先に曖昧なことを書いたが、『鉄道ファン』2009年5月号を引っ張り出してきた。先の小石川橋通り架道橋の第3連の下部、物置状の部分について書く。実は一度ほぼ書き上げたが、うっかり消失してしまい、呆然とした。
さて、この小石川橋通り架道橋という名称からして微妙である。この橋が渡るのは道路2本と日本橋川であり、日本橋川を渡るトラスの両側にかかる道路橋は「三崎橋」「新三崎橋」であるから、これも「三崎橋架道橋」でいいではないか。しかし、ここから謎解きは始まる。「小石川橋通り」が鍵を握るのである。 小石川橋通りは、日本橋川に沿った道路である。日本橋川は、神田川からこの小石川橋付近で分流し、神田川の荒川合流点より下流の永代橋付近で荒川に注ぐ、バイパスのような川である。しかし、もともとは日本橋川の流路が先にあり、神田川は開削された川で、1620年に完成したものだ。その土砂で(と記憶しているが、ソースは失念)日本橋川は堀留まで埋めたてられ、以後、明治時代に入っての都市計画で再開削されるまで283年間、埋まっていた。再開削が完成したのは1903年で、それにあわせてこの区間に鉄道が通り、1904年ハーコート製の桁が架かることになる。 その開削計画である。計画では、川幅12間で開削し、左岸(東側、御茶ノ水側)には道路を、右岸(西側、飯田橋側)には物揚場(河岸)と道路を設ける予定だった。小石川橋通り架道橋の、第2連、第1連、第3連、第4連がそれぞれに対応している。ところが、計画が変更され、物揚場を取りやめ、道路とすることにした。そこで甲武鉄道は、道路の真ん中に40ftと40ftの桁を支える橋脚が来ることを厭い、もともと70ft+80ft+40ft+40ftで計画していた4連の橋梁を、70ft+80ft+70ftの3連に変更したいと言い出した。しかし、東京府はそれを却下する。道路の幅が10ft狭くなるからであろう、と小野田滋氏は考察している。そのため、現在も第3連の下は道路にもならずに、物置状になったままである。 さて、この第3連と、トラスの第2連との間の橋脚が特徴的である。 これは第2連から第3連方向を見ているが、橋脚の幅が広い。通常、鈑桁と同じ幅だと思うが、それより広く見える。また、幅の広い下路鈑桁と、幅の狭いトラスを支えるため、トラス側は、トラスを包み込むようになっている。小野田氏はこれを「独特のスタイル」と評しているので、あまり見られないのであろう。たしかに、上路トラスと下路鈑桁が続く、というのは、ないことはないだろうが、不自然ではある。通常は、上路トラスに続くのは上路鈑桁である。そして、上路トラスの橋門構が、隣接する鈑桁の橋脚の役割を果たす。あるいは、下路トラスと上路鈑桁の場合、上路鈑桁が包み込まれるようになる。前者の例として磐越西線一ノ戸川橋梁の例を挙げる。 さて、小石川橋通り架道橋第3連のトラス桁は25.4メートル、きっちり1000インチ=83フィート4インチである。当時の橋梁定規では、80フィートまでは鈑桁で、100フィート以上はトラス桁とされていた。 ここで、このトラスが跨ぐのが12間であったことを考えよう。12間は21.82メートルである。25.4メートルもない。71フィート7インチ=859インチである。では、なにも特殊なトラス桁を設計しなくても、80フィート鈑桁を設置しておけばいいではないか。そのようにも思える。この点に関して、小野田滋氏は ・河川幅に対して支間に余裕を持たせる ・下路トラスは都市景観を阻害する(いまのように首都高はない!) ・上路トラスでもok と推定している。 なお、橋梁定規の制定年を見ると、 ●鈑桁 ・1893~1894年 ポーナルが制定した20~80フィート鈑桁定規(ポーナル型) ・1902年 杉文三がアメリカン・ブリッジの基準を使って制定した20~80フィート鈑桁定規(ポーナル型廃止) ●トラス桁 ・1898年 クーパー+シュナイダーによる、100~200フィートトラス桁定規(クーパー型トラス、計10種) となっている。 このあたりは、自分用としても一度、整理しなくてはならない。 ※参考「東京鉄道遺産をめぐる7 ドイツ生まれのトラス橋 小石川橋通り架道橋(緩行線)」(小野田滋、鉄道ファン2009年5月号所収、交友社) PR 非常に阿呆なので、橋の名前を控えていない。写してもいない。場所は、第1酒匂川橋梁のすぐ北である。上の地図で示した地点の90度クランクが転回場になっており、その先に道の跡と柵がある。その先にはこの橋の旧橋の橋台または橋台が残っている。 これが左岸(東側)に残る橋台。 これが右岸(西側)に残る橋脚(?)と橋台(軽自動車の前)。 橋台と橋脚の高さが合わないのはなにゆえだろうか。また、橋脚と右岸橋台の間隔が非常に短いのもなにゆえだろうか。 左岸のほうは、なかなかすごいところに谷積で橋台が組まれている。現橋とほぼ同じたかさと思っていいだろう。しかし、右岸の橋台の低さはなんだ。しかもなぜコンクリートなんだ。この上にトレッスルでも組んでたとでも言うのか。それとも、これはなにか別の施設のためのものなのか。 ちょっとパッとわからないのだが、橋の名前を失念していてはどうしようもない。
小石川橋通架道橋の、飯田橋寄りの2連の北側(外堀通り側)である。歴史的鋼橋集覧において、第3連・4連とされている部分である。手前の2連が1904年ハーコート製の2主構鈑桁で緩行線(総武線)、奥というかその向こう側が1932年開通の3主構道床式の急行線(快速線)である。緩行線の第4連には銘板がある。
第4連が跨いでいるのが小石川橋通りで、第3連の下は物置的スペースになっている。この部分に関する考察が『鉄道ファン』2008年3月号か4月号に掲載されていたと記憶している。 ハーコート製2主構の裏側。画面に見えている橋台は飯田橋側で、「はり紙禁止」の筆文字が似つかわしい。橋台下部を見ると、道路が画面右から左に向けて上り坂なのがわかる。 この筆文字にある「新 保線区」というのはなんだろう? 新橋? こうした方面には疎いので、調べる術がすぐに思いつかない。いずれにしろ、国鉄時代の名称であろう。この「はり紙禁止」は水道橋周辺には多数貼られている。
飯田橋から水道橋、お茶の水、秋葉原と歩いた。道中に湯島聖堂があるので立ち寄った。綱吉が建てただか移設しただかの孔子廟である。神田明神と湯島天神と湯島聖堂を混同していたのはここだけの話でいい。そういうのがいい加減であるからこそ、こういうところを詣でるのが苦手なのだ。
上に掲げたのは、湯島聖堂の解説文である。昭和11年に文部省が書いたもの・・・を書き直したものだと思う。しかし、最後の一文に注目したい。 コンクリート
混凝立 おいおい、「立」じゃない、「土」だ。 検索すると、この文章を引き写したサイトがいくつかある。彼らは意図せず誤った知識の拡大再生産に荷担している訳だ。文部省(の看板を書き換えた官庁)も反省しろ。 |
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