書いたデータが吹っ飛んだ。やーめた、オワタ\(^o^)/
PR 英国系ダブルワーレントラスのひとつ、山形鉄道フラワー長井線(旧国鉄・JR長井線)の最上川橋梁である。終点の荒砥駅のすぐ手前にかかる、3連のトラス桁と12連(多分。ここらへんの調査漏れが情けない)の鈑桁からなる、長大な橋である。このトラス橋も、横桁が下弦に載るというものなので、参考までに書く。 製造はパテントシャフト&アクスルトゥリー、現設計はチャールズ・ポーナル(建築師長)である。1885年頃にこのダブルワーレントラスが登場するまでは、国内で使用される鉄道用鉄橋は100フィートが最大で、それはこの考察の原点であるポニーワーレントラス(設計はジョン・イングランド/技師長;どの部局での称号なのかは不明だが、工部省か)であった。以後、約20年の間にダブルワーレントラスは112連が架設され、初期の錬鉄製が22連4橋あった。製造の経緯からして、おそらくすべてがパテントシャフト製である。 ・利根川橋梁 錬鉄3連 1919年撤去→水戸線鬼怒川橋梁に1連を、稲沢操車場の跨線橋に2連を転用 ・揖斐川橋梁 錬鉄5連 1913年用途廃止(道路橋として現存) ・長良川橋梁 錬鉄5連 1914年撤去 ・木曽川橋梁 錬鉄9連 1914年2連、1919年7連撤去 最上川橋梁はどの橋梁の転用かというと、歴史的鋼橋集覧では木曽川橋梁の転用と断定している。しかし、その断定のたる『日本鉄道請負業史』を参考とした論文『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第1報)200フィートダブルワーレントラスを中心として』(小西純一、西野保行、渕上龍雄、1985年)には「木曽川または長良川より」とある。どちらが正しいかはまったく不明である。 いろいろ時間が押しているので、これにて一時中断。写真でお茶を濁す。
写真で確認。1897年ハンディサイド製の近江鉄道愛知川橋梁の横桁は直線。十条と同じような形らしい。5月に確認してくる。
今回は、有名な東京都北区の十条跨線橋だ。何度も歩いてはいるが、カメラを持って行ったのは初めてである。(4/28大きな誤記があったので修正)
もういきなり横桁の写真でいい。 緩やかなRを持ち、中央部が幅広になっているこの横桁が並ぶと、三葉虫の背面部のようにも見える。この部分は車道で、左右の三葉虫の足みたいな部分が歩道のための別桁である。 で、この十条跨線橋の横桁の形は、今回の英国系ポニーワーレントラスの横桁に関心を持つきっかけとなった伊達橋(木曜に見に行くぜ)の横桁とは異なる。異なるのはRの形状と、縦リブの数、位置である。 <参考>(『日本の廃道』47号「伊達橋」by TUKA氏) 横桁の側面を見てみよう。I字形の断面に、長方形の鉄板をつけている。これは、全製造期間内で、相対的に後期のものである(支障の部分も参照)。 また、横桁の間にさらに1本横桁を通し、北側の歩道の支えにしている。南側の歩道はひとつの独立した桁だ。 ついでにピンを見る。下側の格点から。 次いで上側。 支承。 橋梁名が「東十条地蔵坂Bo」とある。また、塗装は1984年6月、すなわちまだ国鉄の時代である。塗料は関西ペイント、施工は株式会社河野塗装店。たぶんこの会社。 ここで見えている横桁で、横桁の構造がわかる。I形鋼のウェブ(Iの縦棒部分)に、鉤状(「型)チャンネルを4本リベット留めし、ウエブに沿ってできたスペースには同じ厚さの鉄板を挟んでいる。 赤い部分がレーシングのない斜材。この部分には引っ張り力がかかる。通常、引っ張り力がかかる部分の斜材は簡易だ。対して圧縮力がかかる部分(ハの字型部分)にはレーシングが施される。中央部3パネル間は、引っ張り力がかかる部分にもレーシングがある。 銘板。コクレーンのものが、北西側(交番前)と南東側にそれぞれついている。 この橋の素性を書く。1895年に製造されたトラス桁であって、実は何線のどこのものであるのかはわからない。わからないが、例の論文に記されているもののうち、1895年以降開通の路線を抜粋する。 ●1896年に開通した路線 ・日本鉄道(金町-松戸)1912年撤去 ・東海道本線(摂津富田-茨木) 1912年撤去 ●1898年 ・東海道本線(西大路-向日町)1912年撤去 ということは、このどちらかの転用の可能性があるといえる。 最後に全景。 なかなか横桁について「これはこうだ。いつからはこうだ」みたいに定義づけることができない。適当だったわけはないと思うのだが。
コニカミノルタプラザで開催されている写真展『軍艦島全景』に行ってきた。
大きなパネルが3点。上記リンク先の案内図にある「Large Panel」の3点である。黒沢氏、大西氏、西田氏それぞれの作品で、順に、幾何的な模様の繰り返しである鉄筋コンクリートの建物、かつて人が住んでいた部屋と当時は時代の最先端だったものが取り残されてタイムカプセル化した部屋、廃墟の中、陽光が当たる部分に新たに芽生え、天に向かって伸びゆく生命。おそらく、各氏の軍艦島における原点といおうか、各氏が軍艦島に託して何を見ているのかの表現というような意味合いでそれらは選ばれたに違いない。 digital poto flameもよかった。明るい液晶で、適度な大きさでスライドショーとなる写真は、明るかった。人が住んでいた当時のものを繰り返すものもあった。 私が目を留めたのは、人が住んでいた時代に撮られた写真と同じ場所の現在を撮った、定点観測的な写真展示である。かつてそこに響いていた人声や足音は二度と戻ってこない、直接的にはその儚さを、間接的には時間軸が持つダイナミズムを見る。三才ブックス刊『軍艦島全景』でも一部その試みがあるが、ここではほぼ同じ場所で、40年(推測)を隔てて撮影された写真を並べることで、よりそのダイナミズムが際立つ。なぜか思い出すのは、手塚治虫の『火の鳥 未来編』である。 大きなパネルそれぞれに、三氏の軍艦島や廃墟への思いが書いてある。もちろん、三才ブックスの本にも同様のものがあるのだが、私は黒沢氏のそれに感じるものがある。引用する。 これを読んだとき、涙が浮かんできた。私が廃道について感じている気持ちそのままである。鉄道も廃線も道路構造物も鉄道構造物もちろん好きなのではあるが、人の情念が入るのは廃道だと思っている。それも、集落を結ぶなど、生活に直結する廃道であって、高速道路やバイパスの廃道ではない。いわゆる「廃モノ」のなかでも、こうした廃道こそが、名もない人々の生活に直結しているのであり、意識することなく使われ、やがて忘れられていく。一方、鉄道は請願はするけれども結局は「会社」あるいは公共企業体が運営するものである。廃墟は、複数の人ではなく特定の個人の思いだけが宿る。 黒沢氏と同じ方向性のことを、西田氏も書いておられる。
この写真展を見た人が、たとえ故郷が東京都心部であっても、故郷を振り返り、ああ、実は自分は故郷のことをまったくわかっていなかったのだ、もうちょっとよく知ってみようか、と思うようになればいいと思う。 帰りがけ、写真好きらしいオバチャンが「廃墟も素敵よね。ぴかぴかのビルと違ってさ」と連れ合いに話していた。まあそういう見方もあるのだろうけれども、そうではなく、この写真展に込められた思いをもっと感じ取ってくれよ、と少し寂しい気持ちになって会場を後にした。 これだけの撮影をするのに、どれだけの回数軍艦島に渡ったのか、ちょっと想像がつかない。その労力と、三才ブックスの写真集『軍艦島全景』を考えたとき、写真展が無料で、写真集は2415円であることは、驚異的な安さだと思う。この写真集は、その2倍、3倍の価格でもおかしくないできばえだと思う。それは、ひとえにオープロジェクトの三氏の気持ちと、力と、三才ブックスの理解によるものだと思う。自分もこうした本を世に送り出すことができればと思っている。 |
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