているのではないか。

で、これが横桁の寸法である。
IMG_2747_R.JPGI形材のウエブ(|部分)の高さは48センチ。この横桁がどういう断面になっているかは、こちらと同じ構造だ。





IMG_2743_R.JPG沓。トラス下弦が橋台に重量を伝えているとして、橋門構下横材をもコンクリートの台が支えている。しかも、レールを間にカマして。

IMG_2741_R.JPGその、橋門構下部の横材。ごく短いレールが並列して置かれている。

IMG_2721_R.JPG沓の下にはローラーが隠れている。


IMG_2725_R.JPGこんな看板があった。長井線にはなかったのに・・・。


さて、ぼちぼち寝ますかね。またまた眠すぎるです。




こちらは左沢線の最上川橋梁である。先の山形鉄道のが1923年開通、こちらは1920年開通とほぼ同時期で、どちらも東海道本線木曽川橋梁(200フィート)を156フィートに短縮し、この地に転用したものである。

1920年とは、既に9600形が大量に増備されて各地に配置されており(製造は1913=大正2年から。D50形の製造開始は1923=大正12年、丹那トンネル開通は1934=昭和9年)、東海道本線も輸送力を強化するために、設計活荷重の小さな古い橋は次々に架け換えを進めていた。しかし、いくつかのトラス橋は幸運にも他路線に転用され、残されることになった。

ここ左沢線が最上川を渡る部分には、その木曽川橋梁から転用されたと推測する156フィートのダブルワーレントラスが5連と、遠く九州の筑豊本線遠賀川橋梁から転用された100フィートのプラットトラスが3連架けられている。

IMG_2713_R.JPG失敗した。プラットトラス部分も、真横から写真を撮っておくべきだった。


さて、またも異常な睡魔が襲ってきたのでso much for today.

20100511-2.jpg

前回、何を書いて何が消失したのかもう忘れてしまった。いったい何を書こうとしていたのだろう。多分横桁のことだと思うので、横桁について報告する。

IMG_2612_R.JPGこのとおり、横桁は直線状である。そして、横桁のリブを利用して、縦桁が設置されている。

IMG_2604_R.JPG横桁の断面を見ればわかるとおり、エ型のクビの部分にL字型のアングル材を添え、その隙間を鉄板で埋め、さらにそこにL字型アングル材を縦に配置している。

ここに注目したのは、100フィートポニーワーレントラスの横桁に「カバープレート」があるものが初期のものだ、という記述を見かけたからだが、そのカ バープレートとはこのようなものではなく、単なる1枚の板であった。そのため、この、横桁端部の考察は意味のないものになってしまった。勘違いと思い込み で物事を進めようとしていた愚か者である>自分

絵に描いてみるとこんな感じ。

20100511.jpg


IMG_2587_R.JPGこのようにして、横桁はトラスの下弦に乗っかっている。これのどこが特徴的なのかというと、基本的には格点(この橋でいえばピンのある部分)に横桁があるのが通常の形態だからである。


IMG_2603_R.JPGIMG_2605_R.JPGIMG_2600_R.JPG続いて支承。ローラーが見えている。そして、シューが極端に移動しないように両側にL字型のアングル材が添えられている。




IMG_2637_R.JPG上弦のピン。内部までペンキが塗り込められている。

20100511-1.jpg下弦材のピン。残念ながらピンは見えない。下弦材に無数にあいたリベット孔が謎。

IMG_2618_R.JPG真横。とってもきれいです。これに見ほれ、私の中でのダブルワーレントラスの地位があがりました。

20100511-3.jpg東側、県道11号がオーバーパスする跨線橋から西に向かっては、このように見える。美しい。



この桁から言えること:

1886年製のパテントシャフト&アクスルトゥリー製のトラス橋の錬鉄製横桁は直線。



この橋は錬鉄製である。興味をお持ちになったら、「錬鉄ってなんだべ?」ということをお調べいただきたい。きっと、知的好奇心を満たしてくれるはずだ。


眠い。。。
最近、なにをしてても寝落ちしてしまう。この記述もおかしなところがあるかもしれない。

P1020860_R.JPGお台場の『東京カルチャーカルチャー』で開催された『トーク・ザ・軍艦島』に行ってきた。親しくさせていただいているオー・プロジェクトの方々のご尽力で、軍艦島出身者にして「軍艦島を世界遺産にする会」理事長の坂本道徳氏を招いてのトークライブである。今回、ツイッター上で知り合った@Sheela111氏と落ち合い、特等席で拝見した。

坂本道徳氏は筑豊の宮田で生まれ、小学校6年の時に御尊父の仕事の関係(つまり端島に就職したということだ)で端島に転居。以後、高校卒業までを端島で過ごす。その「筑豊生まれ」という経緯があったため、氏は端島を客観視できるようになったという。ご婦人は端島生まれのため、端島の何が「すごい」のかの感覚が異なるという。

坂本氏の話が続く。元島民でなければ持ち得ない感情を、端的に語っていく。印象深かったのは、
私にとって、軍艦島=端島、ではないんです
といったくだりだ。住人にとってはあくまで「端島」であり、「軍艦島」などとは呼称しなかった。なぜならば、「軍艦島」は九州本土から見た形であり、その島にいる人たちにとっては島を外から見た姿など関係がないからだ。また、
長崎の人たちは端島を知らない。一方、関東、関西から来る人のほうが、よほど端島のことを知っている。
というお話も印象に残った。これもそうだ、海上に浮かぶ炭鉱で働く人たちは、みな外から来た人たちである。一般に、炭鉱夫というのは炭鉱から炭鉱へと移る。つまり長崎市内の人が有力な就職先として端島を選ぶ、というようなものではないので、長崎市内の人たちにとって、軍艦島は「よくわからないけれど、県外の人たちが働きに来るところ」的な意識となる。軍艦島が自分たちの郷土の一部だ、という感覚にはならないのである。

そのほか、工夫の入る風呂には子供たちは入らない、とか台風の時の高さ50mにならんとする波しぶきの話、とか端島は意外に青春の活動が活発で、デートコースも初級、中級、上級みたいな感じでいくつもあった、などという話がぽんぽん飛び出してきた。



P1020875_R.JPG約3時間のトークライブの後、有志、といっても30名ほどで新宿へ移動し、写真展へ。私は初日に見ていたが、坂本氏の解説がつくというのでもちろん同行。会場はそのとき10名ほどの方々がいらっしゃったが、そこに我々が入ると相当に狭くなってしまった。そんななかで坂本氏の解説や質疑応答が始まる。一般の方々もその説明に聞き入っていた。当たり前だ、こんなに重みのある声はない。


約1時間後、懇親会へ。ここから参加された方も多く、軍艦島の写真集を出されている大橋弘氏もいらした。ここで約3時間、ほとんど初対面の方々ばかりだったが、あっというまに時間が過ぎた。



P1020882_R.JPG坂本氏が中心となって制作した『軍艦島 住み方の記憶』
も購入。


坂本氏にとって、端島とは? 世界遺産とは?
世界遺産とは、「いまここにある建物を保存するもの」ではなく、「未来のためのもの」である。
広島の原爆ドームを例に、「原爆ドームは、これを見た人が平和を願うようになるという役割を持っている。もし世界が完全平和になったら、戦争の象徴たる原爆ドームは不要になる。それと同じく、端島も、かつてここに日本にエネルギーを供給するための石炭産業があり、やがて輸入の化石燃料に頼るようになり、当時の組合の条件闘争により黒字のうちに閉鎖したという経緯が広く人に知れ渡ればいいのであって、建物を見ることを目的とするのではない。坂本氏は長年の自問自答の末、いま、このような見解を披瀝されている。


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