静岡県側が天竜川水系で、愛知県側が豊川水系だと思い込んでいた。東栄駅の東側にはもっともらしくトンネルもある。しかし、よく見ると、ここは両川の分水嶺ではないのであった。分水嶺は池場駅のすぐ西である。集落が連続していてもおかしくなさそうな、ゆるやかな鞍部のようだ。衛星写真を見ると、峠の東側には集落と田畑があり、峠に向かってじわじわと拡大しつつあるようにも見える。峠が敷居になっているようには見えない。飯田線こそここをトンネルで抜けているが、国道151号は、とくになんにも気にせずにそこを貫いている。 なぜこのラインが県境になったのだろうか。こうした疑問をよく思いつくが、とくに調べたりもしない。そのうちこのエリアに詳しい人に出会って、そのときに聞けばいいや。それくらいの関心でしかないのかもしれない。 (地図はカシミール3Dを使用して作製した)
YoutubeにあるLove Playの動画は、なぜか最後のもっとも盛り上がるラストの3連の部分が欠落したものばかりだ。なぜだ。「そこ」が聴きたいのに。
ディティールつけたし。
横桁が魚腹型であることは前日述べたが、この角度で見ると、フランジも中央に向かってふくらんでいる。 つづく鈑桁はポーナル桁。内部は対岸だったので見ていないが、後述する五行川橋梁では対傾構がロの字形であることを確認している。この区間の開通時期は1913年。スティッフナーがJ字形をした最後の形式である(と思う)作37年式が制定されたのは明治37年=1904年。であれば、その形式で造られ、開業当初からここにあったと考えても不自然ではなかろう。 (2月4日追記) スティッフナーは、J字形のものと直線状のものが交互に取り付けられている。後述する五行川とも異なる。理由の推測がまったくできないが、ある程度の事情は五行川に記した。 (追記ここまで) 橋脚の上部がコンクリートになっているのは、初代桁に理由があるのではないか。 ネットで検索すると、昨日書いた「開通年と、桁の設計年の違い」に気づかず、「1913年に架橋された」的な記述が散見される。訂正の術はない。歴史的鋼橋集覧の備考欄に、その旨が書かれていればよかったものを。残念なり。
真岡鉄道には古い転用ポニートラスがふたつある。そのうちのひとつが小貝川橋梁である。
見てのとおり英国系の100フィートピントラスで、弦材と端柱でガッシリと台形の枠組を作り上げているスタイルが力強い。 画像は南側から撮影、左側は下館方面、右側が茂木方面となる。左側の鈑桁は12.6mである。 さてこの小貝川橋梁、『歴史的鋼橋集覧』(以下「集覧」)惑わされてはいけない。というのは、そこでは「1894年製/1913年開通」となっているが、ここに陥穽がある。 『明治時代に製作されたトラス橋の歴史と現状 第2報 英国系トラスその2』(西野保行/小西純一/淵上龍雄)(以下「論文」)によれば、1894年製の100フィート単線ポニートラスは総武鉄道(のちの総武本線)が小岩-市川間の下り線として3連架けたものがあるのみである。その橋は「1926年撤去」とある。1894年製で1913年までに撤去された桁はない。 しかし、『歴史的鋼橋集覧』をよく見ると「設計:1947年」とある。つまり、どこにも断言されたものはないが、1913年に開通した際には別の桁が架けられており、それが1947年以降に現在の桁に架け替えられたと考えていいであろう。そうすれば、上記総武鉄道の桁が転用されたと考えるのも自然である。 以上、あくまで推測である。真岡鉄道(当時は国鉄真岡軽便線)開業時の小貝川橋梁の写真でもあれば、この推測の状況証拠となる。 さて、ディティールを見よう。 横桁が魚腹型としている。荷重がかかる部分が太くなっている。本橋は、主構間、つまり幅が通常より広くなっているのも特徴である。 桁は川に対して垂直ではなく斜めに入っているが、桁はそのまま使われている。後述する五行川橋梁のように、スキューさせてはいない。 上弦材と端柱を結ぶ部分。ピンこそあるが、両者が一体化している。 上弦材と斜材のピン結合部分。斜材に補強が入るのは、圧縮がかかる部材である。 下弦材と斜材のピン結合部分。 この小貝川は、一級河川である。利根川の支流の中でも長さは2番目なのだが、ここではこれだけの幅しかない。下流へ行くに従い川幅を増し、取手市の南東部、利根町・我孫子市との境界で利根川に合流する。 |
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