なぜか画像サイズと1行あたりの本文文字数がおかしくなったのでスタイルを変更中・・・。
と思って調べたら、クーパー荷重の画像がおかしくなっていた。一度に表示するエントリの数を減らしてクーパー荷重の件を表示しないようにすることで後ろ向きに解決。 PR
YSP横浜南さんに預けていた、走行5万マイル(8万km)のスーパーテネレがあがってきた。お願いしたのは、始動不良というより異常の解決。自分でできること、すなわち吸気と電装までは既報のとおり見ていたが、これでダメならもうエンジン部分しかない。バルブタイミングの異常か、そうなったらもう自分の手には負えない。そう思って、思い切って預けた。ここから先はプロの領域だ。
結論から言うと、エンジンの圧縮がわずか3kg/cm^2しかなくなっていたことが始動不良を引き起こしていた。通常の数値はサービスマニュアルを見ても載っていなかったと思うが、12~13kgのはず。スタッフの方は、測り間違いじゃないかと思って再度やってみたそうだ。 圧縮が抜けていた原因は、バルブへのカーボンの堆積。また、バルブのリフト量が狂っているというか、常に少し空いている状態になったいたようだ。バルブタイミングに異常はなく、カーボンを除去したバルブは特に摩耗しているわけでもないので摺り合わせの上、再使用したとのこと。 ヘッドを開けたのだから、ピストンを交換していただいた。部品代6万610円中、ピストンだけで約2万円だ。 ・ピストン 6000円 ・ピストンリングセット 3070円 ・ピストンピン 1050円 これらが2組。 今回の処理一連で、工賃込み約14万5000円。20万越えを覚悟したが、思ったより安くあげていただいたという印象だ。それもこれも、YSP横浜南さんにガルルがお世話になっているからかもしれない(アレ? お世話になってるのにさらに安くしていただくなんて逆じゃないか? お世話になっているんだから高くなってもおかしくないのに??) 前みたいに年間2万kmも3万kmも乗ることがない今、「次」のこういう機会があるのかどうか見当もつかないが、大切に乗って行こうと思う。
丸田祥三氏が小林伸一郎氏を訴えた『風景剽窃裁判』(リンク先は、丸田氏の主張ブログ。公平に小林氏の主張を読んでみたいが、小林氏が主張するサイト等はない)は、かねてより話題となっていた。2009年初頭のことだったと記憶する。それが、さる2010年4月22日、東京地裁での尋問に、初めて小林氏が登場するということをツイッター上で知り、あわせて氏のブログも知った。
氏の『棄景』(1993年)には、大変なショックを受けた。その題材に、その表現に。私の廃もののルーツは過去に書いたことがあるが、そのころの心持ちで言えば、1991年に北海道に鉄道旅行に行った際、函館駅で購入した堀淳一氏の『北海道廃線跡を紀行する』(北海道新聞社)の内容に想像をたくましくしていた頃だ。そのころはインターネットも携帯電話もなく、すべての情報は紙媒体から得ていた。なにかの雑誌に、『棄景』の書評があった。講談社『VIEWS』あたりだったかもしれない。 欲しい、と思った。しかし、2800円もする。いまでも高価だと感じる価格である。毎日、大学のそばの弁当屋で300円台の弁当を食べていたような生活において、2800円は高い。しかし、この本は2800円出しても欲しいとおもった。そして、確か新宿の紀伊国屋だったと思うが、そこで購入した。いまでも大切にとってある。現在の宝島社が、まだJICC出版局と称していた頃の刊行である。 話が逸れてしまったが、丸田氏のブログの中の「混同されてしまうという切実な問題」におおいに共感するところがあり、ここに一文を記しておく。 2007年4月、私が作った『鉄道の旅手帖』が発売された。配本前から評判は高く、注文を非常にたくさんいただき、配本前にすでに重版を決定。5月、6月、7月と版を重ね、10月に7刷、翌2008円に8刷となった。2008年から2009年にかけて、類似の手帳タイプの商品が3誌刊行された。 類似商品の刊行は、とくに目くじらを立てるものでもない。むしろ名誉なことである。私が過去に手がけてきた仕事だって、他社で売れた本の「改良版」みたいなものもあった。しかし、それぞれに「前作を凌駕するもの」であれば、それはそれで刊行の意義もあるというものだ。そんな類書の中で、学研の『ぬりつぶし式鉄道地図手帳』は、許せない商品だった。 函館市電の書き方にも注目してほしい。本書は1980年以降に廃止となった路線にはグレーの網掛けをしてある。 函館市電の停留所名や廃止区間の営業キロは、私が函館市交通局に問い合わせたところ、函館市交通局の方が手書きで解説したものをお送りくださったものを反映している。 市電の停留所間の距離など、市販の時刻表などには書いておらず、また函館市電に限っては参考となる資料も刊行されていなかったと記憶している。 こちらは1987年以降に廃止になった路線に網掛けをしてある。 函館市電の各路線の並び順も同じ。営業キロも書いてある。 3段組で駅のリストをレイアウトし、各段がチェック欄・駅名・営業キロ・メモ欄という体裁、空き部分がメモ欄になるという体裁まで同じ。「○年○月○日限り廃止」という文言も同じ。この文言は、校正をお願いしていたワイ・ワン・ワイの澤井弘之氏の助言により、このように表記することにしたことまで覚えている。 廃止日というのは、営業を終了した翌日である。だから、普通「3月末廃止」というのは「4月1日廃止」が正しい。wikipediaの記事もすべてそうなっている。しかし、これでは誤解を生じかねないため、「○月○日限り廃止」という言い回しにした。 そして、これである。 『鉄道の旅手帖』(2007年)。 注目していただきたいのは、 「廃止線を含む総距離」 「現存線の距離」という言い回し。 これは、私が考えたものである。こんな回りくどい言い回しは、「鉄道ファンお馴染みの言い回し」でもなければ「専門用語」でもない。誤解の生じないよう、回りくどくてもこの言い回しにしたのである。学研版だけに「乗車距離」があるように見えるが、『鉄道の旅手帖』では画面外に「私が乗車した距離」という欄がちゃんとある。 先のレイアウトや廃止路線の表現も含めて、偶然の一致だろうか? 自分なら、真似するにしてももっとうまくやるぞ。 そして冒頭に戻る。「混同されてしまうという切実な問題」だ。わからない人には、学研が正で、『鉄道の旅手帖』が真似した、と思われてしまうかもしれない。たまったものではない。しかし、学研版を先に手に取った人は混同し、そう思っても不思議ではない。 もちろん、版元として抗議するか迷ったが、これだけでは販売差し止めとまではいかないだろうことは容易に察しはつく。しかも、いろいろな手間を考えると、さんざん面倒な思いをした挙げ句、その間に学研版もそこそこ売れていき、利益を確保してしまうだろう……。放置するしかなかった。 幸か不幸か、ある取次の方から聞いた話では学研版は……な結果らしい。『鉄道の旅手帖』は、8刷である。書店からは「最新版を出せ」とのオファーが随分とある。 以下は自画自賛である。 『鉄道の旅手帖』以降、「乗りつぶしチェック」のための本は、手帳タイプの類書3種、B5判2種が刊行された。しかし、どれも現実的ではないか、情報量に難があるか、あるいは稚拙な作りになっている。 ほんのわずか数年前に廃止された路線さえも掲載されていないような本が、「乗りつぶし」のためになるのか? 鉄道旅行は「これから」だけではない、「過去」にもあった。国鉄時代からの鉄道ファンならば、国鉄時代に廃止になった路線に乗ったこともあるだろう。それを蔑ろにするな。民鉄や第三セクターも蔑ろにするな。 情報量としてもっとも多いのは、新潮社『乗りつぶしノート』である。これは『日本鉄道旅行地図帳』の派生商品なので、「全廃線・全駅(実際には漏れが多数ある。それは、森林鉄道の事情を考えれば無理もないことだと思っている)」が掲載されている。次いで『鉄道の旅手帖』。1980年以降、つまり国鉄合理化での廃止が加速して以降の国鉄・私鉄の廃止路線を掲載している。他の本は、すべて廃止路線・駅は無視している。 また、エリア分け。『鉄道の旅手帖』は、鉄道ファンの行動範囲や、乗り継ぎ駅等を基準に綿密な地図割りを考えた。それだけで1週間かかった。しかし、他の本は、適当。本当に適当。県別のものもあるが、鉄道は県別に乗り分けることなどないので、これはユーザー視点ではない。 刊行から3年たっても、コストの面から妥協せざるを得ない部分がたくさんあった『鉄道の旅手帖』がもっとも使いやすいものであるのが不思議でならない。妥協せざるを得なかった部分というのは、京阪神付近の地図、大手私鉄と地下鉄の駅リスト等である。これらは紙数の関係から割愛してしまった。それでも、後発の類書と比較して、もっとも情報量が多いのが本書である。 長くなった。書店さんからは、いまだに『鉄道の旅手帖』へのラブコールがある。書泉グランデでは、刊行から3年経ってもレジそばに平積みである。このラブコールには、1ヶ月以内に応える予定だ。
引き続き、ポニーワーレントラスの横桁について書く。
引き続き、リストと首っ引きでググったり画像検索したりしている。 ふと、関西本線木津川橋梁にあたった。ポニーワーレンを補強したランガートラスという異形の橋で、つとに有名な物件である。これならば、ネット上に写真が あるだろう、と思ってさがしたら、あった。 ぼうふらオヤ ヂの関西きまぐれ紀行 by TAAさんなんだこれは。また横桁の新パターンじゃないか。まるで古い鉄道用台車の釣り合い梁のような凹字形をしている。この橋は1896年パテントシャフト製ということがわかっているので、ひとつ分類ができた。1896年パテントシャフト製の横桁は、凹字形。 ただし、トラスの高さは12フィート。 残念ながら、これはイングランドの共通設計のポニーワーレントラス(トラスの高さは9フィート)ではないが、ひとつのヒントにはなろうかと思う。滋賀県の近江鉄道の愛知川橋梁も、高さ12フィートである。図面がないのでわからないが、設計活荷重か、橋幅が異なるのかもしれない。 ついでに、木津川橋梁と言えば大阪環状線の斜橋も有名。ググっていたら、これをNゲージ用に作ってしまった人がいた。ブログを読むと、鉄道模型関連商品 メーカーのCASCO(事業停止したWINのウレタン製車両ケースの中敷きを継続販売している会社。WIN製のウレタンは私もかなり持っている)がペー パーでの製作を依頼したものだという。 CASCO のブログ 製 作者のサイト いやはやすごい。
写真もあまりなく、あっても横桁など写っているものはさらに少なく、そもそも考察することに意味があるのかないのかわからないが、『日本の廃道』47号のTUKA氏の記事「伊達橋」(福島県)を見てからどうにも気になり続けているので、軽く調べが及ぶ範囲で調べてみた。対象は、イギリス系(イギリス製ではない)の100フィートポニーワーレントラスの横桁の形状である。
伊達橋のは、こうである。下部が曲線を描いている。『日本の廃道』47号より引用。 この伊達橋が、鉄道黎明期のイギリス系ポニーワーレントラス桁の転用であることは確実だが、どこの何橋が転用されたかはわかっていない。『歴史的鋼橋集覧』は、日本鉄道(いまの東北本線)の名取川橋梁との関連性を指摘している。伊達橋の工事が1916年-1921年の間に行われているのに対し、名取川橋梁(7連)、名取川避溢橋梁(1連)はどちらも1917年に撤去されている。両者、計8連ともに1887年開通であり、伊達橋で使用された8連分(うち2連分に鉄材を継ぎ足して200フィート桁にしあげたのは『日本の廃道』ほかで述べられている通り)と、時期、個数ともにあう。場所も仙台と郡山、この距離感を現代の距離感で考えるのは非常に危険ではあるが、相対的に近いといえるだろう。名取川と阿武隈川の河口同士は10kmほどしか離れていない。水運で運んだのかもしれない。 転用した年度については、ひとつ注意しておきたいことがある。『歴史的鋼橋集覧』に「明治中期のイギリス系ポニーワーントラスを鉄道省から払い下げてもらって」とあるが、これが本当に正確であるのなら、鉄道省は1920年に設置されたものであるから、8連のトラス桁は1917年の撤去後、1920年5月15日の鉄道省発足までどこかで保存し、5月15日以降に払い下げ手続き、そして伊達橋への架橋作業が行われたことになる。しかし、単なる「鉄道院」との書き間違いの可能性も十分にあり、私は「書き間違い説」と取りたい。 さて、伊達橋のトラス構は、見れば見るほど真岡鉄道五行川橋梁や小貝川橋梁と同じだ。いまのところ、100フィートポニーワーレン橋のトラス構部分については製造所や年代についての差異を発見していない。詳細に見ればなにがしかの発見はあるかもしれないが、いまのところはまだ見つけていない。 この100フィートポニーワーレントラスは、鉄道を管轄していた工部省(1870年-1885年)主導で標準設計がなされていた。その設計者はEnglandである。もちろん、国家としてのイギリスのことではなく、人の名である。このEnglandなる人物は、1874年当時の「技師長」であったこと以外は残念ながらわからない。西野・小西・渕上論文『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第2報)英国系トラス2』によれば とあるので、おおかたポーナル直系のイギリス人なのだろうと推測している。ポーナルは、わが国鉄道黎明期の鉄道の土木工事を統括した人物で、プレートガーダー橋の標準形式などにその名を残している。のちに、ジョン・アレキサンダー・ロウ・ワデルを代表とするアメリカ流の設計に取って代わられてしまうのではあるが。この種のポニーワーレントラスを製造したのは、イギリスのBraithwaite & Kirk(ブレイスウエイト・アンド・カーク)、Cochrane & Co.(コクレーン)、Hamilton's Windsor Ironworks(ハミルトン)、Handyside(ハンディサイド)、Patent Shaft & Axletree(パテントシャフト)のほか、アメリカン・ブリッジ(アメリカ)とハーコート(ドイツ)がある。 話を横桁に戻す。そのイングランドが設計した、東海道本線六郷川橋梁(蒲田-川崎間)の100フィート複線ポニーワーレントラス桁の設計図が『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(土木学会誌第3巻第1号)に残っている。 この六郷川橋梁は1875年ハミルトン製で、1877年開通、1912年撤去である。横桁部分を見ると、曲線ではなく直線状である。しかも、太い部分が長い。 秩父鉄道見沼代用水橋は、『鉄道のある風景』(猫が好き♪氏)の写真を見る限り、横桁は曲線状である。この桁は1885年-1890年の間に、イギリスのパテントシャフトで製造されたもの。ということは、 パテントシャフト製の、1890年ころまでに製造された100フィート単線ポニートラスの横桁は曲線状、1894年ころから製造されたものの横桁は直線状である ということだけがわかった。 そのほかにも多数の画像や資料写真を見たが、横桁が曲線を描くものと直線状のものとの差の根拠となる手がかりは掴めなかった。 ネット上を徘徊しても、ポニーワーレントラスの写真は少ない。江ヶ崎跨線橋にしても、プラットトラスの写真は数多あれど、ポニーワーレン部分の写真は少ない。十条の跨線橋にしても、裏側を写したものはない。自分自身が裏側を撮ってこなかったということを恥じつつ、今後に待ちたい。 |
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