(旧・越路橋(1)の続き)
8パネルであったものが3パネルに短縮されている。 注目していただきたのは中央パネルである。 この写真でいうと\の斜材の幅は304mm(1フィート)、厚さは40mm(1と9/16インチ)、 /の斜材の幅は153mm(6インチ)、厚さは18mm(11/16インチ)。 ・・・というのはメモを見て書いているのだが、後日報告する 不動沢橋・岩田橋の部材の寸法や、写真(リベットの打ち方)から判断すると \の斜材の幅は205mm(8インチ)でなければおかしい。 謎だ。 薄い斜材は軽く叩くとゴイーーーーーン・・・と振動する。 本来は、中央パネルの引張方向の荷重を受け持つ部材である。 なお、橋台・橋脚は、原型を望むべくもない。 なんでこんなに何カ所にも橋脚をかましてあるんだろう・・・。 なんとも美しい。 ハンディサイドの銘板はレプリカだろうか。 (関連事項) ハンディサイド/不動沢橋(新潟県) ハンディサイド/岩田橋(新潟県) PR 越路橋。 こしじばし。 いい響きだ。 越後国を「越路」と呼ぶことがある。 越前、越中を前にして遠慮はないのか、と思わなくもない。 その「越路」を冠した町名が、ちょっと前まで存在していた。 これも新潟県全体を前にして・・・(ry JR信越本線来迎寺駅や塚山駅付近を町域としており、いまは長岡市に編入されてしまった。 この越路町民が、国鉄が使わなくなった橋げたを利用して、自分たちのための橋梁とした。 1950年代のことである。 ココに、1947年の航空写真がある。 複線化工事中である。 ページのソースを見れば画像を抜き取ることができるが、 あえてせずにおくのでリンクをたどっていただきたい。 そして、ここに1975年度撮影の航空写真がある。 見事に旧線が道路橋となっているように見えるが、 ちょっとまった。 話はそう簡単ではない。 旧橋梁はハンディサイド製の1897年製200ftプラットトラス6連。 ここに見えているのは、そのうち4連である。 中央部4連がソレで、端部の各1連は新造の桁である。 これは、スパンが変わることかららしい。 画面左端は長く、右端は短い。 また、単線鉄道橋から道路橋への転用であるから、拡幅を必要とした。 253cmの拡幅がなされ、その痕跡は橋門に見ることができる。 1952年に鉄道橋としての使命を終えたこのトラス桁は、それらの改造を経て 1959年から越路橋として供用を開始した。 とはいえ、なんで半端に道路幅員6mでやめちまったのか、 この狭さがネックとなり、また老朽化も手伝って、 越路橋として生まれ変わってから約40年後の1998年には 新たな越路橋が架橋された。 そして、旧桁の一部は2002年に付近の河川公園に保存された。 (2011年4月17日追記) 越路橋は当初、有料道路として利用されていたが、工事開始時は「十日町来迎寺道路」だったらしい。 昭和32年11月28日の官報(9281号)に、こうある。 ○十日町来迎寺道路工事開始公告 県道柏崎高浜(?)堀之内線(十日町来迎寺道路)の改築工事を本公団において下記の通り実施しますので、道路整備特別措置法第10条第1項の既定により公告します。 昭和32年11月28日 日本道路公団 総裁 岸 道三 路線名 県道柏崎高浜堀之内線 工事区間 新潟県三島郡越路町来迎寺から同県長岡市十日町まで 工事の種類 改築(道路改良及び橋梁架設)工事 工事開始の日 昭和32年11月30日 以上、革洋同さんの情報によった。 ~~チラ裏~~ 最初、誤って泰平橋の河川公園に行った。 そのため、いくら探してもトラスはない。 そこで管理事務所のおっさんに「越路橋のトラスが・・・」と訪ねてみたら、 「ハァ?」 「あんた、どこの人?」 「どこの人?」などという質問が飛んでくることに驚きだった。 説明しても無駄だと思って引き返し、地図を見たら 越路橋のたもとにも(地図上では)同じ名称の「河川公園」があった。 即、そちらへ向かった。 橋脚はRCだし、親柱と言っていいのかわからないが、その位置にはご丁寧にも「平成二十年七月竣工」などとも書いてある。 80ft桁改は1897年製で製造所不明(イギリスではあるらしい)、70ft桁がパテントシャフト製である。 1897年製というのが正しければ、ポーナルが20ftから70ftの鋼鈑桁を制定したのが1893年(明治30年)である(作30年式。80ftは1894年)。このころの鋼はすべてイギリスかアメリカからの輸入である。 とはいえ、中・下の写真のとおり、ポーナル桁らしいJ型のスティッフナーは外観からは見えてこない。桁の下に潜れる場所があればいいのだが。 1906年製の利根川橋梁。 この区間の開通は1907年8月27日。 複線化は、ずっと下って1992年9月21日である。 上記衛星写真に写っているのは、左が旧来の橋梁、右が増設部分である。 ここに、1974年度撮影の航空写真を持ってきてみる。 なんと、複線化の18年も前に既に橋梁の工事は進められていた! ・・・などということはもちろんなく、右側の桁が 表題のアメリカン・ブリッジ製のプラットトラスの生き残りである。 開通時、ここには8連のプラットトラスが架けられた。 その後、1961年2月11日に200ft10連の現在線(画面左)が開通し、休橋はお役ご免となった。 いちいち見せないが、昭和55年度撮影のものにも、 昭和61年度撮影のものにもまだ写っている。 平成2年度撮影のものにて、ようやく姿を消している(橋の前後で複線化工事中)。 一番上の衛星写真でわかるとおり、現在線は連続トラスである。 本流部分でスパンを長くしており、常磐線利根川橋梁の緩行線複線ワーレンように、 スパンの変化する部分で橋高が拡大している。 撤去された橋の銘板等は、どうするのだろうか。 ただの鉄屑となり、再利用されるのだろうか。 東武野田線の庄内古川橋梁である。 100ftでわたれてしまう庄内古川とは、東京湾に注ぐ中川そのものである。 中川を北に遡るとしよう。 武蔵野線と交差するあたりでは水のある幅が80mほどある中川は、 すぐに西に元荒川を分け、新方川を分け、大落古利根川を分ける。 すると、中川はこれくらいに細くなる。 1929年横河橋梁製の、当年80歳の橋梁である。 昭和五年
株式会社横河橋梁製作所 製作 歴史的鋼橋一覧によれば昭和4年製となっているのは、側径間が昭和4年製であるためだろう。 さて、その側径間である。 対して、レールは水平。 そのため、枕木にゲタを履かせている。 こちらの銘板はこう。 ちゃんと昭和4年製である。 |
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