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旧・越路橋(1)の続き)
20091123-1.jpg20091123-2.jpgさて、これが移設・保存された旧越路橋のトラスである。
8パネルであったものが3パネルに短縮されている。
注目していただきたのは中央パネルである。

この写真でいうと\の斜材の幅は304mm(1フィート)、厚さは40mm(1と9/16インチ)、
/の斜材の幅は153mm(6インチ)、厚さは18mm(11/16インチ)。

・・・というのはメモを見て書いているのだが、後日報告する
不動沢橋・岩田橋の部材の寸法や、写真(リベットの打ち方)から判断すると
\の斜材の幅は205mm(8インチ)でなければおかしい。
謎だ。

薄い斜材は軽く叩くとゴイーーーーーン・・・と振動する。
本来は、中央パネルの引張方向の荷重を受け持つ部材である。


なお、橋台・橋脚は、原型を望むべくもない。
なんでこんなに何カ所にも橋脚をかましてあるんだろう・・・。


20091123-3.jpg20091123-4.jpg20091123-5.jpg橋門部の延長改造を施した部分がよくわかる。
なんとも美しい。

ハンディサイドの銘板はレプリカだろうか。



(関連事項)
ハンディサイド/不動沢橋(新潟県)
ハンディサイド/岩田橋(新潟県)

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越路橋。
こしじばし。
いい響きだ。

越後国を「越路」と呼ぶことがある。
越前、越中を前にして遠慮はないのか、と思わなくもない。
その「越路」を冠した町名が、ちょっと前まで存在していた。
これも新潟県全体を前にして・・・(ry
JR信越本線来迎寺駅や塚山駅付近を町域としており、いまは長岡市に編入されてしまった。

この越路町民が、国鉄が使わなくなった橋げたを利用して、自分たちのための橋梁とした。
1950年代のことである。

ココに、1947年の航空写真がある。
複線化工事中である。
ページのソースを見れば画像を抜き取ることができるが、
あえてせずにおくのでリンクをたどっていただきたい。

そして、ここに1975年度撮影の航空写真がある。
20091123ccb-75-11_c26_33.jpg

見事に旧線が道路橋となっているように見えるが、
ちょっとまった。
話はそう簡単ではない。


旧橋梁はハンディサイド製の1897年製200ftプラットトラス6連。
ここに見えているのは、そのうち4連である。
中央部4連がソレで、端部の各1連は新造の桁である。
これは、スパンが変わることかららしい。
画面左端は長く、右端は短い。

また、単線鉄道橋から道路橋への転用であるから、拡幅を必要とした。
253cmの拡幅がなされ、その痕跡は橋門に見ることができる。

1952年に鉄道橋としての使命を終えたこのトラス桁は、それらの改造を経て
1959年から越路橋として供用を開始した。

とはいえ、なんで半端に道路幅員6mでやめちまったのか、
この狭さがネックとなり、また老朽化も手伝って、
越路橋として生まれ変わってから約40年後の1998年には
新たな越路橋が架橋された。
そして、旧桁の一部は2002年に付近の河川公園に保存された。


(2011年4月17日追記)
越路橋は当初、有料道路として利用されていたが、工事開始時は「十日町来迎寺道路」だったらしい。
昭和32年11月28日の官報(9281号)に、こうある。

○十日町来迎寺道路工事開始公告
県道柏崎高浜(?)堀之内線(十日町来迎寺道路)の改築工事を本公団において下記の通り実施しますので、道路整備特別措置法第10条第1項の既定により公告します。
昭和32年11月28日
日本道路公団
総裁 岸 道三
路線名 県道柏崎高浜堀之内線
工事区間 新潟県三島郡越路町来迎寺から同県長岡市十日町まで
工事の種類 改築(道路改良及び橋梁架設)工事
工事開始の日 昭和32年11月30日

以上、革洋同さんの情報によった。

~~チラ裏~~
最初、誤って泰平橋の河川公園に行った。
そのため、いくら探してもトラスはない。
そこで管理事務所のおっさんに「越路橋のトラスが・・・」と訪ねてみたら、
「ハァ?」
「あんた、どこの人?」

「どこの人?」などという質問が飛んでくることに驚きだった。

説明しても無駄だと思って引き返し、地図を見たら
越路橋のたもとにも(地図上では)同じ名称の「河川公園」があった。
即、そちらへ向かった。




20091120-3.jpg取手駅北方にあるこの橋が、まさか100年を越えてここにあるとは、この道を見る限り想像できない。

橋脚はRCだし、親柱と言っていいのかわからないが、その位置にはご丁寧にも「平成二十年七月竣工」などとも書いてある。


20091120-1.jpg20091120-2.jpg中写真手前側(西側)は29.027mの80ft桁改を、橋脚の向こう側(東側)は70ft桁を、それぞれ並列して計4本の桁を使用している。

80ft桁改は1897年製で製造所不明(イギリスではあるらしい)、70ft桁がパテントシャフト製である。

1897年製というのが正しければ、ポーナルが20ftから70ftの鋼鈑桁を制定したのが1893年(明治30年)である(作30年式。80ftは1894年)。このころの鋼はすべてイギリスかアメリカからの輸入である。

とはいえ、中・下の写真のとおり、ポーナル桁らしいJ型のスティッフナーは外観からは見えてこない。桁の下に潜れる場所があればいいのだが。

1906年製の利根川橋梁。
この区間の開通は1907年8月27日。
複線化は、ずっと下って1992年9月21日である。
上記衛星写真に写っているのは、左が旧来の橋梁、右が増設部分である。

ここに、1974年度撮影の航空写真を持ってきてみる。
20091119ckt-74-18_c66_22.jpg(国土画像情報ckt-74-18_c66_22.jpgをトリミング)

なんと、複線化の18年も前に既に橋梁の工事は進められていた!

・・・などということはもちろんなく、右側の桁が
表題のアメリカン・ブリッジ製のプラットトラスの生き残りである。

開通時、ここには8連のプラットトラスが架けられた。
その後、1961年2月11日に200ft10連の現在線(画面左)が開通し、休橋はお役ご免となった。

いちいち見せないが、昭和55年度撮影のものにも、
昭和61年度撮影のものにもまだ写っている。
平成2年度撮影のものにて、ようやく姿を消している(橋の前後で複線化工事中)。



一番上の衛星写真でわかるとおり、現在線は連続トラスである。
本流部分でスパンを長くしており、常磐線利根川橋梁の緩行線複線ワーレンように、
スパンの変化する部分で橋高が拡大している。

撤去された橋の銘板等は、どうするのだろうか。
ただの鉄屑となり、再利用されるのだろうか。

20091117-1.jpg20091117-2.jpgこぢんまりとした印象の、100ftプラットトラス。
東武野田線の庄内古川橋梁である。
100ftでわたれてしまう庄内古川とは、東京湾に注ぐ中川そのものである。

中川を北に遡るとしよう。
武蔵野線と交差するあたりでは水のある幅が80mほどある中川は、
すぐに西に元荒川を分け、新方川を分け、大落古利根川を分ける。
すると、中川はこれくらいに細くなる。


1929年横河橋梁製の、当年80歳の橋梁である。

20091117-4.jpg文字を読みやすくするためにアンダーにしてある。

昭和五年
株式会社横河橋梁製作所
製作


歴史的鋼橋一覧によれば昭和4年製となっているのは、側径間が昭和4年製であるためだろう。

さて、その側径間である。
20091117-3.jpg真横からではないが、明らかに桁が斜めになっている。
対して、レールは水平。
そのため、枕木にゲタを履かせている。
こちらの銘板はこう。
20091117-5.jpg
ちゃんと昭和4年製である。




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