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20100101-1.jpgリンゴに対抗するつもりはないが、33年ものの餅搗き器で搗いた餅から作った丸餅が小さすぎたから、干し柿で。気持ちがあればいいのだ。

この丸餅。新潟では見たことも聞いたこともなかったが、諸般の事情で関西が混じる現在、餅は丸餅であり、魚はブリサワラであり、焼きそばにもスバゲティにもご飯がつく。以前はそれぞれ鮭と鱈、イタリアンであった。


西新井大師に詣でてきた。
子供の頃以来、30年ほどそうしたことをしてこなかったが、それには神社なのか寺なのか、祭神/本尊はなんなのかも知らずに詣でることにものすごく大きな抵抗があったからだ。西新井大師は「大師」なのだから弘法大師のお寺であり、別に中野区の新井薬師の西、というわけでもないのだが、そうしたことなど露ほども気にかけずに詣でるということができなかった。それが、いまでは詣でてから調べればいいや、くらいに思うようになったのは進歩なのか後退なのか。

新潟にいた頃は、白山神社と護国神社であった。白山神社の祭神はイザナギ・イザナミとククリヒメであるが、これとて俯瞰して見たわけではないので、古事記・日本書紀は読んだことがあるにしろ、どの神様がどの神社の系統なのか、それをつかんではいない。つかまないうちは、適当にお参りすることができなかった。

まあいい。気持ちである。ご本尊のご尊名を口にせずとも、願えばよい。すべての人々に健康を。

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20100101.jpg今年は「まあいいや」といって写真を撮らずに済ますことをやめよう。

謹賀新年。


20091227-2.jpg第3酒匂川橋梁を国府津方から見る。下流川(海側)である。
手前が新トラス、奥が東海道本線天竜川橋梁から転用されたプラットトラスである。「転用された」と単純に書かれるが、それに必要な注釈をここで書く。

20091231-1.jpg上流川(山側)から見る。

20091227-0.jpg画面を圧縮するほど迫力は増す。

そんなことよりも、パネル数に注目して欲しい。8パネルである。上弦の水平部分は2パネル分しかない。

ここで転用元である天竜川橋梁について思いを巡らす。現在の下り線に、アメリカン・ブリッジ製の橋梁が19連架かっている。それは、本来上り線用の桁だったもので、1913年に二代目の桁として架けられた。1969年に現在の下り線に移設されている。

この第3酒匂川橋梁に転用されているのは、そちらの桁ではなく、ほぼ同時期の1914年に供用開始された当時の下り線用トラス桁であり、こちらは横河橋梁製であった。1968年に使用停止されてそのまま存置されていたが、御殿場線が水害に見舞われて三代目第3酒匂川橋梁が被害を受けた後、1973年に転用された。転用に際して、ピン結合を剛結合に改造している。鉄道院設計桁は、当初はピン結合のプラットトラスであったが、1916年頃のものよりリベット結合のワーレントラスとなった。なお、現在の天竜川橋梁の上り線にはワーレントラスの桁が架けられている。

ここでようやく8パネルの話につながる。その200フィートトラスは、アメリカン・ブリッジと横河橋梁がそれぞれ製作したということで、てっきり9パネルの、いわゆるクーパートラスかと思っていた。ところが、こうして第3酒匂川橋梁を見ると8パネルである。パネル間を延長するような改造などするものだろうか?

そう思って調べれば、アメリカン・ブリッジが製造したにもかかわらず、天竜川橋梁はクーパートラスではなかった。鉄道院による国内設計の桁であり、それを両者が製造したものであった。最大の違いは活荷重であり、クーパートラスはE29(最大軸重29000ポンド=約13.15トン)であるが、この国内設計200フィート桁はE45(最大軸重45000ポンド=約20.4トン)である。最大の見た目の違いは9パネルが8パネルになったことである。高さも34フィートから36フィートに拡大している。


いささか余談になるが、このE45という荷重は、最大軸重16.8トンであった(碓氷峠のみ18トン)のちの国鉄基準よりも大きい。このE45という活荷重は、広軌への改軌(と同時に軌道改良 で軸重を増大)を目的としたものである。広軌を目論んだ戦前の鉄道院~鉄道省の一派の動きが、この御殿場線に息づいているのである。

E45荷重の桁が何連あるのかは未調査だが、1912年に制定され、幹線筋でのみ採用されたのちに広軌化は中止、1921年にはE40を最大としたため、その数は多くないはずである。


20091227-4.jpg国府津方の銘板。
日本国有鉄道
1973 KS-18
TTR 862-5
滝上工業(株)半田工場



20091227-3.jpg沼津方銘板。書かれていることは同じ。この「TT-R862-5」というのは図面番号か。同タイプにして同様に転用桁である旧神岡鉄道の第二高原川橋梁には「TT-R862-1」と書かれた銘板がある。ここは何度も通っているが、つい写真を撮ってない。この態度を反省すべき>自分。
(この位置が第5相沢川橋梁であるかどうかは、現地の確認をしていないため不明)

03027.jpg推定:初代第5相沢川橋梁。古写真『27.東海道線(水害) :東海道御殿場駿河駅間線路水害の惨状(四)』(土木図書館蔵)より。105フィート上路トレリストラスは3連が製作され、1連が第4相沢川橋梁に、2連が第5相沢川橋梁に使用された。この古写真で落橋しているのがトレリストラスかどうかは確認できないが、パネルの長さが存置している桁と同じように見えるので、2連が架けられた第5相沢川橋梁だと推定する。

この写真からはやはり推定できないが、前日に挙げた『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)に掲載されている図面や明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報) 国内設計桁』(小西・西野・淵上)掲載の写真を見ると、このトレリストラスは11パネルで構成されている。


このトレリストラス桁は1901年頃撤去され、鉄道院新橋工場にて下記の長谷川橋梁に改造された。写真で見ると、6パネルになっている。高さも大きくなっているようである。図面は前述小西・西野・淵上論文に記載があり、径間105フィート、高さ20フィートである。

下記の写真ではわかりづらいとは思うが、斜材や垂直材に、不自然な場所で添接している部分がある。いずれ、そういう場所をクローズアップした写真を用意せねばなるまい。これを撮ったときには、これらの経緯が頭に入っていなかったので「普通に」撮って終わってしまった。
20091231.jpg


書名ではなかった。
財団法人研友社刊の『鉄道技術研究資料』1957年Vol.14、No.12に掲載された論文であった。

国会図書館にあるじゃないか!!!

以前訪ねたときは記事名をタイトルとして検索したことになる。
それでは見つかるまい。
おっと、1957年官公庁(に準ずる)刊だから、1957年掲載分なら著作権は切れているな。


著者の西村俊夫氏は、2009年10月27日に逝去された。89歳であった。
共同通信の配信が残っている。


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