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写真もあまりなく、あっても横桁など写っているものはさらに少なく、そもそも考察することに意味があるのかないのかわからないが、『日本の廃道』47号のTUKA氏の記事「伊達橋」(福島県)を見てからどうにも気になり続けているので、軽く調べが及ぶ範囲で調べてみた。対象は、イギリス系(イギリス製ではない)の100フィートポニーワーレントラスの横桁の形状である。

伊達橋のは、こうである。下部が曲線を描いている。『日本の廃道』47号より引用。
20100422-1.jpg





















この伊達橋が、鉄道黎明期のイギリス系ポニーワーレントラス桁の転用であることは確実だが、どこの何橋が転用されたかはわかっていない。『歴史的鋼橋集覧』は、日本鉄道(いまの東北本線)の名取川橋梁との関連性を指摘している。伊達橋の工事が1916年-1921年の間に行われているのに対し、名取川橋梁(7連)、名取川避溢橋梁(1連)はどちらも1917年に撤去されている。両者、計8連ともに1887年開通であり、伊達橋で使用された8連分(うち2連分に鉄材を継ぎ足して200フィート桁にしあげたのは『日本の廃道』ほかで述べられている通り)と、時期、個数ともにあう。場所も仙台と郡山、この距離感を現代の距離感で考えるのは非常に危険ではあるが、相対的に近いといえるだろう。名取川と阿武隈川の河口同士は10kmほどしか離れていない。水運で運んだのかもしれない。

転用した年度については、ひとつ注意しておきたいことがある。『歴史的鋼橋集覧』に「明治中期のイギリス系ポニーワーントラスを鉄道省から払い下げてもらって」とあるが、これが本当に正確であるのなら、鉄道省は1920年に設置されたものであるから、8連のトラス桁は1917年の撤去後、1920年5月15日の鉄道省発足までどこかで保存し、5月15日以降に払い下げ手続き、そして伊達橋への架橋作業が行われたことになる。しかし、単なる「鉄道院」との書き間違いの可能性も十分にあり、私は「書き間違い説」と取りたい。



さて、伊達橋のトラス構は、見れば見るほど真岡鉄道五行川橋梁小貝川橋梁と同じだ。いまのところ、100フィートポニーワーレン橋のトラス構部分については製造所や年代についての差異を発見していない。詳細に見ればなにがしかの発見はあるかもしれないが、いまのところはまだ見つけていない。

この100フィートポニーワーレントラスは、鉄道を管轄していた工部省(1870年-1885年)主導で標準設計がなされていた。その設計者はEnglandである。もちろん、国家としてのイギリスのことではなく、人の名である。このEnglandなる人物は、1874年当時の「技師長」であったこと以外は残念ながらわからない。西野・小西・渕上論文『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第2報)英国系トラス2』によれば
このトラス桁は’’ポーナル形’’ポニーワーレントラスと呼ばれることが多いが、Pownallが設計した訳ではなく、適切な呼びかたではない。設計者は70ftトラスと同じEnglandであった
とあるので、おおかたポーナル直系のイギリス人なのだろうと推測している。ポーナルは、わが国鉄道黎明期の鉄道の土木工事を統括した人物で、プレートガーダー橋の標準形式などにその名を残している。のちに、ジョン・アレキサンダー・ロウ・ワデルを代表とするアメリカ流の設計に取って代わられてしまうのではあるが。この種のポニーワーレントラスを製造したのは、イギリスのBraithwaite & Kirk(ブレイスウエイト・アンド・カーク)、Cochrane & Co.(コクレーン)、Hamilton's Windsor Ironworks(ハミルトン)、Handyside(ハンディサイド)、Patent Shaft & Axletree(パテントシャフト)のほか、アメリカン・ブリッジ(アメリカ)とハーコート(ドイツ)がある。


話を横桁に戻す。そのイングランドが設計した、東海道本線六郷川橋梁(蒲田-川崎間)の100フィート複線ポニーワーレントラス桁の設計図が『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(土木学会誌第3巻第1号)に残っている。

20100422-2.jpg



















この六郷川橋梁は1875年ハミルトン製で、1877年開通、1912年撤去である。横桁部分を見ると、曲線ではなく直線状である。しかも、太い部分が長い。

20100422-3go.jpg真岡鉄道五行川橋梁は、このとおり直線状である。この桁は歴史的鋼橋集覧によれば1894年、パテントシャフト製。

20100422-4ko.jpgこちら小貝川橋梁も直線状。歴史的鋼橋集覧によれば1894年、パテントシャフト製。五行川橋梁とともに総武鉄道で使用されていた桁を転用したものと推測している。

秩父鉄道見沼代用水橋は、『鉄道のある風景』(猫が好き♪氏)の写真を見る限り、横桁は曲線状である。この桁は1885年-1890年の間に、イギリスのパテントシャフトで製造されたもの。ということは、

パテントシャフト製の、1890年ころまでに製造された100フィート単線ポニートラスの横桁は曲線状、1894年ころから製造されたものの横桁は直線状である

ということだけがわかった。

そのほかにも多数の画像や資料写真を見たが、横桁が曲線を描くものと直線状のものとの差の根拠となる手がかりは掴めなかった。

ネット上を徘徊しても、ポニーワーレントラスの写真は少ない。江ヶ崎跨線橋にしても、プラットトラスの写真は数多あれど、ポニーワーレン部分の写真は少ない。十条の跨線橋にしても、裏側を写したものはない。自分自身が裏側を撮ってこなかったということを恥じつつ、今後に待ちたい。

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歯車がガッチリとかみ合い、恐ろしい力で回転している。速度をゆるめることなどできやしない。相手はウォームギヤ、こちらはスパーギヤだ。「ガッチリとかみ合う」ならスパーギヤ同士でなければならない気もするが、まあいい。関係はウォームギヤとスパーギヤなのだ。しかも、ウォームギヤが三つも四つもあり、かつ同調していない。それらは私が自分で配置しておいたものだが、勝手気ままに回転しているので、スパーギヤにかかる負荷は部分的に高くなったり低くなったりしている。いつか欠けるのではないかと心配だが、それなりに冗長性があるのでなんとかなっている。

冗長性のあるうちに、三つ四つのウォームギヤの同調をとらなければならない。動力源が複数あっても出力軸が1本というところに問題があるのだが、そのうちウォームギヤの捻り角を大きくして、逆回転させてやるからな。その仕込みをしているところだ。




何ヶ月ぶりかで『廃道本』『廃道をゆく』告知フラッシュを見た。あのころの気持ちに帰ろう。延ばし延ばしにしてしまったこの方面も、各方面から期待をいただいている。自分はいま猛烈に仕事だけに没頭したい。

生まれ育った地のことについて、実はなにも知らなかったのではないかと思うことが多々ある。小学校の社会で習うことなどたかがしれているのだが、それならなお、高校になってももっと地域のことを学んでおくべきではないかと思う。

小学校三年生のとき『わたしたちの新潟市』という副読本があった。四年生になると『わたしたちのくらしと新潟市』になった。それらには、いわゆる亀田郷の田植えの様子が載っており(田んぼというのは昔はこうだったということがわからないと、妖怪の「泥田坊」なども実感がわかないのではないか)、胸まで泥につかりながらの田植えの映画を何度も見せられた。「排水機場」のことにも触れていたはずだ。

しかし、小学生にとっては「排水機場」など現実感がなく、また、実際の排水機場も、そっからドボドボと水をどこかに流し込むところが日常風景になっているわけでもない。しかし、それらがないと、どこまでも広がる田んぼの風景、といった印象の新潟平野は単なる泥の海になってしまうわけで。そして、それは、新潟市中心部の排水機場だけではなく、新潟平野に広範囲にわたって各種の施策がほどこされているからこそ、維持できているのであって。そこに長い間気づかずにいた自分も不明なのではあるが、道路や鉄道のように人の目に見えない部分にどれだけの労力と資金が投入されているのか、それを把握できている人など専門家しかいないのではないか。こうした大切な事業は、もっともっと積極的に教育すればいいのに。

土木行政においては河川が一番力をもっている、という話があるが、それもむべなるかなと思う。実際に携わる人に話を聞くと、職場内にランクがあるのはおかしいという感覚だろうし、計画を見ると山の上まで砂防ダムを造り続けるようなことがあるらしい。しかし、道路や鉄道がなくても人は生きていけるが、川が氾濫したら、生きていけない。私は単純すぎるだろうか?
ORJ編集部録"より。

>これは・・・死ぬる!

「死ぬる」って西日本の言葉かと思っていた。私の初見は『はだしのゲン』だし。と思って辞書引いたら、「死ぬる」はこうだった。

已然:死な(ず)
連用:死に(たり)
終始:死ぬ
連体:死ぬる(とき)
仮定:死ぬれ(ども)
命令:死ね

ということは、「死ぬる」は連体形であり、文末には来ない。「私は死ぬる」という表現はおかしい。でも、現在でも違和感はないし、使ってる人もいると思う。現在において使われるシチュエーションを考えるに、少々大げさに「これ以上やったら死んでしまう~」と冗談めかして言うときに「死ぬる~」と叫ぶような気がする。それならば、単に語感がファニィだからとか、そういう理由で少しだけ形を変えて現代まで生き続けてきた文語とも思える。現在における使われ方を考えると、きっとそうだ。

しかし、『はだしのゲン』の中ではそんな雰囲気ではないし、普通に「死ぬ」という意味合いで「死ぬる」と言っている。そう思って「る」を調べても強調的な意味合いはない。「生きる」(カ行上一段活用)の真似をして「死ぬる」(しかし文語のナ行変格活用)なのか。


ふと思い立って、wikipediaで「広島弁」を見てみたら、こう書いてある。

しぬる【死ぬる】……死ぬ。「往ぬる」とともに、古語のナ変動詞の活用が現在に残ったもの。

「活用が現在に残ったもの」って、活用が残ったのなら終止形は「往ぬ」「死ぬ」なんですが。。。当然の如く、この誤りの拡大再生産が見られて少し悲しい。


結論:不明

『鉄道ファン』(交友社)に不定期で連載されている、小野田滋氏の『東京鉄道遺産をめぐる』。どの号で何が採り上げられたかを簡単にまとめた。人物記事と参考文献欄が特に素晴らしく、ネット上の情報ではここまで詳細なものはないものも多い。参考文献には「私家版」の資料などもあり、閲覧するべくもないが、そうした資料に基づいて正確に書かれ、かつ考察が加えられているので、興味のある方はぜひ各号を読んでいただきたい。

こうして見ると、小野田氏の著作として有名な煉瓦関係の記事は少ない。

今後も随時加筆し、ここを自分用メモ的に活用する予定。
===

◎=詳細記事(文学作品との関連は割愛)

●2006/6「空に浮かんだ並木橋駅 東横線渋谷高架橋と並木橋駅跡1」
・阿部美樹志→人物記事は2006/9
・cf)小野田滋「阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋」、2001年、『土木史研究』vol.21

●2006/7「空に浮かんだ並木橋駅 東横線渋谷高架橋と並木橋駅跡2」

●2006/8「インターナショナルスタイルへの挑戦 交通博物館」
・伊藤滋(1989-1967)東京改良事務所建築課技師 設計→人物記事は2006/11
・土橋長俊(1901-1959)東京改良事務所建築課技手 設計
◎土橋長俊 鉄道大臣・小川平吉の甥。ル・コルビュジエ門下。

●2006/9「都心に架かる大アーチ 外濠橋と神田川橋」
◎阿部美樹志(1983-1965)RC。広井勇の後輩。阪急百貨店、西宮球場他多数
◎大河戸宗治(1877-1960)RC。八ツ山橋

●2006/11「駅のモダニズム 御茶ノ水駅」
◎伊藤滋(1989-1967)凸版印刷創始者のひとり、伊藤貴志長男。岡山駅、兵庫駅、日野駅、池袋駅(現)、八重洲地下街(現)
・前川國男(1905-1986)土橋とともにコルビュジエ門下。紀伊國屋書店新宿本店他
・cf)平井喜久松「御茶ノ水・両国間高架線工事に就て」1932、『土木学会誌』vol.18、no.8
・cf)小野田滋「鉄道建築のモダニスト・伊藤滋」1997、『RRR』vol.54、no.9
・cf)聖橋=山田守
・cf)御茶ノ水橋=小池啓吉(東京市技師。広井勇門下。東京市時代の上梓は樺島正義)

●2007/1「橋梁技術のモニュメント 晴海橋梁」
・ローゼ桁=菊池洋一(1921-2005、国鉄施設局特殊設計室)飯田線天竜川橋梁、大阪環状線安治川橋梁、北陸本線新神通川橋梁など。
・ローゼ桁=友永和夫(国鉄施設局特殊設計室)
・PC桁=佐伯俊一(国鉄施設局特殊設計室)
・ローゼ桁はポンツーン工法で架設
#本項では、ポンツーンは1933年佐賀線筑後川橋梁を嚆矢としている
・国鉄施設局特殊設計室=鉄道技術研究所の構造物設計部門を1949に切り離したもの。1952年特殊設計室、1957年施設局から独立して本社付属の構造物設計事務所に。現在は鉄道総合技術研究所に継承。

◎PC桁の黎明期
◎国鉄におけるローゼ桁(実績と諸元表)
◎日本陸軍の置きみやげ-重構桁-(夕張岳森林鉄道)

●2007/2「御所をくぐったトンネル 旧御所トンネル・新御所トンネル」
◎菅原恒覧(すがわらつねみ、1859-1940) 仙石貢門下。東北本線、甲武鉄道(新宿-八王子)、九州鉄道他。鉄道請負業協会設立。

●2007/3「御所をくぐったトンネルその2 旧御所トンネル・新御所トンネル」
◎今井潔(1898-1973)東京第二改良事務所にて設計。吉田徳次郎(RC)門下
◎中山忠三郎(1893-1950)東京第二改良事務所にて設計。大河戸が引っ張る? 鉄道保安工業社長。
・堀内保(1893-?)東京第二改良事務所技手。

●2007/5「下町のターミナルデパート 東武鉄道浅草駅」
◎久野 節(くのみさお、1882-1962)

●2007/7「アキバをまたぐ高架橋その1 神田川橋梁・松住町架道橋・旅篭町高架橋」

●2007/8「アキバをまたぐ高架橋その2 御成街道架道橋・秋葉原駅・昭和橋架道橋」
◎東京第一改良事務所と東京第二改良事務所(第一=大河戸、第二=稲垣兵太郎)
・昭和橋架道橋=稲葉権兵衛(担当技師)、小城末喜(設計)、石井武一(照査)/田中豊指導
・cf)平井敦=田中門下
・cf)「座談会:わが国のれい明期における鉄橋(続)」『JSSC日本鋼構造協会誌』no.182

●2007/9「アキバをまたぐ高架橋その3 第一佐久間町橋高架橋、浅草橋駅など」
・御茶ノ水-両国間の高架線構造物一覧/諸元

●2007/11「PC建築のさきがけ 浜松町プラットホーム上屋」
◎PC技術を発展させた国鉄建築
・1955-1964年に完成したPC構造による国鉄の建築一覧/諸元
・井原道継
・前川修二
・山内誠二

●2007/12「隅田川の眺望 東武鉄道・隅田川橋梁」
◎秋山和夫(1903-1968)田中豊門下。山崎匡輔門下? シーメンス→東武鉄道→満鉄→華北交通→社)復興建設技術協会→関東復建事務所
・本来は田中豊に設計を委嘱→下部構造を秋山が担当。
・GHQが注目したアイバー
◎鉄道で最初の隅田川橋梁(日本鉄道=常磐線の、ハンディサイド製200ftプラットトラス)

●2008/1「進化するPC建築 千駄ヶ谷駅」
・島野邦雄(東京鉄道管理局建築課、駅設計)
・黒宮俊雄(東京鉄道管理局建築課、駅設計)
・本多柾夫(東京鉄道管理局建築課、駅設計)
・極東鋼弦コンクリート振興(PC構造設計)

●2008/3「山手線をまたぐ 東急電鉄池上線・五反田付近高架橋」
◎竹内季一(1876-1936)鉄道作業局→鉄道省→帝都復興局→三協土木建築事務所他
・谷井陽之助(東京市役所橋梁課長→東京鉄骨橋梁製作所)
・東京鉄骨橋梁の創立

●2008/4「学生街の玄関口その1 水道橋駅」
・今井 潔(設計・監督)
・支那及日本貿易商会(チャイナ・エンド・ジャパン・トレェーヂング・コンパニー・リミッテッド)

●2008/5「学生街の玄関口その2 新水道橋架道橋と水道橋架道橋」
・水道橋架道橋の拡幅工事と繰重車の活躍
cf)新永間高架橋=バルツァー(ドイツ)

●2008/8「高架駅のアイデア 大久保駅」
◎立花次郎(1904-1979)田中豊門下。
cf)渡邊貫(とおる、1898-1974)
cf)桑原弥寿雄(1908-1969、青函トンネル)

●2008/9「房総半島への玄関口その1 両国駅」
◎坂本鎮雄(1895-1973)
・本間英一郎(1853-1927)日本人初のMIT卒業生。京都府→工部省→総武鉄道他

●2008/10「房総半島への玄関口その2 両国駅(電車駅)」
◎佐藤輝雄(宍戸輝雄、1906-1990)満鉄建設の佐藤應次郎の女婿。

●2008/11「房総半島への玄関口その3 両国駅構内とその周辺」
◎わが国最初の高架鉄道

●2009/1「牛の寝ているような橋 六郷川橋梁(三代目)」
◎太田圓三(1881-1926)広井勇門下。
・久保田敬一
・中村謙一
●2009/2「隅田川に映える 総武本線・隅田川橋梁」
◎田中豊(1888-1964)太田門下
・鉄道省大臣官房研究所第四科(科長・田中豊)設計
・稲葉権兵衛(担当技師)
・吉越康治(照査)
・黒田武次(田中武次)(製図)
・田部正志(製図)
・木村秀敏(製図)
◎幻の市街線隅田川橋梁
・磯部定吉(塗装)

●2009/3「運河をまたいだアーチ 豊洲橋梁」
◎清水治長(1905-1997)設計。友永門下。藤井と共に戦時中は中国へ。第二武庫川橋梁も。もしかしたら分格ワーレン好き?
・清水(設計計算)
・大野正二郎(設計計算、製図)
・日本で2番目・戦後初のランガー桁橋
・ポンツーン工法
◎国鉄におけるランガー橋一覧/諸元

●2009/5「ドイツ生まれのトラス橋 小石川橋通り架道橋(緩行線)」
◎ハーコート
・唯一のドイツ製上路トラス橋

●2009/6「鉄筋コンクリート橋梁の新境地 花見川橋梁」
◎江島淳(あつし、1927-1987)東京工事事務所次長。設計。→参議院議員
・村上生而(東京工事事務所次長)が補足、引き継ぎ
・五味 信(東京工事事務所次長)考案

●2009/11「横浜港の橋めぐり 港一号橋梁、港二号橋梁、新港橋梁」
・横浜港改修工事(第一期1889~、第二期1899~)
・ヘンリー・スペンサー・パーマ-(henry Spencer Palmer、1838-1893)
・石黒五十二(1855-1922)三池築港顧問。
・若槻礼次郎、古市公威、平井晴二郎他多数各方面の名前が出てくる

●2010/7「煉瓦から鉄筋コンクリートへ 東京-万世橋間市街高架線その1」
・新永高架橋から万世橋方向への延長について
・新永高架橋との決定的な違い(総煉瓦→鉄筋コンクリート+化粧煉瓦)
・常盤橋架道橋
・大手町橋高架橋
・銭瓶町橋高架橋
・龍閑河岸川高架橋
・龍閑橋架道橋
・外濠橋
・第一本銀町橋高架橋
・本銀橋架道橋
◎稲垣兵太郎(1869-1943)北越鉄道→台湾総督府臨時台湾鉄道敷設部→鉄道院北海道建設事務所→中部鉄道管理局(ここで東京-万世橋間市街高架線を指揮)→略→三信鉄道。cf)長谷川謹助、渡辺嘉一


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