1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの50年間、台湾が日本領だったことは中学校で習うことである。この時代に、台湾総督府により、クーパートラスがいくつも架けられている。桁として珍しいものがあるわけではないが、200フィート24連1526メートルという、当時アジア最長の橋、下淡水渓橋(ピンインを無視して読むと、下淡水渓=シア・ダン・シュェイ・シー)があった。
写真はwikimedia commonsにある。 大きな地図で見る 衛星写真で下淡水渓橋を見ることができる。下側が今回紹介する橋であり、旧橋である。「地図」に切り替えると、きちんと「高屏鐵橋」と記されている。画面上側に見えるのは、1987年から供用されているコンクリート製の新橋であり、橋脚の位置からして支間は100フィートのようである。土木図書館には、この新橋の建設に関するビデオ『高屏渓河川橋の建設 世界最大級に挑む』がある。 旧橋は西側に8連、東側に12連が残る。wikipediaによれば、2005年の台風で3連が損傷を受けたとあるが、現存するのは20連のようである。1連、数が合わないが、とりあえずは見ないことにする。その台風で損傷した直後か、トラスがクチャっとなっている写真が、このサイトにある。 そして、たぶん落ちた桁を再構成したものがこのサイトにある。 さてその旧橋。前掲wikimedia commonsの写真は8パネルのワーレントラスであるが、新潮社の『日本鉄道旅行地図帳 歴史編成 朝鮮 台湾』に掲載されているものは、いままでこのブログでも見てきたピン結合の200フィートの曲弦プラットトラス、いわゆるクーパートラスである。これがズラリと24連。さぞや壮観な眺めであっただろうことは、上記衛星写真でもわかる。日本国内の最長の例は、16連の東海道本線大井川橋梁上り線。国内設計桁では東海道本線天竜川橋梁の19連が最長である。 さて、いよいよ本題である。台湾の財政部台湾省南区国税局のサイトによれば、隣接する河川公園はヤングピープルにとって魅力的な場所であると紹介されているのだが、これの日本語版サイトが異常である。 高屏(カオピン)鉄橋は、日本統治時代に建設された高屏渓にかかる鉄橋です。24個の鉄をアーチ状に配した構成で、橋げたには花崗岩を含んだレンガが用いられています。スタイルの美しいアーチ橋で、アジア最長の橋として有名になったこともあり ます。今では橋としての役目を終えていますが、大樹郷にとっては誇りの象徴です。 高屏鉄橋は長さ1526mの円弧形の鉄筋コンクリート橋で、高さ9.5mの橋台はケーソン工法を用い、御影石を人工的に積上げて造られました。 また橋には63.5mの間隔で24の穴があけられています。以前は南北を結ぶ輸送路として利用され、役割を終えた現在はレジャー観光地として市民に親しま れています。 (引用:前掲日本語版サイト) 本家サイトをそのまま和訳したわけではないのは明白で、恐るべき誤訳がある。 (1)前段では「鉄をアーチ状に配した構成」とあるのに、後段では「円弧系の鉄筋コンクリート橋」になっている。RCトラスなんてのは日本にも実験的なのしかなかったような。いや、そのまま言葉通りに受け止めれば、円弧の長さ(ないし弦の距離)が1526メートルあるようにも思えてしまう。瀬戸大橋以上の支間のコンクリート製アーチ橋か。 (2)前段によれば「橋げたには花崗岩を含んだレンガ」が用いられているという。煉瓦が桁になることがおかしいし、花崗岩を含んだ煉瓦というのもおかしい。これは橋台のことであり、橋台下部はコンクリート、上部が煉瓦、水切りに御影石、という使い分けである。 (3)「橋には63.5mの間隔で24の穴があけられています」とあるのは、もちろん「200フィート=63.5メートルの桁が24連」という意味であるべき。wikipedia繁体字版には「橋身共有二十四孔」という文言が見えるので(日本語版にもそのまま転載されていたので直しておいた)、これをグーグル翻訳で英語にすると「the bridge deck a total of 24 holes, each bridge opening length of 63.5 meters.」となり、まさにこの日本語である。 ついでに書くと「対象年齢: お子様、若者、家族連れ」だそうなので、オタクは不可なようである。 こうした、政府のお墨付き文章が大ポカをやらかすと、それを孫引きする旅行関係サイトや旅行者がその大ポカを拡大コピーする。検索すると、おかしなフレーズがたくさん引っかかる。 屏東県政府のサイトでは、麗莎という女性が田中という男性にこの橋梁の魅力を語っている。 これらに引き替え、兵庫県の黒田庄町立楠丘小学校のサイトにある『高雄だより』の、なんと有用なことか。改築された新トラス桁の銘板の写真と考察や、設計者の飯田豊一の殉職碑の写真まである。なぜ地方の小学校に高雄のことがらの報告書があるのかは不明だが、交換留学というか、教諭が派遣でもされたのかもしれない。この遠藤先生には、銘板の写真を見せていただいたということで感謝せねばなるまい。遠藤先生の爪の垢を煎じて飲めよ、台湾政府。 PR この丸餅。新潟では見たことも聞いたこともなかったが、諸般の事情で関西が混じる現在、餅は丸餅であり、魚はブリサワラであり、焼きそばにもスバゲティにもご飯がつく。以前はそれぞれ鮭と鱈、イタリアンであった。 西新井大師に詣でてきた。 子供の頃以来、30年ほどそうしたことをしてこなかったが、それには神社なのか寺なのか、祭神/本尊はなんなのかも知らずに詣でることにものすごく大きな抵抗があったからだ。西新井大師は「大師」なのだから弘法大師のお寺であり、別に中野区の新井薬師の西、というわけでもないのだが、そうしたことなど露ほども気にかけずに詣でるということができなかった。それが、いまでは詣でてから調べればいいや、くらいに思うようになったのは進歩なのか後退なのか。 新潟にいた頃は、白山神社と護国神社であった。白山神社の祭神はイザナギ・イザナミとククリヒメであるが、これとて俯瞰して見たわけではないので、古事記・日本書紀は読んだことがあるにしろ、どの神様がどの神社の系統なのか、それをつかんではいない。つかまないうちは、適当にお参りすることができなかった。 まあいい。気持ちである。ご本尊のご尊名を口にせずとも、願えばよい。すべての人々に健康を。 手前が新トラス、奥が東海道本線天竜川橋梁から転用されたプラットトラスである。「転用された」と単純に書かれるが、それに必要な注釈をここで書く。 そんなことよりも、パネル数に注目して欲しい。8パネルである。上弦の水平部分は2パネル分しかない。 ここで転用元である天竜川橋梁について思いを巡らす。現在の下り線に、アメリカン・ブリッジ製の橋梁が19連架かっている。それは、本来上り線用の桁だったもので、1913年に二代目の桁として架けられた。1969年に現在の下り線に移設されている。 この第3酒匂川橋梁に転用されているのは、そちらの桁ではなく、ほぼ同時期の1914年に供用開始された当時の下り線用トラス桁であり、こちらは横河橋梁製であった。1968年に使用停止されてそのまま存置されていたが、御殿場線が水害に見舞われて三代目第3酒匂川橋梁が被害を受けた後、1973年に転用された。転用に際して、ピン結合を剛結合に改造している。鉄道院設計桁は、当初はピン結合のプラットトラスであったが、1916年頃のものよりリベット結合のワーレントラスとなった。なお、現在の天竜川橋梁の上り線にはワーレントラスの桁が架けられている。 ここでようやく8パネルの話につながる。その200フィートトラスは、アメリカン・ブリッジと横河橋梁がそれぞれ製作したということで、てっきり9パネルの、いわゆるクーパートラスかと思っていた。ところが、こうして第3酒匂川橋梁を見ると8パネルである。パネル間を延長するような改造などするものだろうか? そう思って調べれば、アメリカン・ブリッジが製造したにもかかわらず、天竜川橋梁はクーパートラスではなかった。鉄道院による国内設計の桁であり、それを両者が製造したものであった。最大の違いは活荷重であり、クーパートラスはE29(最大軸重29000ポンド=約13.15トン)であるが、この国内設計200フィート桁はE45(最大軸重45000ポンド=約20.4トン)である。最大の見た目の違いは9パネルが8パネルになったことである。高さも34フィートから36フィートに拡大している。 いささか余談になるが、このE45という荷重は、最大軸重16.8トンであった(碓氷峠のみ18トン)のちの国鉄基準よりも大きい。このE45という活荷重は、広軌への改軌(と同時に軌道改良 で軸重を増大)を目的としたものである。広軌を目論んだ戦前の鉄道院~鉄道省の一派の動きが、この御殿場線に息づいているのである。 E45荷重の桁が何連あるのかは未調査だが、1912年に制定され、幹線筋でのみ採用されたのちに広軌化は中止、1921年にはE40を最大としたため、その数は多くないはずである。 日本国有鉄道
1973 KS-18 TTR 862-5 滝上工業(株)半田工場
(この位置が第5相沢川橋梁であるかどうかは、現地の確認をしていないため不明)
この写真からはやはり推定できないが、前日に挙げた『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)に掲載されている図面や『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報) 国内設計桁』(小西・西野・淵上)掲載の写真を見ると、このトレリストラスは11パネルで構成されている。 このトレリストラス桁は1901年頃撤去され、鉄道院新橋工場にて下記の長谷川橋梁に改造された。写真で見ると、6パネルになっている。高さも大きくなっているようである。図面は前述小西・西野・淵上論文に記載があり、径間105フィート、高さ20フィートである。 下記の写真ではわかりづらいとは思うが、斜材や垂直材に、不自然な場所で添接している部分がある。いずれ、そういう場所をクローズアップした写真を用意せねばなるまい。これを撮ったときには、これらの経緯が頭に入っていなかったので「普通に」撮って終わってしまった。 |
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