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結局行ってしまった。18きっぷ万歳。
飯田線の万古川(ばんこがわまんごがわ)橋梁である。
読むときに躊躇してはいけない。


場所は、飯田線為栗駅の北すぐ。写真に見える橋梁の前後(画面でいえば左右)は隧道、右はその後為栗駅。
20090111-1.jpg

ズームイン。小さなカメラとズーム1本しか持って行かなかったよ。
20090111-2.jpg
正直なところ、パッと見ても萌えなかった。ピントラスみたに、見てるだけでにやつくようなことはない。期待していた分格ワーレンだったのに。なぜだ? 

おそらく、分格らしさが薄いのだろうと思う。これを見る前日に見た中央本線立場川橋梁に代表されるボルチモアトラスなどは、斜材に補入された分格材が美しい。

20090111-6.jpg分格部分を見てもなあ・・・。

20090111-4.jpg20090111-5.jpg為栗側の支承。


実はこの分格トラスよりも、温田側(北側)にある鈑桁のほうにちょっと惹かれた。それらについてはまた後日。
























20090111-7.jpg裏側。


20090111-8.jpg銘板(温田側)。これ撮るとき、足がすくんでしまった。高いところがどんどん苦手になっていく・・・。

昭和十年六月
三菱重工業株式會社
神戸造船所製作
-------
三信鐵道株式會社



なぜ、同じ分格ワーレンが、天塩川とこの飯田線(建設時は三信鉄道)だけにあったのだろうか? 川村カ子トが関与してたりすればドラマなのだが。川村は永山の生まれで藤井松太郎は北一已の生まれ。カ子トが10歳上であるが、どちらも旭川周辺である。


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仕事で羽幌線のことを調べて書き物をしていたとき、ふと、藤井松太郎が初めて架けた橋梁は天塩川だったような記憶が突如よみがえった。それも、当時の国内ではあまり類例のなかったポンツーンだったはずだ。何線の天塩川かは覚えていなかったが、天塩川を渡る鉄道は、羽幌、宗谷、深名各線のみ。しかし、宗谷本線も深名線も上流の名寄あたりで渡ってしまう。ポンツーンを行うならば、そんな内陸部ではなく、ずっと河口に近い羽幌線なんじゃないか。そうだ、そうに違いない。思い込みが答えを急がせる。



藤井松太郎とは、十河信二の新幹線計画に反対して国鉄技師長職を追われ、後日その不明を反省し、島の後任としてと石田礼助に請われて再度技師長となり、のちに田中角栄に請われて国鉄総裁になった人物である。「トンネル松」と呼ばれるが、卒論はフィーレンデールタイドアーチ(フィーレンデールでさえ異端の感があるのに、それをアーチのリブに据えたものだろう)の設計であり、その指導は田中豊であるような人物である。たしか、土木学会の会長もしているはずだ。新幹線運行開始当初の「4時間運転」を提案したのも藤井だ。土盛が安定しなかったためである。


さて、「天塩川橋梁」で検索しても、同名の現在の橋やら深名線のそれやらが上位を独占するのだが、「藤井」を加えると、トップに出てくるじゃないか。思い込みが当たった。

(1)論説報告「天塩川橋梁構桁の艀式架設に就て」(藤井松太郎)…土木学会誌21巻10号(1935年)
(2)質疑「天塩川橋梁構桁の艀式架設に就て」(井山安蔵)…土木学会誌22巻8号(1936年)
(3)回答「天塩川橋梁構桁の艀式架設に就て」(藤井松太郎)…同


天塩川橋梁。
幌延側から、19.2m鈑桁6連+93m分格ワーレン+19.2m鈑桁4連、計292。63m。
分格ワーレンは、支間93m、全長94m、12パネル、格間長7.75m、最大高14.5m、主桁間隔5m、自重330t、沓と合計336.561t。設計荷重KS-15。

150フィート2連にすることも考えたが、天塩川の深さは7mであり、氷結あるいは流氷の被害もあるため、水の中に橋脚を立てることを厭った結果がこの300フィート分格ワーレントラスになったのである。


以下は田村喜子『剛毅木訥』に掲載されていたことを参考に肉付けして書く。この本は、間違いなく前掲論説報告を見て書かれている。数値は正確であり、鉄道路線名の書き方に曖昧な部分(事実とは異なる部分)があることまで一致している。

1903年生まれの藤井が帝大を出て鉄道省に入り、判任官の技手になったのは1929年。高等官の技師になったのは1933年。最初の任地、尾鷲から北海道建設事務所に異動したのは1934年である。その時代、道内の鉄道建設は槌音高く、藤井がまず手がけたのがこの天塩川橋梁であった。

前記(1)の報告に対して、(2)の質疑がある。これに答える藤井の(3)がまことにすばらしい。机上の学問的な(2)の懸念を、そんなことは考えたよ当たり前だろ、その上でこの方法をとったんだ、という言葉が行間からあふれ出る文章で吹き飛ばしている。(2)で懸念されたことは、すでに実験までしている。あるいは、考えただけで不経済だとわかる、と笑い飛ばす。

インフラは、建設期間が短ければ短いほど経済的である。建設中はその資産が死蔵されていることになるからだ。木を見て森を見ず的な、この橋梁建設に費用がかかろうとも全体を見ればそのほうが得なんだ、ということを藤井は喝破している。

(あんたのいう方法では、この冬に終わらなかったらまた来年の冬まで待つのか。)建設線に於ける鉄道橋の架設工事に於ては、其の工事の遅延は直らに全建設費の死蔵を意味するものであって、仮に天塩川架橋を1年間遅延したものとすれば、直ちに100万円程度の建設費が1年間死蔵される結果となります。故に工事計画に当っては、経済的観点から見ても、単に工事費の大小のみに止らず、其の確実性をも合わせ考えなければならないと思われます。

羽幌線(当時は天塩線)のこの区間の開通は1935年6月30日である。本来は1934年12月までに天塩川橋梁は竣工するはずだったが、まさかのトラス組み立て用ゴライアスクレーン倒壊により、1935年5月28日にずれ込んだ。まさに藤井の言ったとおり、工期の遅れが開通時期を遅らせることになった。もしこれが翌春まで持ち越されれば、その分、経済活動に~~当時の北海道のこの付近の経済活動=産炭と鰊漁に~~非常に大きな影響を与えたであろう。

この計画を指揮した当時、藤井は数えで32歳である。学士様の時代ではあるが、改めて驚嘆する。



同書中、機関車がトラスをバックで押したとあるが、ケーブルをトラス先端にかけて反転させ、それを牽引するという形であったから、9600形蒸気機関車が川と反対方向に走り出せば、トラス桁は川の方向に押し出されるという寸法であった。





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小学館の『勾配・曲線の旅 宗谷・』の天北線の項を読んでいて。天塩川橋梁の写真に驚いた。こんなところに分格ワーレントラスが架かっていたいのか!


歴史的鋼橋集覧
によれば、飯田線の為栗~温田間の万古川(まんごがわ)橋梁(場所は後述)が、この天塩川橋梁の図面を使った同型のものとのこと。万古川が300フィート桁なのだから、その元となったものも300フィートであろう。

国交省の航空写真を検索した。

20090105cho-77-5_c11_13.jpg<国交省の国土画像情報閲覧機能より生成。元画像=http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CHO-77-5&PCN=C11&IDX=13>これを見ると、右岸側(北側)に川の中に橋脚が立っている。左岸(南側)は、かろうじて河川敷に橋脚があるようだ。


せっかくのなので、万古川橋梁も検索したが、1万分の1の写真ではおぼつかなかった。
20090105-1.jpg<国交省の国土画像情報閲覧機能より生成。元画像=http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/76/ccb-76-12/c10/ccb-76-12_c10_27.jpg>この上側である(下の道路橋もこれまた・・・)。


場所はここである。

折しも週末、飯田線に乗る。途中下車しようかな・・・。





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e85c5337.jpgC-APSサイズの18mmじゃ厳しいんだよッ! このヘタクソめッ!
先に曖昧なことを書いたが、『鉄道ファン』2009年5月号を引っ張り出してきた。先の小石川橋通り架道橋の第3連の下部、物置状の部分について書く。実は一度ほぼ書き上げたが、うっかり消失してしまい、呆然とした。

さて、この小石川橋通り架道橋という名称からして微妙である。この橋が渡るのは道路2本と日本橋川であり、日本橋川を渡るトラスの両側にかかる道路橋は「三崎橋」「新三崎橋」であるから、これも「三崎橋架道橋」でいいではないか。しかし、ここから謎解きは始まる。「小石川橋通り」が鍵を握るのである。

小石川橋通りは、日本橋川に沿った道路である。日本橋川は、神田川からこの小石川橋付近で分流し、神田川の荒川合流点より下流の永代橋付近で荒川に注ぐ、バイパスのような川である。しかし、もともとは日本橋川の流路が先にあり、神田川は開削された川で、1620年に完成したものだ。その土砂で(と記憶しているが、ソースは失念)日本橋川は堀留まで埋めたてられ、以後、明治時代に入っての都市計画で再開削されるまで283年間、埋まっていた。再開削が完成したのは1903年で、それにあわせてこの区間に鉄道が通り、1904年ハーコート製の桁が架かることになる。


その開削計画である。計画では、川幅12間で開削し、左岸(東側、御茶ノ水側)には道路を、右岸(西側、飯田橋側)には物揚場(河岸)と道路を設ける予定だった。小石川橋通り架道橋の、第2連、第1連、第3連、第4連がそれぞれに対応している。ところが、計画が変更され、物揚場を取りやめ、道路とすることにした。そこで甲武鉄道は、道路の真ん中に40ftと40ftの桁を支える橋脚が来ることを厭い、もともと70ft+80ft+40ft+40ftで計画していた4連の橋梁を、70ft+80ft+70ftの3連に変更したいと言い出した。しかし、東京府はそれを却下する。道路の幅が10ft狭くなるからであろう、と小野田滋氏は考察している。そのため、現在も第3連の下は道路にもならずに、物置状になったままである。


さて、この第3連と、トラスの第2連との間の橋脚が特徴的である。
20100104.jpgこれは第2連から第3連方向を見ているが、橋脚の幅が広い。通常、鈑桁と同じ幅だと思うが、それより広く見える。また、幅の広い下路鈑桁と、幅の狭いトラスを支えるため、トラス側は、トラスを包み込むようになっている。小野田氏はこれを「独特のスタイル」と評しているので、あまり見られないのであろう。たしかに、上路トラスと下路鈑桁が続く、というのは、ないことはないだろうが、不自然ではある。通常は、上路トラスに続くのは上路鈑桁である。そして、上路トラスの橋門構が、隣接する鈑桁の橋脚の役割を果たす。あるいは、下路トラスと上路鈑桁の場合、上路鈑桁が包み込まれるようになる。前者の例として磐越西線一ノ戸川橋梁の例を挙げる。
20100104-1.jpg




















さて、小石川橋通り架道橋第3連のトラス桁は25.4メートル、きっちり1000インチ=83フィート4インチである。当時の橋梁定規では、80フィートまでは鈑桁で、100フィート以上はトラス桁とされていた。

ここで、このトラスが跨ぐのが12間であったことを考えよう。12間は21.82メートルである。25.4メートルもない。71フィート7インチ=859インチである。では、なにも特殊なトラス桁を設計しなくても、80フィート鈑桁を設置しておけばいいではないか。そのようにも思える。この点に関して、小野田滋氏は
・河川幅に対して支間に余裕を持たせる
・下路トラスは都市景観を阻害する(いまのように首都高はない!)
・上路トラスでもok
と推定している。


なお、橋梁定規の制定年を見ると、
●鈑桁
・1893~1894年 ポーナルが制定した20~80フィート鈑桁定規(ポーナル型)
・1902年 杉文三がアメリカン・ブリッジの基準を使って制定した20~80フィート鈑桁定規(ポーナル型廃止)
●トラス桁
・1898年 クーパー+シュナイダーによる、100~200フィートトラス桁定規(クーパー型トラス、計10種)
となっている。
このあたりは、自分用としても一度、整理しなくてはならない。


※参考「東京鉄道遺産をめぐる7 ドイツ生まれのトラス橋 小石川橋通り架道橋(緩行線)」(小野田滋、鉄道ファン2009年5月号所収、交友社)


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