こちらは左沢線の最上川橋梁である。先の山形鉄道のが1923年開通、こちらは1920年開通とほぼ同時期で、どちらも東海道本線木曽川橋梁(200フィート)を156フィートに短縮し、この地に転用したものである。 1920年とは、既に9600形が大量に増備されて各地に配置されており(製造は1913=大正2年から。D50形の製造開始は1923=大正12年、丹那トンネル開通は1934=昭和9年)、東海道本線も輸送力を強化するために、設計活荷重の小さな古い橋は次々に架け換えを進めていた。しかし、いくつかのトラス橋は幸運にも他路線に転用され、残されることになった。 ここ左沢線が最上川を渡る部分には、その木曽川橋梁から転用されたと推測する156フィートのダブルワーレントラスが5連と、遠く九州の筑豊本線遠賀川橋梁から転用された100フィートのプラットトラスが3連架けられている。 さて、またも異常な睡魔が襲ってきたのでso much for today. PR 前回、何を書いて何が消失したのかもう忘れてしまった。いったい何を書こうとしていたのだろう。多分横桁のことだと思うので、横桁について報告する。 ここに注目したのは、100フィートポニーワーレントラスの横桁に「カバープレート」があるものが初期のものだ、という記述を見かけたからだが、そのカ バープレートとはこのようなものではなく、単なる1枚の板であった。そのため、この、横桁端部の考察は意味のないものになってしまった。勘違いと思い込み で物事を進めようとしていた愚か者である>自分 絵に描いてみるとこんな感じ。 この桁から言えること: 1886年製のパテントシャフト&アクスルトゥリー製のトラス橋の錬鉄製横桁は直線。 この橋は錬鉄製である。興味をお持ちになったら、「錬鉄ってなんだべ?」ということをお調べいただきたい。きっと、知的好奇心を満たしてくれるはずだ。 眠い。。。 最近、なにをしてても寝落ちしてしまう。この記述もおかしなところがあるかもしれない。 坂本道徳氏は筑豊の宮田で生まれ、小学校6年の時に御尊父の仕事の関係(つまり端島に就職したということだ)で端島に転居。以後、高校卒業までを端島で過ごす。その「筑豊生まれ」という経緯があったため、氏は端島を客観視できるようになったという。ご婦人は端島生まれのため、端島の何が「すごい」のかの感覚が異なるという。 坂本氏の話が続く。元島民でなければ持ち得ない感情を、端的に語っていく。印象深かったのは、 といったくだりだ。住人にとってはあくまで「端島」であり、「軍艦島」などとは呼称しなかった。なぜならば、「軍艦島」は九州本土から見た形であり、その島にいる人たちにとっては島を外から見た姿など関係がないからだ。また、 というお話も印象に残った。これもそうだ、海上に浮かぶ炭鉱で働く人たちは、みな外から来た人たちである。一般に、炭鉱夫というのは炭鉱から炭鉱へと移る。つまり長崎市内の人が有力な就職先として端島を選ぶ、というようなものではないので、長崎市内の人たちにとって、軍艦島は「よくわからないけれど、県外の人たちが働きに来るところ」的な意識となる。軍艦島が自分たちの郷土の一部だ、という感覚にはならないのである。 そのほか、工夫の入る風呂には子供たちは入らない、とか台風の時の高さ50mにならんとする波しぶきの話、とか端島は意外に青春の活動が活発で、デートコースも初級、中級、上級みたいな感じでいくつもあった、などという話がぽんぽん飛び出してきた。 約1時間後、懇親会へ。ここから参加された方も多く、軍艦島の写真集を出されている大橋弘氏もいらした。ここで約3時間、ほとんど初対面の方々ばかりだったが、あっというまに時間が過ぎた。 も購入。 坂本氏にとって、端島とは? 世界遺産とは? 広島の原爆ドームを例に、「原爆ドームは、これを見た人が平和を願うようになるという役割を持っている。もし世界が完全平和になったら、戦争の象徴たる原爆ドームは不要になる。それと同じく、端島も、かつてここに日本にエネルギーを供給するための石炭産業があり、やがて輸入の化石燃料に頼るようになり、当時の組合の条件闘争により黒字のうちに閉鎖したという経緯が広く人に知れ渡ればいいのであって、建物を見ることを目的とするのではない。坂本氏は長年の自問自答の末、いま、このような見解を披瀝されている。
書いたデータが吹っ飛んだ。やーめた、オワタ\(^o^)/
英国系ダブルワーレントラスのひとつ、山形鉄道フラワー長井線(旧国鉄・JR長井線)の最上川橋梁である。終点の荒砥駅のすぐ手前にかかる、3連のトラス桁と12連(多分。ここらへんの調査漏れが情けない)の鈑桁からなる、長大な橋である。このトラス橋も、横桁が下弦に載るというものなので、参考までに書く。 製造はパテントシャフト&アクスルトゥリー、現設計はチャールズ・ポーナル(建築師長)である。1885年頃にこのダブルワーレントラスが登場するまでは、国内で使用される鉄道用鉄橋は100フィートが最大で、それはこの考察の原点であるポニーワーレントラス(設計はジョン・イングランド/技師長;どの部局での称号なのかは不明だが、工部省か)であった。以後、約20年の間にダブルワーレントラスは112連が架設され、初期の錬鉄製が22連4橋あった。製造の経緯からして、おそらくすべてがパテントシャフト製である。 ・利根川橋梁 錬鉄3連 1919年撤去→水戸線鬼怒川橋梁に1連を、稲沢操車場の跨線橋に2連を転用 ・揖斐川橋梁 錬鉄5連 1913年用途廃止(道路橋として現存) ・長良川橋梁 錬鉄5連 1914年撤去 ・木曽川橋梁 錬鉄9連 1914年2連、1919年7連撤去 最上川橋梁はどの橋梁の転用かというと、歴史的鋼橋集覧では木曽川橋梁の転用と断定している。しかし、その断定のたる『日本鉄道請負業史』を参考とした論文『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第1報)200フィートダブルワーレントラスを中心として』(小西純一、西野保行、渕上龍雄、1985年)には「木曽川または長良川より」とある。どちらが正しいかはまったく不明である。 いろいろ時間が押しているので、これにて一時中断。写真でお茶を濁す。 |
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